ep.79 少しだけ、場所を貸す
右側玄関の内側へ増えた小さな余白は、その後も消えなかった。優也が仕事帰りに何度かACROSSへ寄っても状態は安定したままで、外から見た車体やステップの高さにも変化はない。真琴と話したとおり、そこへ新しい棚やフックを取り付けることもせず、靴を脱いだり、荷物をいったん置いたりするための空いた場所として使っていた。
最初のうちは、増えた部分を見るたびに少し意識していた優也も、数回出入りするころには慣れてきた。仕事帰りのバッグを床へ置いて靴を脱ぎ、そのあと持ち上げてリビングへ入る。真琴が先に来ている日は、彼女の靴の横へ自分のものを並べても人が通れる。便利ではあるが、それだけである。
その「それだけ」が、今のACROSSにはちょうどよかった。
次の休み、二人は山と川に挟まれた小さなキャンプ場へ一泊することにした。キャンプといっても、自分たちはACROSSで寝るのでテントを張るわけではない。敷地内には大型車でも使える区画がいくつかあり、電源や水場も用意されている。周辺には短い遊歩道と日帰り温泉があり、特別な予定を入れなくても一日過ごせそうな場所だった。
「今回は自転車いらんかな」
出発前、優也が後部ガレージを見ながら言うと、真琴は天気予報を確認してから、「使う場所もあまりなさそうですし、置いていってもいいんじゃないですか。歩ける範囲が中心みたいです」と答えた。
「ほな今回は軽くしよ。何でも積んでいく必要ないって学んだしな」
「ちゃんと覚えてるんですね」
「俺、学習するタイプやで」
「時間は掛かりますけどね」
「一言多い」
二人で笑いながら必要な荷物だけを積み、昼前に車庫を出た。空は明るかったが、午後から局地的に雨が降る可能性があるらしく、優也は無理に遠出せず、早めに現地へ入るつもりで走った。
◇
キャンプ場へ着いたころには、まだ雨の気配は薄かった。家族連れのテントや小型のキャンピングカーが並び、川沿いの区画では子どもたちが走り回っている。ACROSSは相変わらず周囲より一回りも二回りも大きく見えたが、端の大型区画へ入れてしまえば窮屈さはない。
水平を確認して車体を落ち着かせたあと、二人は遅めの昼食を施設内の小さな食堂で済ませ、川沿いの遊歩道を一時間ほど歩いた。木々は少しずつ冬へ向かう色を帯び、日が陰ると空気が急に冷たくなる。
「ここ、何もせんでもええな」
優也が川を眺めながら言うと、真琴は「最近それを褒め言葉として使うようになりましたね」と笑った。
「前は何もないって聞いたら、何しに行くんって思ってたけどな。今は風呂と飯と寝るとこあったら、十分や」
「寝るところは自分たちで持ってきてますけどね」
「そう考えたら強いな。宿空いてるか気にせんでええし」
ACROSSへ戻ると、優也は新しく増えた玄関の余白へ二人の上着を一時的に置き、靴を脱いでから順番に片付けた。以前ならバッグを持ったまま一人が完全に上がるまで、もう一人は外で待つことがあったが、今は内側へ一度入ってから落ち着いて整理できる。
「やっぱ便利やな、ここ」
「そうですね。でも、まだ何も置かないほうが良さそうです。今くらい空いてるから使いやすいので」
「了解。名無しのまま継続」
「その呼び方、定着させないでください」
真琴が笑いながらキッチンへ向かい、優也は窓の外を見た。さっきまで明るかった空が、いつの間にか暗くなっている。遠くで風が木の枝を揺らし始めていた。
◇
雨が降り始めたのは、それから三十分ほど後だった。
最初は屋根を軽く叩く程度だったが、すぐに粒が大きくなり、風も強くなった。キャンプ場の利用者たちは外へ出していた椅子やテーブルを片付け、テントの張り綱を確認している。
優也も外周を見ようかと思ったが、自分たちは車体を安定させており、外へ出しているものもほとんどない。窓から周囲を確認するだけにして、雨が落ち着くまで車内で過ごすことにした。
「テントの人ら大変やな」
「予報より強いですね。長くは続かないみたいですけど」
真琴が雨雲の動きを確認している間にも、風が一度大きく吹き、近くの区画から何かが倒れる音が聞こえた。優也が窓へ目を向けると、二つ先の区画で家族連れが慌ただしく動いている。テントそのものが飛ばされたわけではないが、横から吹き込んだ雨で前室部分が大きく濡れ、荷物を急いで車へ運んでいるようだった。
