ep.74 もう一つの鍵
真琴が自分の洗面用品や部屋着、本をACROSSへ置いて帰るようになってからも、見た目にはほとんど何も変わらなかった。引き出しを開けば優也の物ではないものが少し入っていて、キッチン脇には紅茶の箱が一つ増え、洗面台の下には小さなポーチが残っている。それだけなのに、優也は車庫へ寄るたび、以前より生活の気配が増したように感じていた。
だからといって、何か特別な決まりを作ったわけではない。真琴が来る日は一緒に使い、帰るときには必要な物だけ持ち帰る。置いておいたほうが楽な物は残す。それくらいの曖昧さが、今の二人にはちょうどよかった。
次の休みも一泊だけのつもりで、山あいの温泉施設へ出掛けることになった。前回のように予定外でもう一泊する可能性まで考えているわけではなく、温泉へ入り、近くを少し歩き、翌朝には大阪へ戻る。自転車も積んではいるが、現地で使うかどうかは決めていない。
「紅茶、買っといたで」
出発前、優也がキッチン脇の収納を開けると、真琴は中を覗き込み、「本当に買ってくれたんですね」と少し嬉しそうに笑った。
「前と同じやつで合ってるやろ?」
「合ってます。ありがとうございます。じゃあ約束どおり、コーヒーは私が買ってきました」
真琴がバッグから豆の袋を出したので、優也は「ほんまに交換条件やったん」と笑いながら受け取った。価格を揃えようとか、どちらが得をしたとか、そんな話ではない。次に一緒に来ることを前提に、自分が使わない物まで覚えて買い、相手も同じように返す。そのやり取りが、以前なら少し照れくさかったかもしれないが、今はそれほど不自然ではなかった。
荷物を積み終え、優也が運転席へ座る。真琴は助手席へ入り、いつものようにシートベルトを締めた。
「今回は普通に一泊で帰ろな」
「前回も最初はそう言ってましたよ」
「今回は明後日仕事やから。延長なし」
「それなら本当に一泊ですね」
「そういうこと。今日は温泉が目的。何も増やさん、何も検証せん、何も起こらんでええ」
「最近、その宣言をすると逆に何か起きそうですけど」
「やめて。フラグみたいに言わんといて」
真琴が笑い、優也も笑いながらACROSSを車庫から出した。
◇
目的地までは二時間ほどで、途中に狭い道もなく、運転そのものは穏やかだった。山へ近づくにつれて空気が少し冷たくなり、施設へ到着したころには、駐車区画の周囲に薄く色づいた木が見える。
ACROSSを停め、車体を落ち着かせると、二人は少し遅めの昼食を取るため施設内の食事処へ向かった。昼食のあとには川沿いを歩き、夕方前に温泉へ入る。特別な観光地を巡るわけでもなく、歩いた距離も大したことはない。それでも山の景色を見ながら温泉へ入り、そのあとACROSSへ戻れば夕食まで何もしなくていいと思えるだけで、十分に休みらしい気分になった。
問題が起きたのは、温泉から戻る直前だった。
男女で浴場が分かれているため、出る時間はいつも多少ずれる。普段は先に上がったほうが休憩所で待ち、二人揃ってACROSSへ戻ることが多かったが、その日は優也が風呂上がりに売店を覗き、地元の酒とつまみを少し見てから戻ることにした。
「先戻っててもええで。俺ちょっと売店見てくる」
浴場の出口近くで真琴へそう言い、優也は何も考えずに離れた。
真琴も「分かりました」と答え、先に駐車区画へ向かった。
それから十分ほどして、優也が小さな袋を提げて売店を出たところで、スマートフォンが震えた。
『ACROSSの鍵、優也さん持ってますよね?』
画面を見た瞬間、優也は足を止めた。
「あ」
ポケットを触れば、当然そこにスマートキーがある。
真琴が先に戻っても、ACROSSへ入れない。
優也はすぐに電話を掛けた。
「ごめん。完全に忘れてた。今戻るわ」
『大丈夫ですよ。屋根のあるところにいますから、急がなくていいです。ただ、自分の荷物が中にあるのに入れないの、ちょっと面白いですね』
「いや、笑い事ちゃうやろ。風呂上がりに外で待たせてるやん」
『寒いほどではないですし、本当に大丈夫です。走らないでくださいね』
「走らんけど、早めに戻る」
優也は袋を持ったまま駐車区画へ向かった。道の途中で、今までどうしてこの問題に気づかなかったのかと考える。旅のあいだはほとんど一緒に行動し、別行動するとしてもACROSSを開けた状態で片方が残ることが多かった。車庫では優也が先に着いているか、一緒に入る。真琴が一人でACROSSへ戻る場面そのものが、これまでほとんどなかったのである。
