ep.78 玄関に残るもの
紅葉を見に出掛けた一泊旅行から戻って数日が過ぎても、ACROSSの内部には目立った変化が起きなかった。両親と真琴を乗せた四人旅の途中で、雨を避けたいという夫婦を一時間ほど迎え入れ、リビングには一時的に六人が集まった。あのとき優也が気にしたのは座る場所より玄関だった。靴と上着が増えるだけで、通る人と立ち止まる人の動きが重なり、帰り際には荷物の持ち主を確かめながら一人ずつ外へ出てもらうことになったのである。
不便だったからといって、すぐに何かを増やす必要はない。そう書き留めたノートを閉じたあとも、優也は数日おきに車庫へ立ち寄り、いつもと変わらない玄関を通って過ごしていた。室内の広さを知ってしまうと普通の車両としての寸法をつい忘れそうになるが、右側のドアも電動ステップも、地面から床までの高さも製作時のままだ。両親が手すりを使って乗り降りする様子を思い返すたび、それを便利な室内空間と一緒くたにはできないと感じていた。
次の休みは、真琴と二人で和歌山寄りの海沿いへ一泊する予定だった。前回の旅行では両親の荷物も積み、途中から知らない人を迎えることまであったが、今回は自転車を二台載せて、短い海沿いの道を走るだけにしてある。昼過ぎに到着し、港の小さな店に寄り、戻ったら温泉へ歩いて行く。互いの予定が合った日に、あえて予定を詰めない旅を選べるようになっていた。
「荷物、こんだけ?」
車庫で出発の支度をしていた優也は、予備室の入口から中を覗いて思わず言った。真琴の旅行バッグは壁際に小さく収まり、いつも持ち歩いていた洗面用具の袋も見当たらない。彼女はキッチンの冷蔵庫へ飲み物を入れ終えると、肩越しに振り返った。
「着替えは持ってきましたけど、部屋着も洗面用品も、もうここにありますから。出掛けるたびに同じものを運ぶほうが面倒になってきました」
「俺より使い方うまいんちゃう。予備室、まだ空いてるし、何か積んでいけそうやな」
「今回は使わない物を増やさない、って決めたでしょう。自転車を出し入れするだけでも荷物はありますし、空いているならそのままにしておきませんか」
先回りして止められ、優也は予備室の扉を閉めた。彼女が自分のスマートキーで入っていることにも、生活用品が定位置に収まっていることにも、今さら特別な感慨はない。片方が先に来て支度を進め、もう片方が最後の確認をする。それで何の不都合もなく出掛けられることが、最近ではむしろありがたかった。
大阪を出たときは日差しがあったが、紀伊半島側へ向かうにつれて雲が低くなった。海が見える区間では横からの風が時折車体を押し、優也は速度を控えめにして大型車の通れる幹線道路を選んだ。天気予報では夕方以降の雨を示しているものの、海沿いではその境目がはっきりしない。行きたい場所に着いたというだけで自転車を出すのはやめようと、二人は走りながら話していた。
到着した滞在区画は、海側に低い防風柵が並び、車体を十分に寄せられる広さがあった。優也はACROSSを所定の位置に収めてから周囲を歩き、地面の状態と隣の区画との距離を確かめる。潮を含んだ風は一定ではなく、静かになったかと思えば車体の角を回り込んで上着の裾を持ち上げた。
「メインオーニング、今日は出さんとこ。広げて使う予定もないし、この風やと落ち着かへん」
「そうですね。玄関のキャノピーも、今はなくて大丈夫だと思います。自転車で出掛けるなら、出入りするのは少しの間ですし。雨が早まって戻ってきたときに、風が強かったら結局たためなくなります」
「ほんまやな。出すときだけ見てたらあかんわ。帰りが雨でも、まず自転車しまうほうが先やし。せっかくある装備やから使いたなるけど、今日は仕舞っとく」
二人は昼食を車内で済ませたあと、左後部のガレージを開いて自転車を取り出した。右側のメインオーニングを展開したとしても、反対側にあるガレージの作業場所まで覆えるわけではない。優也はそんなことを少し考えながら固定具を外し、自転車の動きに異常がないのを見て一台ずつ地面へ下ろした。真琴がヘルメットをかぶりながら「港の店までなら、遠回りしなくても十分ですね」と地図を指さすと、優也も頷いて帰り道の位置を覚えた。
「雨が早まったら、店で粘らんと戻ろう。風が強くなったら自転車も乗りにくいし」
