ep.75 同じ場所、別々の時間
スペアキーを真琴へ渡してから、優也の中ではACROSSの使い方が少しだけ変わった。これまでは二人で出掛けても、車を離れるときも戻るときも基本的には一緒で、片方だけが先に車内へ入る場面はほとんどなかった。それが今は、真琴が自分の鍵を持っているというだけで、どちらかの都合にもう片方が合わせなくてもいい。実際、優也の仕事が遅くなった朝には真琴が先に車庫へ入り、荷物を収め、朝食の準備までして待っていた。大げさな変化ではなかったが、一度経験すると、その自由さは思った以上に便利だった。
次の二連休が近づいたころ、真琴から少し申し訳なさそうな連絡が来た。大学側の研究打ち合わせがオンラインで入り、二日目の午前中だけ二時間ほど外せなくなったという。
『旅行、別の日にします? まだ予約してないなら、そのほうがいいですよね』
夜、電話越しにそう言われた優也は、少し考えてから首を傾げた。今回考えていたのは大阪からそれほど遠くない川沿いの町で、大型車用の滞在区画へ二泊し、周辺を自転車や徒歩で回るだけの予定である。真琴が二時間ほどオンラインで話すからといって、旅そのものを取りやめる理由はあまりなかった。
「別に、そのまま行ったらええんちゃう? 二日目の午前だけACROSSで仕事したらええやろ」
『でも、せっかく出掛けるのに、私だけ仕事してたら優也さん暇じゃないですか』
「俺、自転車あるで。町見に行ってもええし、コーヒー飲みに行ってもええし、最悪ACROSSで寝ててもええ。ずっと二人で同じことせな旅行にならんわけちゃうやろ」
言いながら、優也自身もその考え方が以前より自然に出てきたことに気づいた。少し前までは、一緒に出掛けた以上は観光も食事もできるだけ同じ予定で動くものだと思っていたが、最近はACROSSへ戻る場所さえ決まっていれば、途中で別々に動いても旅全体が切れる感じはしない。
『それなら、行きたいです。打ち合わせも二時間くらいで終わると思いますし、午前中だけ時間をもらっていいですか』
「時間もらうって、俺の時間ちゃうし。普通に仕事して。終わったら昼飯でも行こ」
真琴は少し笑ってから礼を言い、予定はそのまま進めることになった。
◇
出発当日は空が高く、山側へ向かう道路も大きく混んでいなかった。目的地は古い商店街と川沿いの遊歩道が残る町で、中心部へACROSSを入れる必要はない。郊外の滞在施設に二泊分の区画を取り、そこを拠点に自転車や徒歩で動くつもりだった。
昼過ぎに到着し、車体を落ち着かせてから二人で町へ出る。初日は仕事の予定もないので、商店街を歩き、地元の菓子店へ寄り、夕方には共同浴場で温まってからACROSSへ戻った。夕食は途中で買った総菜と簡単な汁物で済ませ、食後は真琴が翌日の打ち合わせ資料を確認し、優也は隣でスマートフォンを見ながら、ときどき分からない単語を覗き込んでは「何の話してるか一個も分からん」と笑っていた。
「明日、この資料を画面共有するので、たぶん少し声が出ます。リビングでやると邪魔ですよね」
真琴が資料を閉じながら言うと、優也は車内を見回した。後部の主寝室でもできなくはないが、ベッドの上で長時間パソコンを使うのは姿勢が良くない。リビングは机も椅子も使いやすいものの、優也が二時間まったく物音を立てずに過ごす必要が出てくる。
「予備室でやってみる?」
「机がないですよ」
「折り畳みの小さいテーブル、後ろに一個あるやろ。外で使うやつ。椅子も軽いやつ入れたら、二時間くらいならいけるんちゃう? 固定するわけちゃうし、終わったら戻したらええ」
真琴も一度予備室を見てから頷いた。荷物は壁際へまとめれば十分な空間があり、前に寝るため使ったときと同じように、必要な時間だけ役割を変えればいい。窓はないが空調と照明は使えるため、短時間の作業なら問題なさそうだった。
二人で小さな折り畳みテーブルと椅子を運び、パソコンを置いて高さを確認する。完璧な仕事部屋とは言えないが、真琴が座って資料を開いてみると、二時間程度なら十分使えそうだった。
「ほんま何にでもなるな、この部屋」