駐車区画へ着くと、真琴はACROSSの横にある屋根付きのベンチへ座っていた。髪はまだ少し湿っており、上着を羽織ってスマートフォンを見ている。
「ほんまごめん」
優也が鍵を開けながら言うと、真琴は立ち上がって「だから大丈夫ですって」と笑った。
「でもこれ、あかんな。真琴の服も本も洗面道具も中にあんのに、俺おらんかったら入れへんって」
「今まで困らなかったから気づかなかっただけですよ。今日はたまたま別々に戻っただけですし」
「でも次もあるやろ。風呂だけじゃなくて、俺が買い物行って真琴が先戻るとか、真琴だけ車に戻りたいときとか」
右側玄関を開け、真琴を先に入れながら優也は続けた。
「俺がおらんと開かん家って、家ちゃうやん」
口にしてから、少し言いすぎた気がした。
真琴も一段上がったところで振り返る。
「家、なんですか?」
「いや、その……最近そういう感じになってるやろ。俺だけの話ちゃうくて。真琴も物置いてるし、一緒に使ってるし」
「分かってます。ちょっと聞いてみただけです」
真琴は小さく笑い、車内へ入った。
優也も後ろから乗り込みながら、変なところだけ拾われたなと思ったが、訂正する気にはならなかった。
◇
夕食は売店で買った地元の惣菜と、持ってきた野菜を使った簡単なものにした。優也は買ってきた酒を少しだけ飲み、真琴はいつもの紅茶を淹れる。食事が終わるころには、鍵の件もその場では笑い話になっていた。
「でも、考えたら普通ですよね。車なんだから、鍵を持ってる人しか入れないのは」
真琴が言うと、優也はグラスを置きながら頷いた。
「普通はな。ただ、今まで俺一人で使う前提やったから、スペアキーも家に置きっぱなしやったんよ」
「ちゃんとあるんですね」
「そらあるよ。納車のとき二つもらってる。予備として保管してただけ」
「じゃあ、一つ持ってきてもらえば解決ですね」
真琴はそれだけ言って紅茶を飲んだが、優也は少し間を置いた。
「持ってくるんじゃなくて、真琴に渡したらええんちゃう?」
真琴の手が止まった。
「私に?」
「うん。毎回旅行のたび貸すんやったら、最初から持っといたほうがええやろ。今日みたいに別行動したとき困らんし」
「でも、それってかなり大事な鍵ですよね」
「大事やけど、スペアは使うためにあるし。なくしたら困るけど、それは俺も一緒や」
「そういう意味じゃなくて……」
真琴は言葉を切り、カップへ視線を落とした。
優也には、何を言おうとしているのか分かった気がした。
車の鍵でしかない。
けれど、ただの車の鍵とも言い切れない。
真琴の物が少しずつ置かれるようになり、旅先では何日もそこで過ごし、戻ってくる場所と呼ぶようになっている。そんなACROSSの鍵を一つ渡すという行為は、実用だけで説明できるのに、別の意味まで勝手についてくる。
「家の鍵みたい、って思った?」
優也が先に言うと、真琴は少し驚いて顔を上げたあと、ゆっくり頷いた。
「少しだけ。だから、簡単にもらっていいのかなって」
「俺も今言ってから思った。でも……別にええんちゃう?」
「いいんですか?」
「だって今日困ったやろ。次また同じことなったら、俺が鍵渡してへんせいやし。それに、真琴の物もう中にあるんやから、自分の物取りに入るのに俺待つの変やん」
優也はそこで一度言葉を止めた。
「運転するとか、勝手にどっか持っていくとか、そういう話ちゃうで。ただ扉開けて、中使えるようにするだけ。必要なら車庫で待っててもええし、先に来てコーヒー……いや真琴は紅茶やな。淹れて待っててもええ」
「最後のところ、急に生活感出ましたね」
「今さらやろ」
真琴はしばらく考えていたが、やがて柔らかく笑った。
「じゃあ、いただいてもいいですか。なくさないようにします」
「なくしたら言って。それで終わり。怒らへんから」
「そこまで子ども扱いしないでください」
「してへんって。俺も鍵くらいなくす可能性あるし」
二人で笑い、その話はそこで一度終わった。
そこで優也は、鍵とは別にもう一つ思い当たった。
「そういや、鍵持ってても俺の《収納》に入ってる物は真琴には出されへんな」
「それは鍵とは別の話ですね。私が一人で使う可能性がある物まで入れられると困ります」
「やっぱ共有する物は車内に置いとかなあかんな」
