ep.72 四人で、もう一度
車椅子では安全に出入りできないという問題をノートへ残してからも、ACROSSの右側玄関は何も変わらなかった。優也は何度か仕事帰りに車庫へ寄ったが、段差も扉も後部ガレージも前と同じで、鑑定を使って確かめようとはしなかった。必要が分かったからといって、すぐに何かが変わるとは限らないし、変化を起こさせるために考え続けるつもりもない。できないことは、できないまま把握しておく。その考え方に少し慣れたころ、母親から以前の約束を思い出させるような連絡が来た。
『秋の旅行、いつ行くん?』
仕事の休憩中に届いた短いメッセージを見て、優也は思わず笑った。両親と最初にACROSSで一泊した帰り、母親が次は秋に行きたいと言っていたことは覚えていたが、日程まで決めたつもりはなかった。それでも母親の中では、どうやらすでに開催予定になっていたらしい。
夜になって真琴へその話をすると、電話の向こうから小さな笑い声が返ってきた。
『お母さま、楽しみにされてたんですね。前回かなり喜んでましたし』
「完全に確定事項やったみたいやわ。俺が忘れてると思ってたらしい」
『忘れてたんですか?』
「忘れてへん。ただ、まだ決めてなかっただけや」
『それをお母さま側から見ると、たぶん忘れてたことになるんじゃないですか』
否定しきれずに優也が黙ると、真琴は笑いながら、日程が合うなら自分も一緒に行くと言った。前回は四人で泊まったことで、夜になるとリビングを寝床へ変えなければならない不便がはっきりし、それが予備室の形成につながった。あれから予備室は荷物置きとして定着し、ときどき一人で横になれることも確認している。今なら、同じ四人でも前より少し違う使い方ができるはずだった。
「じゃあ今度は、予備室ちゃんと使ってみよか。親には後ろの寝室使ってもらって、俺は前のベッド。真琴が予備室で大丈夫なら、リビング潰さんで済む」
『私は大丈夫です。前に優也さんが寝て問題なかったんですよね?』
「一晩なら普通に寝れた。ホテルみたいな部屋ちゃうけど、寝るだけなら十分や」
『それなら、そのほうが楽そうですね。前回は夜になるとテーブルもソファも使えなくなってましたから』
話はすぐにまとまり、次の休みの中から両親の予定も合う日を選んだ。行き先は遠くへしすぎず、山間の温泉地にある大型車対応の滞在施設にする。観光を詰め込むより、温泉へ入り、地元のものを食べ、四人でゆっくり過ごすことを目的にした。
◇
当日の朝、両親を迎えに行くと、母親は前回より明らかに荷物が減っていた。初回は念のためと言って余分な着替えやタオルまで持ち込み、結果的に使わなかったものが多かったので、今回は自分なりに学習したらしい。一方の父親は前回とほとんど同じ小さなバッグ一つで、ACROSSの前に立つと「まだ見慣れんな」と笑った。
「乗るの二回目やのに?」
「二回見たくらいで慣れる大きさちゃうやろ」
「それはそう」
優也が右側玄関のステップを出すと、母親が先に上がり、父親がそのあとへ続いた。前回と同じ光景のはずだったが、優也は無意識に二人の足元をよく見ていた。母親は手すりへ軽く手を添えながら問題なく上がったものの、父親は最後の一段で少しゆっくり足を運ぶ。
「大丈夫?」
「大丈夫や。こんくらいで心配すな」
父親は笑って車内へ入ったが、優也には以前なら気に留めなかった動作が妙に目についた。車椅子で入れないことを知ってから、歩ける人にとってもこの玄関は決して低いものではないと分かる。だからといって今日何かを変えられるわけではなく、優也は余計なことを言わず、最後に真琴が乗ったのを確認してステップを格納した。
母親は車内へ入るなり、以前と少し違うことに気づいた。
「なあ、この車、名前付けたんやろ?」
優也が運転席へ向かいかけたところで振り返ると、母親は真琴から聞いたのかと思ったらしく、「この前電話で、真琴ちゃんが『ACROSSで』って言うてた」と楽しそうに続けた。
