ep.71 広いのに、入れない
前の二泊から戻ってしばらくのあいだ、優也は地図を開くたび、以前より少し遠い場所まで眺めるようになっていた。ACROSSそのものを目的地のすぐそばへ入れなくても、手前に安全な場所があれば旅は続けられる。電動アシスト自転車を使ってもいいし、電車やバスへ乗り換えてもいい。その考え方が身についただけで、大型車では難しいと思っていた場所が、完全に候補から消えることは少なくなった。
とはいえ、次の休みまで毎回新しい移動方法を試したいわけではない。むしろ今回は何も増やさず、少し内陸へ入った湖の近くで一泊し、温泉へ入り、夕食を作って帰るだけの予定にした。大型車を受け入れている滞在施設には電源付きの区画があり、周囲には遊歩道と小さな売店があるらしい。自転車は積んでいくものの、天気が良ければ湖の周りを少し走る程度で、使わなくても構わないつもりだった。
「最近、予定を詰めなくなりましたね」
出発前、真琴が冷蔵庫へ飲み物を入れながら言うと、優也は後部収納の固定を確認してから車内へ戻り、「詰めても結局途中で面倒になるって分かったからな」と笑った。以前なら、せっかく休みを使うのだから何か一つでも多く見たいと思っていたが、ACROSSで過ごす時間そのものが旅になってからは、何もしない時間を予定から削る必要がなくなっていた。
「温泉入って、飯食って、朝コーヒー飲めたらもう合格や。自転車も出番なかったら、それはそれでええ」
「この前はかなり働きましたからね。雨の日に駅で一晩までしましたし」
「自転車に一晩させたみたいな言い方やな」
「優也さんが『駅で一泊』って言ったんでしょう」
笑いながら運転席へ座り、いつもの確認を済ませて車庫を出る。目的地までの道は大半が幹線道路で、最後だけ湖へ向かう緩い山道になる。優也は無理に近道を選ばず、途中の休憩も含めてゆっくり走った。
昼を少し過ぎたころ、ACROSSは湖畔の滞在施設へ入った。区画へ収めて水平を確認し、エンジンを止めると、窓の外には水面と低い山並みが見える。派手な観光地ではないが、今日はそれくらいがちょうどよかった。
◇
施設には十数台のキャンピングカーや車中泊用の車が停まっていた。大半はACROSSよりずっと小さく、軽自動車を改造したものから輸入キャンパーまで形もさまざまで、優也は散歩がてら眺めるだけでも少し楽しい。自分の車を見られることにも納車当初ほど落ち着かなくなり、声を掛けられれば、メーカーの細かい話や不可思議な空間拡張には触れず、「長旅したくて大きいのにしました」と笑って答える程度には慣れていた。
夕方前、二人が売店から戻ると、ACROSSの少し離れた区画に白い小型キャンパーが入ってきた。車体の側面には大きめのスライドドアがあり、停車すると助手席側から細い装置がゆっくり展開される。優也が何となく目を向けていると、それは折り畳まれた昇降台で、地面近くまで下がったところへ車椅子に乗った男性が自分で移り、そのまま静かに降りてきた。
年齢は優也より少し上に見えた。同行している女性が荷物を下ろしている間にも、男性は慣れた様子で車椅子を操作し、電源の位置や足元を確かめている。介助されなければ何もできないという雰囲気はなく、むしろ二人の動きは長く旅をしてきた人のそれだった。
「なるほどな」
優也が小さく呟くと、真琴も視線の先に気づき、「リフトですね。あの車は最初から車椅子で使えるようにしているんでしょうね」と言った。優也は小さな車体を見ながら、「小さいのにちゃんと入れるんやな。うち、あれより何倍もデカいのに」と感心したが、真琴に「大きさと入りやすさは別ですから」と返されると、「まあ、そらそうやな」と笑い、その時点ではそれ以上深く考えなかった。
ところが、その日の夕方になって、思いがけずその男性と話すことになった。優也が外で折り畳み椅子を片付けていると、男性が通路の向こうからACROSSを見上げ、「すごい車ですね」と笑ったのである。
「いやあ、でかいだけで、狭い道入れんから結構気ぃ使いますよ」
「でも中は広そうですね。八輪ですか?」
「はい、四軸の八輪です。日本で走れるように作ってもらったやつで、長く旅できたらええなと思って」
優也がそう答えると、男性は興味深そうに車体を眺め、後部の収納や屋根の設備へも目を向けた。真琴も戻ってきたので三人で少し話し、男性は自分たちも各地を回っていること、今の車は車椅子で乗り降りしやすいことを優先して選んだことを、ごく普通の旅の話として聞かせてくれた。
「中、見ます?」
