ep.67 名前のある旅
前回の一泊で思いがけず人の体調不良に立ち会ってから、優也は次の休みこそ本当に何も起きない旅にしたいと思っていた。通信設備も、救急用品も、予備室も、使う必要がなければそれが一番いい。せっかく長い時間をかけて作ったGRANZなのだから、装備の確認や新しい現象の検証ばかりではなく、ただ走って、景色を見て、風呂へ入り、うまいものを食べて帰るという、本来やりたかった使い方へ戻したかった。
真琴も同じ気分だったらしく、次の行き先を決めるときには「今回は予定を詰めないで、途中で気になった場所があったら寄るくらいにしましょう」と言った。優也もそれに賛成し、海と山のどちらへ行くか少し迷った末、海沿いをゆっくり走れる方面を選んだ。
出発前の屋内車庫では、前回使った救急用品の補充も終わっており、通信設備も通常状態、予備室も荷物を入れられるよう空けてある。優也は一通り確認してから運転席へ座り、助手席の真琴へ目を向けた。
「今日はほんまに普通の旅行な。誰も倒れへん、道路も止まらへん、空間も増えへん。俺は温泉入って魚食って帰りたい」
「私に言われても、そこまでは保証できませんよ。でも、何も起きないのが一番というのは同意です。今日はGRANZを使うんじゃなくて、GRANZで遊びに行きましょう」
「それや。それがしたかった」
優也は笑い、車庫のシャッターが開くのを待ってから、ゆっくりアクセルを踏んだ。
◇
朝の道路はまだ混み始める前で、GRANZは比較的スムーズに市街地を抜けた。優也は運転そのものに慣れてきたとはいえ、確認の仕方は変えず、曲がる前にはミラーを見て余裕を取り、狭そうな場所へは無理に入らない。真琴も以前ほど車幅を気にして身構えることはなくなり、助手席から海側の天気や途中で寄れそうな場所を調べている。
「この先、少し外れたところに小さい直売所ありますよ。駐車場も広そうです」
「寄ろか。何売ってるん?」
「魚と野菜が中心みたいです。あと、地元のお菓子もあるみたいですね」
「母ちゃんに何か買って帰ったら、次の旅行の要求増えそうやな」
「買わなくても増えると思います」
「それもそうやな」
二人で笑った。
こういう会話をしながら走れること自体が、少し前とは違っていた。納車直後は、優也の意識の大半が車幅や曲がり方、駐車場所、周囲の車へ向いていて、真琴との会話にもどこか余裕がなかった。それが今では、確認すべきところは確認しながら、途中で何を食べるか、どこへ寄るかを普通に話せる。
GRANZが「巨大な特殊車両」から「自分たちが旅に使う車」へ変わってきたのだと、優也は運転しながら感じていた。
◇
直売所へ寄ると、真琴は魚の加工品を見て回り、優也は土産物の棚でしばらく迷った末、両親用に菓子を一箱買った。予備室へ荷物を入れるようになってから、途中で買ったものを置く場所に困らなくなったため、以前より買い物もしやすい。
車へ戻り、真琴が予備室へ袋を置きながら言った。
「ここ、本当に便利になりましたね。最初は用途未設定って出て、どう使うか分からなかったのに」
「結局、寝室にも収納にも決めんかったの正解やったな。荷物多い日は荷物置いたらええし、誰か寝るならマット敷いたらええ。何もない日は空っぽでええし」
「固定しないから、使う人に合わせて変えられますね」
「こういうの、家でも一部屋欲しいわ」
「優也さんの家に作ったら、三日で物置になると思います」
「そこまで早ないって」
「一週間?」
「……それくらいかも」
真琴が笑い、優也も諦めたように笑った。
◇
昼前には海が見える道へ入り、視界の先に青い水面が広がった。道路自体は広く、交通量もそれほど多くない。優也は無理に急がず、景色がよく見える広い休憩場所を見つけるとGRANZを停めた。
外へ出ると風は少し冷たかったが、天気は良く、海面が光を反射している。二人はしばらく外で景色を見たあと、車内へ戻って窓際へ座った。
「こういうとき、この車で良かったって一番思うな」
優也がコーヒーを飲みながら言うと、真琴は窓の外へ目を向けたまま頷いた。
「移動してきたのに、着いたらそのまま部屋になる感じがありますよね。ホテルへチェックインするのとも違うし、普通の車で休憩するのとも違う」
「外は変わるけど、中はいつもの場所って感じやな。前も言うたけど、やっぱそれ好きやわ」
「私もです。知らない場所へ来ても、戻るところが同じなのは安心します」
優也はその言葉を聞きながら、少し前に父親が言った「これでどれだけ楽しい時間を作れるかや」という言葉を思い出した。高い車を買った価値は、車そのものにあるのではなく、ここで過ごす時間が積み重なることで初めて決まる。今なら、その意味がよく分かる。