「はい。優也さんしか使わない物や、一時的に預ける物なら《収納》でいいと思いますけど、飲み物とか救急用品とか、二人で使う物は普通に取り出せる場所に置いてください」
「了解。便利やからって全部突っ込んだらあかんってことやな」
鍵があれば真琴もACROSSへ入れる。しかし、優也の能力まで共有できるわけではない。その違いも含めて、二人で使う家として考えていく必要があるのだろう。
新しい設備が増えるわけでも、ACROSSの空間が変わるわけでもない。家に置いてあるスペアキーを一つ渡すだけなのに、優也は妙に落ち着かなかった。
◇
翌朝、大阪へ戻る途中、優也は運転しながらスペアキーをどこへ保管していたか思い出していた。納車関係の書類と一緒に、自宅の鍵付きの小さな保管箱へ入れたままで、非常用としか考えていなかったため、納車後の確認以来ほとんど触っていない。車庫へ戻って荷物を片付けても、真琴は洗面用品も部屋着も本もACROSSへ残し、いつものバッグ一つだけを持って帰ろうとしたので、優也が「鍵、次会うとき持ってくるわ」と言うと、真琴はわざわざ今日取りに行かなくてもいいと気を遣った。
「どうせ俺も家帰るんやから、ついでやって。鍵一個にそんな気ぃ使わんでええよ」
「分かりました。じゃあ次にお願いします。でも、本当に急がなくていいですからね」
「了解。今度は俺が忘れんようにしとく」
それくらいの軽いやり取りで別れたものの、自宅へ戻って保管箱からスペアキーを出し、テーブルの上へ置いてみると、優也は思ったより長くそれを眺めていた。形としては自分が普段使っているキーとほとんど変わらないし、やることも単純である。真琴が一人で戻ったときにACROSSへ入れるよう、余っている一本を渡すだけだ。それなのに、前夜に真琴が「家の鍵みたい」と言ったせいなのか、ただのスペアキー以上のものに見えてしまう。
渡していいのかどうかで迷っているわけではなかった。そこはもう決めている。気になっているのは、鍵を渡したあとで自分が必要以上に意味を考えてしまわないかということだった。真琴とはまだ付き合っていないし、二人のあいだで将来について約束したこともない。それでも一緒に旅へ出る回数は増え、ACROSSの中には真琴の私物が残り、両親との旅行にも自然に参加し、母親は次の旅にも真琴が来るものとして話している。少し前なら「仲のいい相棒」で片づけられた距離が、日常の積み重ねによって説明しにくくなっていることは、優也自身も気づいていた。
「……まあ、考えすぎやな」
結局、優也はそれ以上答えを出そうとはせず、スペアキーを小さなケースへ入れ、次に会うとき忘れないよう普段使うバッグの横へ置いた。今決める必要があるのは関係の名前ではなく、真琴が一人でACROSSへ戻っても扉を開けられるようにすることだけで、それなら答えはもう出ている。
◇
数日後、真琴が仕事を終えてから車庫へ来た。その日は旅へ出るわけではなく、紅葉が見頃になるころの行き先を相談するだけだったので、優也は先にACROSSへ入り、コーヒーを淹れながら待っていた。しばらくして右側玄関を軽く叩く音が聞こえ、「開いてるで」と声を掛けると、真琴がいつものように靴を脱いで入ってくる。
「こんばんは。今日は外から見ても分かるくらい明かりついてましたね」
「先にコーヒー淹れてたからな。で、忘れる前にこれ」
優也がテーブルの端へ置いていた小さなケースを差し出すと、真琴はすぐに何か分かったらしく、受け取ってから少しだけ表情を変えた。中のスマートキーを取り出し、手のひらの上で一度確かめるように眺める。
「本当に、もらっていいんですね」
「ええよ。今日から真琴の分。旅行のたびに貸したり返したりするより、そのまま持っといたほうが楽やろ」
「私の分、ですか……。車のスペアキーを渡されているだけなのに、普通の車より重く感じます」
「ACROSSが重いからちゃう?」
「そういう意味じゃないです」
「分かってるって。俺も似たようなこと考えたから」
優也が笑うと、真琴も少し肩の力を抜いた。普段から持っておいたほうがいいのかと聞かれたので、旅行の日だけ別に用意すると忘れるかもしれないから、いつものバッグへ入れておけばいいと答える。ただ、その説明の途中で優也が「家の鍵みたいに」と言ってしまうと、真琴はやっぱりその言い方をするんですね、と笑った。
「もうそこは諦めよ。ACROSS、だいぶ家になってるし。もちろん、鍵持ったからって勝手に運転してええとか、そういう話やないで。真琴が先に来たとき入れるとか、旅先で別々に戻ったとき困らんようにするための鍵」