優也が何気なく口にしたのは、これまでにも他のキャンパー利用者へ何度か言ったことのある言葉だった。見せるといってもリビングからキッチンあたりまでで、寝室や能力に関わる部分まで案内するつもりはない。
男性も一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐにACROSSの右側玄関へ視線を移し、「行けるかな」と笑った。優也も同じ方向を見て、それまで何度も使ってきた玄関を、初めて別のもののように感じる。地面から床までには高さがあり、格納式のステップを出せば歩いて上がるには問題ないものの、車椅子のまま通れる構造ではない。扉の幅以前に、そこへ到達する方法がなかった。
「あ……」
優也は思わず声を止めたが、男性は気まずそうにするでもなく、「この高さは普通のスロープじゃ厳しいですね」と穏やかに言った。優也は反射的に「ちょっと待ってください。何か――」と言いかけたものの、後ろにあるのは自転車を積んでいるガレージで、人が通る場所ではない。車内に板のようなものを置いているわけでもなく、たとえ何かを渡したとしても、この高さへ短い距離で上がる斜面は急すぎる。真琴も優也の横へ来ると、玄関と男性の車椅子を一度見比べた。
「今日は無理に上がらないほうがいいと思います。安全に使える設備がない状態で、何かを代用するのは危ないです」
「ですよね。すみません、俺、入れます?って聞く前に言ってもうた」
「謝ることじゃないですよ。こういう車は珍しいですし、外から見るだけでも十分面白いです」
男性はそう言って笑い、むしろ自分の車のリフトを指して、「うちは中を少し削ってでもこれを付けたんです。大きい車なら何でもできると思われるけど、入口って意外と場所を取るんですよ」と話した。
その後も会話は続いた。男性の車では、リフトを収めるために収納の位置を変え、室内も車椅子が旋回しやすいよう家具の配置を減らしているという。旅先で不便がなくなるわけではないが、少なくとも自分の車へ戻れれば、トイレや休憩の心配を減らせる。それが一番大きいらしい。
「便利な装備を足したというより、僕らが使える家にした感じですね」
その言葉を聞き、優也は何も言わず一度ACROSSを見上げた。自分たちにとっては、右側玄関の高さもステップも、今まで困ったことではない。両親が乗ったときにはゆっくり上がってもらったが、それでも自力で歩けたし、大きな車体、高い床、頑丈な足回りは、この車らしさの一部だとしか思っていなかった。ところが、その入口を越えられない人にとっては、中がどれだけ広くても関係がない。
男性が「またどこかで会ったら、そのときは見せてください」と笑い、自分の区画へ戻っていったあとも、優也はしばらく玄関の前に立ったままだった。
◇
夕食を作り始めてからも、そのことは頭に残っていた。真琴が鍋の火を見ている横で、優也はテーブルにスマートフォンを置き、一般的な車椅子用スロープや車載リフトの写真をいくつか眺める。寸法や製品を細かく調べるというより、どういう考え方で車へ乗り込めるようにしているのかを見ているだけだったが、ACROSSの玄関へそのまま持ってくれば済むものではないことは、素人目にも分かった。
「長い板みたいなん積んどいたらいけるかと思ったけど、この高さやと相当長くないと無理やな」
優也が画面を見たままそう言うと、真琴は火を弱めてから振り返り、「長さだけじゃなく、固定も必要でしょうし、濡れていたら滑る問題もあります。それに車椅子の方なら誰でも同じように使えるわけではないと思います。自走できる人もいれば、介助が必要な人もいますから、私たちが思いつきで『これなら大丈夫』と決めるのは危ないですね」と、画面だけでは分からない部分まで含めて慎重に考えた。
「せやな。さっき一瞬、二人で持ち上げたらとか思ったけど、それも違うよな」
「緊急時にどうしてもという場面まで否定するつもりはありませんけど、普段の出入り方法として人を抱えて上げる前提にはしないほうがいいです。本人も怖いでしょうし、落としたら取り返しがつきません」
「うん。俺も口に出す前に、それはあかんなって思った」
優也はスマートフォンを置き、今度は玄関のほうへ目を向けた。そこにはいつもの靴収納とステップがあり、何も変わっていない。今日まで一度も問題として見えていなかっただけだった。
「右の入口を広げてリフト付けるってなったら、結構変わるよな。今の靴箱とか、制御盤の位置とか、その辺全部関係してきそうやし」
「メーカーに相談することはできますけど、今すぐ改造するかどうかは別だと思います。私たち二人が使うだけなら、現在の入口で困っていませんし」