「分かりました。海沿いをずっと走るより、港の手前で内側の道へ入ったほうが戻りやすそうです」
自転車は互いの姿を見失わない間隔で走り始めた。堤防に沿った道は車では通り過ぎてしまうような小さな景色が続き、網を干す倉庫の前には塩で白くなったロープが束ねられていた。海面は雲の色を映して鈍く光っているが、漁船の間にできた細い水路だけは不思議と暗い青を残している。真琴は何度か速度を落としてその色を眺め、優也は先の見通せる場所で待ちながら、急ぐ理由のない休日を楽しんでいた。
◇
港へ着くと、空気が到着時より冷たく感じられた。店先で買った温かい飲み物を持って堤防の内側に座ったものの、カップを包む指先へ風が回り込み、長くじっとしている気分にはならない。遠い沖の雲は切れ目を失い、海面に細かな白い筋が見え始めていた。
「予定より早めに帰ったほうが良さそうですね。さっきから風向きも変わっています」
真琴がカップの蓋を押さえながら言った。優也も遠くの空と手元の地図を見比べ、寄ろうとしていた古い商店を今回は諦めることにした。見たかった場所を一つ減らすのは惜しいが、雨の中で自転車をしまう手間まで考えると、まだ明るいうちに戻るほうが気楽だった。
「そうしよ。店は次に通ったときでええわ。帰ったら先に自転車片付けて、温泉までゆっくりできるし」
「それなら、私が行きに見た曲がり角から戻りましょう。海沿いの道をそのまま行くと、風を受け続けそうです」
帰路の前半は穏やかだった。港のにぎわいが遠ざかり、細い住宅地の道へ入ると、風は建物に遮られて走りやすくなった。ところがACROSSの滞在区画まで残り十分ほどのところで、黒ずんだ雲から細かい雨が落ち始めた。二人が一度足を止めて雨具を取り出そうとしたときには、すでに路面の色が変わりかけていた。
薄い雨具を羽織って走り出したものの、港から吹き抜ける風が正面に回ると雨粒が顔に当たる。優也は無理に速度を上げず、交差する道でいったん止まり、真琴が安全に続いていることを確かめた。自転車のタイヤが跳ね上げる水には細かな砂が混じり、靴の甲もじわじわ濡れてくる。
「慌てんでええで! あと少しやし、滑ったら元も子もない!」
「はい! そのままの速さで大丈夫です!」
区画に戻ったとき、二人とも雨具の表面から水を滴らせるほどではなかったが、袖口や裾は湿り、自転車のフレームには砂と雨が混じった跡がついていた。優也はまず左後部のガレージ側へ回り、荷物を地面に広げずに済むようタオルだけ取り出す。ハッチを必要な範囲で開いたまま一台ずつ車輪と折り畳み部分を拭き、ガレージへ収めて固定した。真琴も自分の自転車を片付けながら、濡れた手袋で金具を扱う手元を慎重に確かめていた。
「こっちの作業は、どうしても雨に当たりますね。右側に屋根があっても届きませんし」
「そうやねん。かといって今から車の向き変えて、オーニング広げて、なんてしてる間に片付くわ。風もあるしな」
実際、建物の陰に入ると弱まる風が車体の後ろへ回ると急に強くなる。優也は最後の固定を終えるとハッチを閉じ、濡れたタオルを折りたたんで片手に持った。真琴のヘルメットと小さなバッグもまとめて持とうとしたが、彼女は自分で持つと言って肩紐をかけ直した。
右側玄関へ回ると、普段なら気にも留めない数歩の距離が妙に長く感じられた。足元灯のあるドア上には専用キャノピーが収まっているが、横から突くような雨と風の中では無理に展開する気になれない。メインオーニングも同じく格納したままだ。二人のために短時間広げたところで、畳む際にはまた濡れた外へ出ることになり、今の風では扱うほうが面倒になりそうだった。
「先、入って。俺、ステップ上がる前に靴の水落とすから」
優也がドアを開けると、真琴はヘルメットを胸に抱えたまま一段目へ足をかけた。しかし右側玄関の内側には、すでに彼女の小さなバッグと濡れた手袋が集まり、靴を脱ぐ場所へ次の荷物を置く余裕がない。優也が後ろからタオルを渡そうとしても、互いの手がかさばった雨具に遮られる。
「バッグを先に渡してください。私がいったん中へ置きますから。優也さんまで荷物を持ったまま待っていたら、外で濡れ続けます」
「ほな、これ。あ、ヘルメットは下に置かんといて。そこ靴箱開けるとこや」
