ep.56 最初の休日
納車から数日後、優也は朝から屋内車庫のシャッターを開けていた。
今日は旅行ではない。泊まりもしないし、遠くへ行く予定もない。前回は工場から車庫まで連れて帰っただけだったため、今回は自分たちだけで車庫から出し、一般道をしばらく走って、途中で一度休憩し、そのまま戻ってくる。GRANZに慣れるための、いわば最初の休日だった。
真琴は小さめのトートバッグを一つだけ持ってきた。
「それだけ?」
「今日は泊まらないんですよね。飲み物と少し食べるものだけです。優也さんみたいに、近所を走るだけなのに『一応』って荷物を増やす気はありません」
「俺もそんな持ってきてへんって」
「さっき車庫の棚に置いてあった袋、二つありましたけど」
「あれは工具とか予備のタオルとか、念のためのやつや」
「それを増やすって言うんです」
言われてみればその通りで、優也は反論を諦めた。
納車からまだ数日しか経っていないのに、左側のサービススペースにはすでに少しずつ物が増え始めていた。壁には洗車用のホースリールと給水用ホースが用途を分けて収まり、棚には洗車用品、軍手、雑巾、簡単な工具が並んでいる。屋根や固定式ソーラーを清掃するときに使う移動式の高所作業台も壁際へ畳んで寄せてあり、使わない時にはGRANZの周囲を塞がない。
外部電源は車両左側のサービス面から車庫側の専用回路へ接続でき、長く停めるときには保管用の電力管理へ使える。ただ、設備があるからといって何でも置き始めれば、せっかく確保した作業スペースまで物置になる。真琴からはすでに「車庫が広いからって埋めないでくださいね」と釘を刺されていた。
出発前には、納車の日にはほとんど触れなかった生活側の準備も試した。冷蔵庫へ飲み物を入れ、キッチンの収納へ最低限のカップとコーヒー道具を置き、トイレや水まわりも使える状態になっていることを確認する。優也は最初、空いている収納を見るたびに何か入れたくなったが、真琴から「今日は使うものだけにしましょう」と止められたため、結局かなり余白を残したままにした。
「これだけ収納あると、埋めたくならん?」
「なりません。空いてる場所は『まだ使ってない場所』であって、『何か入れなきゃいけない場所』じゃないです」
「正論やなあ」
「旅行を何回かして、本当に必要だったものだけ増やせばいいと思います。今の時点で想像だけで詰めたら、後から出すほうが大変ですよ」
優也は少し名残惜しそうに収納扉を閉めたが、その判断が正しかったことは、その日のうちに分かることになる。
優也は運転席へ乗り込む前に、いつものように車体の周囲を一周した。タイヤ、車体下、シャッターとの距離、周囲に物がないかを確認し、それから運転席へ座る。
助手席に真琴が座ると、前回の納車日より少しだけ空気が軽かった。
「今日は緊張してます?」
「前よりはマシ。でも車庫から出すとこが一番嫌やな。入れるより出すほうが簡単なはずやのに、シャッター通るときだけはまだ気になる」
「なら、最初だけ私が外から見ます。出たら乗りますから」
真琴はそう言って一度助手席を降りた。
優也はミラーと周囲の表示を確認しながら、ゆっくりGRANZを前へ出した。真琴が外で左右を見てくれていることもあり、前回より余計な力は入らない。車体が完全に外へ出たところで一度止まり、真琴を乗せ直すと、優也は小さく息を吐いた。
「ここまでで今日の半分終わった気するわ」
「まだ車庫の前ですけど」
「最初はこんなもんやろ」
真琴が笑い、優也も笑った。
◇
走り出してしばらくすると、前回よりも車体の感覚へ意識を回せる余裕が出てきた。
それでも交差点では早めに速度を落とし、左折するときには後輪の位置をいつも以上に意識する。右折でも無理に前へ詰めず、周囲の車が先に行きたそうにしていても気にしない。大型車を運転している以上、自分が焦れば周りまで危なくなるということを、教習で嫌というほど覚えた。
真琴は助手席から必要以上に口を出さなかった。納車日には優也の緊張が見えていたため、曲がるたびに周囲を確認していたが、今日は優也自身が落ち着いていることが分かるのか、景色を見たり車内を眺めたりしている。
「前回より余裕ありますね」
「ちょっとだけな。まだ後ろの長さは気になるけど、ハンドル切ったらどう動くかは前より分かる」
「運転席が高いのにも慣れました?」
「それは早かった。むしろ普通の車乗ったら低く感じそうやわ」
「それは困りますね」
「だから普段使いにはせえへんって」
優也は笑いながら答えた。
GRANZで近所のスーパーへ行くつもりはない。ちょっと買い物へ行くだけなら、今までどおり普通の移動手段を使えばいい。大きな車を所有したからといって、生活のすべてをGRANZへ合わせる必要はなかった。