◇
目的地の温浴施設へ着いたのは午後だった。広い区画へGRANZを収め、いつものように水平を確認してから、二人は少し遅めの昼食を取った。
地元の魚を使った定食を食べ、食後は海沿いを歩く。途中、小さな展望台のような場所があり、そこから海と道路を見下ろせた。
「GRANZ、あそこに見えるで」
優也が指すと、少し離れた駐車区画に停まる大きな車体が見えた。周囲の乗用車と比べると、やはり存在感がある。
「遠くから見ても大きいですね」
「乗ってると慣れるけど、外から見るとまだ『何あれ』感あるな」
「色が落ち着いてるから、派手には見えないですけど」
「そこは正解やったわ。真っ白とかピカピカやったら、もっと目立ってた」
二人はしばらく眺めていた。
優也はそこで、ふと気づいた。
「なあ、俺らずっとGRANZって呼んでるやろ」
「車名ですからね」
「いや、そうなんやけど。最近、なんかモデル名呼んでる感じするんよな」
真琴が少し考えるように優也を見る。
「つまり、愛称を付けたいんですか?」
「そう言われると恥ずいな。でも、ノート見ても『GRANZで一泊』『GRANZの通路』『GRANZの予備室』って書いてて、メーカーの型式名ずっと呼んでるみたいで。これだけ色々起きて、俺らの使い方も決まってきたら、何か名前あってもええんかなって」
「いいんじゃないですか。外に大きく書くかは別として、二人の中で呼ぶ名前くらいなら」
「せやんな」
そこで話は始まったが、すぐ名前が決まるわけではなかった。
◇
GRANZへ戻ってからも、優也はしばらく名前のことを考えていた。
「『秘密基地号』は?」
「却下です」
「早いな」
「四十五歳の男性が二億円のキャンピングカーを『秘密基地号』って呼んでるの、私は少し嫌です」
「そこまで言わんでもええやろ」
優也は笑いながらも、自分でも本気ではなかった。
「じゃあ『グランツくん』」
「もっと嫌です」
「厳しいなあ」
「優也さん、真面目に考えてます?」
「半分くらい」
真琴は呆れたように笑い、それから少し考えた。
「旅に関係する名前がいいんじゃないですか。家でもあるけど、もともとは旅するために買ったんでしょう?」
「せやな。『HOME』とか?」
「それだと家そのものですね。今のGRANZって、家だけじゃなくて移動することも含めて意味がある気がします」
優也もその言葉に頷いた。
車でもあり、家でもある。
外とつながる通信があり、外より広い空間まで持ち始めている。
それでも中心にあるのは、どこかへ行くことだった。
◇
夕方、温泉へ入り、食事を済ませてGRANZへ戻ると、二人はまたリビングで名前の話を続けた。
いくつか候補を出したが、どれも少し格好をつけすぎていたり、逆にキャンピングカーらしすぎたりしてしっくりこない。優也は英語の単語をいくつかスマートフォンで調べていたが、途中で「名前決めるだけでこんな時間かかるんやな」と笑った。
「子どもの名前じゃないんですから、そんなに悩まなくてもいいと思いますけど」
「でも、一回呼び始めたらずっと使うやろ。変なん嫌やん」
「じゃあ意味から決めたらどうですか。この車で何をしたいのか、何が一番この車らしいと思うのか」
真琴にそう言われ、優也はスマートフォンを置いた。
「何したいかって言われたら、あちこち行きたい。それだけやな。日本全部回るとか、いつかは遠いとこも行きたいし、親も乗せたい。真琴とも色んなとこ行きたい」
「それなら『旅』ですね」
「でも『TRAVEL』そのままはダサいやろ」
「そこは私も同意します」
「即答やな」
二人で笑ったあと、少し静かになった。
優也は、これまでGRANZで過ごした時間を思い返していた。最初は車内の通路が狭く、あと少しだけ広ければと思った。すると外寸を変えないまま内部が広がり、その後は四人で泊まった経験から予備室まで現れた。山では携帯が圏外になっても外とのつながりを失わず、別の旅では人の体調不良に立ち会い、車に積んでいたものや自分の仕事の経験まで役立った。
何か一つの機能だけで、この車を表すことはできない。
「なんかさ、この車って『越える』感じせえへん?」
優也が言うと、真琴が顔を上げた。
「越える?」
「うん。普通のキャンピングカーの範囲を越えるとか、そういう大げさな意味ちゃうで。家から出て、知らん場所まで行くやろ。圏外でも向こうとつながるし、外の大きさより中が広くなったりするし……なんか、こっちから向こうへ渡っていく感じ」