「分かりました。先に上着を脱ぎたいんですけど、これを持ったままだと袖が抜けなくて……少しだけ待ってください。床を濡らしたくないのに、置けないから手が空かないですね」
「タオルは俺が持っとくわ。そっちのヘルメットもいったん預かるから、先に上着だけ脱いで。俺は外で待てるし、焦らんとやろう」
車内へ上がり切った真琴が腕を抜こうとすると、濡れた袖が引っ掛かり、手に抱えていたヘルメットが扉の内側へ傾いた。優也はそれを受け取り、自分の雨具の水を外で落としてから一段上がる。開いた扉から風が吹き込み、二人は反射的に上着を押さえた。キャノピーがあれば頭上の雨をいくらか減らせたとしても、こんな横風では濡れた荷物を置く床まで作ってくれるわけではない。二人とも動き方は分かっているはずなのに、次の動作へ移るための手が足りなかった。
結局、真琴がいったんリビングへ入って両手を空け、乾いたタオルを取って戻るまで、優也は玄関口で荷物を支えて待つことになった。開け放していた時間はわずかだったが、扉を閉めた瞬間、外の雨音が遠くへ引き、代わりに雨具から落ちる水滴だけが小さく響いた。
「二人やのに、やたら時間掛かったな」
優也はタオルを肩へ当てながら笑ったが、真琴は濡れた床と手元の荷物を見下ろし、同じようには笑わなかった。靴を脱ぐ場所はあるし、上着を掛ける場所もある。ただし両方の手が濡れた物で塞がっていると、どちらかが完全に片付けるまで次の人が通れない。それは先日の六人のときとは違う種類の窮屈さだった。
「一人ずつなら困らないと思います。今日みたいに両方の手が塞がっていると、順番を譲るだけでは片付かないんですね。濡れたものをリビングへ持っていかず、どこかへ一度置こうとすると、そこがちょうど通り道になるので」
「六人のときは靴で詰まった。今日は荷物やな。中で立ってる場所がないわけやないのに、玄関だけ仕事多すぎる」
「外に雨よけを出していても、そこまでは解決しないと思います。海沿いなら風で使えないこともあるし、使えても外に置いておけない物はありますから」
真琴の言葉を聞きながら、優也は濡れたバッグの底をタオルで拭いた。床へ直接置けば今度は砂が広がり、拭き終えた荷物をリビングへ運ぼうとすると、掛けかけの上着が邪魔になる。傘でも置ける場所を増やせばよいのかと一瞬思ったが、今ほしいのは物を固定する収納ではなかった。少しの間、誰の邪魔にもならず荷物を受け止めてくれる床である。
「これ、外に屋根が欲しいって話と違うな。玄関の中に、一回置いて手を空ける場所があったらだいぶ違う」
「そうですね。すぐに棚やフックを増やすより、何が通れなくなったのか、今日はそれだけ覚えておけばいいと思います。ほら、こうして順番に拭けば、今の設備でも片付きますから」
優也は頷いて残りの荷物を引き受けた。真琴が濡れた上着を水回り側へ移し、優也はヘルメットを拭いてから元の収納へ戻す。泥を持ち込まないよう二人で床を仕上げるうちに、玄関は何事もなかったような姿へ戻った。困った時間は長くない。それでも、何度も手を持ち替えた数分の感触は、きれいになった床より鮮明に残っていた。
予定していた港の店には寄れなかったが、二人とも旅を失敗したとは感じていなかった。リビングに落ち着くと、真琴が温かい飲み物を用意し、優也は窓の外で雨にぼやける防風柵を眺めた。出発時には明るかった道もすっかり灰色になっており、自転車で寄り道をしなかった判断は正しかったように思える。
「温泉、どうする? 歩ける距離ではあるけど、もう少し様子見てもええで」
「行きたいです。夕食を先に軽く食べて、雨の弱い時間を選べば無理はないと思います。せっかくここまで来たんですし。港で飲んだものだけだと、まだ身体が冷えた感じが残ってますから」
「ほな温まって帰ろか。さっきは自転車があるから急いで戻らなあかんかったけど、今度は傘一本で行ける。雨が強かったら施設へ電話して、入れる時間を確認してから出ればええし」
「そうしましょう。あと、明日の朝はもう自転車を出さずに帰りたいです。せっかく片付けたのに、今度は濡れたまま大阪まで持って帰るのは嫌なので」
真琴がそう言って食事の支度に立ったので、優也も席を離れて手伝った。キッチンには先ほどの濡れ物を持ち込んでいないから、いつもどおりの動きで作業できる。何かが不便だったことを理由にその日の予定を全部諦めなくてもいい、という彼女の言い方が優也には心地よかった。
