ep.76 本人たちより先に
両親との二回目の旅行から少し経った休日、優也は母親がACROSSへ置き忘れていた菓子袋を返すため、久しぶりに一人で実家へ顔を出した。わざわざ届けるほどの物ではなかったが、次の紅葉旅行の日程を聞かれていたこともあり、ついでに予定を合わせておこうと思ったのである。
玄関を開けるなり母親は「あ、それ忘れてたやつ」と菓子袋を受け取り、そのまま台所へ持っていった。父親は居間でテレビを見ていたが、優也の顔を見ると「今日は真琴ちゃん一緒ちゃうんか」と、まるで一緒に来るほうが普通になったような聞き方をした。
「今日は俺一人や。菓子返しに来ただけやし」
「そうなん。最近あの子とばっかり出掛けてるから、一緒かと思ったわ」
母親まで何気ない顔で続けたため、優也は靴を脱ぎながら嫌な予感がした。こういうときの母親は、本人の中では雑談のつもりでも、気づけば話が妙な方向へ進んでいることがある。
居間へ入って座ると、案の定、紅葉の話は最初の五分ほどで終わった。両親とも日程はだいたい合わせられるらしく、近場なら一泊で十分だという。そこまでは良かったのだが、母親が湯呑みを置いたところで、いきなり話題を変えた。
「ところで、あんたら結局どういう関係なん?」
優也はまだ一口しか飲んでいないコーヒーを置き、父親を見る。父親は自分は関係ないという顔でテレビへ視線を戻したものの、音量は明らかに一段下がっていた。
「何が?」
「何がやあらへんがな。真琴ちゃん。二回も一緒に旅行来て、普段もあの車で一緒に出掛けてるんやろ。あんた、前は『付き合ってへん』言うてたけど、今もそうなん?」
「今もそうやで」
「ほな、何なん?」
「何なん言われても……一緒に旅する相手というか、友達というか、相棒というか」
「全部ふわっとしてるな」
母親が呆れたように笑ったので、優也も少しむっとした。
「別に無理に名前付けんでもええやろ。俺らが困ってへんねんから」
「それはそうやけど、見てるこっちが不思議やねん。真琴ちゃん、あんたの親と旅行までしてくれて、夜も同じ車で泊まって、次の旅行も普通に来る気やろ? それで『友達です』だけやったら、そらちょっと聞きたくもなるわ」
言われてみれば、客観的に見ればそうなのだろう。優也自身も、少し前からただの友達という言葉では足りない気がしている。それでも、付き合っているのかと聞かれれば違うし、将来を約束しているわけでもない。
父親がそこでようやく口を挟んだ。
「別に名前は何でもええけど、相手はだいぶ若いやろ。そこだけは、お前が分かってたらええんちゃうか」
優也は父親のほうを向いた。からかう調子ではなく、珍しく少し真面目な声だった。
「分かってるよ」
「ならええ。こっちからどうこう言う話ちゃう。ただ、お前が楽やからって、相手も同じやと思い込むんは違うからな。真琴ちゃんが自分で来て、自分で帰って、自分で決めてるならそれでええけど、お前が年上やからって何でも決めるようになったらあかん」
「そんなことしてへんって」
「してへんなら、それでええ」
父親はそれ以上追及しなかった。その言い方が妙に現実的で、優也は少しだけ肩の力を抜いた。
母親も、年齢差を理由に反対したいわけではないらしい。むしろ真琴のことはかなり気に入っているようで、「あの子、しっかりしてるし、一緒におったらあんたの変な暴走止めてくれそうやから安心やわ」と言う。
「俺、そんな暴走する?」
「するやろ。昔から欲しいもん見つけたら急に全部そっち行くやん。今の車もそうやし」
「ACROSSはちゃんと考えて買った」
「二億以上する車を『ちゃんと考えた』で済ます人は、普通の基準からちょっと外れてるねん」
そこは言い返しづらく、優也はコーヒーを飲んでごまかした。
◇
話が終わるかと思ったところで、母親はさらに踏み込んできた。
「真琴ちゃん、あの車に自分の物置いてるんやろ?」
優也は思わず顔を上げた。
「何で知ってんの?」