「GRANZちゃうん?」
「車種はGRANZ。ACROSSは俺らが呼んでる名前。愛称みたいなもん」
「アクロス。ええやん。何で?」
説明を求められ、優也は少しだけ面倒そうな顔をした。真琴が横で笑っている。
「旅して、いろんな境界とか向こう側へ行く、みたいな感じ。細かく説明したら長いねん」
「長くても時間あるで。今日一日乗るんやから」
「今運転するからあとで」
母親は納得したような、していないような顔で後ろへ座った。父親は「名前付けるくらい使い込んできたんやな」とだけ言い、窓の外へ視線を向ける。その言い方のほうが優也にはしっくりきた。
ACROSSが車庫を出ると、車内は前回より早く落ち着いた。両親もすでにシートや収納の位置を知っており、母親があれこれ質問する回数も少ない。真琴も助手席で道路状況を必要なときだけ伝え、それ以外は後ろの母親と話したり、景色を眺めたりしている。
途中のサービスエリアで休憩したとき、母親が車内を見回しながら「前より広なった?」と聞いたので、優也と真琴は一瞬だけ目を合わせた。通路が広がったこと自体は両親にも隠しているわけではないが、どう説明するかは慎重にしている。
「前に乗ったときより、荷物少ないからちゃう?」
優也がとぼけると、母親は通路を二、三歩歩き、「そうかなあ」と首を傾げた。真琴は何も言わずに笑い、父親は「お前は一回乗っただけで車幅まで覚えてへんやろ」と助け舟とも違う現実的な一言を入れたので、その話はそこで流れた。
◇
目的地へ着いたのは昼過ぎだった。広い区画へACROSSを収め、水平を確認すると、四人は近くの食事処まで歩いて遅めの昼食を取った。山菜や川魚を使った定食を食べ、母親は売店で地元の菓子をいくつか買い、父親は温泉の時間を先に確認している。優也と真琴が二人で旅するときとは少し違うテンポだが、前回のように「四人を乗せている」という緊張はなかった。
ACROSSへ戻ると、母親は買った袋をどこへ置くか迷い、いつものようにリビングの端へ置こうとした。優也が「予備室あるから、そっち入れといたらええで」と言うと、母親は聞き慣れない言葉に振り返った。
「予備室?」
「前はなかった。ちょっと荷物置いたり、一人寝たりできる部屋」
「また増やしたん?」
「……まあ、増えた」
「誰が?」
「そこ聞く?」
優也が苦笑すると、母親はますます面白そうな顔をした。真琴が、以前四人で泊まったときにリビングを寝床へ変える必要があり、そのあとに使い道の決まっていない小さな部屋ができたことだけ説明する。原因はまだ分かっておらず、今は荷物置きや予備の寝場所として使っていると話すと、母親は驚きながらも、以前からこの車の不可思議な部分をある程度聞かされているため、完全に理解しようとはせず「便利やなあ」で受け止めた。
予備室を見せると、豪華な寝室ではないこともすぐ分かる。窓はなく、固定家具も置いておらず、普段はバッグや買った物を一時的に入れるための余白として使っている。真琴が今夜は簡易マットを敷いてここで寝る予定だと説明すると、母親はすぐに「真琴ちゃんがそこなん?」と不満そうな声を出した。
「うちらリビングで寝たらええやん。前もそうしたんやし」
「いや、今回はそれせんために予備室使うねん。後ろの寝室は二人で使って。真琴もこれでいいって言ってるし」
優也が答えるより先に、真琴も「本当に大丈夫ですよ。前回は夜になると皆さんが座る場所までなくなってしまったので、今回はリビングを残してみたいんです」と続けた。母親はまだ少し気にしていたが、真琴が嫌なら自分から言うと笑うと、ようやく「ほんまに?」と念を押して引き下がった。
父親は予備室を入口から一度見ただけで、「こういう部屋が一個あるだけで違うんやろな」と言った。優也が頷くと、父親は前回の夜を思い出したように、「あのときは寝たら最後、夜中に座る場所なかったからな」と笑う。
「せやろ。それが一番面倒やってん。寝るだけなら何とかなったけど、寝床に変えたらリビングなくなるから」
