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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
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ep.57 一晩ぶんの家


 納車から最初の慣らしを終えた翌週、優也と真琴は、ようやくGRANZで一泊してみることにした。目的地は遠くない。大阪から無理なく走れて、大型車でも入りやすく、温泉と食事を楽しめる場所を優先して、今回は郊外の温浴施設に隣接したRV向けの区画を予約した。観光地をいくつも回る予定は入れず、昼すぎに出発して夕方までに到着し、風呂に入って食事をして、そのまま車内で一晩過ごすだけである。


 優也は最初、「せっかくならもうちょい遠く行ってもええんちゃうか」と少しだけ考えたが、真琴から「最初の目的は旅行じゃなくて、一晩使ってみることですよ」と言われ、素直に近場へ決めた。


 その判断は、荷物を積み始めた時点で正しかったと分かった。


「一泊やのに、意外と考えることあるな」


 車庫の中で、優也は開いた収納を見ながら呟いた。着替え、洗面用品、飲み物、簡単な朝食、コーヒー、タオル、充電関係。どれも大した量ではないが、初めて泊まるとなると「これは要るか」「これは車庫に置いたままでいいか」と一つずつ考えてしまう。


 真琴は自分の荷物を小さなバッグ一つにまとめ、キッチン横の空いている収納へ入れながら笑った。


「優也さん、また『念のため』が増えてません?」


「今日は泊まりやぞ。前回とは違うやろ」


「だからってタオルを何枚も持っていく必要あります?」


 真琴が重なったタオルを持ち上げると、優也は一枚ずつ指で数えながらもっともらしく説明した。


「風呂用、シャワー用、予備」


「温泉にもタオルありますよ」


「……一枚減らすわ」


 優也が渋々一枚を車庫の棚へ戻すと、真琴は満足そうに頷いた。荷物を積み終えたあと、出発前の確認を済ませ、優也は運転席へ座った。真琴も助手席へ乗り込み、いつものようにシートベルトを締める。


「今日は、ちゃんと一泊して帰ってくるまでが練習やな」


「そうですね。夜に使って、寝て、朝起きたら何が気になるか分かると思います」


「朝起きて『やっぱ家の布団が一番や』ってなる可能性もあるけどな」


「それはそれで正直な感想でいいと思います」


 二人で笑いながら、優也はGRANZをゆっくり車庫から出した。


          ◇


 道中は、前回の慣らしよりさらに落ち着いていた。運転そのものにまだ緊張はあるが、車体の感覚は少しずつ身体に入ってきている。右左折で必要以上に肩へ力を入れることも減り、ミラーを見る視線にも余裕が出てきた。それでも細い道へ入ることは避け、多少遠回りでも大型車が通りやすいルートを選ぶ。


 真琴は助手席で地図を見ながら、ときどき次の曲がり角や混み具合を伝えてくれた。


「前より会話できるようになりましたね」


「納車の日なんか、信号止まるまで喋る余裕なかったからな。今はだいぶマシ」


「でも運転中に話しすぎないようにします。私も景色見たいですし」


「それがええ。俺も前見たい」


「それは絶対見てください」


 優也は笑い、再び前方へ意識を戻した。市街地を抜けるにつれて、窓の外に見える建物の密度が少しずつ下がっていく。遠くの山が近づき、道路脇の景色も変わってくると、まだ一時間ほどしか走っていないのに旅行らしい気分が出てきた。


「近場でも、十分旅した感じするな」


「場所というより、GRANZで出てきたことのほうが大きいんじゃないですか?」


「それやな。普通に電車で来たら日帰り感あるのに、今日は帰らんって決めてるだけで違うわ」


 真琴も小さく頷いた。目的地までの距離は短い。それでも、今夜はこの車の中で眠る。たったそれだけのことが、二人にとってはこれまでの移動と大きく違っていた。


          ◇


 予約していた区画へ到着したのは、まだ日が高いうちだった。受付を済ませて案内された場所は、GRANZを停めても周囲に余裕があり、乗り降りや荷物の出し入れにも困らない広さがあった。隣の区画との距離もあり、初めての一泊にはちょうどいい。


 優也は真琴に一度外へ出てもらい、合図を見ながらゆっくり車体を収めた。車庫へ入れるときより開けた場所なので気持ちは楽だが、それでも停車位置が決まるまでは慎重に動く。