すぐに助けに出るほどの状況ではない。スタッフも場内を回っており、必要なところへ声を掛けている。優也は一度立ち上がったものの、勝手に入り込むのは違うと思い、そのまま様子を見た。
しばらくすると、管理棟のスタッフがその家族を屋根のある共用スペースへ案内しているのが見えた。若い夫婦と、小学校へ上がる前くらいに見える女の子の三人で、父親が折り畳んだベビーカーを抱え、母親は子どもの肩へタオルを掛けている。共用スペース自体は濡れずに済むものの、壁が少なく、風が吹き込む造りだった。
「子ども、結構濡れてるな」
優也が呟くと、真琴も窓越しに見た。
「そうですね。でもスタッフの方が対応してますし、まずは任せたほうがいいと思います」
「うん」
二人はそこで一度視線を戻した。
それから十数分ほど経ったころ、右側玄関を軽く叩く音がした。
優也が扉を開けると、さっき場内を回っていたスタッフが立っていた。雨具から水を落としながら、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。急にお願いする話ではないんですが、少しご相談してもいいですか」
「はい、どうしました?」
スタッフの話では、先ほどの家族のテント内部まで一部濡れてしまい、今夜そのまま使えるか確認しているという。空いている簡易キャビンを一つ用意できそうだが、清掃と暖房の準備に少し時間が掛かる。管理棟の共用スペースは風が入り、子どもが濡れた服のまま待つには寒いため、もし迷惑でなければ、準備が終わるまでの三十分から一時間ほど、ACROSSの中で待たせてもらえないかという相談だった。
優也はすぐには答えず、真琴を見る。
真琴も少し考えたあと、静かに頷いた。
「短時間なら大丈夫です。ただ、こちらも普通の生活スペースなので、使っていただくのはリビングとトイレくらいまでにしたいです」
「もちろんです。本当に助かります。無理なら管理棟で何とかしますので」
「いや、大丈夫です。寒いところで待ってもらうよりええし。ちょっと中片付けるんで、五分だけください」
優也が答えると、スタッフは何度も礼を言って戻っていった。
◇
扉を閉めると、優也と真琴はすぐに車内を整えた。とはいえ、大掛かりな片付けは必要ない。後部の主寝室は扉を閉め、予備室には二人のバッグをまとめる。キッチンまわりの私物を少し寄せ、リビングのテーブルには三人分のスペースを空けた。
「前回の夫婦のときより、一人増えるけど大丈夫そう?」
「座るだけなら大丈夫だと思います。それより、お子さんが濡れてるなら着替えが必要かもしれません。もし親御さんが困っていたら、シャワー室を着替える場所として使ってもらうくらいはできます」
「シャワー浴びるとかじゃなくて、着替えるだけな」
「はい。知らない方にいきなり浴室設備を全部使ってもらうより、そのくらいからで十分だと思います」
「分かった。あと、ベビーカーどうするやろ。濡れてるっぽいな」
「折り畳んで持ち上げられるなら、新しい玄関の余白へ置けそうです。ただ、無理に中へ入れなくても、スタッフの方に預かってもらえるならそのほうが楽かもしれません」
優也は頷いた。何でもACROSSの中へ持ち込む必要はない。
数分後、スタッフに案内されて家族がやってきた。父親は折り畳んだベビーカーと大きめのバッグを持ち、母親は女の子と手をつないでいる。子どもの上着は濡れて色が濃くなり、靴もかなり水を吸っているようだった。
「急にすみません。本当にいいんですか?」
父親が恐縮したように言うので、優也は「一時間くらいなら全然大丈夫ですよ。中暖かいんで、先にお子さん入れてあげてください」と答えた。
右側玄関のステップは、女の子なら手をつないで上がれる高さだった。母親が先に入り、そのあと子どもを支えながら一段ずつ上げる。父親は最後に、折り畳んだベビーカーを両手で持ち上げた。
その光景を見た優也は、少しだけ考えた。
ベビーカーは荷物として持ち上げられる。
子どもも自分で歩ける。
だから今日は入れる。
けれど、同じ形のものでも、人が座ったままの車椅子なら話は違う。内側に余白ができても、外から上がる方法がなければ使えないという事実は変わらない。
