ep.55 連れて帰る日
納車日の朝、優也は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。普段なら一度布団の中で時間を確かめてから、起きるかもう数分だけ粘るかを考えるところだったが、その日は天井を見た瞬間に身体が先に動いた。前の晩に財布も車庫の鍵も確認し、必要な書類は鞄へ入れ、工場までの経路も見直してある。それでも朝食を食べながら、スマートフォンの予定表に表示された『納車』の二文字を何度も見てしまう自分がおかしくて、優也は一人で少し笑った。
最初は、画面の向こうにいた巨大な八輪車へ「これ欲しい」と思っただけだった。そこから設計を始め、金を作り、信用を積み、契約を結び、製作途中の骨組みを見て、窓の付いた箱を歩き、暮らしが入っていくところまで何度も工場へ通った。運転の準備もしたし、保管場所も屋外区画から屋内車庫へ変えた。無線や救命の勉強まで始めたのだから、振り返れば「欲しい」と言ったころとは、車だけでなく自分の側も随分変わっている。
それでも今日だけは、そういう積み重ねをいったん忘れてしまいそうだった。ようやく、自分で運転して連れて帰る。玄関を出る直前、優也はいつもの部屋を一度だけ振り返った。ここからGRANZへ生活の全部を移すわけではない。自宅はこれからも自宅で、仕事へ行き、疲れて帰ってきて、そのまま風呂へ入って寝る日も続く。
ただ今日からは、その生活の外側へもう一つ、好きなときに連れ出せる家が増える。そう考えると、いつもの部屋まで少し違って見えた。
◇
工場の最寄り駅で真琴と合流すると、彼女もいつもより早く来ていた。
「おはようございます。ちゃんと寝ました?」
「一応。途中で何回か時計見たけどな」
「小学生みたいですね」
「遠足より高いからしゃあないやろ」
真琴は笑ったものの、彼女自身も普段より少し落ち着かないように見えた。工場へ向かう途中、納車後にそのまま屋内車庫へ入れる段取りを確認し、最後は真琴が先に降りて外から誘導することまで、もう一度話しておく。
「一回で入れようとしなくていいですからね。分からなくなったら止まってください」
「分かってるって。教習所でも西村さんにも久保田さんにも真琴にも、同じこと言われてる」
「みんな同じことを心配してるんでしょうね」
「俺そんな危なっかしい?」
「今日は特に浮かれてるので」
否定できず、優也は笑った。受付を済ませ、担当者に案内されて製作スペースへ入る。そこで、優也は足を止めた。何度も見てきたはずのGRANZ 8×8 Expeditionが、今日はまるで違って見えた。四軸八輪の大きな足まわり。右ハンドルのキャビン。その後ろへ続く全長八・九六メートルの車体。低光沢のオリーブとカーキに少し茶色を含ませた外装にはもう保護材も仮部品もなく、右側には主玄関、生活側の窓、玄関キャノピー、メインオーニングが並ぶ。左側にはリビング、キッチン、主寝室の窓と、外部電源、給水、排水、電装、燃料、整備用のサービスハッチが整然と収まり、その上端には各ハッチの作業域を下向きに照らす薄型LEDが組み込まれていた。前後のバンパーにはウインチが収まり、正面と背面の上部には高出力LEDが四基ずつ並ぶ。屋根には約三・二キロワットのSolbian SP Series Custom、前後一基ずつのDometic FreshJet 3、RV PLUS FUN、Starlink Performance Kit(Gen 2)、Panorama AntennasのMegalodon、デジタル簡易無線用のAZ350FXが、互いの動作と整備を妨げない余白を残して配置され、キャビンベッド上部には空を見上げられる広めの天窓も設けられている。以前のように「これから何が付くのか」を想像する余地は残っていなかった。
「……ほんまに出来たんやな」
思わず漏れた言葉に、担当者が笑った。
「お待たせしました。最終確認も完了しています。本日から正式にお引き渡しできます」
