ep.66 迷わないために
海側への一泊から戻って数日が過ぎても、優也の生活は特に変わらなかった。仕事へ行き、帰れば少しだけ問題集を開き、休みの日にはGRANZへ寄る。通信設備の扱い方を覚え始めたからといって、急に専門家になったわけでもなければ、車内に新しい機械が増えたわけでもない。ただ、以前なら「何となく付いているもの」だった装備が、少しずつ役割を持って見えるようになってきた。
それは通信だけではなかった。
入口近くの収納へ入れていた応急手当用品も、救命講習を受けたあとに揃え直したものの、普段はほとんど使う機会がない。優也自身、それでいいと思っていたし、包帯や手袋が減らないことを「もったいない」と感じるようなものでもない。必要にならないなら、そのほうがずっといい。
ただ、西村から通信の話を聞いたときと同じで、「持っていること」と「必要なときに迷わず使えること」は別だという感覚は、少しずつ強くなっていた。
次の休み、真琴とGRANZで出掛ける準備をしながら、優也は入口脇の収納を開け、救急用品のケースを一度取り出した。
「これ、場所ここでええと思う?」
真琴は冷蔵庫へ飲み物を入れる手を止め、ケースの位置を見た。
「取りやすいと思いますよ。後ろの収納へ入れるよりは、入口からすぐ取れますし。どうしたんですか、急に」
「いや、通信の手順まとめてたら、こっちも同じやなと思って。あるだけやったら意味ないし、どこ入れたか毎回探すん嫌やろ」
「それはそうですね。ただ、薬みたいに管理が必要なものまで増やし始めるのはやめてくださいね。優也さんが持っていていいのは、あくまで一般的な応急手当用品の範囲で十分です」
「分かってる。そこは真琴おるからって何でも医療車みたいにする気ないで。手袋とかガーゼとか、講習で使うようなやつだけ」
「ならいいです。むしろ、何が入っているか優也さん自身が分かっているほうが大事だと思います」
真琴にそう言われ、優也は中身を一度確認してから元の位置へ戻した。新しく何かを増やしたわけではない。ただ、「ここにある」と自分で分かっただけで、少し安心した。
◇
今回の行き先は、海沿いにある小さな温浴施設だった。前回よりさらに気楽な一泊で、通信設備が活躍するような場所でもなく、道路も比較的走りやすい。優也は出発前の確認を済ませると、いつものように真琴を助手席へ乗せ、GRANZを車庫からゆっくり出した。
「今日はほんまに何も起きん日で頼むわ」
優也がそう言うと、真琴はシートベルトを確認しながら笑った。
「最近それを言うと、逆に何か起きそうな気がします」
「やめて。俺は温泉入って魚食って寝たいだけや」
「私も同じです。予備室も通信も、今日は出番なしでいいです」
「それが一番平和やな」
市街地を抜け、海側へ向かう道へ入る。天気は穏やかで風も強くなく、空には薄い雲が広がっている程度だった。優也は運転に集中し、真琴は途中で見つけた店や景色の話をする。通信表示も普通、車内も普通、通路も予備室も変化なし。その「普通」が、最近では少しありがたく感じられるようになっていた。
◇
昼過ぎに目的地へ着き、GRANZを区画へ収めたあと、二人は施設の食事処で遅めの昼食を取った。海が近いこともあり、優也は焼き魚の定食を選び、真琴は刺身の付いた御膳を頼んだ。
「こういうのでええねん。結局、旅って飯うまくて風呂あったらかなり満足できる」
「お母さまと同じこと言ってますよ」
「血やな」
「そこは認めるんですね」
二人で笑いながら食事を終え、そのあと海沿いを少し歩いた。観光地というほど人は多くなく、施設の利用客と、近くの駐車場で休憩している車が何台かある程度だった。
夕方が近づくにつれて空気が少し冷え、二人は早めにGRANZへ戻った。優也がコーヒーを淹れ、真琴は窓際で持ってきた資料を少し読んでいる。車内には特別な出来事もなく、時計だけがゆっくり進んでいた。
「こういう日が一番ええかもしれんな」
優也がソファへ深く座りながら言うと、真琴も顔を上げた。
「何も起きない日ですか?」
「そう。走って、飯食って、ちょっと歩いて、風呂入る。せっかく車完成したんやし、本来これがやりたかったんよなって」
「最近は空間が広がったり、通信を確認したり、いろいろありましたからね」
「面白いけど、そればっかりやと疲れるわ」
「優也さんが自分で試したがるからでしょう」
「それ言われたら終わる」
真琴が笑い、優也も苦笑した。
◇
夕方、温泉へ行く前に飲み物を買おうと二人で車外へ出たところで、少し離れた区画から女性の声が聞こえた。
「すみません、誰か……!」
優也と真琴はほぼ同時に振り向いた。