「そこは分かってます。運転するつもりもありません。ただ、大事にはしますね」
「それは頼む。でもなくしたら、なくしたって言ってくれたらええから。必要以上に緊張せんで大丈夫」
真琴は頷き、キーをバッグの内ポケットへしまった。そこで二人とも少し照れたような空気にはなったが、わざわざ話を広げることはせず、そのまま次の旅先を相談し始めた。紅葉の時期と母親の予定まで合わせるなら遠くへ行くより近場の一泊がよさそうで、真琴が候補をいくつか出し、優也が大型車で無理なく入れる道路と駐車区画を確認する。スペアキーを渡したという出来事は、特別な儀式のように扱うより、そうやって普通の予定の中へ混ざっていくほうが二人らしかった。
帰るころ、真琴は右側玄関から外へ出たあと、受け取ったばかりのキーを使って一度施錠し、ランプを確認してから「ちゃんと閉まりました」と言った。優也が思わず笑うと、「何です?」と不思議そうに振り返る。
「いや、渡したその日にもう普通に使ってるなと思って」
「使うためにもらったんですから、使いますよ」
「そらそうやな。変に大事にしまい込まれたら、前と一緒やもんな」
真琴も笑い、そのまま帰っていった。優也は閉まった扉を見ながら、同じACROSSなのに、自分以外にもこの扉を開け閉めできる人がいるという事実だけが、少し新しく感じられた。
◇
鍵を渡した意味は、一週間ほどして思ったより早く現れた。次の休み、二人は朝から近場へ一泊旅行に出る予定だったが、前日の道路工事が予定より長引き、優也の仕事が少し遅くまで残った。徹夜になるほどではないものの、帰宅してから荷物をまとめ、予定どおりの時間に車庫へ向かえば睡眠を削ることになる。夜、真琴へ電話を掛けて出発を一時間ほど遅らせようかと話すと、真琴は少し考えたあと、自分が朝先に車庫へ行って飲み物や荷物を積んでおこうかと提案した。
『私、自分の鍵ありますし、冷蔵庫に入れるものと自分の荷物くらいなら先にできます。優也さんは一度ちゃんと寝てから来てください』
「そうか。鍵あるもんな。けど一人で大丈夫?」
『ACROSSへ荷物を入れて待つだけですよ。運転はしません。それに、そのための鍵でもあるんでしょう?』
最後の言葉を聞いて、優也は少しだけ間を置いてから「せやな。そうやったわ」と笑った。鍵を渡したときには、旅先で別行動したとき便利になる程度に考えていたが、自分がいなくても真琴が車庫へ来て、先に中へ入れるという使い方までは具体的に想像していなかった。
翌朝、予定より少し遅く車庫へ着くと、ACROSSの窓にはすでに室内の明かりが薄く見えていた。優也以外の誰かが先に入り、普通に過ごしているという光景は初めてで、右側玄関へ近づくだけで妙な新鮮さがある。自分のキーで扉を開けると、キッチン側から真琴が顔を出した。
「おはようございます。飲み物は冷蔵庫へ入れて、自分の荷物も予備室に置いてあります。朝ご飯、まだですよね? 簡単なので良ければ用意してます」
「まだ。家帰ってちょっと寝ただけやから……っていうか、俺来たらもう普通に朝始まってるやん」
「鍵をもらったので、先に使わせてもらいました。コーヒーも今淹れますね」
玄関で靴を脱ぎながら見回すと、テーブルには簡単な朝食が用意され、ブラインドも一部だけ開いている。勝手に触られたという違和感はなく、むしろ自分が遅れて帰ってきたような感覚のほうが近かった。
「何か変な感じやな。でも嫌な意味ちゃうで。昨日まで俺しか先に入ることなかったから」
「私も少し不思議でした。優也さんがいないACROSSへ一人で入るの、初めてだったので。でも扉を開けたら、どこに何があるか分かるし、私の物も置いてあるし、人の車へ勝手に入った感じはしなかったです」
「それなら良かった。鍵渡したのに毎回遠慮されても困るしな」
コーヒーができ、二人で朝食を取りながら話しているうちに、真琴が少し言いにくそうに笑った。
「実は、優也さんが入ってきたとき、一瞬だけ『おかえりなさい』って言いそうになりました」
優也はカップを持ったまま動きを止めたが、真琴自身も照れたのか、すぐに「言ったら変な空気になりそうだったのでやめました」と続ける。そこで優也も「今言うても、まあまあ変な空気なってるで」と笑ったあと、少しだけ考えてから肩をすくめた。