真琴は少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「境界を越える、みたいな意味ですか?」
「そんな格好いい言い方せんでもええけど、近いかも。普段の生活から旅へ行くのもそうやし、俺みたいなんがこんな車買って、今まで行かんかった場所へ行くようになったのもそうやし」
「じゃあ、『ACROSS』は?」
真琴が何気なく口にした。
優也は一瞬、聞き返さなかった。
「アクロス?」
「英語の across。向こう側へ、とか、横切って、とか、何かを越えてという感じです。今の話には近い気がします」
優也は小さく繰り返した。
「ACROSS……」
口に出したときの響きが、思ったより悪くなかった。
◇
すぐに「これに決定」とはならなかった。
優也は何度か声に出し、スマートフォンに文字で打ってみた。
『ACROSS』
短くて覚えやすい。
車名としても変ではない。
何より、今のGRANZに起きていることへ無理に意味を付けすぎていないところが気に入った。
「これ、ええかもしれん」
「私も好きです。『何を越えるか』を一つに決めなくていいですし」
「そこやな。旅の名前にもなるし、空間のこと知ってる俺らからしたら別の意味にも見える。でも外の人が聞いたら普通に旅っぽい名前で済む」
「それなら、秘密にしていることとも矛盾しませんね」
「外にでっかくロゴ貼るんはまだ嫌やけどな」
「貼らなくていいでしょう。まず呼ぶだけで」
「せやな」
優也は少し嬉しくなり、テーブルの上に置いていたノートを開いた。
◇
これまでのページには、ほとんど『GRANZ』と書かれている。
『GRANZ初一泊』
『通路拡張』
『予備室』
『通信設備』
『四人で一泊』
優也は空いているページを開き、上のほうへ書いた。
『GRANZ 8×8 Expedition』
『愛称候補――ACROSS』
真琴が横から覗き込む。
「まだ候補なんですか?」
「一晩寝かせる。こういうの勢いで決めたら、明日恥ずかしくなるかもしれんやろ」
「意外と慎重ですね」
「俺を何やと思ってんねん」
「思いついたら全盛りする人です」
「否定できへん」
二人で笑った。
ただ、優也は書いた文字を何度も見返した。
ACROSS。
不思議と、もう少し前からこの車に付いていた名前のようにも見えた。
◇
その夜は特に何も起きなかった。
予備室も変わらず、通路もそのまま、通信設備も普通の回線で終わった。優也は前方の降下式ベッド、真琴は後部の主寝室へ入り、GRANZは静かな夜を過ごした。
翌朝、優也が起きてリビングへ降りると、真琴はすでにコーヒーを淹れていた。
「おはようございます。名前、まだ恥ずかしくないですか?」
いきなり聞かれ、優也は笑った。
「朝一番でそれ聞く? でもまあ、まだ大丈夫やな。ACROSS、悪くない」
「じゃあ決定ですか?」
「……決定でええんちゃうかな」
真琴は少し笑って、カップを優也の前へ置いた。
「おはよう、ACROSS」
車内へ向けて、冗談っぽく言う。
何も返事はない。
当然だった。
「やめてや。車に話しかける人みたいやん」
「名前を付けたのに呼ばないんですか?」
「俺も付けた瞬間ちょっと恥ずかしくなってきた」
「慣れますよ」
優也はコーヒーを飲みながら苦笑した。
◇
朝食を終え、帰る準備をしながらも、二人は自然に新しい名前を試した。
「ACROSSの予備室に土産入れとく?」
真琴が言うと、優也は一瞬だけ笑ってから、「まだその言い方むず痒いな」と答えた。
「でも、GRANZって言うより『自分らの車』感はあるな」
「メーカーの車名と愛称を分けられるのは便利ですね。外ではGRANZ、二人ではACROSSでもいいですし」
「親にはそのうち言うかもな。母ちゃん絶対『なんでそんな名前なん』って聞くやろうけど」
「説明できます?」
「旅して色んなとこ越えて行くから、くらいでええやろ。空間の話までせんでええし」
「それなら自然ですね」
優也は予備室へ荷物を入れ、扉を閉めた。
名前が付いたからといって、車内が変わったわけではない。
それでも、少しだけ見え方が変わった。
◇
帰り道、海沿いを離れて市街地へ戻るころ、優也は運転しながら何度か新しい名前を頭の中で繰り返した。
ACROSS。
大げさな未来を背負わせるつもりはない。
今のところは、二人で旅をするための名前で十分だった。
真琴が助手席から聞いた。
「何か考えてます?」
「名前。意外としっくり来てるなと思って」
「昨日あれだけ悩んだ甲斐ありましたね」
「うん。あと、俺がGRANZ買う前から変わったこと多いなって。仕事は同じやし、家も同じやけど、休みにこんな車で出掛けるようになって、真琴と一緒に旅して、親まで乗せて。昔の俺からしたら結構向こう側やで」