「家具を固定しなかったのが良かったですね。寝るときは寝る場所、荷物が多いときは収納、今日は仕事部屋です」
「名前、予備室で正解やろ」
「そこだけは、まだもう少し何かあった気がします」
「まだ諦めてへんの?」
真琴が笑い、優也も笑った。用途を決めなかった空間が、使うたびに違う役目を持つ。そのこと自体が、この部屋のいちばん便利なところになりつつあった。
◇
翌朝、二人はいつもより少し早めに起きた。真琴の打ち合わせは十時からなので、それまでに朝食を済ませ、必要な資料と飲み物を予備室へ持ち込む。優也は自分のコーヒーを飲みながら、今日は自転車で商店街の先にある市場まで行ってみようと地図を確認していた。
「終わるまで戻ってこんほうがええ?」
優也が聞くと、真琴は少し考えてから首を振った。
「普通に戻ってきて大丈夫です。予備室の扉を閉めれば、リビングの音はそこまで入らないと思いますし、優也さんまで二時間外にいないといけないのは変ですから。ただ、打ち合わせ中に扉を開けるのだけはやめてください」
「さすがに開けへんって。俺も会議してる部屋に急に入るほど空気読めん人ちゃうで」
「一応確認です」
「信用ないなあ」
優也は笑いながら左後部へ回り、主寝室床下のガレージハッチを開けて自転車を一台だけ取り出した。いつもは二台並べて出すので、一台だけ地面へ降ろし、もう一台を固定したまま残すのは少し不思議だった。ヘルメットを被り、財布とスマートフォンだけを小さなバッグへ入れる。
真琴も右側玄関のところまで見送りに来た。
「いってらっしゃい。気をつけてくださいね」
「……今、普通に言うたな」
「何がです?」
「いや、いってらっしゃいって。前のおかえりの話思い出しただけ」
真琴は一瞬だけ意味を理解するのに間を置き、すぐに少し照れたように笑った。
「今は私が残る側なので、自然じゃないですか」
「せやな。ほな、行ってきます」
優也もそのまま返し、自転車へ跨がった。大げさに意識してしまえば照れくさいが、言葉そのものは驚くほど普通だった。
市場までは二十分ほどで、途中に緩い坂があるものの電動アシストなら苦にならない。優也は急がず町並みを眺めながら走り、目的地へ着くと地元の野菜や惣菜を見て回った。昼に二人で食べられそうなものを少し買い、真琴が好きそうな小さな焼き菓子を見つけると、特に迷わず一つ追加する。
以前なら旅先で何か買えば「自分が食べたいか」で選んでいたのに、最近は冷蔵庫の中身や真琴の好みまで自然に考えるようになっている。それを特別なことだと思わなくなってきた自分に気づき、優也は買い物袋を自転車のバッグへ収めながら少し笑った。
市場を出たあと、すぐにACROSSへ戻らず、川沿いの小さな喫茶店へ寄った。店内から川を眺めながらコーヒーを飲み、スマートフォンで時刻を確認すると、打ち合わせ開始からまだ一時間ほどしか経っていない。
一人で旅先の店へ入るのは珍しいことではないはずなのに、真琴と旅を始めてからは久しぶりだった。最初は少し手持ち無沙汰に感じたが、しばらくすると、一人でぼんやりする時間も悪くないと思えてくる。同じ場所へ来ているからといって、すべての景色を二人で同時に見なければならないわけではない。あとで戻って、こんな店があったと話せばいい。
優也は二杯目までは頼まず、ゆっくりACROSSへ戻ることにした。
◇
滞在施設へ戻ったのは、打ち合わせが終わる予定の三十分ほど前だった。自分のキーで右側玄関を開け、音を立てないように靴を脱ぐ。予備室の扉は閉まっており、中から真琴の声がかすかに聞こえるものの、内容までは分からない。
優也は買ってきた物を冷蔵庫へ収め、昼食にする惣菜だけをテーブルへ置いた。コーヒーを淹れようか迷ったが、湯を沸かす音が邪魔になるほどではないと思い、普段どおりキッチンを使う。予備室から聞こえる声は途切れず、真琴が何か説明しているらしい。仕事をしている真琴を同じ車内で感じるのは初めてで、優也は妙な気分になった。
旅行中なのに仕事をしている、というより、家の一室で真琴が仕事をし、自分は買い物から戻ってきたように感じる。