「前の旅行で、洗面のとこから自分のポーチ出してたやん。前から置いてる感じやったし」
そんなところまで見ていたのかと驚いたが、母親は人の荷物を覗いたわけではなく、普通に車内で一緒に過ごしていれば目に入る程度のことだったらしい。
「まあ、毎回持ってくるの面倒なやつだけな。部屋着とか本とか、ちょっとだけ」
「鍵も持ってるん?」
今度こそ優也は黙った。
母親が目を細める。
「持ってるんや」
「……スペアキー渡した。旅先で別行動したとき、俺おらんかったら中入れへんから」
「へえ」
その「へえ」が妙に長い。
「実用やって。前に真琴が先戻ったとき、俺が鍵持ってて外で待たせてもうたから、それなら一本持っといたほうがええやろってなっただけ」
「別に何も言うてへんやん」
「顔が言うてる」
母親は笑いを堪えきれず、「いやあ、昔のあんたからしたら大進歩やなと思って」と肩を揺らした。
「何が進歩なん?」
「自分の場所に他人の物置かせて、鍵まで渡すとか。あんた昔から、自分の部屋でも人に勝手に触られるの嫌いやったやろ」
優也はそこで言葉に詰まった。確かに、自分の物へ無断で触られるのは今でも好きではないし、誰かが自宅へ頻繁に出入りする生活を想像したこともほとんどない。友人が少ないというだけでなく、一人でいる時間が長く、それを不便とも思ってこなかった。
「でもACROSSは別やねん」
「何が別なん?」
「……分からんけど。真琴が使うのは気にならん」
口にしたあと、自分でもずいぶん素直な答えが出たと思った。母親は一瞬だけ意外そうな顔をしてから、今度はからかわずに「ほな、それでええんちゃう」と言った。
「何が?」
「今すぐ彼女や何やって決めんでもええけど、その子が自分の場所におることを嫌やと思わんのなら、大事にしたらええやん。あんた、そういう相手なかなかできへんタイプやと思うで」
「本人に聞こえたら失礼やぞ、それ」
「本人ってあんたやん」
「俺にや」
父親が横で小さく笑った。
「母ちゃんの言い方はあれやけど、まあ、無理に答え出さんでもええんちゃうか。ただ、曖昧なままやから何しても責任ない、みたいなんは違うぞ」
「分かってるって」
「分かってるならええ。俺らが決めることちゃうしな」
父親はそこでテレビの音量を元に戻した。母親も、それ以上は追及せず、次の紅葉旅行で真琴が来られるならまた一緒に行きたいと言った。結局、優也が実家を出るころには、旅行の日程よりも二人の関係について話していた時間のほうが長かった。
玄関を出てから、優也は小さく息を吐いた。
「親ってめんどくさ……」
そう呟いたものの、嫌な気分ではなかった。
◇
ほぼ同じころ、真琴も別の場所で似たような目に遭っていた。
その日の夜、母親から久しぶりにビデオ通話が掛かってきた。実家へ帰る予定の確認と、最近の仕事や研究の話を聞きたかったらしい。真琴は自宅のリビングでソファへ座り、スマートフォンを立て掛けながら、大学での仕事や最近参加している研究の進み具合を話していた。
父親はまだ病院から戻っていないらしく、最初は母親と二人だけだった。母親はいつものように質問が多く、話題が仕事から食事、睡眠、最近どこへ出掛けたかへ移り、やがて当然のように優也の名前が出てきた。
『あの大きい車の人とは、まだ一緒に出掛けてるの?』
「優也さん? うん。先週も二泊してきたよ」
『二泊? また?』
「またって……旅行だから二泊くらいするでしょう」
『普通の旅行ならね。あなたの場合、その人の車に着替え置いてるんでしょう?』
真琴は思わず画面を見た。
「何で知ってるの?」
『前に言ってたじゃない。毎回荷物を持っていくのが面倒だから、少し置いてあるって』
自分で話していたらしい。真琴は記憶を辿り、そういえば以前、荷物が減った話をしたときに何気なく言った気がした。
「少しだけだよ。洗面用品と部屋着と本くらい」
『それ、少しずつ増えるやつよ』
「増やさないよ」
『そう言ってる人ほど増えるの』