「それもACROSSですか?」
「そうかもな」
優也は笑った。
真琴も何も言わず、少しだけ笑った。
◇
屋内車庫へ戻ると、優也はいつもの位置へ車体を収め、外周を確認してから車内へ戻った。今回の旅でも空間変化はなく、予備室も通信も応急手当用品も出番はなかった。
それで十分だった。
真琴が荷物をまとめながら、ふと聞いた。
「名前、ノートだけにします? 車内に小さく何か入れます?」
「うーん。外装にロゴはまだ要らん。メーカーのデザイン崩したくないし、目立つのも嫌や。でも車内のどっかに小さいプレートくらいなら、そのうち欲しいかも」
「玄関の内側とか?」
「それくらいならええな。でも急がん。名前付けたからグッズ作り始めたら、また全盛りって言われるやろ」
「先に自分で分かってるなら大丈夫です」
「信用されてへんなあ」
二人は笑いながら片付けを終えた。
片付けの途中、真琴が車内のコントロール画面へ目を向けると、そこには当然ながらメーカー名とGRANZの表記が残っていた。新しい名前を決めたからといって、システム側まで勝手に変わるわけではない。
「ここはGRANZのままですね」
「そらそうやろ。俺らが勝手に呼び始めただけやし、メーカーに『今日からACROSSです』言うても困るやろ」
「でも、こうして二つ名前があるのも悪くないですね。外から見たらGRANZで、私たちにとってはACROSS。秘密を隠すためというより、役割が違う感じがします」
「せやな。車種名と家の名前みたいなもんかもしれん。住所書くときに家へ名前付けんけど、住んでる側には呼び方ある、みたいな」
「少し違う気もしますけど、言いたいことは分かります」
優也は笑いながら、最後のバッグを予備室から取り出した。車名を変えたわけではなく、自分たちの中で呼び方が増えただけだと思えば、妙に気負う必要もなかった。
「ほな、次の旅からはACROSSで行くか」
「今もACROSSの中にいますよ」
「その言い方、まだ慣れへんなあ」
口ではそう言いながらも、優也の顔は少し嬉しそうだった。
◇
真琴が帰ったあと、優也は一人でリビングへ座り、ノートを開いた。
昨日『愛称候補』と書いたところを二本線で消し、その横へ書き直す。
『愛称――ACROSS』
その下には、名前を決めた理由を長々とは書かなかった。
『旅するため』
『境界を越えるため』
『何を越えるかは、その時々で変わる』
優也はそこまで書いてから、少し考えた。
もし将来、空間拡張がさらに進んだとしても、ACROSSという名前なら違和感はないだろう。何も進まず、今のまま普通のキャンピングカーとして使い続けたとしても、それはそれで旅の名前として成立する。
つまり、今の二人がこの車に求めているものと、これから何になるか分からない余白の両方を残せる名前だった。
優也はページの下へ、今回の旅についても簡単に記録した。
『海沿い一泊』
『特記事項なし』
『通信――通常』
『予備室――通常』
『応急用品――使用なし』
『空間変化――なし』
『名称――ACROSS』
最後の一行を書いたところで、少しだけ笑った。
特記事項なし。
何も起きなかった。
それなのに、今回の旅にはちゃんと意味があった。
GRANZというメーカーの車が、自分たちの中でACROSSになった。
機能が増えたわけでも、空間が広がったわけでもない。ただ名前を付けただけなのに、これまでの旅が一つの線につながったように感じられる。
最初は、巨大な8×8のキャンピングカーが欲しかった。
実際に手に入れて暮らしてみると、通路が狭く、荷物の置き場所に悩み、人が増えれば寝る場所も足りなくなった。そのたびに少しずつ使い方を変え、不思議な現象まで混ざりながら、車は当初の設計図とは違う存在になり始めている。
それでも優也にとって一番大事なのは、今日みたいに何も起きない日に、真琴と飯を食って、温泉へ入り、海を見て帰れることだった。
名前は、その時間へ付けたものなのかもしれない。
優也はノートを閉じると、リビングから車内を見渡した。
「じゃあ、これからよろしくな。ACROSS」
誰もいない車内で、小さく言ってみる。
当然、返事はなかった。
それでよかった。
今はまだ、ただの名前でいい。
いつかこの名前が、今よりずっと大きな意味を持つ日が来るのかもしれないが、少なくとも今日のところは、次にどこへ行くかを考えるための名前で十分だった。
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