◇
夕食を済ませた頃には雨脚が少し弱くなり、二人は傘を持って近くの温泉施設まで歩いた。車から出るとき、優也は玄関上のキャノピーを一度見上げたが、時折風が戻る空模様は変わらず、操作には手を伸ばさなかった。先ほどより身軽な二人なら、傘をさして足元を確かめながら歩けば十分である。
湯から上がったあとには、雨に冷やされた頬だけが少しひんやりした。帰り道は二人で一つの話を追いかけるでもなく、風が吹くたび傘を傾けながらACROSSへ戻った。今度は自転車のヘルメットもバッグもない。優也が先に入って靴を脱ぎ、次に真琴が続くだけで、ほとんど引っ掛からずに玄関を通れた。
ただ、二本の濡れた傘にはすぐに落ち着く場所が見つからなかった。外側で十分に水を切り、既存の吸水マットへ先端を寄せて立てかけると、ようやく二人の動線が空く。真琴が上着を整えている間、優也は昼間のヘルメットが占領していた床を眺めた。傘二本だけなら面倒は小さいが、濡れた荷物がもう一つ増えれば、また同じ場所へ置くことになるだろう。
「晴れてたら、今のままで何も困らんのにな」
「だから、晴れの日の使い方まで変えないほうがいいのかもしれません。必要なのは、たまに荷物が重なる日に少し余裕があることだと思います」
「家の土間みたいな感じか。靴脱ぐだけやなくて、汚れたものを一回置けるところ」
「近いですね。でも素材を変えるとか、大きな収納をつけるとか、そこまでは考えなくてよさそうです。今日も、片付け終わればこうして元どおりですから」
二人は濡れた傘をそのままにして、リビングで映画を一本選んだ。画面の中では南の国の乾いた道路を車が走っており、窓の外の雨音とあまりに似合わなくて優也は笑った。真琴は隣でブランケットを膝に掛け、しばらくするとその端を優也にも渡してきた。映画が終わる頃には強い雨音が小さくなり、二人はそれぞれの寝る場所へ向かった。真琴が後部の主寝室の扉を閉めたあと、優也はリビングのソファを足場に壁面の収納式ステップを使ってキャビン上部のベッドへ上がった。
夜中に一度目が覚めたとき、雨はまだ屋根を細かく叩いていた。朝まで続くだろうかと考えたが、今から予定を変える必要もないので、優也はシェードの向こうの暗さを見てもう一度目を閉じた。
翌朝、目を覚ますと車内は妙に静かだった。雨音はほとんど消え、ブラインドの隙間から薄い日差しが入っている。優也はベッドを上げてからコーヒーを淹れようと後方へ歩き、玄関の前で不意に足を止めた。
昨日の夜、二人で傘を置いた場所が見えた。傘は片付いていたものの、その先にある床が、どうにも記憶と合わない。靴を脱ぐ位置からリビングへ上がるまでの距離が以前より長く、昨日なら真琴と互いに身をかわして通ったところに、もう一人が荷物を抱えて立てそうな余白がある。光の具合による錯覚かと思って一歩戻ってみても、足元の感覚は変わらなかった。
「……何や、これ」
優也は増えた場所へ踏み込む前に、扉の枠と壁の継ぎ目を見比べた。床材の色は自然につながり、無理に継ぎ足したような段差もない。室内に余裕ができた一方、ドアそのものの幅は変わっていないように見える。昨日の荷物を全部片付けたから広くなった、という説明では足りなかった。
真琴がまだ寝ていることを確かめ、優也はスマートフォンだけ持って外へ出た。昨夜の雨で濡れたステップを一段ずつ下り、車体の横を歩いて外から右側玄関を眺める。ドアの位置も、側面の窓も、収納ハッチとの間隔もいつもどおりで、キャノピーとメインオーニングは格納されたままだ。車体の外に新しい箱が張り出した様子もなく、玄関の床が地面へ近づいたわけでもなかった。
外形は変わらず、変わったのは内側だけ。そう確認すると、優也はかえって慎重になった。車内へ戻り、コーヒーを淹れずに待っていると、ほどなく主寝室から真琴が出てきた。彼女は優也が空のカップを手に立っているのを見て、いつもと違う朝だと気づいたようだった。
「おはようございます。コーヒー、まだなんですか?」
「淹れる前に見てほしいもんができた。玄関やねんけど、昨日と何か違う」