今はそれを口には出さず、優也は父親からベビーカーを受け取って玄関内側へ置いた。新しく増えた余白は、濡れた車輪がリビング側へ触れないよう一時的に置くには十分だった。
「ここに置いときますね。あとで出すとき俺持ちますから」
「ありがとうございます。これ、前からこういうスペースなんですか?」
一瞬だけ聞かれ、優也は「荷物置けるように少し余裕あるんですよ」とだけ答えた。嘘ではない。どうやって増えたかを説明していないだけである。
◇
三人がリビングへ入ると、真琴はすぐに乾いたタオルを何枚か渡した。女の子は緊張しているのか、母親の横へぴったり座っていたが、温かい車内へ入れたことで少し表情が緩んでいる。
「寒かったよね。無理に話さなくていいから、まず拭こうか」
真琴は子どもへ直接触れず、タオルを母親へ渡しながら声を掛けた。母親は礼を言い、髪と腕を拭いていく。上着の中まで少し濡れていたため、持ってきたバッグの中に着替えがあるか確認すると、幸い一組残っていた。
「着替えるなら、こっち使ってください。狭いですけど、扉閉められるんで」
真琴がシャワー室を示すと、母親はほっとしたように頭を下げた。女の子と一緒に入り、数分後には乾いた服へ着替えて戻ってくる。
優也はその間に、父親とスタッフからテントの状況を少し聞いた。雨そのものは短時間で弱まる見込みだが、寝袋の一部まで濡れており、今夜そのまま泊まるのは難しい。キャビンを使えるなら、そちらへ移る予定だという。
「せっかく来たのに大変でしたね」
「いやあ、天気を甘く見ました。予報は見てたんですけど、ここまで横から降ると思わなくて」
「俺らも前、自転車で予報より早く降られて駅に置いて帰ったことあるんで、天気だけはしゃあないですよ。無理してテント使うより、今日はキャビンのほうが安心やと思います」
父親は少し笑い、ようやく肩の力が抜けたようだった。
真琴が温かい飲み物を用意する。女の子には熱すぎないよう少し冷ましたものを渡し、大人にはお茶を出した。優也と真琴はいつもの席へ座らず、少し位置をずらして家族がまとまって座れるようにした。
五人になったリビングは窮屈というほどではない。けれど、前回の六人と同じで、人が増えれば物も増える。玄関には濡れた靴が三足、折り畳んだベビーカー、バッグが一つ。新しい余白がなければ、扉を開けるたびにどれかを動かさなければならなかっただろう。
「ここ、ほんまに役立ってるな」
優也が小声で言うと、真琴も玄関へ一度目を向けた。
「はい。でも、もうかなり埋まってます」
「三人分増えたらこれやもんな」
「短時間だから問題ないですけど、これで寝泊まりまで考えると別ですね」
優也は頷いた。
◇
しばらくすると、女の子も少し元気を取り戻し、窓の外を眺めたり、母親と小さな声で話したりするようになった。真琴が何歳かと無理に聞くことはせず、子どものほうから「この車、おうちみたい」と言ったときだけ、「私たちも最近そう思ってる」と笑って答えた。
「ここで寝るの?」
「今日は寝るよ。後ろに寝る場所があるの」
「ずっとここに住んでるの?」
真琴が少し困った顔で優也を見る。
「ずっとではないかな。休みの日に旅するときの家みたいな感じ」
優也が答えると、女の子は納得したのかしていないのか、「車のおうち」と小さく繰り返した。
母親が申し訳なさそうに「子どもって遠慮なく聞くので」と謝ったが、優也は笑って気にしないと答えた。むしろ、自分たちが最近何度も考えていることを、子どもはずいぶん簡単な言葉で表した気がする。
やがて女の子がトイレへ行きたいと言い、母親が優也たちへ確認した。真琴が場所と使い方だけ説明し、母親が付き添う。戻ってきたあと、真琴は優也の近くへ座り、小さな声で言った。
「トイレも、一人増えるだけなら普通に使えますね」
「そらそうやろ」
「今はそうです。でも人数が増えて長時間になると、順番や清掃も考えることになります。今日みたいに一時間くらいなら何も問題ないですけど」
「ああ、そういう意味か。人入るって座る場所だけちゃうもんな」
「はい。前回もそうでしたけど、実際に使ってもらうと、必要なものが少しずつ違って見えます」