「ホテルでも四人部屋なら寝るだけになることあるし、一泊なら別にええけどな。ただ、ここは家みたいに使うんやったら、座る場所残ってるほうがええわ」
父親の何気ない言葉に、優也は少し嬉しくなった。自分たちが何度も感じてきた「泊まる車ではなく、暮らす場所」という感覚を、父親も似た言い方で捉えている。
◇
夕方は四人で温泉へ行き、戻ってから車内で簡単な夕食を作ることにした。今回は母親も料理を手伝うと言い出したが、キッチンに三人立てばさすがに混雑するので、真琴と母親が調理し、優也は飲み物と食器の準備、父親はテーブルまわりを整える役になった。
「俺だけ仕事軽ない?」
父親が椅子に座りながら言うと、母親がすぐに「じゃあゴミまとめといて」と追加し、優也は笑いながら「言わんかったら良かったのに」と茶化した。
以前の狭い通路なら、四人がそれぞれ動くだけで何度も身体を避け合っていたはずだが、今は少なくともリビングとキッチンの間ですれ違う余裕がある。それでも全員が一度に動けば邪魔になるので、優也は自分の作業を終えると早々にソファへ引っ込んだ。
「優也さん、最近そこに退くの上手になりましたね」
真琴が鍋を置きながら言うと、母親が「前は邪魔してたん?」と食いついたので、優也は嫌そうに顔をしかめた。
「手伝おうとしてただけや」
「包丁使ってる後ろ三回通るのは交通量です」
「またそれ言う?」
父親まで笑い出し、結局その日の夕食は、料理そのものより優也の扱われ方で何度も笑うことになった。外は冷え始めていたが、車内は暖かく、四人分の食器が並んだテーブルも狭苦しくはない。
食後、前回ならそろそろ寝床を作るためにソファやテーブルを動かし始めていた時間になっても、今回は何もしなくていい。父親は温かいお茶を飲みながらテレビを見ており、母親は真琴と売店で買った菓子を分け、優也はソファの端でスマートフォンを触っている。誰かが寝る準備を始めても、リビングの形は昼のまま残る。
「これ、だいぶ違うな」
父親がテレビから目を離さずに言った。
「何が?」
「前はこの時間、もう全部寝る場所やったやろ。今日は普通に座ってられる」
優也も車内を見回してから頷いた。大掛かりな設備が増えたわけではなく、一人が横になれるだけの小さな予備室ができただけなのに、四人で過ごす夜の印象はかなり違う。
「前回泊まったから分かったんよ。二人なら何も困らんかったし、四人でも一泊するだけなら寝れた。でも、寝れるのと普通に過ごせるのは別やった」
「それで部屋できたん?」
母親が真琴へ聞くと、真琴は「関係があるかもしれませんけど、まだ断定はしてないです」と答えた。優也も、それを願えば好きな部屋が増えるような仕組みだとは考えていないと補足し、必要になったからといって、すぐに答えが出るわけでもないと話した。
母親はその説明を聞きながら、右側玄関のほうへちらりと目を向けた。
「何か困ってること、まだあるん?」
優也は一瞬だけ迷った。車椅子の件を細かく説明して心配させる必要はないが、嘘をつくほどのことでもない。
「あるで。例えば、この玄関。歩ける人なら上がれるけど、車椅子のままは無理や。こないだ旅先でそれに気づいた」
「リフト付けたらええんちゃうの?」
「俺も最初そう思った。でも簡単に付けたら終わりって話ちゃうらしい。入口だけ通れても、中でどう使うかまで考えなあかんしな。今は保留」
母親は「へえ」と頷いただけで、すぐ解決案を押しつけることはしなかった。父親も少し考えたあと、「何でもできるようにしたら、逆に何の車か分からんようになるしな」と言う。
「必要になったら考えたらええんちゃうか。今は俺ら四人泊まれてるんやから」
その言葉は、優也が自分に言い聞かせていたこととほとんど同じだった。できないことを知っておくのは大切だが、今ある時間までその問題で埋める必要はない。優也は「そうやな」と答え、話題を明日の朝食へ変えた。
◇