そう思ったところで、優也は一人で苦笑した。最近何でも家に例えすぎている気がする。それでも、実際にやっていることがそうなのだから仕方がない。
打ち合わせが終わるまではソファへ座り、イヤホンで動画を見ながら待つことにした。途中で一度トイレへ立ったが、予備室の前を通っても中を覗くことはなく、そのまま戻る。真琴が集中している時間に自分が必要以上に気を使わなくてもよく、真琴も優也が車内に戻ったことを気にせず仕事を続けられる。その距離感は、思っていたより居心地が良かった。
やがて予備室の扉が開き、真琴がパソコンを抱えて出てきた。
「終わりました。思ったより少し早かったです」
「お疲れさん。昼飯買ってきたで。あと、これ」
優也が焼き菓子の袋を差し出すと、真琴は少し驚いた顔をした。
「私のですか?」
「俺も食べるけど、二個入り。市場で見つけた」
「ありがとうございます。優也さん、一人でもちゃんと楽しんできたんですね」
「ちゃんとって何やねん。俺、一人旅できる人やで。本来」
「最近ずっと一緒だから、忘れてました」
「俺も若干忘れてた」
二人で笑ったあと、真琴は予備室を振り返った。
「でも、あそこ使いやすかったです。長時間毎日仕事するならちゃんとした机が欲しいですけど、二時間くらいなら十分でした。音も思ったより気にならなかったですし」
「ほな、固定の机とか要らんな。必要なときだけ出したらええ」
「はい。今はそれでいいと思います。仕事部屋に決めてしまうより、そのほうが使いやすいです」
優也は頷き、二人でテーブルへ昼食を並べた。真琴が打ち合わせの内容を細かく説明することはなかったし、優也も無理に聞かなかった。代わりに市場で見た店や、川沿いの喫茶店の話をする。真琴は次に行ってみたいと言い、優也は「明日の朝寄ってもええな」と答えた。
午前中を別々に過ごしたのに、昼には自然に話がつながっていた。
◇
午後は二人で出掛けるつもりだったが、昼食のあと真琴が「少しだけ一人で歩いてきてもいいですか」と言った。午前中ずっと画面を見ていたので、外の空気を吸いながら川沿いを歩きたいらしい。
「もちろん。鍵あるんやから、戻ってきたら勝手に入ってええで」
「勝手にって言い方、まだ少し変ですね」
「もう真琴の鍵やろ。俺、ちょっと昼寝するかもしれんから、起こさんと入って」
「じゃあ本当にそうします。夕方までには戻りますね」
真琴は小さなバッグだけ持って外へ出た。優也は見送ったあと、洗い物を片付け、予備室の折り畳みテーブルと椅子を元の収納へ戻す。部屋はまた何も決まっていない空間へ戻り、壁際に二人分の荷物だけが残った。
その作業を終えると、本当に眠くなってきたのでソファへ横になる。朝から自転車で動いていたこともあり、気づけば一時間ほど眠っていた。
目を覚ましたとき、キッチン側から小さな物音がしていた。身体を起こすと、真琴がすでに戻っており、自分の紅茶を淹れている。
「おかえり」
寝起きのまま優也が言うと、真琴は一瞬だけ止まり、それから笑った。
「ただいま。起こしました?」
「いや、ちょうど起きた。いつ戻ったん?」
「十分くらい前です。よく寝てたので、そのまま入ってきました」
「鍵、ちゃんと役立ってるな」
「はい。もう待たなくて済みます」
真琴はカップを持ってソファの向かいへ座った。川沿いを少し上流まで歩き、小さな本屋を見つけたことや、途中のベンチでしばらく景色を見ていたことを話す。優也は寝ぼけた頭で聞きながら、自分が昼寝しているあいだに真琴が一人で出掛け、一人で戻り、当たり前のように中へ入っていることに、不思議なくらい違和感がないと感じた。
「何か、今日ずっと別々やった時間多いな」
優也が言うと、真琴も頷いた。
「でも、一緒に旅行してない感じはしませんでした。午前中は私が仕事して、優也さんが市場へ行って、午後は私が散歩してるあいだ優也さんが寝てただけですけど、戻る場所が同じだからでしょうか」
「たぶんな。ずっと一緒におらんでも、帰ってきたら話すこと増えてるし」
「それ、ちょっと面白いですね。一緒に行ったら同じものを見るけど、別々に動いたら、それぞれが見たものをあとで話せるので」