「でも、もし誰か乗せることになったら?」
問いかけてから、優也は自分で少し考えた。両親や友人を乗せることなら想像したことがあるが、「歩いて乗れない人」を具体的に想定したことはなかった。ACROSSは自分たちの旅のために作った車で、福祉車両でも救急車でもない。それなら車椅子で入れないこと自体を、欠陥だと決めつけるのも違う気がする。
真琴も同じところを考えたのか、鍋の中身を一度混ぜてから、「必要になったときに、できることとできないことを分けて考えるしかないと思います。今のACROSSは、車椅子の方が自力で安全に出入りできる車ではない。それは事実です。でも、今日それが分かったからといって、明日までに全部変えなければいけないわけではありません」と、少しゆっくり答えた。
「分かってる。分かってるけど……中こんだけ広いのにな」
「そこが気になるんでしょうね」
真琴に言われ、優也は苦笑した。通路は外寸を変えずに広がり、使い道の決まっていない予備室まで増えた。普通ならあり得ないことが起きているのに、入口は最初のままである。そのアンバランスさが妙に引っ掛かっていた。
「中が広がったんやから、入口もどうにかできるんちゃうかって思ってまう」
「試します?」
真琴の言い方には賛成より確認の意味が強く、それを聞いた優也は少し黙ったあと、やがて首を振った。
「やめとく。『車椅子入れるようになれ』って考え続けて、何か起こそうとするのは違うわ。通路のときも、予備室のときも、困ったあとに勝手に変わっただけやし。こっちから都合いい設備出せってやり始めたら、何が基準か分からんようになる」
「私も、そのほうがいいと思います。必要を記録するのはいいですけど、能力に解決させることを前提にしないほうがいいです」
優也は頷いてスマートフォンを伏せ、そのあとは普通に夕食を食べた。湖の近くで買った野菜を使った鍋は少し作りすぎたが、翌朝にも回せる程度で、食べながら男性の旅の話や、今日見た小さなキャンパーの工夫、次にどこへ行くかも話す。車椅子の入口問題だけで一晩を埋めることはせず、それでも二人の頭のどこかには、まだ引っ掛かりとして残っていた。
◇
翌朝、優也はコーヒーを淹れたあと、自転車を使う予定はなかったものの、昨夜ふと思ったことを確かめるために車体左後部へ回った。主寝室床下のガレージハッチを開くと、いつものように折り畳んだ電動アシスト自転車が二台収まっている。開口部には自転車を出し入れできるだけの幅があるが、その先にあるのはあくまで床下ガレージで、車内へ人が通り抜ける構造ではない。優也は少し離れ、入口として使える余地が本当にないかを見るように全体を眺めた。
「ここから入るのも、今は無理やな」
真琴も外へ出てくると隣からガレージの中を見て、「幅があるように見えても、人が通る場所じゃないですからね。自転車を出したとしても、その奥から車内へ移動できません」と、優也が考えていたことを先に言葉にした。
「ここがそのまま通路やったら、何かできるんかなって一瞬思ったけど……現状はただの荷物入れや」
「それに、ガレージハッチをスロープとして使える強度や角度なのかも、私たちには判断できません。自転車を出し入れできることと、人を乗せた車椅子が通れることは別です」
「そうやな。見た目だけで決めたらあかんわ」
優也は自転車の固定を一度確かめ、ガレージハッチを閉じた。その上には主寝室の外壁と窓があり、床下ガレージとは完全に分かれている。ここを人の入口として使うなら、単にハッチを開くだけでは済まないことは見ただけでも分かった。
朝食を終えたあと、二人は施設の周囲を少し歩いた。昨日の男性たちも出発準備をしており、白い小型キャンパーの側面でリフトが再び展開されている。男性は車椅子のまま台へ乗り、手慣れた操作で車内の高さまで上がると、こちらへ気づいて軽く手を上げた。
優也も手を振り返しながら、そのリフトをもう一度眺めた。少なくとも外から見る限りでは大げさな装置には見えず、必要な人が自分の車へ入るための当たり前の道具として収まっている。ACROSSのほうが高価で、広く、設備も多い。それでも今この一点では、あの小さな車にできてACROSSにはできない。
「でかけりゃ偉いわけちゃうな」
優也がぽつりと言うと、真琴は少し笑い、「昨日からずっとそこに戻りますね。でも、分かっただけでも良かったんじゃないですか。知らないままだったら、必要な場面で初めて慌てることになりますから」と、優也が気にしていること自体は否定しなかった。
「それは嫌やな。『入れますよ』って言ってから無理でした、が一番あかん」