隣の列に停まっていた普通乗用車の脇で、年配の男性が地面へ座り込むような姿勢になっており、その横で同年代らしい女性が慌てている。周囲にも何人か人はいたが、何が起きたのか分からず、少し距離を取って見ていた。
真琴の表情が変わった。
「行きます」
「うん」
二人は走りすぎない程度に急いで近づいた。
「どうされました?」
真琴が声を掛けると、女性は「急にふらっとして、立てなくなって」と答えた。男性は意識を失っているわけではなく、呼びかけには反応しているが、顔色が良いとは言えない。
真琴は自分が医師免許を持っていることを簡潔に伝えたうえで、男性へ声を掛けながら様子を確認し始めた。優也はその横で何か手伝おうと一歩前へ出かけたが、すぐに止まった。
自分が診断する場面ではない。
「俺、何したらええ?」
小さく聞くと、真琴は男性から目を離さず答えた。
「施設の人を呼んでください。それと、救急車をお願いしたほうがいいです。場所を正確に伝えて、入口で案内できるようにしてください。あと、応急手当のケースに手袋があるなら持ってきてもらえますか」
「分かった」
それだけ聞けば十分だった。
◇
優也はまず近くにいた施設スタッフへ声を掛け、状況を伝えた。スタッフが救急車を要請する間にGRANZへ戻り、入口脇の収納から応急手当用品のケースを取り出す。
数時間前に場所を確認したばかりだったため、探す時間はほとんどかからなかった。
「こういう時に使うんかよ……」
誰に言うでもなく呟き、ケースを持って戻る。
真琴は男性の状態を見ながら、女性から持病や服薬について分かる範囲で話を聞いていた。優也はケースを渡し、そのあとは真琴の邪魔にならない位置へ下がった。
「優也さん、救急車は?」
「施設の人が要請してくれてる。入口からここまで少し分かりにくいから、俺そっち行って案内するわ」
「お願いします。あと、人が集まりすぎないようにだけ見てもらえれば」
「了解」
優也は周囲へ目を向けた。
野次馬というほどではないが、心配して近寄ってくる人が増えている。優也は「救急車呼んでます。通路だけ空けてもらっていいですか」と声を掛け、車両が入れる幅を確保した。
仕事で道路工事の交通誘導をしているときと、やっていることは少し似ていた。状況を見て、人が重ならないようにし、進む場所を空ける。違うのは、今日は工事車両ではなく救急車が来ることだった。
◇
救急車のサイレンが近づいてきたのは、それほど長く待たないうちだった。
優也は施設入口まで出て、スタッフと一緒に進入方向を示した。大型車が停まっている区画もあるため、狭いところへ無理に入らせないよう、いちばん通りやすい経路を指して現場まで案内する。
救急隊が到着すると、真琴はそれまでに分かったことを簡潔に伝え、すぐに場所を譲った。そこから先は救急隊が対応し、男性は担架へ移されて車内へ運ばれていった。
付き添っていた女性は何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございます。急にしゃがみ込んでしまって、どうしたらいいか分からなくて……」
真琴は「救急隊の方にしっかり見てもらってください」と答え、優也も「こっちは大丈夫なんで、付き添ってあげてください」と言った。
女性は男性と一緒に救急車へ乗り、車両はほどなく施設を出ていった。
サイレンの音が遠ざかると、さっきまで緊張していた空気がゆっくり戻ってくる。
優也は大きく息を吐いた。
「……なんか、終わったら急に力抜けた」
「私もです」
真琴も少し疲れたように笑った。
◇
二人はGRANZへ戻り、使ったものを整理した。応急手当用品のケースはほとんど開けただけで、必要だったのは手袋などごく一部だったが、優也は中身を確認してから元の場所へ戻した。
「俺、ほんま何もしてへんな」
ソファへ座りながら言うと、真琴が首を振った。
「そんなことないですよ。施設の人を呼んで、救急車の動線を作って、必要なものを持ってきてくれたでしょう。私が男性のそばを離れずに済んだのは、そのおかげです」
「でも、医学的なことは全部真琴やん。俺、手ぇ出したら邪魔なるだけやったし」
「それでいいんです。優也さんが医療判断までしようとしたら、そのほうが困ります。できることを分けたから早かったんですよ」
その言葉を聞き、優也は少し黙った。
救命講習を受けたり、応急手当を覚えたりすると、いざというときに何か特別なことをしなければならないような気分になっていた。しかし実際には、今日の自分がやったことの大半は、誰かを治すことではない。
人を呼ぶ。
場所を伝える。
必要な道を空ける。
頼まれた物を持っていく。
それだけだった。