「明日、俺が行った喫茶店行く?」
「行きたいです。でも同じ席に座らなくてもいいですよ」
「何でやねん。そこは一緒でええやろ」
真琴が笑い、優也も笑った。
夕方になるまで、二人はそれぞれ好きなことをして過ごした。真琴は置いてある本を読み、優也は車体の記録を少し整理する。会話は途切れたり戻ったりしたが、沈黙を埋める必要はなかった。誰かと同じ空間にいるのに、自分の時間を持てることが、こんなに楽だとは以前あまり考えたことがなかった。
◇
二泊目の夜、夕食を終えて片付けまで済ませると、真琴は予備室の扉を開け、中を見ながら少し考えていた。午前中に使った机も椅子も片付けてあり、そこにはいつもの何も決まっていない部屋が戻っている。
「今日、ここを仕事部屋にしたでしょう。でも片付けたら、また元に戻りましたね」
「そらそうやろ。机置いただけやし」
「そうなんですけど、前なら何か便利な使い方を見つけたら、そこ専用にしたくなってた気がします。『仕事できるなら机置こう』とか、『寝られるならベッド置こう』とか」
「俺は確実にやってたな。棚も付けて、モニターも置いて、気づいたら用途固定してたと思う」
「今は、何も置かないほうが便利だと思えるんですね」
優也も入口から部屋を覗き込んだ。予備室ができたばかりのころ、用途が表示されていないことを不思議に思ったが、今となっては『用途未設定』という状態そのものが意味を持っている。荷物が増えれば収納になり、四人で泊まれば一人分の寝室になり、今日のように仕事が入れば短時間の作業室になる。
「ACROSSに答え決めてもらわんでもええんやな。空間だけあって、あとはそのとき使えば」
「はい。今のところ、そのほうが私たちには合ってると思います」
真琴はそう言って扉を閉め、二人でリビングへ戻った。
ソファへ座ると、優也は午前中の一人の時間を思い出していた。市場で買い物をし、喫茶店でコーヒーを飲んでいるあいだ、真琴が何をしているか細かく気にすることはなかった。ACROSSへ戻ればいると分かっていたし、戻っていなければ自分の鍵で入って待てばいい。午後に真琴が一人で出掛けたときも同じだった。
「なあ、真琴」
「はい?」
「一緒に旅するって、ずっと一緒に行動することちゃうんやな」
真琴は少しだけ考えてから頷いた。
「私も今日そう思いました。今まではせっかく一緒に来たからって、同じ場所へ行くのが普通だと思ってましたけど、別々の時間があっても別に寂しくなかったです」
「むしろ戻ってから話すこと増えたな。俺が見た店の話して、真琴は本屋の話して」
「家でもそうなんでしょうね。ずっと同じことをするわけじゃなくて、仕事へ行ったり、買い物へ行ったり、一人で過ごしたりして、あとで同じところへ戻る」
そこまで言ったところで、真琴は自分の言葉に気づいたように少し黙った。
優也もすぐには何も言わなかった。
最近、二人の会話には家という言葉が自然に混ざる。それを冗談で流すこともできたが、今夜は何となくそのままにしておきたかった。
「……ACROSSでは、もうそんな感じになってきてるんかもな」
優也がそう言うと、真琴は照れたように笑ったものの、否定はしなかった。
「そうかもしれませんね」
それだけで話は十分だった。
◇
翌朝、二人は前日に優也が見つけた川沿いの喫茶店へ寄ることにした。ACROSSは滞在区画へ置いたまま、自転車を二台出して町へ向かう。昨日は一人で走った道を、今日は真琴が少し後ろからついてくる。
店へ入ると、優也が座った窓際の席は空いていたが、真琴は別の席を選ぶようなことはせず、普通に向かいへ座った。
「同じ席でええん?」
「昨日の景色、見たいので」
「昨日、別の席でもええ言うてたやん」
「冗談ですよ。分かってたでしょう?」
「半分くらい本気かと思ったわ」
コーヒーと紅茶を頼み、川を眺めながら昨日のことをもう一度話す。同じ旅の中に、一人で見た景色と二人で見る景色の両方がある。その違いを比べることまで、今回の旅の一部になっていた。