寝る前、真琴は予備室へ簡易マットと寝具を運び、着替えだけを持って中へ入った。荷物の大半は壁際へまとめてあるため、横になる場所は十分残っている。優也が入口から「ほんまに大丈夫?」と確認すると、真琴は中へ座ったまま、「前に優也さんが寝て平気だったんですよね。なら私のほうがたぶん余裕あります」と笑った。
「俺より小さい言いたいんやろ」
「事実です」
「まあ、しんどかったら言って。リビング使ってもええし」
「そのときは言います。でも、せっかく四人でリビングを残せるか試してるんですから、今日はこのまま寝ます」
そこへ母親が後ろから顔を出し、「真琴ちゃんだけ物置みたいな部屋で寝かせてるみたいやん」とまだ気にしていたので、真琴は苦笑しながら、荷物置きにも使えるだけで物置ではないと説明した。優也が「予備室やって」と訂正すると、母親は「名前が地味」と笑い、結局最後まで少し不満そうではあったものの、真琴本人が問題ないと言うので引き下がった。
両親が後部の寝室へ入り、優也が前方の降下式ベッドを下ろしても、中央のリビングはそのまま残っていた。照明を少し落とし、寝る前に優也が水を飲みに降りると、父親も後部から出てきてソファへ座った。
「まだ起きてたん?」
「ちょっと目ぇ冴えてな。前やったらここ座れんかったけど、今日はええな」
父親は小さな声でそう言い、優也も向かいへ腰を下ろした。母親と真琴を起こさない程度の声で、仕事のことや両親の近況を少し話す。普段なら実家へ顔を出しても、父親と二人で長く話すことはそれほど多くない。用事が終われば帰るし、テレビがついていればそれを見て終わる。旅先の夜だからというより、同じ車の中にいて、すぐ寝床へ戻れる距離にいるからこそ生まれた時間だった。
「これ、ええ車買ったな」
父親がふいに言ったので、優也は少し驚いた。
「最初、でかすぎるとか高すぎるとか思ってたやろ」
「今も高いとは思ってるで。普通やない」
「そこは変わらんのかい」
「でも、お前がちゃんと使ってるならええやろ。買って満足して車庫に置いてるだけやったら何してんねんと思うけど、こうやって俺らまで連れてきてもろてるしな」
父親はそれ以上大げさなことは言わず、しばらくして立ち上がった。寝室へ戻る前、前方のベッドを見上げて「落ちるなよ」と笑う。優也が「子どもちゃうで」と返すと、「四十五過ぎても息子は息子や」と言われ、反論する前に扉が閉まった。
優也は一人になったリビングで少しだけ笑い、それから照明をさらに落として前のベッドへ戻った。予備室が一つ増えただけで、前回にはなかった夜の時間が生まれている。空間の価値は広さそのものではなく、そこで何ができるかで変わるのだと、あらためて感じた。
◇
翌朝、最初に起きたのは母親だった。優也がベッドから降りると、すでにリビングのソファへ座って窓の外を眺めており、「朝ここ残ってるの便利やな」と昨日の父親と同じようなことを言った。
「せやろ。前はまず寝床片付けな朝始まらんかったからな」
「真琴ちゃん、ちゃんと寝れたん?」
「起きたら聞いたらええやん」
そう話しているうちに真琴が予備室から出てきた。髪を軽く整えながら「おはようございます」と言う様子に疲れた感じはなく、母親がすぐ寝心地を尋ねると、「普通に眠れました。ただ、荷物をもっと増やしたら寝る場所と両立しないので、ずっと寝室として使う部屋ではないですね」と率直に答えた。
優也はその言葉に納得した。予備室があるから四人利用の問題が完全に消えたわけではない。今回は一泊で荷物も少なく、真琴がそこで眠ることに抵抗がなかったからうまくいっただけで、人数や日数が増えれば別の不便が出るかもしれない。それでも、前回より過ごしやすくなったことまで否定する必要はない。
朝食はパンと卵、前日に買ったヨーグルトと果物で簡単に済ませた。四人が動いても以前ほど通路でぶつからず、食べ終わった人から洗面や着替えを済ませる。母親は途中で洗面へ向かい、戻ってきたところで玄関のステップを見下ろしながら「歳取ったらこれ、ちょっと高く感じるかもしれんな」と何気なく言った。