優也は少し考えた。以前なら「トイレ増やす?」まで頭が進んでいたかもしれない。しかし今日は、五人で一度使っただけである。問題は起きていない。
「今回は問題なし。それで終わりやな」
「そうですね」
真琴の返事に、優也は自分でも少し満足した。止まれるようになったと言われたことを、少しは証明できた気がする。
◇
家族がACROSSへ入ってから四十分ほど経ったころ、スタッフが再び玄関を訪ねてきた。キャビンの準備が整い、暖房も入ったので移動できるという。
父親と母親は何度も礼を言い、女の子も「ありがとうございました」と少し照れながら頭を下げた。
外はまだ小雨が残っていたので、優也は先に玄関を降り、父親からベビーカーを受け取る。内側の余白へ置いていたベビーカーを持ち上げ、ステップを使わず外から直接受け取るようにして地面へ下ろした。
母親と女の子も一段ずつ降りてくる。女の子は行きより慣れたのか、手すりを使いながら自分でゆっくり下りた。
「気ぃつけて。濡れてるから滑らんようにね」
「うん」
地面へ降りると、スタッフが家族をキャビンへ案内した。父親が最後に振り返り、「本当に助かりました。うちの子、寒いの苦手なので」と言う。
「今日はスタッフさんが次の場所用意してくれてるんで、俺らは待つ間だけです。気にせんでください」
優也がそう返すと、父親は少し笑った。
「その待つ間がありがたかったです」
前回、故障した車の夫婦から言われた言葉とよく似ていた。
家族が去ったあと、優也はしばらく外を見ていたが、雨がまた少し強くなったのでACROSSへ戻った。
◇
扉を閉めると、車内は急に静かになった。
真琴は使ったカップを集め、優也は玄関へ残った水滴と泥を拭く。新しく増えた余白の部分には、ベビーカーの濡れた車輪から落ちた水と細かな砂が残っていたが、リビング側まではほとんど入っていない。
「これ、今回かなり正解やったな」
優也が床を拭きながら言うと、真琴もしゃがんで玄関の境目を見た。
「はい。ベビーカーとバッグを置いても、靴を脱ぐ場所が残りました。以前の玄関だったら、どれかをリビング側まで持ち込むしかなかったと思います」
「昨日まで名前も付いてへん余白やったのにな」
「今日も名前はいりませんよ。便利だった、それだけで」
「分かってる」
優也は笑って雑巾を洗い、玄関へ戻した。
片付けが終わると、二人はリビングへ座った。五人いた時間は一時間にも満たない。それでも、短いあいだにいくつか見えたことがある。
「子どもおると、着替えとかトイレとか、俺ら二人のとき考えへんこと出るな」
「そうですね。今日は着替えを持っていて、シャワー室を少し使ってもらえたから問題ありませんでした。でも、着替え自体がなかったり、もっと小さいお子さんだったりしたら、また違ったと思います」
「だからって子ども用品積み始めるのは違うよな」
「はい。今日はキャンプ場のスタッフさんがいて、キャビンも用意してくれたでしょう。私たちはその間だけ暖かい場所を貸した。それで十分です」
「何でもここで完結させんでええ、か」
「そのほうがいいと思います」
優也はソファへ背中を預けた。以前の自分なら、大きなACROSSを持っている以上、困っている人を見たら中へ入れ、食事も寝床も全部用意できたら格好いいと思ったかもしれない。けれど、実際にはそう単純ではない。
誰を入れるのか。
どこまで使ってもらうのか。
どれくらいの時間なのか。
その人が自分で玄関を上がれるのか。
着替えやトイレ、荷物、濡れたもの、休む場所が必要か。
そして、自分たちだけで抱え込まず、スタッフや専門の場所へつなげることができるか。
一人増えるだけでも条件が変わる。
「人を受け入れるって、人数だけ数えても意味ないな」
優也が言うと、真琴も頷いた。
「同じ三人でも、元気な大人三人と、小さな子どもを含む家族では必要なことが違います。高齢の方や車椅子の方なら、また全然違うでしょうし」
「今のACROSSにできるの、ほんま限定的やな」
「でも今日は役に立ちましたよ。限定的でも、できることがあった。それでいいんじゃないですか」
その言葉で、優也は少し笑った。
「また『そのくらいでいい』やな」
「はい。そのくらいでいいです」
◇