契約書へ名前を書いた日より、骨組みを見た日より、その言葉のほうが強く胸へ入ってきた。これはもう、見学に来た車ではない。今日ここから、自分で連れて帰る車なのだ。
◇
引き渡し前の説明は、運転席まわりから始まった。担当者は、走行前に確認する範囲、周囲のカメラやミラーの見方、停車後の設備操作、電源、水まわり、換気や空調の扱いを順番に説明していく。設計段階から何度も聞いてきた内容も多かったが、完成した実車を前にすると、図面の中にあったものがようやく手の届く場所へ降りてきたように感じられる。
優也は途中で苦笑した。
「これ、今日一回で全部覚えんでもええですよね?」
「もちろんです。走行と停車に必要な基本を優先してください。細かな設定や各設備の使い分けは、実際にお使いになりながら覚えていただくほうが分かりやすいと思います」
「安心しました。高い車やから、一回聞いたら全部覚えな損みたいな気分になってたんで」
「値段と記憶力は関係ありませんよ」
担当者が笑い、真琴も横で笑った。
「分からないまま触らないほうが大事です。優也さん、最近そこはちゃんと出来るようになりましたし」
「最近ってなんやねん」
「前より、です」
通信設備についても、普段使いの回線やWi-Fiはそのまま利用できる一方、資格や運用条件が関係するものは、必要な手続きや確認が済むまで無理に使わない。それで困ることはなく、勉強は納車後も続ければいい。
十五インチの統合操作パネルでは、照明、空調、給湯、タンク状態、電源、バッテリー、固定式ソーラーの発電とMPPTの状態などを確認できる。主要設備には物理スイッチも残してあるため、画面一枚へ全部を預けているわけではない。
担当者が画面を一つ切り替えると、車体姿勢を示す表示と六つの支点が現れた。前方、中央、後方へ左右一対ずつ備えた六点式の油圧オートレベリングジャッキで、停車場所の傾きを検知し、必要な支点だけを協調して動かしながら車体を水平へ近づける。主目的はタイヤを浮かせることではなく、生活中の傾きとサスペンション由来の揺れを抑え、長い車体を落ち着かせることだった。
「六本、別々に動くんですか?」
「手動では個別調整もできますが、通常はAUTO LEVELを使ってください。六本を勝手に一本ずつ突っ張らせるのではなく、車体姿勢と各支点の状態を見ながら制御します。無理に車輪を浮かせる使い方はしません」
優也は画面上の前二本、中央二本、後ろ二本を順に見た。四軸八輪の足まわりとは別に、停まったあとだけ車体を支える六本が床下へ収まっていると思うと、図面で見ていたときより妙に頼もしく感じる。
「走るとき出たままやったら、洒落ならんな」
「そこはTRAVEL CHECKへ入っています。六本すべての格納確認が取れなければTRAVEL READYにはなりません。通常のALL RETRACTとは別に、非常時の手動格納も残しています」
「それ聞いて安心した。俺、確認したつもりが一番怖いからな」
真琴が横で小さく笑ったが、その感覚は彼女も同じらしい。照明の中でも少し特殊なのが、リビング中央へ入れたビームテックのEWINDOW EW3120だった。キッチン側にも細長いEWINDOW系の主照明を独立して設け、作業側と生活側で明るさを分けられる。担当者が昼間、夕方、夜の設定を順に切り替えると、単に天井が明るくなるのではなく、上から光が差し込むように室内の見え方そのものが変わった。
「これ、照明っていうより天窓の代わりやな」
「外が暗い日ほど違いが分かりそうですね」
真琴が天井を見上げたまま言うと、優也も少し楽しみになった。設計中は半分ぜいたく品のつもりで残した設備だったが、実際に暮らし始めたときにどれくらい効くのかは、まだ分からない。
「やっぱこのほうがええな。パネル壊れたら全部終わり、みたいなん怖いし」
「旅先で困るところは少ないほうがいいです」
真琴が答える。以前なら、機能が多いほど豪華で得だと思っていたかもしれない。今は、使えることと直せることのほうが大事だった。
◇