優也は反射的に昨夜までの車椅子の話を思い出したが、すぐに設備の話へ持っていくことはしなかった。
「今でもしんどかったら言ってや。急がんでええし、俺下おるから」
「まだそこまで年寄りちゃうわ」
「さっき自分で歳取ったらって言うたやん」
「今ちゃう。将来の話」
母親は笑いながら外へ降り、最後の一段も普通に下りた。優也は下で見守りながら、将来という言葉だけを頭の隅へ残した。車椅子だけが問題ではなく、今歩ける人でも年齢や怪我で同じ入口を難しく感じる日が来るかもしれない。だからといって、今日のうちにリフトを付けようとは思わない。必要を知ることと、すぐ設備を増やすことは別だと、ようやく自分の中でも分けられるようになっていた。
朝食のあと、近くの遊歩道を四人でゆっくり歩いた。紅葉には少し早い時期だったが、山の一部には色の変わり始めた木もあり、母親は何度もスマートフォンを向けている。父親は少し先まで歩いたところでベンチへ座り、優也も隣へ腰掛けた。
真琴と母親は少し離れた売店を見に行き、二人の背中が見えなくなると、父親が何気ない調子で言った。
「真琴ちゃん、よう付き合ってくれるな」
「旅行に?」
「それもやけど、この車にや。お前一人やったら、ここまで使ってへんかったんちゃうか」
優也はすぐに否定しようとして、少し考えた。ACROSSを買ったのは自分で、旅へ出たいと思ったのも自分だった。ただ、実際に使い始めてから見つかった問題の多くは、真琴が一緒にいたから気づけたものでもある。通路の狭さも、予備室の使い方も、通信や応急対応の線引きも、一人なら別の結論にしていた可能性はある。
「まあ、そうかもしれんな。俺一人やったら、多少不便でも『こんなもんや』で終わってた気はする」
「それが悪いとは言わんけどな。二人おったら、二人分の使い方が出るんやろ」
父親はそれだけ言うと、遠くの山へ視線を戻した。交際しているのか、結婚するのかといった直接的なことを聞いてこないのが、優也にはありがたかった。自分でもまだ言葉にしていない関係を、他人に説明できるはずもない。
しばらくして真琴と母親が戻ってきた。母親の手にはまた菓子の袋が増えており、優也が「昨日も買ったやろ」と呆れると、「これは別」と返される。真琴が笑いながら「優也さんと同じこと言ってます」と指摘したせいで、今度は母親から「やっぱり親子やな」と言われ、優也は何も言い返せなくなった。
◇
昼前にはACROSSへ戻り、帰る準備を始めた。予備室のマットを畳み、両親の荷物と買った物を分けて収める。昨夜は真琴の寝場所だった空間が、数分もすればまた何にでも使える空の部屋へ戻った。
「ほんまに予備やな」
母親が入口から覗き込みながら言う。
「せやろ。何にするって決めんかったのが良かったんよ。荷物多いときは置けるし、今回みたいに一人寝てもええし」
「名前だけはもうちょい可愛くしても良かったんちゃう?」
「まだ言う?」
母親が笑い、真琴まで「そこは私も少し思います」と乗ってきたので、優也は二対一になったことを察して諦めた。
出発前、優也は四人が乗り込むのを外から確認した。母親、父親、真琴の順に右側玄関へ上がり、最後に自分が入る。父親は昨日より少し手すりを意識していたが、問題なく上がった。
車椅子の問題は、まだ何も解決していない。高い床も狭い入口もそのままで、後部ガレージも人が通れる場所にはなっていない。それでも今回の旅では、その未解決を抱えたままACROSSを普通に使い、四人で食べ、笑い、眠ることができた。問題があるからといって、車全体まで未完成になるわけではないのだと、優也は少し分かった気がした。
帰りの車内では、母親が次の行き先の話を始めた。
「今度は紅葉ちゃんと見れるとこ行きたいな」
「もう次決めるん?」
「今回来れたんやから、次もあるやろ」
「俺の休みも聞いてから言うて」
「真琴ちゃんの予定もな」