翌朝には天気が回復し、キャンプ場には前日の雨が嘘のような青空が広がっていた。二人は朝食を済ませてから場内を少し歩き、昨日の家族が使っているキャビンの前を通った。わざわざ様子を見に行ったわけではないが、外に父親がいて、優也たちに気づくと手を上げた。
「昨日は本当にありがとうございました。子どもももう元気です」
「良かったです。今日は晴れてるし、少し遊んで帰れそうですね」
「はい。テントは諦めましたけど、せっかくなので昼くらいまでゆっくりして帰ります」
それだけ話して別れた。
ACROSSへ戻ると、優也は玄関の余白へ靴を置きながら、昨日のベビーカーがあった位置を思い出した。今は何もなく、二人分の靴だけが並んでいる。
「何もないと広いな」
「だから何か置こうとしないでくださいね」
「まだ何も言ってへんって」
「顔が言ってました」
「またそれ?」
真琴が笑い、優也も笑った。
◇
大阪へ戻り、片付けを終えると、優也はいつものようにノートを開いた。
『キャンプ場一泊』
『急な強雨』
『近隣テント――浸水』
『施設スタッフ対応あり』
『家族三名――キャビン準備まで約四十分待機』
『ACROSS内――合計五名』
『右側玄関追加空間――濡れた靴・バッグ・折り畳みベビーカーの一時置き場として有効』
『リビング――短時間待機可能』
『シャワー室――子どもの着替え場所として一時使用』
『トイレ――一時利用、問題なし』
『後部寝室――閉鎖』
『予備室――私物退避』
『宿泊受入――なし』
『施設キャビンへ移動』
『空間変化――なし』
そこまで書いたあと、少し考えて続けた。
『ベビーカー――折り畳み、成人が持ち上げて搬入』
『車椅子――同様には扱えない』
『外側ステップ・床高――未解決』
ベビーカーを入れられたことで、逆に車椅子との違いがはっきりした。荷物なら持ち上げられる。小さな子どもなら親が手をつなぎ、自分で歩いて上がれることもある。しかし、誰かを安全に乗せたまま出入りさせる設備は、今も存在しない。
優也はそこを曖昧にせず残した。
そして、その下へもう一つ書く。
『一時受入――「中へ入れる」だけでは足りない』
『時間・人数・年齢・移動能力・着替え・トイレ・荷物・次の行き先で必要が変わる』
『全部をACROSSだけで解決しない』
文字を見返しながら、優也は前回より少しだけ考え方が変わったことに気づいた。
以前なら「何人入れるか」を先に考えていた。
四人で泊まれた。
六人で座れた。
今回も五人で待てた。
けれど、それだけでは実際の使い方を表せない。
五人でも、全員が元気な大人なら簡単なことが、小さな子どもが一人いるだけで着替えや濡れた荷物の問題が増える。誰かが歩けなければ、そもそも入口を越えられない。長時間なら食事や睡眠まで考える必要があり、知らない人を受け入れるなら私的な空間との境界も必要になる。
人数は、たぶん一番分かりやすい数字でしかない。
優也はペンを置き、右側玄関へ目を向けた。内側の余白は静かなまま残っている。昨日はそこに濡れたベビーカーがあり、今日は二人の靴しかない。用途未設定の空間だからこそ、そのとき必要なものを一度だけ受け止められた。
これを見て「もっと広げたら何人でも入れる」と考えるのは簡単だ。
けれど今は、そう思わなかった。
広さより先に、その人が何を必要としているのかを知らなければならない。
優也はノートを閉じ、真琴が帰る前に言っていた言葉を思い出した。
限定的でも、できることがあった。
それでいい。
ACROSSはまだ、誰かを大勢受け入れる場所ではない。困っている人を見れば、できる範囲で少し席を空けることはできるが、できない人まで無理に入れたり、すべてを自分たちだけで抱えたりはしない。
その線を覚えていることも、今のACROSSを使ううえでは大事なのだろう。
優也は照明を落とす前、玄関の余白へ何も置かれていないことを確認し、そのままにして扉を閉めた。
次に何を受け止める場所になるのかは、まだ決めなくていい。
必要になったとき、そのとき初めて考えればよかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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