優也が一歩身を引くと、真琴は玄関の床を見てから、扉の位置を確かめるように視線を動かした。最初は言葉にせず、昨日自分が傘を置いた位置まで歩いてしゃがみ込む。そこから顔を上げると、ようやく優也のほうを振り返った。
「奥行きが増えてますね。昨日はここにバッグを置いたら、もう人が通れなかったはずです。今なら靴を脱ぐ人の横で、別の人が一時的に荷物を持てそう」
「せやろ。外から見ても何も変わってない。ステップの高さも、ドアの幅もそのままや」
「床の仕上げもきれいにつながっています。部屋を一つ増やしたというより、玄関に短い待ち場所ができた感じでしょうか。昨日話していた土間に似ていますけど、床材まで別になったわけではないですね」
真琴は手持ちの物を一つも置かず、玄関からリビングへ入る動作をゆっくり繰り返した。余裕が生まれているのは、ドアを開けて靴を脱いだあとに動ける範囲であり、外から足を踏み入れるときの負担ではない。優也はその区別を目で確かめてから、《鑑定》を使うことにした。
『追加空間――形成』
『接続――右側玄関』
『用途――未設定』
『外部寸法――変化なし』
『接続状態――安定』
『魔素反応――微弱』
見慣れた形式の情報が並んでも、優也にはこの変化が何をきっかけに起きたのかまでは分からなかった。ただ、目の前で足を止めている理由と、そこに記された接続先は不思議なほど重なっていた。
「追加空間が形成されてて、接続は右側玄関。用途は未設定。外部寸法は変化なし、接続は安定、魔素反応は微弱……前の予備室のときと似た表示やな」
「用途が決まっていないなら、こちらで勝手に機能を決めつけないほうがよさそうです。でも、昨日困ったことには、たしかに使える余白ですね。濡れた物を一時的に受ける場所として」
「外側の段差は残ったままや。そこは昨日も気にしてたけど、車椅子で乗れるようになったわけやない」
ドアを開くと、外で乾き始めたステップが昨日と同じ高さで待っていた。真琴も視線をそこへ向けたが、足元を確かめると扉を閉め、広くなった内側へ戻った。
「そうですね。それと、この空間が雨の日にどれくらい使いやすいのかも、まだ分かりません。今日は乾いた靴で立っているだけですから、まず普通に出入りしてみましょう。急に外側が楽になったように感じても、地面から上がる動きは昨日と同じです」
「母ちゃんらの乗り降りも、そこは変わらんわけか。前の旅行で、手すり掴んで一段ずつ上がってたん見たしな。中が広なったからって、外も楽になったつもりになったらあかんな」
「そうだと思います。でも、今ある玄関で荷物を持つ人が立ち止まれるなら、それは別の便利さです。外側のことは忘れずに、内側の使い方はきちんと確かめましょう」
優也は寸法を測りたい気持ちに一瞬駆られたが、手元にあるのはコーヒーカップだけだった。だからといって道具を取りに走る理由もない。真琴の横に立って歩いてみると、二人は肩を引かずにすれ違えた。たったそれだけのことなのに、昨夜、タオルとヘルメットを持ち替え続けた煩わしさがよみがえり、思わず笑いが漏れた。
「これやったら、昨日はもっと早く着替えられたな。せっかく増えたんやし、靴箱でも――いや、今は置かんほうがええか」
「自分で言いましたね。しばらくはこのままにしましょう。使ってから考えられるなら、そのほうがありがたいです」
真琴も少し笑い、改めてキッチンへ向かった。優也はいつものように二人分のコーヒーを用意し、車外の空が明るくなっていくのを見ながら朝食を済ませた。玄関で起きたことに興奮して予定を取りやめる必要はない。昨日は雨の中を走ったのだから、今日は大阪へ帰って自転車を洗い、車庫で落ち着かせる。それだけで十分に仕事が残っていた。
◇
出発前、二人は外側の確認を済ませてから順に車内へ戻った。優也が靴を脱いで一時的に作業用バッグを置いても、後から入った真琴が立ち止まらずに通れる。前日ならどちらかの手が空くまで待つ必要があったところで、互いに進む方向を譲り直さなくてもよい。実際に荷物があるときの動きに差が出るのを見て、二人は必要以上の実験をせず支度を終えた。
海沿いの風は弱まっていたが、優也はそのままオーニング類を出さず、ステップと外部の設備が格納されていることを確かめてから運転席へ座った。右側の窓の外で防風柵が後ろへ流れ始める。車内の玄関が少し広くなっても、道を走るときの車幅も、曲がり角で必要な余裕も昨日と同じだ。いつもどおりの感覚で区画を出られたことに、優也は小さく安堵した。