母親が楽しそうに言うので、真琴は少し呆れた。編集の仕事をしているせいか、人の言葉尻から話を広げるのが昔から妙に上手い。
そこへ、画面の外から別の声が入った。
『何の話?』
姉だった。
仕事の合間に実家へ寄っていたらしく、母親の隣へ無理やり顔を入れてくる。真琴が嫌な予感を覚える間もなく、母親は「真琴が例の人の車に服置いてる話」と簡潔すぎる説明をした。
「ちょっと、言い方」
『え、何それ。もう半分住んでるじゃん』
「住んでない」
『鍵は?』
「……持ってるけど」
一秒も経たないうちに、姉が大げさに目を見開いた。
『鍵まで持ってるの? それもう友達じゃなくない?』
「そういうための鍵じゃないから。旅先で別行動したとき、優也さんがいなくても中へ入れるようにって渡してもらっただけ」
『その説明、本人たちは合理的だと思ってるんだろうけど、外から聞いたらかなり面白いよ』
「お姉ちゃんが面白がってるだけでしょ」
『いや、お母さんも同じ顔してる』
真琴が母親を見ると、否定せず笑っている。二対一では分が悪いと思ったところで、玄関のほうから父親の声が聞こえた。帰宅したらしい。
母親が「真琴と話してる」と声を掛けると、父親は着替える前に画面へ顔を出し、「元気か」といつもどおり短く聞いた。真琴が元気だと答えると、姉がすかさず「真琴、年上の人のキャンピングカーの鍵持ってるんだって」と余計な報告をする。
『お前は話を面白くするな』
父親は姉へそう言ってから、改めて真琴へ視線を向けた。
『前に話してた福山さんか?』
「うん」
『まだ付き合ってはいないんだな』
「……うん」
父親はそれ以上すぐには何も言わなかった。
◇
母親と姉が茶化すような表情をしている横で、父親だけは少し考えるように黙っていた。真琴はその沈黙がかえって落ち着かず、「何?」と先に聞く。
『いや、別に付き合えともやめろとも言うつもりはない。ただ、前に聞いたときよりずいぶん生活が近くなってるなと思っただけだ』
「生活が近い?」
『旅行へ行くだけなら旅行相手で済むけど、自分の物を置いて、鍵を持って、一人で中へ入るなら、その場所をかなり信頼してるんだろう。相手のことも含めて』
真琴は何も返さず、画面の中の父親を見た。医師として人の話を聞くことに慣れているせいか、父親は家族相手でも必要以上に決めつけることをしない。それでも、真琴自身が曖昧にしていたところを、淡々と言葉にされると少し困る。
『年齢差は気にならないの?』
今度は母親が、さっきまでのからかう調子を少し抑えて聞いた。
「全然気にならないわけじゃないけど……普段一緒にいると、年齢より優也さんが優也さんって感じだから」
『それは分かるけど、十年後、二十年後は今より差を感じることもあるわよ』
「まだ付き合ってもないのに、二十年後まで考えないよ」
『だから今決めろって話じゃないの。ただ、好きなら好きだけで見えなくなることもあるから、現実も頭の片隅に置いておきなさいってこと』
「好きって決めつけてるし」
真琴が抗議すると、姉がすぐ割り込んだ。
『じゃあ嫌い?』
「そういう二択にしないで」
『じゃあ好き寄り?』
「お姉ちゃん」
『はいはい。怒られた』
姉は笑ったものの、すぐに少し真面目な顔へ戻った。
『でも、私も年齢とか仕事とか家柄で反対する気はないよ。真琴がちゃんと自分で選んでるなら。ただ、その人が真琴を子ども扱いしたり、年上だからって全部決めたりする人なら嫌だけど』
「それはない。むしろ何でも聞いてくるし、私が止めるほうが多い」
『それはそれで大丈夫なの?』
「大丈夫。たぶん」
最後に「たぶん」と付いたせいで、姉がまた笑った。真琴は自分でも可笑しくなったが、以前、友人に「友達。たぶん」と答えたときと同じことを家族相手にもやっていると気づき、少し複雑な気分になる。
父親はそのやり取りを聞きながら、最後に一つだけ確認するように言った。
『真琴が研究のことも仕事のことも、福山さんといるために無理に変えてるわけじゃないなら、それでいい。相手に合わせること自体が悪いわけじゃないが、自分の人生まで相手任せにするな。それだけだ』