「だから今後は、誰かを乗せるときに先に確認できます。歩いて上がれるか、段差は大丈夫か。できないなら、別の方法を考える。その時点ではそれで十分だと思います」
優也は頷いた。できないことが分かったからといって、その場で必ず設備を増やす必要はない。今のACROSSにない機能なら、ないと知ったうえで約束しなければよく、必要なら別の車や施設を使い、無理に自分たちだけで解決しようとしない。その考え方は、以前に倒れた男性を前にしたとき、真琴の医師免許だけですべてを処置しようとせず救急へつないだ経験とも少し似ている。何でも自分たちでできることだけが強さではなく、できないことを知って、できる場所へつなぐことも同じくらい大事なのだと思えた。
◇
大阪へ戻った翌日、優也は|RHEINHARD Mobilityの担当窓口へ連絡を入れた。依頼ではなく相談として、現在の右側玄関を車椅子対応へ変更するとしたら、どの程度の改修になるのかを聞いてみる。具体的な設計や見積もりまで求めたわけではなく、後付けのリフトや入口変更が現実的な範囲なのか、それとも車内レイアウトにまで影響する大仕事なのか、その感触だけ知りたかったが、返ってきた答えは優也が想像していたより慎重だった。
方法そのものはいくつか考えられる。ただ、ACROSSは床が高く、現在の入口周辺には収納や設備が集まっているため、単に扉へ部品を一つ足して終わる話ではない。使う車椅子の種類や乗降方法、必要な開口、荷重、停車時の安全確保まで含めて考える必要があり、本当に実施するなら用途を聞いたうえで改めて設計を検討したい、という内容だった。
左後部のガレージについても一応聞いたが、現在の区画は荷物用として設計されており、人員の乗降設備として保証できるものではない。ガレージハッチを足場や簡易スロープ代わりに使うような自己流の運用は避けてほしい、と念を押された。
「まあ、そらそうなるわな」
車庫のリビングで返答を読みながら優也は独り言を漏らしたが、後付けできる可能性がゼロだったわけではないことには少し安心した。ただし、思いつきで取り付けて終わるものでもなく、今すぐ改造を始める理由もまだない。
その日の夜、真琴が仕事を終えたあとに寄ったので、優也は返答を見せた。真琴は内容を一通り読み、予想どおりという顔でスマートフォンを返した。
「現状では、保留でいいんじゃないですか」
「俺もそう思う。無理やり付けるより、ほんまに必要になったとき、どう使いたいか分かってから考えたほうがええな。車椅子一台入れば終わりって話でもなさそうやし」
「そうですね。入口だけ通れても、中で動けないなら意味がありません。トイレや洗面を使うのか、寝るのか、短時間休むだけなのかでも必要なものは変わるでしょうし、先に全部決めるのは難しいと思います」
「また完成形から作ろうとしてたな、俺」
「少しだけ」
「少しか?」
真琴が笑ったので優也も笑い、それから二人で右側玄関を改めて見た。優也がいつも何気なく跨いでいる段差を、今日は一段ずつ意識して上がる。車内へ入ってしまえば通路は以前より広く、リビングにも余裕があるだけに、「ここまで来られれば」という感覚が強くなった。
「広げるって、中だけの話ちゃうんやな」
優也が靴を脱ぎながらそう言うと、真琴は玄関脇へ立ったまま頷き、「人が使うなら、入るところから出るところまで全部つながって初めて使える、ということだと思います。中にどれだけ設備があっても、入口で止まるなら、その人にとっては使えないのと同じです」と答えた。
「……それ、覚えとくわ」
優也はすぐノートを取りに行こうとしたが、真琴に「今すぐ書かなくても忘れないでしょう」と笑われ、一度ソファへ座った。コーヒーを淹れ、今日の仕事の話や、次の休みの予定を先に聞く。大事なことを見つけたからといって、何でもその瞬間に研究や設備の話へ変えてしまわない。そのくらいの余裕は、最近ようやく持てるようになっていた。
◇
真琴が帰ったあと、優也は一人でノートを開いた。前のページには、『困ったら、まず今ある方法で考える。足りなければ、そのとき次を考える』と書いてあり、今回の出来事はその続きに置くのが一番しっくりきた。
『右側玄関――車椅子での自力乗降は現状不可』
『床高・段差あり』
『携帯スロープ――安易な使用は不可』
『後部ガレージ――人員乗降用ではない』
『左後部ガレージハッチ――足場・スロープとして使用しない』
『後部ハッチ――足場・スロープとして使用しない』
『メーカー相談――改修の可能性はあるが、大幅な検討が必要』
『安全な方法――現状なし』
『改修――保留』