帰り道では真琴が助手席で次の週の予定を確認し、優也は車の流れを見ながら時折それに答えた。玄関についてあれこれ推測する会話にはならなかった。むしろ昨夜の温泉で見かけた古い湯治場の写真や、寄れなかった港の店のことを話している時間のほうが長い。海沿いを訪れる理由が玄関を広げるためになってしまったら、せっかく二人で選んだ休日が妙なものになる気がしていた。
大阪の車庫へ戻ると、荷物を降ろす順番が自然に変わった。真琴が予備室からバッグを持ってきて玄関の新しい床へ置き、優也が外へ出したあとで次を受け取る。自転車をしまってある左後部のガレージでは、旅先の雨でついた砂を改めて落とし、金具の周りに水分が残っていないかを確かめた。空いている床がひとつ増えただけで、別々の作業をしている二人が玄関でぶつからずに済むのが面白かった。
「この前みたいに六人になったら、少しは楽になりそうやな」
「そうかもしれません。でも、そこは人数を増やして確かめることじゃないですからね。普段の使い方でどう変わるかを見ておけば、今は十分だと思います」
「分かってる。俺ら二人が使うぶんには、もう助かってるしな。あと、何も付けんとく。名前もまだいらんわ」
真琴は増えた床に置いていたバッグを拾い上げ、肩紐を直した。出発の支度から帰着後の片付けまで、その場所は荷物を一時的に預かってくれたが、もう用は済んでいる。
「名前は、あっても困らないと思いますけど。優也さんが『玄関の余白』って呼ぶなら、それでも伝わりますね。私が先に来たときも、そこを荷物置きに使わせてくださいね」
「そんなん聞かんでもええよ。自分の鍵で入れるんやし、普通に使ったらええ。ただ、濡れたもん置いたら床だけ拭いといてな」
「分かってます。優也さんも、作業用の靴で入ったあとそのままにしないでくださいね」
互いに相手の癖を知っている言い合いが可笑しくて、優也は小さく笑った。片付けを終えた真琴は、自分のバッグを肩に掛け、玄関で優也に軽く手を振った。見送ったあとも車内に残っていた彼女のカップを洗いながら、優也は今日の変化をどこまで記録するか考えた。細かな寸法も用途の推測も、まだ答えが出ていない。確実なのは外側が同じままで、内側に使える場所が増えたということだけだった。
ノートには、紅葉旅行で六人になったときの記録がすでに残っている。その下へ優也は、海沿いでの出来事と翌朝の変化を書き足した。雨の中で自転車を戻したこと、横風でメインオーニングも玄関キャノピーも使用しなかったこと、二人分の濡れた荷物が玄関へ集中したこと。さらに《鑑定》で確認できた内容をそのまま書き、外部寸法とステップの高さには変化がないと明記した。出来なかったことと、実際に便利になったことを一緒に書いておけば、後で都合のいいほうだけ思い出すこともないだろう。
夕方になる前に車庫の外部電源を接続し、優也は車内を一巡した。新しい床には二人の靴を置けるだけの余裕があり、リビングへ続く通路も塞がっていない。濡れた物を置くための棚を増やすより、まずこの広さを普段の出入りに使ってみるほうが先だと思った。
数日後、仕事帰りにACROSSへ寄ったときも、玄関の奥行きは変わっていなかった。優也はバッグを床の端へ置いて靴を脱ぎ、そのままリビングへ入る。以前なら荷物を抱え直してから通っていた動きが、今日は引っ掛からずに終わった。コーヒーを淹れる前に真琴へ簡単な連絡を送ると、『便利になったみたいで良かったです。余計な物は増やしていませんよね?』と返ってきた。
「信用ないなあ」と独り言を漏らしながら、優也は何も置いていない玄関を撮った写真を一枚送った。ほどなく画面に届いたのは、『合格です。今度行ったとき、私のバッグもそこに置いてみます』という返事だった。
優也はスマートフォンをしまい、靴箱の扉が開くことを確かめてからカップを取りに戻った。次に二人で出掛ける日が雨になるかは分からない。それでも玄関には、荷物の置き方を変えてみられるだけの空いた床が残っていた。
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