「うん。それは大丈夫。優也さんも、私が仕事あるなら普通に仕事してって言うし、旅行中にオンラインの打ち合わせが入っても、別に止めないよ」
『なら、今のところ私から言うことはない』
父親はそう言うと、ようやく少し笑った。
母親も、「一度会ってみたいけどね」と付け加える。姉はすぐに「私も」と乗っかり、真琴が「何でそうなるの」と嫌そうな顔をすると、二人とも笑った。
『だって、ずっと話だけ聞いてるんだもの。大きい車で全国回って、研究の相談して、家族旅行までしてる人なんでしょう?』
「全国まではまだ回ってないし、話盛らないで」
『じゃあ今度東京来るとき連れてきてよ』
「勝手に決めないで」
『本人が嫌なら無理にとは言わないけど、真琴がそんなに長く一緒にいる人って珍しいから、単純に見てみたい』
姉の言い方には、からかいだけではなく本当の興味も混じっていた。
真琴は、優也を実家へ連れていく場面を頭の中で想像してしまい、すぐにその考えを追い出した。まだそんな段階ではない。ただ、絶対にあり得ないとも思わなくなっていることのほうが、少し問題だった。
◇
翌日、優也と真琴は夕方からACROSSで会うことになっていた。旅へ出る予定ではなく、次の紅葉旅行について両親の日程を確認し、候補地を絞るためである。
優也が少し遅れて車庫へ着くと、真琴はすでに自分の鍵でACROSSへ入り、キッチンで紅茶を淹れていた。右側玄関を開けると、真琴が振り返って「おかえりなさい」と、前回の話を思い出したように少し笑う。
優也は一瞬だけ立ち止まった。
「……ほんまに言うたな」
「言うって話したでしょう」
「そうやけど。急に来ると照れるわ」
「じゃあ言い直します?」
「いや、そのままでええ。……ただいま」
自分で返してから、二人とも少しだけ笑った。
優也は靴を脱ぎ、テーブルへ座る。真琴がコーヒーを淹れようとしたので、「今日は俺やる」と立ち上がり、二人分の飲み物を揃えてから向かい合った。
「で、母ちゃんらの日程、だいたいいけそう。真琴は?」
「私もその週なら大丈夫です。場所だけ決めれば」
「じゃあ候補見るか……って、その前にちょっと聞いて。昨日、実家行ったら母ちゃんにえらいこと聞かれてん」
真琴がカップを持ったまま首を傾げる。
「何を?」
「俺らどういう関係なん、って」
真琴の動きが止まり、そのあとでゆっくりカップを置いた。
「……うちもです」
「え?」
「昨日、母と姉と父に、ほぼ同じことを聞かれました」
二人は数秒見つめ合い、そのあと同時に笑った。
「何で同じ日に両方から詰められてんねん」
「詰められたというほどではないですけど、かなり聞かれました。私がACROSSに物を置いてるとか、鍵を持ってるとか」
「鍵まで言うたん?」
「母に荷物の話をしたら姉が割り込んできて、流れで」
「うちも母ちゃんにバレてたわ。旅行のときポーチ見てたらしい」
「見てるところ、同じですね」
「親怖いわ」
二人は笑いながら、それぞれ何を言われたかを話し始めた。
◇
優也は母親から「自分の場所に他人の物を置かせて、鍵まで渡すのは珍しい」と言われたこと、父親からは年齢差がある以上、年上だからと自分の都合で決めるようなことはするなと言われたことを話した。
真琴は黙って聞いたあと、少しだけ笑った。
「お父さま、ちゃんと見てますね」
「まあな。普段あんま言わん人やから、言われると効くんよ。でも俺、真琴のこと子ども扱いしてへんよな?」
「たまにします」
「してんの?」
「鍵を渡したとき、『なくしたら言えばいいから怒らない』って何回も言ったでしょう」
「あれは子ども扱いちゃうって。気ぃ使いすぎてたから言うただけや」
「分かってます。冗談です」
真琴は笑ってから、自分の家族との会話も話した。母親には年齢差を現実として頭の片隅に置いておくよう言われ、姉には優也が真琴を子ども扱いするような人なら嫌だと言われ、父親からは研究や仕事を相手に合わせて無理に変えていないか確認されたという。