「講習受けた意味って、もっとこう、倒れてる人に何かすることやと思ってたわ」
「もちろん必要なら応急手当をする場面もあります。でも、全部を一人でやるために覚えるわけじゃないでしょう。今日みたいに、できる人へ早くつなぐのも大事です」
「通信の話と一緒やな」
「どういう意味です?」
「西村に『一番特殊なもんから使うな、順番や』って言われたやろ。今日も同じで、俺がいきなり何か医療っぽいことするんやなくて、真琴おるなら真琴に任せて、救急車呼んで、俺は周り動かす。できることの順番というか、役割というか」
真琴は少し考えたあと、静かに頷いた。
「それはかなり近いと思います」
◇
少し落ち着いてから、二人は予定どおり温泉へ行くことにした。何となく気持ちがざわついたままだったが、施設スタッフからも「こちらは大丈夫です」と言われ、現場に残っていてもできることはない。
風呂上がりにGRANZへ戻ると、優也は冷蔵庫から水を取り出し、一気に半分ほど飲んだ。
「こういうあと、酒飲む気にならんな」
「今日はやめておいたほうがいいと思います。疲れてますし」
「うん。飯だけ食ってゆっくりしよ」
夕食は車内で簡単に済ませた。話題は自然と先ほどの出来事へ戻ったが、二人とも男性の状態を勝手に推測することはしなかった。
「結局、何やったんやろなって気になるけど、俺らが決める話ちゃうもんな」
「はい。症状だけで決めつけるのは危ないですし、救急隊に引き継いだところで私たちの役目は終わりです」
「真琴も、ああいうの久しぶりやった?」
「研究に移ってからは、日常的に患者さんを見る生活ではないですからね。だからこそ、自分が何でもできると思わないようにはしてます」
その言い方に、優也は少し意外そうな顔をした。
「医者でも?」
「医師免許があることと、どんな状況でも何でも一人で対応できることは別です。必要なら救急の専門家へつなぐし、病院で検査が必要ならそこへ行ってもらう。今日も、私がその場で結論を出す必要はありませんでした」
「なるほどな……」
優也は箸を置き、しばらく考えた。
真琴ですら「できる範囲」を決めている。
それなら、自分が無理に役割を広げる必要はもっとない。
◇
翌朝、施設スタッフから「昨日の方、付き添いの奥さまから連絡があって、大事には至らなかったそうです」とだけ聞いた。詳しいことまでは当然分からなかったが、それで十分だった。
優也はほっと息を吐いた。
「良かったな」
「はい」
真琴も安心したように笑った。
GRANZへ戻り、朝食を取りながら、二人は昨日の動きを振り返った。
「一個だけ思ったんやけど、救急用品の場所、入口脇で正解やったわ。後ろの収納やったら、取りに行くのにもっと時間かかった」
「そうですね。昨日みたいに外で何か起きたときは、玄関からすぐ取れるほうがいいです。ただ、これ以上いろいろ増やして入口がごちゃごちゃするのは逆効果なので、今の量でいいと思います」
「そこやな。何でも増やしたらええわけちゃう。通信もそうやけど、必要なときに使えるよう整理しとくほうが大事やな」
「昨日は本当に、その考え方がそのまま出ましたね」
優也は頷きながら、予備室の扉へ目を向けた。
「予備室も、こういうとき荷物逃がせるから入口周り空けやすいんよな。最初は寝る場所増えただけと思ってたけど、役割決めへんかったから便利なんかもしれん」
「必要なものをすぐ動かせる余白として使えますね」
「全部つながってくるなあ」
優也は少し笑った。
◇
帰り道は穏やかだった。
前日の出来事があったからといって、優也が急に慎重になりすぎることもなく、いつもどおり大きな道を選び、休憩を挟みながら大阪へ戻る。真琴も助手席で普段と変わらず話し、途中から昨日の話より、次に両親をどこへ連れていくかという話題のほうが長くなった。
「母ちゃん、海も好きやけど温泉優先やからな。海沿いで温泉あるとこ探したら一発やろ」
「お父さまは景色を見たいって言ってましたよね」
「ほな海見えて温泉あって飯うまいとこ。要求増えたな」
「優也さんの全盛りと同じじゃないですか」
「家族やなあ」
二人で笑った。
昨日の出来事を引きずりすぎず、普通の話へ戻れることが優也にはありがたかった。誰かが体調を崩したからといって、旅そのものを怖がる必要はない。むしろ、何かあったときにどう動けばいいか一度経験したことで、以前より少し落ち着いていられる気がした。
◇
屋内車庫へ戻ると、優也は荷物を降ろす前に応急手当用品のケースを取り出し、真琴と一緒に中身を確認した。使ったものだけ補充する必要があるが、ほとんどはそのままでよく、配置も変えないことにした。
「結局、追加するもんほぼないな」