「このへんで大丈夫です。右側も余裕あります」


「了解」


 停車位置が決まると、優也はパーキングブレーキと周囲を確認してから十五インチの統合操作パネルを開いた。車体姿勢の表示には、右後方へわずかな傾きが出ている。寝られないほどではないが、せっかく六点式の油圧オートレベリングがあるのだから、初泊で使わない理由もなかった。


「これくらいなら、そのままでも寝れそうやけどな」


「付けた設備を最初から使わないんですか?」


「それ言われたら使うしかないやん」


 優也がAUTO LEVELを選ぶと、床下から低い油圧ポンプの作動音が伝わり、前二本、中央二本、後ろ二本のジャッキが順に接地していった。車内で感じる動きは大きくなく、右後方がほんの少し持ち上がったあと、前後の支点が細かく姿勢を整える。画面上の傾斜表示が中央へ収まるころには、床に立った感覚からもわずかな斜めが消えていた。


 優也は操作を終え、わざとリビングまで歩いてみた。さっきまでは車内を移動するとタイヤとサスペンションに残った柔らかな揺れが返ってきたのに、六点で支えられたあとは大きな車体が地面へ落ち着いたように揺れが少ない。


「……これ、水平になるより揺れ止まるほうが分かりやすいな」


「私が歩いても、さっきより動かないです。長く停まるならこっちのほうが楽そうですね」


「うん。これ付けて正解やわ」


 ただ便利だからと無理に持ち上げる装置ではなく、六本で荷重を分けながら停車中の姿勢を整える。その役割が、説明を聞いたときよりずっと分かりやすく身体へ入った。


 優也は運転席を回転させ、ようやくシートベルトを外した。


「着いたな」


「着きましたね。今度は帰らなくていいですよ」


「それ、なんかええな」


 玄関を開けて外へ出ると、空気が少しひんやりしていた。車体の周囲を一周して問題がないことを確認し、それから二人は再び中へ戻った。運転している間は大きな車だったGRANZが、停まった瞬間から生活の場所へ変わっていく。優也はその切り替わりが気に入っていた。


          ◇


 荷物を必要な場所へ移し、冷蔵庫へ飲み物を入れると、二人はまず温泉へ行くことにした。


「先に飯でもええけど、風呂入ったらもう運転せんでええしな」


「今日はお酒飲むんですか?」


「一杯くらいな。せっかく泊まりやし」


「飲みすぎなければいいと思います。明日の朝は運転がありますから」


「そこは分かってるって」


 施設の大浴場でゆっくり温まり、優也が先にGRANZへ戻ってしばらくすると、真琴も戻ってきた。濡れた髪を軽くまとめ、普段より力の抜けた服装になっている。工場や大学で会うときとは違う雰囲気に、優也は一瞬だけ目を向けたあと、何でもないふりをして冷蔵庫を開けた。


「ビール飲む?」


「私はいりません。お茶でいいです」


「了解」


 優也は一本だけ取り出し、真琴には冷えたお茶を渡した。二人でテーブルへ座り、温浴施設で買ってきた夕食を広げる。豪華な料理ではないが、温かい惣菜とご飯があり、湯上がりには十分だった。


「いただきます」


「いただきます」


 優也が缶を開けると、小さな音が車内に響いた。


「これやな」


「何がです?」


「やりたかったやつ。風呂入って、車戻って、運転せんでええ状態で一杯飲む」


「ずいぶん具体的な夢だったんですね」


「こういうのでええねん。高級ホテル泊まりたいわけちゃうし」


 優也は一口飲み、満足そうに息を吐いた。真琴も笑いながら箸を進める。窓の外は少しずつ暗くなり、外灯の明かりが見え始めていた。優也が統合操作パネルから夜側の照明シーンへ切り替えると、リビング中央のEWINDOW EW3120が昼間の白さをゆっくり失い、少し暖かい色へ落ち着いた。キッチン上のもう一基は作業面が見える明るさだけを残し、ソファ側は眩しさを抑える。


 普通の天井灯なら、暗くなった車内へ光が足されるだけだろう。EWINDOWは少し違った。天井そのものが明るくなるのではなく、その向こうから光が差してくるようにテーブルやソファへ明暗が落ち、同じ内装なのに夜の部屋へ切り替わったことがはっきり分かる。