今日も走りやすさを優先し、大型車が通りやすい幹線道路を中心に進んでいる。地図上では多少遠回りになるが、狭い住宅街へ入り込んで神経をすり減らすよりずっといい。
「こういうの、乗る前はもっと『どこでも行ける』って感じやと思ってたわ」
「実際は、行ける場所を選ぶ車ですね」
「せやな。大きいからこそ、無理せんほうがええ」
その言葉を口にしながら、優也は少し笑った。
GRANZを知ったころの自分なら、巨大な八輪車なら道を選ばず何でも走れると思っていたかもしれない。実際には、日本の道路を走る以上、車体が大きいほど考えなければならないことは増える。それでも、その不自由さを面倒だとは思わなかった。
できないことを知ったうえで、できる範囲を楽しめばいい。
◇
しばらく走ったところで、優也は大型車でも入りやすい給油設備のある場所へ寄った。納車時にも走れるだけの燃料は入っていたが、今後の使い方を考えるなら、自分でGRANZを給油位置へ寄せる感覚も覚えておきたかった。
普通車ならほとんど意識しないことでも、この車では入口から給油位置までの動線や、出るときの向きまで先に考えたほうが楽だった。優也は一度奥まで見てから、無理なく抜けられる位置へゆっくり車体を寄せた。
「給油するだけでちょっとしたイベントやな」
「最初だけじゃないですか? 慣れたら普通になると思います」
「そうやろうけど、普通車みたいに空いてるとこへ適当に入る感じではないな。先に出方まで見とかんと、あとで自分が困りそうや」
燃料代の表示が伸びていくのを見て、優也は途中から苦笑した。これほどの車体を動かす以上、燃料が安く済むとは最初から思っていない。それでも実際に自分の財布から払う場面になると、「大きい車を持つ」ということの別の顔が見えた気がする。
「燃料代、見んかったことにしてええ?」
「駄目です。それも含めてGRANZでしょう」
「夢が現実になると数字が付いてくるな」
「購入するときに十分見たじゃないですか」
「まだ付いてくるんやなって」
真琴が笑い、優也もつられて笑った。高いから乗らないのでは意味がないし、だからといって何も考えず走り回るつもりもない。行きたい場所へ行くための費用として、これから自然に付き合っていくしかなかった。
◇
昼前、二人は大型車でも入りやすい広い駐車場のある施設で休憩することにした。
優也はなるべく端の余裕がある場所を選び、一度前へ出してから切り返し、慎重にGRANZを停めた。納車日の車庫入れほど緊張はしなかったが、まだ位置が決まるまでは何度もミラーを見る。
エンジンを止めた瞬間、車内の空気が変わった。
「停まると、ほんま家やな」
「走ってるときは車なのに、不思議ですね」
真琴がシートベルトを外し、助手席を回転させる。優也も運転席を居住側へ向けると、さっきまでのキャビンがそのままリビングの一部になった。
二人は玄関から一度外へ出て、車体の周囲を確認したあと、また中へ戻った。
「せっかくやし、昼ここで食う?」
「そのつもりで持ってきました」
真琴がトートバッグからサンドイッチと小さな容器を出した。
「作ってきたん?」
「簡単なものだけです。最初からキッチンで料理すると、片付けまで試すことになるでしょう。今日は車を走らせるのが目的なんだから、そこまで一気にやらなくていいかなと思って」
「賢い。俺やったら多分、初日から何か焼いてたわ」
「知ってます」
真琴はそう言って笑った。
冷蔵庫から飲み物を出し、テーブルへ並べる。たったそれだけなのに、工場で同じテーブルを触っていたころとはまるで違って見えた。
誰かに見せるための内装ではなく、自分たちが昼食を食べる場所になっている。
◇
食事をしている間にも、窓の外でGRANZを見ながら通り過ぎる人が何人かいた。正面から覗き込まれるわけではないが、珍しい車だけに視線を集めるのは避けられないらしい。
「車庫のときも思ったけど、停まってるほうが見られるな」
「走ってると一瞬ですけど、停まってると形がよく分かりますからね」
「中まで見えるんかな」
「昼間なら外より中のほうが暗いですし、そこまで見えないと思いますけど、夜は逆になるでしょうね」
その言葉を聞いて、優也は窓のブラインドを少し動かしてみた。完全に閉じれば外の視線を気にせず過ごせるし、全部を閉じなくても必要な場所だけ調整できる。
「夜に停めるときは、これ普通に使うやろな。家と同じで、中丸見えは嫌やし」
「そうですね。景色を見たいときと、生活を隠したいときで使い分ければいいと思います」