「それでいいと思います。必要以上に医療用品を増やしても、管理できなければ意味がないですし」
「通信と同じやな。機械増やすより、今あるやつ分かっとけって西村に言われたし」
「最近、全部そこに戻ってきますね」
「俺が全盛りしすぎた反動かもしれん」
優也が笑うと、真琴も笑った。
そのあと、二人は玄関付近の動線だけを少し見直した。救急用品のケースはそのまま手前に置き、上へ別の荷物を重ねない。懐中電灯や雨具など、外へすぐ持って出たい物も近い場所へまとめるが、細かく分類しすぎて探しにくくならないよう、大きな役割だけで分けることにした。
「これなら俺でも覚えられる」
「そこが基準なんですか?」
「俺が使う車やから一番大事やろ」
「それは確かにそうです」
真琴は笑いながらも同意した。
◇
片付けが終わり、真琴が帰ったあと、優也はリビングへ座ってノートを開いた。今回も空間拡張に変化はなく、通信設備も普通の回線だけで終わった。それでも書いておきたいことは多かった。
『海側一泊』
『夕方、近くの利用者が体調不良』
『真琴――初期対応』
『施設スタッフへ連絡/救急要請』
『優也――物品運搬、周囲整理、救急車誘導』
『救急隊へ引継ぎ』
『翌朝、大事には至らなかったと施設側より確認』
『応急手当用品――入口脇配置で問題なし』
『追加装備はせず、使用分のみ補充』
そこまで書いたところで、優也はペンを止めた。
自分がやったことを並べてみても、派手なものは一つもない。胸骨圧迫をしたわけでも、難しい処置をしたわけでもなく、誰かを担いで走ったわけでもない。しかし、昨日の場面で「何もできなかった」とはもう思わなかった。
自分が医師ではないことを分かっていたから、真琴へ任せられた。
救急隊ではないから、早く呼ぶことを優先できた。
道路工事の交通誘導で人や車の流れを見ることには慣れていたから、救急車が入りやすいよう周囲を空けることができた。
通信や救命の勉強をしていたからこそ、何でも自分でやろうとせず、次へつなぐことの意味も少し理解できた。
優也はページの下へ一行書いた。
『できることを増やすより、できないことを知っておく』
書いてから、少し硬いなと思って横へ補足した。
『そのうえで、動けるところは迷わず動く』
こっちのほうが自分には合っている気がした。
◇
その夜、自宅へ戻ってからも、優也はしばらく昨日のことを思い出していた。体調を崩した男性の顔ではなく、自分がGRANZへ戻って救急用品のケースを掴んだときの感覚や、救急車の進路を空けながら周囲へ声を掛けたときのことが、妙に具体的に残っている。
あのとき「何したらええ?」と真琴へ聞けたことも、今になれば大事だったと思う。
分からないまま勝手に動くより、必要なことを聞く。
それは格好悪いことではない。
むしろ、現場で一番邪魔になるのは、分からないのに分かったふりをして役割を増やすことなのかもしれない。
通信のときもそうだった。接続が切れたら、まず停まる。普通の経路を確認し、代わりが生きていればそれを使い、分からない機器には手を出さない。必要なら専門家へつなぐ。
昨日の出来事も、形が違うだけで同じだった。
優也は机の端に置いた問題集へ目を向けた。今日は勉強を休んでもいい気がしたが、結局五問だけ開いた。
全部できるようになるためではなく、必要なときに次の一手を間違えないために知っておく。そのくらいなら、自分にも続けられそうだった。
考えてみれば、道路工事の交通誘導でも同じだった。自分一人で道路全体を動かしているわけではなく、現場監督や作業員、反対側の誘導員と役割を分け、見えている範囲で確実に合図をつなぐから車を安全に流せる。昨日も、真琴と救急隊と施設スタッフの間で、自分にできるところだけを受け持ったから動けたのだと思うと、特別なことをしたというより、普段の仕事で身につけた感覚を別の場所へ持っていけただけなのかもしれなかった。
そう思えば、救命や通信を学ぶことも急に大げさではなくなる。新しい肩書きを増やすためではなく、旅先で何かあったときに「自分はここまでなら動ける」と判断できる範囲を少しずつ広げておく。それ以上が必要なら、迷わず次の人へ渡せばいい。
GRANZは少しずつ広がり、装備の意味も少しずつ増えている。それでも、その中心で必要なのは派手な能力ではなく、誰が何をするのかを決め、無理なことは無理だと言えることなのだろう。
優也は問題集を閉じると、次の休みには本当に何も起きない旅がしたいと思いながら、少しだけ笑った。
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