「これ、思ってたより効くな」


 優也が天井を見上げると、真琴も同じように視線を上げた。


「工場で見たときより分かりやすいです。外が暗くなって初めて、普通の照明と違う感じがしますね」


「照らされてるっていうより、外の時間を中に持ってきてる感じやな」


「それ、ちょっと分かります」


 優也は満足そうに頷き、それから窓のほうへ目を向けた。


「ブラインド閉めよか。中丸見え嫌やし」


 二人で必要な窓だけ閉じていく。その作業さえ、初めての夜には少し楽しかった。


          ◇


 食事が終わるころには、優也の緊張もほとんど消えていた。使った容器を片付け、テーブルを拭き、真琴がキッチン側で飲み物を用意している間に、優也は冷蔵庫から水を取ろうと立ち上がった。そこで、前回と同じように通路の中央で二人の動きが重なった。


「またやな」


「今度は夜で、ちょっと荷物も出てますから余計ですね」


 真琴が一歩下がり、優也が先に通る。冷蔵庫を開けると、今度は扉の分だけさらに通路が狭くなり、真琴はキッチン側で少し待つことになった。


「使えへんわけちゃうけど、二人同時に動くとやっぱ気ぃ使うな」


「昼間より分かりやすいですね。ご飯のあとって、片付ける人と飲み物取る人で動きが重なりますし」


「まあ、一人ずつやれば済む話やけどな」


「今はそれで大丈夫です。でも毎日ここで暮らすなら、ちょっと気になるかもしれません」


 真琴の言葉に、優也も頷いた。納車前から分かっていたことだったし、収納や設備を削ってまで通路を広げる選択はしなかった。それ自体を後悔しているわけではない。ただ、設計図で「狭い」と分かることと、夜の生活の流れの中で何度も譲り合うことは、少し違う。


 優也は水を取り出し、扉を閉めて道を空けた。


「まあ、これも含めて慣れやな。最初の一泊で文句言うほどではないわ」


「私もそう思います。ただ、こういうのが積み重なるんでしょうね」


「何が?」


「実際に暮らして初めて分かることです」


 真琴はそう言って、キッチンへ戻った。優也は何となく、その言葉を覚えておこうと思った。そのあと歯を磨きに立ったついでに、優也は初めて旅先でClesanaを使った。設計中も納車説明でも何度も仕組みは聞いていたが、実際に使うのは初めてで、終わったあと反射的に水を流す動作を探しかけて自分で苦笑する。


 操作すると短い駆動音が続き、水が流れる代わりに内部でライナーが送られ、使った部分が密封されて処理された。水洗便器のような大きな流水音もなく、処理が終われば使用後の臭いが個室へ残る感覚もほとんどない。


「……これ、地味にめっちゃ楽やな」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。設計段階では、ブラックタンクが不要になるとか、床下配管を減らせるといった話ばかり気にしていた。けれど実際に旅先で使ってみると、価値はもっと単純だった。汚物を溜めたブラックタンクを抱えたまま走ることも、専用の汚水排出場所を最初から気にすることもない。消耗品の管理は必要でも、それさえ分かっていれば日常のトイレに近い感覚で使える。


 豪華さとは少し違うが、旅先で避けたい面倒を一つ消してくれる設備なのだと、優也は使ってみて初めて実感した。


          ◇


 夜が深くなってきたところで、寝る準備を始めた。二人はまだ恋人同士ではない。GRANZには後部の主寝室があるが、最初の一泊から同じ場所で寝る理由はなかったため、真琴が後部のベッドを使い、優也は前方の降下式ベッドを使うことにしていた。


「ほんまに俺が上でええの?」


「優也さんの車なんだから、主寝室を使えばいいじゃないですか」


「いや、真琴ゲストやし。俺あの上のベッド使ってみたいねん」


「そっちが本音ですね」


「バレた?」


 真琴が笑う。優也は前方のベッドを下ろし、位置を調整した。工場で動作を見たときにも面白がっていたが、実際に寝るために下ろすと、車内の見え方が変わる。リビング側の一部が夜の形へ変わり、「走る」「過ごす」「寝る」で同じ空間が役割を変えることが実感できた。