車内の設備として知っていたブラインドも、外から人の視線を感じて初めて「生活のためのもの」として意味が分かった。こういう小さな発見が、今日だけでもいくつもあった。
食事の途中、優也が冷蔵庫から追加の飲み物を取ろうと立ち上がったところで、真琴もちょうどキッチン側へ向かおうとした。
二人が中央の通路で向かい合う。
「あ」
「やっぱ狭いですね」
「一人ずつやな」
どちらかが少し身体をずらせば通れないわけではない。ただ、真琴がキッチンへ立ち、優也が冷蔵庫を開けようとすると、互いに少し動きを譲る必要がある。
優也は以前、家具が入る前の車内で「狭いけど使える」と納得したことを思い出した。
「まあ、分かってたことやけどな。二人同時に動くと、ちょっと気ぃ使うわ」
「でも今のところ、困るほどではないですね。毎回ぶつかるようなら嫌ですけど、どっちかが一歩待てば済むくらいですし」
「せやな。これで収納削って広くするのも違うと思ったし」
二人はそのまま自然に位置を入れ替え、優也は冷蔵庫から飲み物を取った。
ほんの小さな出来事だった。
けれど、図面や工場での確認では分からなかった「二人で同時に暮らす幅」が、初めて身体の感覚として残った。
優也は特に気にすることもなく、またソファへ戻った。
◇
昼食を終えたあと、二人はしばらく何もせずに過ごした。
窓の外には駐車場を行き来する車が見える。観光地へ来たわけでもないので、特別な景色はない。それでも車内でコーヒーを飲みながら座っていると、それだけで少し旅行をしているような気分になった。
「これ、思ってたよりええな」
「何がです?」
「何もせん時間。家でも同じことできるけど、場所変わっただけでちょっと楽しい」
「優也さん、こういう使い方のほうが合ってるかもしれませんね。予定をいっぱい入れて動くより、走って、気になったところで停まって、休んでから次へ行くほうが」
「それやな。旅行行ったからって、朝から晩まで観光せんでもええもんな」
「私は美味しいものと温泉があれば十分です」
「そこは俺も同じ」
真琴が笑った。
しばらくして、優也はキッチンでコーヒーを淹れてみることにした。
今日は調理まではしないが、お湯を沸かして飲み物を作るくらいならちょうどいい。電源を確認し、必要なものだけ取り出し、使い終わったら元へ戻す。
「こういう細かい動きで、収納場所決まっていくんやろな」
「そうでしょうね。最初から全部決めても、使わないものが一番いい場所に入ってたら意味ないですし」
「じゃあ今は仮でええか。コーヒー関係はここ、みたいな」
「それくらいならいいと思います」
優也は頷き、二つのカップをテーブルへ置いた。
工場では設備をどう配置するかを考えていたが、これからはその中で何をどこに置くかを自分たちで決めていく。その違いが面白かった。
◇
コーヒーを飲み終えたあと、優也はついでにトイレや手洗いも実際に使ってみた。工場で広さを確認したときには「これなら使える」と思っただけだったが、停車中に生活の流れの中で使ってみると、豪華ではない代わりに必要なものが近いという、車らしい便利さがあった。
「これ、夜中に外へ出んでええのは地味にでかいな」
「キャンピングカーなんだから、そこは大きいと思います。雨の日とか寒い日なら特に」
「温泉入ったあと、そのままここ戻って寝れるんやろ。もうそれだけでええわ」
「まだ最初の一泊もしてませんよ」
「想像するくらいええやん」
優也は笑いながら手を洗い、キッチンへ戻った。こうして一つずつ実際に使ってみると、カタログで見ていた豪華装備というより、移動先でも普通に暮らすための道具へ見え方が変わっていった。
休憩を終え、再び走り出す前に、優也は簡単な確認をした。
テーブルの上に物を残していないか、扉や引き出しは閉まっているか、冷蔵庫の扉は問題ないか。納車日に真琴と話したとおり、最初のうちは出発前の確認を簡単にメモしておくことにしていた。
「もうチェック表作ったんですか?」
「簡単なやつだけな。十個もないで。増やしたら絶対見んようになるから」
「自分の性格をよく分かってますね」
「そこは長年付き合ってるからな」
真琴が笑った。
エンジンを始動し、駐車場を出る。
帰り道では、優也の運転にも朝よりさらに余裕が出ていた。もちろん慣れたつもりにはならないが、車体の大きさを意識しながら走ること自体に少しずつ慣れてきている。
途中、狭そうな道へ入る案内が出たとき、優也は迷わずそのルートを無視して大きな道を選んだ。
「今の、普通車なら行けそうでしたね」
「GRANZで行く理由ないからな。五分早いより、楽なほうがええ」
「その判断なら安心です」