当然のように真琴まで数に入っていることに、優也は一瞬だけ返事を遅らせた。助手席の真琴も気づいたらしく、少し笑って「予定が合えば」と答える。母親はそれで満足したように、今度はスマートフォンで紅葉の写真を探し始めた。
優也は前を見たまま、口元だけ少し緩めた。
◇
両親を送り届けたあと、真琴と二人で車庫へ戻った。荷物を降ろし、冷蔵庫の中を確認し、使ったタオルや寝具を片付ける。四人分なので作業は二人旅より少し多かったが、前回ほど「一泊したあとを元へ戻す」という感覚はなく、使った場所を順番に整えていけば済んだ。
予備室から最後のバッグを出したところで、真琴が中を見回した。
「今回は、ちゃんと役に立ちましたね」
「前から役に立ってたやろ。荷物置きとして」
「そうですけど、もともとできたきっかけに近い使い方は今回が初めてだったでしょう。四人で泊まってもリビングを残す、という意味では」
「確かに。前回の不便、ちゃんと減ったな」
優也は空の予備室を眺めながら、できた当初に用途を決めなかったことを思い出した。もしあのとき「客室ができた」と決めつけ、ベッドや家具を固定していたら、今のように荷物置きと寝場所を行き来する使い方はできなかったかもしれない。空間が増えたことより、その余白を残したことのほうが、結果的には価値があった。
「でも、これで四人旅行は完成、とは言わんほうがええな。真琴は一泊ならあそこで寝れたけど、三泊四泊で荷物増えたら、また違うやろ」
「そう思います。お母さまも気にしていましたし、誰が使うかでも感じ方は変わります。今回はうまくいった、くらいでいいんじゃないですか」
「最近その言い方ばっかやな。『今回は』とか『今のところ』とか」
「そのほうがあとで困らないでしょう?」
「まあな。ACROSS相手に言い切ると、次の回でひっくり返されそうやし」
真琴が笑い、優也もつられて笑った。
片付けが終わったあと、二人はリビングへ座り、残っていた飲み物を一本ずつ開けた。両親がいたときより急に静かになった車内を見回すと、優也は少し物足りないような、不思議な感じがした。
「四人おったあとやと、二人でも静かやな」
「普段は二人でちょうどいいのに、今日は広く感じますね」
「最初この車来たとき、二人でも十分すぎるくらいデカかったのにな」
「慣れって怖いですね」
真琴はそう言ってから、少し間を置いた。
「でも、お父さまと夜にここで話せたの、良かったですね」
「聞こえてた?」
「少しだけ。予備室、リビングに近いので」
「うわ。変なこと言ってへんかった?」
「たぶん大丈夫です」
「たぶんって何やねん」
真琴は笑うだけで詳しくは言わなかった。優也も追及せず、代わりに父親から言われた「二人おったら、二人分の使い方が出る」という言葉を思い出した。
ACROSSは自分が欲しくて買った車だ。それでも、今の使い方はもう一人だけでは形にならなかったものが多い。真琴がいるから二人分の動線が生まれ、両親が泊まったから四人で暮らす不便が見え、町へ入れなかったから自転車を積み、旅先で出会った人から、入口の高さという今まで見えなかった問題を教えられた。
人が増えるほど、できることだけでなく、できないことも増えていく。そのたびに全部を解決する必要はないが、誰かが使ったから見えたことを忘れないようにする。その積み重ねなら、少なくとも自分には続けられそうだった。
◇
真琴を送ったあと、優也は車庫へ戻り、いつものノートを開いた。
『両親と二回目の一泊』
『四人利用――問題なし』
『予備室――一名就寝に使用』
『リビング――夜間も通常状態を維持』
『荷物――予備室と収納へ分散』
『通路――四人でも前回より余裕あり』
『空間変化――なし』
そこまで書いてから、「問題なし」の文字へ一度目を戻した。少し前なら、それで終わっていたかもしれないが、今はその言葉が広すぎるように感じる。優也は線を引いて消すほどではないと思い、その下へ補足を書いた。
『今回の条件では問題なし』