「秘密基地感あるやろ」


「楽しそうですね」


「めっちゃ楽しい」


「四十代後半とは思えない顔してますよ」


「ほっとけ」


 優也は笑いながらベッドへ上がった。天井との距離は十分にあり、寝返りも問題ない。側窓のブラインドを閉めたあと、頭上の広い天窓だけはシェードを少し開けて残した。暗くなった空がスモーク越しに見え、外からの光を抑えながらも、横になったまま夜空を見上げられる。真琴は後部へ向かい、主寝室へ入る前に一度だけ天井の操作へ触れた。中央のモニター収納部を避けるように入れた左右のBS-EW3150が低い明るさで点き、細長い二本の光がベッドの左右へ柔らかく落ちる。


「これ、工場で見たときより寝室向きですね」


 真琴がベッドへ腰を下ろしながら言った。


「眩しくない?」


「大丈夫です。真ん中に強い照明がないから、横になって上を見ても目に入りにくいです。それに、部屋全体を白くしないのがいいですね」


「ほな採用成功やな」


「かなり」


 設計中は大型モニターと干渉させないために左右へ逃がした照明だったが、実際にはその配置自体が寝る前の明るさに合っていた。優也は入口から一度だけ室内を見回し、少し満足してから手を上げた。


「何かあったら呼んでな」


「それ、さっき私が言おうとしてた台詞です」


「先に言うたもん勝ちや。おやすみ」


「おやすみなさい」


 主寝室の扉が閉まり、車内が静かになった。


          ◇


 優也はすぐ眠れると思っていた。ところが、ベッドへ横になって目を閉じると、普段の部屋とは違う小さな音が気になった。外を歩く人の足音が遠くに聞こえ、ときどき別の車のドアが閉まる音がする。風が少し強くなると、車体の外を空気が流れる気配も感じる。


 うるさいというほどではなく、むしろ自分がいつもの家ではない場所にいることを思い出させる程度の音だった。優也は仰向けのまま、頭上の天窓へ目を向けた。雲の切れ間にわずかな星が見え、その向こうに夜の空が広がっている。今日ここまで自分で運転してきた。温泉へ入り、飯を食い、ビールを飲み、今は自分の車の中で空を見ながら寝ようとしている。数年前なら、想像しているだけで笑っていたかもしれない。


「ほんまに旅してるやん」


 小さく呟き、優也は目を閉じた。しばらくすると、外の音も気にならなくなった。


          ◇


 翌朝、優也はいつもより少し早く目を覚ました。最初に見えたのは自宅の天井ではなく、キャビンベッド上部の天窓越しに薄く明るくなり始めた空だった。数秒だけ場所が分からず、それから昨夜のことを思い出す。


「……ああ、GRANZか」


 寝起きのまま笑った。ベッドを降りると、車内はまだ静かだった。真琴は後部で眠っているらしい。優也は音を立てないようにキッチンへ向かい、コーヒーの準備を始めた。ところが、豆やカップを出している途中で主寝室の扉が開き、真琴が眠そうな顔で出てきた。


「おはようございます」


「おはよう。起こした?」


「いえ、ちょうど起きたところです」


 真琴はまだ完全に目が覚めていない様子で、キッチンへ向かおうとした。優也はコーヒー道具を出したまま冷蔵庫を開けようとしており、真琴は洗面側へ行こうとしている。朝の狭い通路で、また二人の動きが重なった。


「……朝もこれか」


「夜より忙しいですね」


「俺コーヒー、真琴洗面。完全にぶつかるな」


 二人とも笑ったが、少しずつ譲り合わなければ動けないことは昨日よりはっきり感じられた。真琴が先に洗面を使い、その間に優也がコーヒーを淹れる。戻ってきた真琴が冷蔵庫を開けると、今度は優也が一歩避ける。使えないわけではない。それでも、二人で朝の支度をすると、この通路の幅が生活のテンポを決める。


「一人やったら全然気にならんと思う」


「二人だと、相手が今どこにいるか見ながら動く感じですね」


「まあ、まだ笑える範囲やけどな」


「はい。でも昨日よりは気になります」


 優也も同じだった。不満というほどではない。けれど、もし少しだけ広ければ楽なのに、とは思った。


          ◇


 朝食は簡単に、パンとサラダ、コーヒーで済ませた。窓のブラインドを開けると、朝の光が車内へ入り、夜とはまるで違う空間に見える。外では他の利用者が帰る準備を始めていたが、優也たちは急がなかった。