「でも、言えば良かったのに。俺も入ってきたとき、帰ってきた感じしたし」
「じゃあ、次は言うかもしれませんよ」
「そのとき俺、ちゃんと『ただいま』言えるかな」
「そこは頑張ってください」
二人で笑ったことで照れた空気も少し和らぎ、朝食を終えてからはいつもどおり出発準備へ移った。予定より一時間遅らせたはずなのに、真琴が先に荷物を整えていたおかげで慌ただしさはなく、優也も睡眠を削らずに済んだ。鍵を一本渡しただけなのに、実際に使ってみると、その変化は想像していた以上に生活へ馴染んでいた。
◇
その日の旅は、紅葉にはまだ少し早い山間の温泉地で一泊する穏やかなものになった。空間拡張も新しい設備もなく、二人で景色を眺め、温泉へ入り、夕食を作り、夜はそれぞれ好きなことをして過ごす。ただ、その間も鍵は何度か自然に役立った。優也が給油や車体の外周確認をしているうちに真琴が先に車内へ戻り、真琴が売店へ出たあと優也が別の場所へ行っても、どちらが鍵を持っているかを気にする必要がない。以前なら「開けとく?」「鍵持ってる?」と確認していたような小さな場面が、そのまま消えていた。
便利になったというより、互いに別々に動いても最後には同じ場所へ戻れるようになった、というほうが優也にはしっくりきた。一緒に行動する時間が減ったわけではない。それでも、何をするにも二人揃っていなければACROSSへ入れない状態から、それぞれの都合で動いて戻れる状態になったことで、車内で過ごす時間が少し生活らしくなった気がする。
大阪へ戻り、片付けを終えた夜、優也は今回の出来事をノートへ残すかどうか少し迷った。真琴が私物を置いたことは記録していないし、鍵を渡したことまで能力や設備の記録に入れる必要はない。ただ、今後の運用としては意味があるので、旅の記録の最後へ、
『スペアキー――真琴へ』
『別行動時の車内アクセス――問題なし』
『運転とは別。車内利用のため』
とだけ書いた。
その下へ何か続けようとして、優也はペンを止めた。家の鍵みたいだったことも、真琴が先に入って朝食を用意していたことも、「おかえりなさい」と言いそうになったことも、設備記録へ書くような話ではない。それらまで残したら、あとで読み返した自分が恥ずかしくなるのは目に見えている。優也は苦笑し、ノートを閉じた。
けれど記録しなくても、意味がなかったわけではない。
真琴が物を置いて帰るようになったときもそうだったが、二人の関係は何か大きな言葉で変わるより先に、日常の形が少しずつ変わっている。一緒に旅へ行く回数が増え、両親との旅行にも自然に加わり、ACROSSには真琴の物が残り、今度は自分がいなくても同じ扉を開けられる鍵まで持っている。もし誰かに「付き合っているのか」と聞かれれば、まだ違うと答えるしかないのだろうが、それだけで今の距離を全部説明できるとも思えなかった。
優也は立ち上がり、帰る前に右側玄関へ向かった。外から見れば、ACROSSには何の変化もない。扉が増えたわけでも、ロックの仕組みが変わったわけでもなく、空間拡張のような不可思議な現象も起きていない。変わったのは、この同じ扉を開けられる人が一人増えたことだけである。
それはACROSSが勝手に与えた機能ではなかった。優也が、自分のいないときでも真琴がここへ入っていいと思い、自分で鍵を渡した。真琴も、その意味を少し意識しながら受け取った。だからこそ、この変化だけは魔素や空間拡張のせいにすることができない。
少し前の自分なら、そこまで考えたところで照れくさくなり、全部便利だからで済ませていたかもしれない。しかし今は、無理に否定する必要もないと思えた。便利なのは事実で、それとは別に、真琴が自分より先にACROSSへいても違和感がなくなったことも事実である。
次の旅で真琴が先に来て、紅茶を飲みながら本を読んでいることがあっても、もう驚かないだろう。自分が扉を開けたとき、今度こそ「おかえりなさい」と言われるかもしれないし、そのときには少し照れながらでも「ただいま」と返せばいい。
優也はそんな場面を想像して一人で笑い、最後に玄関のロックを確認してから車庫の照明を落とした。ACROSSそのものは昨日と何も変わっていない。それでも、ここへ帰ってこられる人が一人増えたことで、旅する家としての中身は、ほんの少しだけ変わっていた。
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