「何か、両方の家で同じような心配されてるな」
「そうですね。職業とか家柄の話は一つも出ませんでした」
「そこは前に真琴も言うてたもんな。家族そういうの気にせんって」
「はい。ただ、父には一度会ってみたいと言われました。母と姉も」
優也の手が止まった。
「……俺に?」
「他に誰がいるんですか」
「いや、分かってるけど。何で?」
「ずっと話だけ聞いてるから、どんな人か見てみたいって。すぐ会えという意味ではないですけど」
優也は一気に落ち着かなくなり、コーヒーを一口飲んでから椅子へ深く座った。
「田園調布の実家行って、病院やってるお父さんと、雑誌の編集長のお母さんと、俳優のお姉さんに囲まれる俺?」
「その並べ方やめてください」
「無理やろ。俺、交通誘導警備員やで」
「またそこ並べるんですか。最初に家族の話をしたときも同じこと言ってましたよ」
「覚えてるん?」
「覚えてます。あのときも言いましたけど、誰もそんなことで人を見ませんから」
真琴は笑いながらも、少しだけ真剣な顔をした。
「それに、もし会うことがあるとしても、面接じゃないですよ。父も母も姉も、私が長く一緒にいる人だから知りたいだけです」
「その『長く一緒にいる人』って言い方が、もう何か緊張するわ」
「じゃあ、友達。たぶん」
「たぶん付いた」
「前からです」
二人で笑った。
優也の緊張も少しだけ和らいだ。
◇
話はそこで終わらず、今度は二人自身がどう思っているのかというところへ自然に近づいていった。
家族から同じようなことを言われたからといって、今日この場で関係へ名前を付ける必要はない。それは二人とも分かっている。それでも、周囲がそう見える程度には日常が近づいているのも事実だった。
「うちの母ちゃんさ、『真琴が俺の場所におるの嫌ちゃうなら、大事にしたらええ』って言うててん」
優也が少し照れながら話すと、真琴はすぐには茶化さなかった。
「それ、優也さんはどう思ったんですか?」
「まあ……そうやなって思った。俺、一人のほうが楽なタイプやと思ってたし、今も一人の時間は好きやけど、真琴がACROSSにおるのは別に邪魔ちゃう。先に入ってても違和感ないし、物置いてても気にならんし。むしろ最近、紅茶減ってたら買っとかなって思うし」
「それは前にも言ってましたね」
「だから、そういう意味では大事なんやと思う。言葉にするとちょっと恥ずいけど」
真琴はしばらく黙ったあと、自分のカップを両手で持った。
「私も似てるかもしれません。父に、福山さんのことをかなり信頼してるんだろうって言われました。最初はそれだけじゃ説明になってない気がしたんですけど、考えたら、自分の物を置いて、鍵を持って、一人でもここへ来られるって、かなり信頼してないとできないですよね」
「そらそうやろな。嫌いな人の車に部屋着置かんし」
「そういう極端な話じゃなくて」
「分かってるって」
真琴が少し笑い、それから言葉を続けた。
「好きか嫌いかで聞かれたら、嫌いなわけないです。でも、家族に『じゃあ好きなの?』って聞かれると、急に答えに困るんですよね。たぶん、恋人として好きかどうかを聞かれてるって分かるから」
優也は黙って聞いた。
「優也さんは?」
今度は自分に返ってきた。
優也は少し考えたが、逃げるような冗談は言わなかった。
「俺も困る。真琴とおるの好きやし、旅行も一緒に行きたいし、他の男とめっちゃ仲良くしてたら……まあ、たぶんちょっと嫌やと思う。でも、それだけで『ほな付き合おう』って急に決めるのも違う気する」
「私もです」
「周りから見たら、何やってんねんって感じなんやろな」
「友達にも前から言われてます」
「誰に?」
「大学の友達に。『友達。たぶん』って答えたら笑われました」
「めっちゃ前から怪しまれてるやん」
「優也さんが知らなかっただけです」
優也は少し悔しそうな顔をしたあと、結局笑った。