「寝心地どうやった?」


「普通に寝られました。ベッドも思ってたより良かったです。優也さんは?」


「俺も。最初、外の音ちょっと気になったけど、そのうち寝てた。上のベッド気に入ったわ」


 コーヒーを飲みながら、優也は前方の降下式ベッドが収まった天井を見上げた。真琴もつられるように視線を上げる。


「じゃあ次もそこですか?」


「いや、主寝室も一回使ってみたい」


「交換します?」


「それもありやな」


 そんな話をしながら朝食を食べる。特別な料理ではないし、窓の外に絶景が広がっているわけでもない。それでも優也は、昨日の夜よりさらにこの車を身近に感じていた。一晩眠るというのは、思っていた以上に大きい。夜に照明を落とし、歯を磨き、トイレへ行き、ベッドへ入り、朝になったら顔を洗ってコーヒーを淹れる。旅行の派手な部分ではなく、普段の生活と変わらない時間を一通り過ごしたことで、GRANZがようやく「泊まれる車」ではなく「暮らせる場所」になったように感じられた。


          ◇


 出発前、二人は車内を片付けながら、初めての一泊で気づいたことを話した。


「シャワー、今回は使わんかったな」


「温泉があったからですね。次は使ってみてもいいと思います」


「冷蔵庫は十分。ベッドも問題なし。朝のコーヒーも最高。問題は……」


「通路ですか?」


「やっぱそこやな。でも今すぐどうこうするほどちゃう。二人で動く時間だけ気ぃつけたら済むし」


 真琴も頷いた。


「私も同じです。狭いのは分かっていたことですし、その代わりにキッチンや収納を残したんですから、今のところはこれでいいと思います。ただ、朝みたいに二人が同時に動くと、思ったより何度も止まるんだなとは感じました」


「せやな。昨日の夜と今日の朝だけで何回『先どうぞ』やったやろ」


「数えてません」


「次から数える?」


「やめてください。余計気になります」


 二人で笑った。優也はそのままテーブルを拭きながら、昨日から何度も感じた通路の狭さを頭の隅へ置いた。今はまだ不便の一つにすぎないが、生活を重ねれば重ねるほど、少しずつ存在感が増していくような気はしていた。


 片付けを終えて外周を確認したあと、運転席へ戻った優也はレベリング画面からALL RETRACTを選んだ。六本のジャッキが順に荷重を抜き、車体が再びタイヤとサスペンションへ預けられる。最後の一本まで格納されたところで表示が切り替わり、TRAVEL CHECKのLEVELING JACKS STOWEDが正常になってから、ようやくTRAVEL READYが出た。


「こういうの、慣れてきたときほど画面ちゃんと見なあかんな」


「はい。『たぶん戻した』で出発しないための表示ですから」


「了解。そこは絶対サボらん」


 行きより一つ手順が増えたのではなく、停車時と走行時をきちんと切り替える流れが一つ身体へ入ったのだと思えば、優也にはむしろ分かりやすかった。


          ◇


 帰り道は、行きよりさらに落ち着いていた。優也は無理のない速度で走り、真琴と昨日のことを話しながら車庫へ向かった。


「最初の一泊としては成功やったな」


「成功だと思います。大きな問題もなかったですし、何が気になるかも少し分かりました」


「温泉入って飯食って寝ただけやけど、十分楽しかったわ」


 優也がそう言うと、真琴は窓の外へ流れる景色を見ながら頷いた。派手な予定をこなしたわけではないのに、二人とも満足していることが声の調子だけでも分かる。


「それでいいんじゃないですか。毎回予定を詰め込む必要もないですし」


「次はもうちょい旅っぽくしてもええな。地元の飯食って、景色見て、温泉入って」


「でも遠くへ行くのは、もう少し慣れてからにしましょう」


「分かってるって。次も無理せんよ」


 真琴が笑い、優也も笑った。以前なら、次はもっと遠くへ、もっと豪華にと考えていたかもしれない。けれど今は、一泊しただけで十分に楽しかったし、次に試したいことも自然に見えている。


 旅を大きくする必要はなく、使えば使うほど、GRANZのほうから次にやりたいことを教えてくれるような気がした。


          ◇


 車庫へ戻ると、優也は前回より落ち着いてGRANZを収めた。真琴に外から見てもらいながら一度切り返し、無理なく所定の位置へ入れる。エンジンを止めると、車内には一泊分の生活の痕跡がまだ少し残っていた。冷蔵庫には飲み物が数本、収納には使ったタオル、テーブルの端には朝飲んだコーヒーの香りがわずかに残っている。