『一泊・荷物少なめ』
『予備室を真琴が使用』
『長期・別の利用者では未確認』
さらに、朝の母親と父親の様子を思い出し、
『右側玄関――両親は自力利用可能』
『ただし段差は高い。将来的な負担はあり得る』
『車椅子問題――未解決のまま。改修は保留』
と続ける。
前回のページに書いた『できないことを、できることに数えない』という一文と、今日の記録は矛盾していなかった。できないことを抱えたままでも、できる範囲ではちゃんと楽しめるし、使えるところは使えばいい。
優也はペンを置かず、もう少しだけ考えた。
最初に両親と泊まった夜、四人分の寝床を作るためにリビングが消えた。その不便は一泊なら我慢できる程度で、誰かが困り果てたわけでもない。それでも経験として残った結果、しばらくして用途の決まっていない小さな空間が現れた。今回、その空間を真琴が寝床として使ったことで、リビングは夜までリビングのまま残り、父親と二人で話す時間まで生まれた。
もしあの部屋が「四人用寝室」として最初から決められていたら、たぶん今とは違った。何に使うか決めない余白だったからこそ、その日の人数や荷物に合わせられた。
優也はページの下へ、
『増えたものは、すぐ完成品にしない』
『使い方は、使いながら決める』
と書いた。
そして少し考えてから、もう一行を足した。
『人が増えると、必要も増える。見えなかった不便も増える』
書き終えたところで、今日の母親の言葉が頭に浮かぶ。
次は紅葉。
まだ日程も場所も決まっていないのに、母親の中ではすでに次がある。真琴も当然のようにその予定へ入れられていた。それを嫌だとは思わなかった自分に気づき、優也は小さく笑った。
スマートフォンを開くと、真琴からメッセージが届いている。
『今日はありがとうございました。ご両親、前回よりかなり慣れてましたね』
『予備室も思ったより寝やすかったです』
優也はすぐに返信した。
『こっちこそありがとう』
『母ちゃんもう次の紅葉決める気やで』
『予備室、名前変える案だけは却下で』
しばらくして、
『そこはまだ交渉の余地があります』
と返ってきたので、優也は一人で笑った。
『ない』
『予備室は予備室』
送信してから、ふと車内を見回す。
今夜のACROSSには優也一人しかいない。それでも後部の寝室には両親が使ったあとの気配が残り、予備室には真琴の寝具を置いた跡があり、テーブルには四人で食事をした時間の余韻が残っているように感じた。
車は変わっていない。外から見れば、四軸八輪の大きなキャンピングカーが車庫に停まっているだけである。内部でも新しい扉は増えず、鑑定を使うような変化もなかった。
それでも、一度目の四人旅とは違っていた。
ACROSSが勝手に完成へ近づいたからではなく、一度困ったことを覚えていて、増えた余白を実際に使い、四人それぞれが前より自然に過ごせるようになったからだった。
優也はノートを閉じ、照明を落とす前に予備室の扉へ目を向けた。閉じれば、そこに特別な部屋があるようには見えない。ただの小さな余白であり、必要になれば荷物を置き、誰かが眠り、また空に戻る。
完成していないから使いにくいのではなく、決めきっていないから使えることもある。
そのことを覚えておけば、これから先、ACROSSにまた何かが増えたとしても、すぐに名前や役割を押しつけずに済むかもしれない。誰が使うのか、何に困ったのか、実際にどう使えたのかを見てから考えればいい。
優也は最後に右側玄関のロックを確認し、いつもの高い段差を一度だけ見下ろした。
そこにはまだ、解けていない問題が残っている。
けれど今夜は、それを無理に解こうとは思わなかった。
できることと、できないこと。その両方を抱えたまま、ACROSSはまた次の旅へ行ける。四人で笑った今日の一泊は、そのことまで少しだけ教えてくれた気がした。
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