「ほな、本人らだけ一番遅いんちゃう?」
「そうかもしれませんね」
二人ともそう言ったが、焦る感じはなかった。
◇
家族にあれこれ言われたことで、関係を決めなければならないとは思わなかった。むしろ優也は、外から見た自分たちと、自分たちが実際に感じている距離の違いを初めて落ち着いて考えられた気がした。
年齢差はある。生活してきた環境も違う。優也は中学を出てからいくつもの仕事を経て交通誘導の警備員をしており、真琴は医師免許を持ち、今は研究の道にいる。家族の経歴を並べれば、最初に真琴から聞いたとき優也が「世界違いすぎへん?」と思った感覚も、今でも完全に消えたわけではない。
けれど、ACROSSの中でコーヒーと紅茶を並べて座っている時間には、その差はほとんど意味を持たない。どちらが偉いわけでもなく、真琴が専門知識を持つ場面では優也が頼り、道路や現場の安全では真琴が優也を頼る。旅の予定は相談して決め、片方が仕事ならもう片方は別の時間を過ごし、戻れば同じ場所で食事をする。
優也はテーブルの上に置いた地図を見ながら、ふと笑った。
「何?」
真琴に聞かれ、優也は首を振る。
「いや、家族に将来のことまで心配されてんのに、本人らは次の紅葉どこ行くかで悩んでるんやなと思って」
「今決めるべきなのは、こっちですから」
「せやな。将来より先に駐車場や」
「それは優也さんらしいです」
二人で笑い、ようやく本来の目的だった旅行の候補選びへ戻った。
紅葉が見頃になりそうな場所はいくつかあったが、優也の両親を連れていくことを考えると、長い山道や段差の多い場所は避けたい。前回、父親が玄関の最後の一段をゆっくり上がったことや、母親が将来は高く感じるかもしれないと言っていたことも覚えている。景色だけで選ばず、滞在施設から歩く距離が短く、温泉や食事処へ無理なく移動できる場所を優先していく。
真琴も、両親が楽しめるなら派手な観光地でなくていいと同意し、候補を二つまで絞った。
「じゃあ、母ちゃんにこの二つ送っとく。あとは向こうに選ばせよ」
「それがいいと思います。選ぶところから旅行ですし」
「真琴の家族も、いつかACROSS乗りたいとか言うかな」
何気なく口にしたあと、優也は自分で少し驚いた。真琴も同じだったらしく、目を瞬かせる。
「どうでしょう。でも、母と姉は絶対興味持つと思います。父も車自体は見たがるかもしれません」
「……東京までこれで行くん?」
「無理ではないでしょう?」
「無理ではないけど、田園調布に八輪で乗り込む勇気いるわ」
「家の前まで来なくていいです。どこか停められる場所に置いてください」
「そらそうやな。細い道入る気ないし」
まだ予定でも約束でもない話だったが、「いつか」が会話へ入っても、以前ほど重くは感じなかった。
◇
真琴が帰ったあと、優也は一人でACROSSのリビングに残った。今日は能力も車両も何一つ変化していないので、ノートへ書くようなことはない。それでも、いつもの癖でページを開きかけ、やめた。
家族から何を言われたかを記録しても仕方がない。
真琴が自分のことをどう思っているのか、今日の会話を一行でまとめることもできない。『好意あり』などと書けば馬鹿みたいだし、『交際――未定』と記録するものでもない。
優也はノートを閉じ、そのままテーブルへ置いた。
少し前までは、分からないことがあると記録し、状態を確認し、次に何を試すか考えることが多かった。魔素も収納も空間拡張も、そうやって少しずつ理解してきたからである。しかし、人との関係まで同じように分析して答えを出す必要はないのだろう。
真琴と一緒にいるのが好きだということは、もう分かっている。
真琴も、自分を信頼し、嫌いではないどころか、それ以上の何かを感じているらしい。
けれど、その先を今日決めなかったからといって、何かが足りないわけではない。むしろ今は、家族から言われたことを頭の片隅へ置きながら、次の旅を一緒に考え、同じ場所へ戻る日常を続けるほうが自然だった。