 優也はすぐに全部を消してしまうのが少し惜しい気もしたが、二人で片付けを始めた。使ったものを持ち帰り、残しておくものだけ収納へ戻し、ゴミをまとめる。真琴がキッチンを整えている間、優也は後部の寝室を確認し、寝具を整えた。そこで真琴がキッチンから顔を出した。


「優也さん、そこ通ります?」


「今戻る。ちょっと待って」


 優也が寝室から出ようとすると、真琴はちょうど冷蔵庫を開けていたため、また通路が塞がっている。二人とも一瞬黙り、それから顔を見合わせて笑った。


「最後までこれやな」


「今日はよく分かりましたね」


「まあ、ええねんけどな」


 優也はそう言いながら、真琴が冷蔵庫を閉めるのを待ってから通った。ほんの数秒のことだったが、その数秒を今日だけで何度繰り返しただろうと思う。


          ◇


 片付けを終え、シャッターを閉める前に、二人は車内へもう一度座った。昨日出発するときには、GRANZで泊まること自体が目的だった。今は、一晩過ごしたことで、次にどう使いたいかが少し見えている。


「次、どこ行こか」


「もう考えてるんですか?」


「帰ってきたら次考えるんが旅やろ」


「そうなんですか?」


「知らんけど」


 真琴が笑った。優也も笑いながら、窓の外ではなく車内へ目を向けた。テーブル、キッチン、冷蔵庫、通路、その先に寝室。どれも設計段階から何度も見てきた場所なのに、初めて一晩使っただけで、以前とは少し違って見える。ここで真琴とすれ違い、ここで食事をし、ここで朝のコーヒーを淹れた。図面の線だった場所に、ようやく生活の記憶が付き始めている。


「やっぱ、使わんと分からんな」


「何がです?」


「全部。広さも、便利さも、面倒なとこも。工場で何回見ても、昨日一晩のほうが分かった気する」


 優也が車内を見渡すと、真琴もテーブルからキッチン、その先の通路へゆっくり視線を動かした。完成した設備を評価するというより、自分たちがどう暮らしたかを思い返しているようだった。


「たぶん、これからもっと増えますよ。旅行するたびに『ここはこうしたい』って出てくると思います」


「そのたびに改造し始めたら止めてな」


「内容によります」


 すぐ全面否定されなかったことが意外で、優也は少し笑った。


「そこは全部止めるって言わんのや」


「必要なら変えたほうがいいですから」


 真琴はそう言って、テーブルの上へ手を置いた。優也は少し意外に思った。自分ならすぐ何かを足したくなるが、真琴は必要なら変えると言いながら、今すぐ何かを変えようとはしない。その距離感が、今のGRANZにはちょうどいいのかもしれなかった。


          ◇


 帰宅した夜、優也はノートを開いた。前回の『次――一泊』に線を引き、その下へ今日までのことを書いた。


『初めての一泊――問題なし』


『寝る・食べる・朝を迎える――思ったより普通にできた』


『通路――二人同時だと、やっぱり狭い』


『今すぐ変更するほどではない』


『次――もう一度、旅として使う』


 そこで一度ペンを止めた。今までの優也なら、気になったことがあればすぐに解決方法を探していたかもしれない。収納が足りなければ増やす。設備が欲しければ追加する。通路が狭いなら何かを削って広げる。けれど今回は、すぐに手を入れようとは思わなかった。


 キッチンも必要で、冷蔵庫も収納も実際に使ってみれば残してよかったと思う。その結果として通路が少し狭いのなら、今はそのまま使ってみればいい。それでも朝の支度で何度も譲り合ったことや、片付けの途中で冷蔵庫の扉が開くだけで待つことになった感覚は、妙に身体へ残っていた。


「あと、ほんのちょい広かったらなあ……」


 優也は誰もいない部屋で呟き、すぐに苦笑した。そんな都合のいい話があるわけはなく、車幅には限界があり、何かを広げれば何かが狭くなる。散々考えた末に決めたレイアウトなのだから、今さら分かっていることを蒸し返しても仕方ないと自分へ言い聞かせながら、優也はノートを閉じた。


 不満というほどではない。それでも、初めて一晩暮らしたGRANZの中で、最初に身体が覚えた小さな不便は、確かにそこに残っていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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