「俺も成長したやろ」
「まだ二回目です」
「厳しいな」
それでも優也は笑っていた。
◇
午後、車庫へ戻った。
今回は真琴が外へ出る前に、優也が一度自分で入口の位置を確認し、無理のないところで停止した。それから真琴に降りてもらい、前回と同じように外から見てもらう。
最初よりは動きが分かり、どこまで前へ出せばいいか、どのタイミングで切り返すか、シャッターとの位置関係も少しずつ頭へ入っている。それでも一回で入れようとはせず、途中で一度止まってミラーを確認し、真琴の合図を見てからもう一度進んだ。
車体が建物の中へ収まると、優也は運転席で小さく息を吐いた。工場から連れて帰ったときほど身体に力が残っておらず、そのことが自分でも分かるのが少し嬉しかった。
玄関から降りると、真琴が「前回よりだいぶ落ち着いてましたね」と言った。
「自分でも分かった。まだ余裕あるわ。今日は車庫入れ終わっても肩ガチガチちゃう」
「でも慣れたころが一番危ないんでしたよね」
「久保田さんみたいなこと言うなあ」
「大事なことだからです」
優也は笑いながら頷いた。
◇
帰る前に、二人で車内を簡単に片付けた。
使ったカップを洗い、ゴミをまとめ、冷蔵庫の中身を確認する。昼食しか取っていないので大した片付けではないが、車を使ったあとに何をするかが少しずつ見えてくる。
優也はテーブルを拭きながら、今日のことを振り返った。
「泊まってへんのに、結構分かったな」
「何がです?」
「走るときに気ぃ使うとことか、停まったらどう過ごすとか、通路も二人同時やとちょい狭いとか。工場で見てたときより、今日一日使ったほうが分かること多いわ」
「実際に暮らしてみないと分からないことって、たぶんまだいっぱいありますよ。今日は数時間だけですし」
「せやな。せやから最初の一泊が楽しみやわ」
真琴は頷きながら、シンク周りを拭いた。
「次は泊まってみて、朝から夜まで使ったときにどうなるかですね。シャワーも寝室も、実際に使うのはそのときが初めてでしょうし」
「いきなり遠く行かんと正解やったな。今日だけでも、慣れることまだあるし」
「優也さんがそう言えるようになったの、かなり安心します」
「前の俺、そんな信用なかった?」
「GRANZに関しては、ちょっとだけ」
二人で笑った。
◇
片付けが終わると、優也は車庫の棚へ必要なものだけ戻した。
今日使ったものの中で、次からGRANZに常備しておいたほうがよさそうなものもいくつかあった。一方で、最初に「念のため」と持ってきた袋の中には、結局一度も触らなかった物もある。
「これ、やっぱ要らんな」
「何です?」
「予備で持ってきたタオル、こんな要らん。工具も二人で使う分だけ車に積んどいて、俺しか使わん予備なら《収納》でもええし、ほとんど使わん物は車庫でええわ」
「その方がいいと思います。何でも車へ積んだら、せっかくの収納が『念のため』で埋まりますし、《収納》へ全部入れたら今度は私が使えませんから」
「結局、置き場所ちゃんと考えろってことやな」
「最初からそう言ってます」
優也は苦笑しながら、不要なものを棚へ戻した。
GRANZは大きいが、大きいからといって何でも積む必要はなく、むしろ必要なものだけを載せ、使わないものは車庫へ置くほうが暮らしやすい。その感覚も、今日実際に使ってみて初めて分かったことの一つだった。
シャッターを閉める前に、優也は一度だけGRANZを振り返った。
朝ここから出したときより、少しだけ身近に見える。
◇
帰宅後、優也はノートを開いた。
前回書いた『次――近場で慣らす』の横へ線を引き、その下に今日分かったことを短くまとめていく。
『近場走行――問題なし』
『車庫入れ――前回より余裕あり』
『二人で動くと通路は少し狭い。でも今は許容範囲』
『荷物――最初から増やしすぎない』
『次――一泊』
書き終えてから、優也は少しだけ考えた。
納車までは、完成することそのものが目標だった。
けれど今日からは、GRANZを自分たちの生活に合わせていく時間になる。どこを走りやすいと感じるか、何を積むか、どこへ物をしまうか、車内で二人がどう動くか。そうした細かなことは、メーカーが決めてくれるものではない。
使いながら、自分たちで決めていくしかない。
それが面倒というより、今は少し楽しかった。
優也はノートを閉じ、次の休みの日付を確認した。
今度は、帰ってくる前に一晩だけGRANZの中で眠る。
ようやく、本当の意味で最初の旅が始まりそうだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
評価・感想も励みになります。