優也はキッチンへ立ち、真琴の紅茶が残っている収納を開いた。まだ十分ある。自分のコーヒーも、真琴が前に買ってきたものが残っている。
どちらも、次に二人で来ることを前提に置かれている。
家族から見れば、それだけで十分分かりやすいのかもしれない。
「本人らより先に決めんなよな」
一人でそう呟きながら笑い、収納を閉じる。
ただ、母親に言われた「大事にしたらええ」という言葉は、思ったより素直に残っていた。
付き合っているかどうかとは別に、大事にすることはできる。真琴の仕事を尊重し、自分の都合だけで予定を決めず、年齢差を理由に上から扱わない。困ったときには頼り、頼られたときにはできる範囲で応える。今まで自然にやってきたことを、これからも続ければいい。
一方で、父親の「曖昧なままやから何しても責任ない、は違う」という言葉も忘れないようにしたかった。名前が付いていない関係だからこそ、雑に扱っていいわけではない。
優也は照明を少し落とし、右側玄関へ向かった。外へ出る前に、真琴が自分の鍵でここへ入って「おかえりなさい」と言った日のことを思い出す。次にそれを聞くのは旅の朝かもしれないし、何でもない仕事帰りかもしれない。
いつになるかは分からない。
それでも、また聞く気がしている自分に気づくと、少しだけ笑えた。
◇
一方、真琴も自宅へ戻ったあと、家族との通話と優也との会話を思い返していた。
母親に年齢差を現実として考えておくよう言われたことも、姉に子ども扱いされていないか聞かれたことも、父親に自分の仕事や人生を相手任せにしていないか確認されたことも、どれも不快ではなかった。心配しているからこその言葉だと分かっていたし、優也の両親も似たようなことを優也へ言っていたと知ると、少し可笑しくさえ思える。
家柄や職業ではなく、二人がどう接しているかを見ようとしてくれている。そのことが真琴には嬉しかった。
バッグを片付けようとして、内ポケットのスマートキーに手が触れる。取り出して机の上へ置くと、ACROSSの鍵は相変わらずただのキーにしか見えない。
それでも、真琴にとってはもう少し意味がある。
優也がいなくても入っていい場所の鍵。
自分の物が置いてある場所の鍵。
旅先で別々に過ごしても、最後に戻れる場所の鍵。
だからといって、それを恋人の証拠にする必要はないと思った。鍵を持っているから付き合わなければならないわけでもなく、物を置いているから将来を約束したことになるわけでもない。
ただ、自分がそこまで優也を信頼しているという事実だけは、家族に言われるまで思っていた以上にはっきり見えていなかった。
真琴はキーをいつものバッグへ戻し、スマートフォンを確認した。
優也からメッセージが届いている。
『母ちゃん、こっちの候補がええらしい』
『父ちゃんはどっちでもいいらしい』
『いつものやつ』
地図の画像が二枚添えられていた。
真琴は思わず笑い、
『じゃあお母さまの希望で良さそうですね』
『私もそちらのほうが歩きやすいと思います』
と返した。
すぐに、
『了解』
『予約見とく』
『あと母ちゃんが、真琴も来る前提で人数四人って言うてる』
と返ってくる。
真琴は画面を見ながら、少しだけ考えたあと、
『私も行く前提でした』
と送った。
数秒後、
『俺も』
という短い返事が届いた。
それだけで十分だった。
家族が何を言っても、友人がどう見ても、二人が今すぐ何かを決める必要はない。それでも次の旅行へ自分がいることを、優也も自分も当然のように考えている。
真琴はスマートフォンを置き、明日の仕事の準備を始めた。
本人たちより家族のほうが先に気づいていることがあるのなら、それはそれで構わない。
いつか自分たちが同じところへ追いついたとき、そのとき初めて名前を付ければいい。
今はまだ、次の旅の予定が先だった。
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