そこまで書き、優也はペンを止めた。いつものノートなら、「問題なし」「採用」「有効」といった言葉で終わることが多いが、今回は最後まで読んでも何一つ解決していない。それでも消してしまいたいとは思わなかった。
通路が狭かったときは、二人で譲り合えば生活できた。四人で泊まったときも、リビングを寝床に変えれば一晩は過ごせた。ACROSSで入れない町があっても、歩いたり自転車を使ったりすれば、その先へ行けた。これまでの不便には、完全でなくても何かしら別の方法があったのに、今回の入口は違う。歩いて上がれない人を前にしたとき、「少し我慢すれば使える」とは言えないし、短い板を掛けたり、人の力で持ち上げたりして、できることにしてしまうのも違う。安全に入れる方法がないなら、今のACROSSには入れない。その事実をそのまま残すしかなかった。
優也はそこで、ページの下へもう一行書き足した。
『できないことを、できることに数えない』
書いてからしばらく文字を見つめていると、不思議な能力を持ってから、自分の周りでは少しずつ「普通ならできないこと」が増えてきたことを改めて思った。物が消えて収納され、魔素と呼ぶしかない何かが見つかり、巨大な車の内部は外側を変えないまま広がった。そういうことが続けば、困ったことが起きても「そのうち何とかなる」と考えてしまう危うさがある。
けれど、今日の時点では何ともならず、それでいいのだと思う。ACROSSがこの先どう変わるのかは分からないし、何も変わらない可能性もある。もし同じ問題にもう一度出会えば、そのときは今回より少し早く別の方法を探せる。車椅子で利用できる施設へ案内することも、対応した車両を頼ることもでき、自分の車に入れることだけが助ける方法ではない。そう考えたところで、優也は湖畔で会った男性の言葉を思い出した。
『僕らが使える家にした感じですね』
ACROSSも、最初から誰にでも使える家ではない。今は優也と真琴が旅をするための家で、両親が泊まることもでき、荷物を増やせば少し困り、人数が増えれば寝床の使い方を考える。そこへ別の人が加われば、今まで見えなかった問題が出るのは当然だった。
もしこの先、本当に誰かを受け入れる場所へ変わっていくことがあるのなら、そのとき必要になるものは、広い部屋や大きな風呂だけではないのだろう。入口、通路、トイレ、休む場所、外から中へ移る方法。それぞれがつながって初めて、「使える」と言える。
そこまで考えたところで優也はペンを置き、完成した施設の図を描くことはしなかった。リフトの位置も、スロープの長さも、入口の幅も決めない。今日分かったのは、ただ安全に入れなかったというところまでであり、その事実だけは忘れずに残しておけばいい。
ノートを閉じた優也は、帰る前にACROSSの左後部へ回った。側面上端の作業用LEDを点けてガレージハッチを開くと、二台の電動アシスト自転車がいつもの位置に収まっている。町へ入れなかったことから増えた、小さな足だった。
あのときも、最初から自転車を積もうと決めていたわけではない。実際に歩いて、遠くて、荷物を持って戻るのが面倒だと知ったから、必要になった。
優也はハッチの内側へ手を掛けたまま奥の収納を眺め、「今は、ここまでやな」と小さく呟いた。自転車を積む場所はあるが、人が入る入口ではない。その違いを無理に埋めるつもりはなく、ハッチを閉じてロックを確認すると、車体から一歩離れた。
上側の外板も左右の灯火も何も変わっておらず、ACROSSは相変わらず大きく、頑丈そうで、見た目だけなら何でもできそうだった。優也はその姿を見上げながら少しだけ笑い、「何でもは、できへんわな」と呟く。それは落胆というより、ようやく一つ正しく分かったことへの納得に近かった。
できないことがあるからこそ、次に何が必要なのかを考えられる。必要になったものが、本当に必要だったのかも確かめられる。ACROSSがいつか今とはまったく違う場所になったとしても、その始まりが「何でもできるようにしよう」ではなく、「あのとき、できなかった」だったほうが、優也にはしっくりきた。
車庫の照明を落とす前、優也はもう一度右側玄関へ目を向けた。そこには今日までと同じ扉と段差があり、明日になってもおそらく同じままだろう。それで構わない。今はまだ解けていない問題として残しておき、いつかその入口の前で本当に誰かを迎えなければならない日が来たときに、今日書いたページの意味が変わるのかもしれなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
評価・感想も励みになります。