昼前にACROSSへ戻り、帰る準備を始める。真琴は予備室から自分のバッグを出し、置いて帰る物と持ち帰る物を分ける。優也は後部で自転車を収め、固定を確認した。二日間、空間変化は一度も起きていないし、新しい装備も増えていない。
それでも優也には、今回も一つ使い方が増えたように感じられた。
ACROSSは、二人を同じ場所へ連れていくためだけの車ではない。二人がそれぞれ好きなことをして、必要な時間を過ごし、また同じ場所へ戻るための拠点にもなれる。真琴が仕事をしているあいだ、優也は外へ出られる。優也が寝ているあいだ、真琴は散歩へ行ける。そして戻れば、それぞれの鍵で同じ扉を開けられる。
そう考えると、鍵を二つ持つ意味は単に締め出されないためだけではなかった。
◇
大阪へ戻った夜、優也は片付けを済ませてからノートを開いた。今回は大きな問題も変化もなかったので、記録は短く済ませるつもりだった。
『二泊――同一区画を拠点』
『真琴――オンライン打ち合わせ約二時間』
『予備室――一時作業室として使用』
『折り畳みテーブル・椅子――使用後撤去』
『固定設備追加――なし』
『優也――単独で自転車移動』
『真琴――単独で徒歩移動』
『スペアキー――別行動時に有効』
『空間変化――なし』
そこまで書いたあと、優也は前回の記録を少し見返した。真琴へスペアキーを渡したときには、『別行動時の車内アクセス――問題なし』とだけ書いている。今回はその言葉が、実際の生活としてどういう意味を持つのか少し分かった気がした。
『一緒に旅する=常に同じ行動、ではない』
書いてから、もう一行を続ける。
『同じ場所へ戻れれば、それぞれの時間があっていい』
優也はそこでペンを置きかけたが、予備室のことも気になり、少し考えてから追記した。
『予備室――用途を固定しないこと自体が利点』
『必要が出たとき、その時間だけ役割を持たせる』
以前なら、新しい使い道を見つけると、それをより便利にする設備を増やしたくなっていた。仕事に使えるなら机を固定し、寝られるならベッドを置き、収納に使えるなら棚を増やす。けれど、それを全部やってしまえば、今日のように必要に応じて役割を変える余白はなくなる。
何かを増やすことだけが成長ではない。
決めずに残しておくことも、使い方の一つだった。
優也はノートを閉じ、予備室の扉を開けた。中には二人の荷物もなく、折り畳みテーブルも椅子も片付けられているため、何もない小さな空間が戻っている。明日ここへ来ても、何かに使う必要はない。次の旅で荷物が増えれば置けばいいし、誰かが泊まれば寝てもらえばいい。真琴にまた仕事が入れば机を出せばいいだけである。
扉を閉めてリビングへ戻ると、真琴が置いている本が引き出しにあり、紅茶もいつもの場所に残っていた。鍵はもう真琴自身が持っているので、今ここにはない。
優也はその違いを少し面白く感じた。
物は置いてある。
鍵は本人が持っている。
つまり真琴は、必要なら自分でここへ戻ってこられる。
昨日までと同じACROSSなのに、二人の過ごし方には少しずつ選択肢が増えている。それは車体が勝手に広がったからでも、新しい設備が生えたからでもない。二人が実際に使い、困ったことや便利だったことを覚えながら、自分たちの距離に合う使い方を見つけているからだった。
優也は最後に照明を落とし、右側玄関を出る前に車内を振り返った。次にここへ来たとき、真琴が先に入って本を読んでいるかもしれないし、優也のほうが先に来てコーヒーを淹れているかもしれない。旅先でも、二人が同じ景色を見る日もあれば、それぞれ別の場所へ出掛ける日もあるだろう。
ずっと隣にいることだけが、一緒にいることではない。
別々に過ごせる余白があって、それでも同じ場所へ戻りたいと思えるなら、そのほうが長く続くのかもしれない。
そんなことを考えながら扉を閉めると、優也は少しだけ笑った。ACROSSはまた何も変わらなかった。それでも二人にとっての「家」の使い方は、旅を一つ重ねるたび、静かに増えていた。
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