説明の途中で、二人は車外へ回った。約三・二キロワットのSolbian SP Series Customは屋根へ低く収まり、走行前に展開や格納を確認する機構はない。前後一基ずつのDometic FreshJet 3、RV PLUS FUN、Starlink Performance Kit(Gen 2)、Panorama AntennasのMegalodon、デジタル簡易無線用のAZ350FXとは整備できる間隔が残され、発電量だけを求めて屋根一面へ無理に詰め込んではいない。キャビン上部の広い天窓も、空調や通信設備の動作域を避けながら自然に収まっていた。
優也は車体を見上げた。
「前の俺やったら、ここ空いてるやんって言って何か増やそうとしてたんやろな」
「言ってましたね」
「即答やな」
「実際そうでしたから」
苦笑しながら車内へ戻る。ハウスバッテリーも六十キロワット時級のままだ。追加容量は載せず、重量と軸重に余裕を残した状態で完成している。使い始めて本当に不足があるなら、そのとき考えればいい。
何かを増やさなかったことに、今は惜しさを感じなかった。
◇
主玄関から車内へ入ると、最後の確認だと分かっていても、優也はまた少し立ち止まった。右手から前方へ広がるメインラウンジには大きなソファがあり、停車時には運転席と助手席を後ろへ回転させて同じ居場所へ加えられる。五人目の正式な走行席も家具の一部へ自然に馴染み、独立したシートだけが浮いて見えることはない。
中央には可動テーブル。玄関から前方も後方も、動線は塞がれていない。優也はソファへ腰を下ろし、背中を預けた。
「前ここ座ったときと全然違うな」
「何がです?」
「同じ場所やのに、今日は『工場で確認してる』感じせえへん。もう普通に座ってるだけや」
真琴も隣へ座り、前方のキャビンを見た。
「たぶん、今日から何をするかを工場じゃなくて私たちが決めるからでしょうね。ここで食べるのも、寝るのも、何もしないのも自由ですし」
「私たち、な」
優也が横を見ると、真琴は一瞬だけ気づいたような顔をしたが、もう言い直さなかった。
「ここまで一緒に見てきたんだから、いいでしょう」
「うん。ええと思う」
優也もそれ以上からかわなかった。その言葉が普通に使われるようになったことのほうが、嬉しかった。
◇
左側のキッチンには、大型シンク、二口IH、ビルトインのオーブンレンジ、食洗機が収まり、洗濯乾燥機は下部の面材の奥へ隠れている。通信や主電装をその上へ積むような構成にはせず、必要なサービス領域は玄関側へ分けられていた。
真琴が真っ先に開けたのは、やはり三段式の冷蔵冷凍庫だった。上段が冷蔵、中段が野菜・チルド、下段が冷凍で、扉を閉めれば周囲の壁面とほとんど同じに見える。
「ほんとに完成すると壁ですね」
「まだそこ喜ぶ?」
「毎日見るところなので」
その返しも、もう聞き慣れている。優也は横から中を覗いた。
「今んとこ、何も入ってへんな」
「当たり前です。今日は連れて帰るだけでしょう」
「ビールくらい入れといてくれても」
「工場に何を期待してるんですか」
二人で笑った。中央通路ですれ違うと、肩が近い。でも使えないほど狭くはない。設計中に何度も確認した通り、そこは広さを競う場所ではなく、必要な生活を無理なく通す幅として出来上がっていた。
◇
水回りも、もう完全に使える状態になっていた。独立したシャワー室と、その隣に分けたトイレがあり、トイレにはClesanaが収まり、水洗用の配管もブラックタンクもない。個室換気、手洗い、鏡、消耗品収納は残し、使うために必要なものだけが収まっている。
優也は扉の開き方を確認したあと、笑った。
「ここ、最初のころから考えたら一番変わったかもしれんな」
「トイレが?」
「いや、考え方が。昔やったら『でかいタンク積めるなら積もう』やったやろ。今は無いほうがええものは無くてええって思える」
優也がClesanaの収まり方を眺めていると、真琴は個室の入口から室内を見回し、少し可笑しそうに笑った。
「やっぱり成長しましたね」
「最近そればっかやな」
「事実なので」
真琴が笑う。シャワー室とトイレには、それぞれ専用の小型換気ファンと排気口があり、キッチンの油煙を逃がす排気も別系統になっている。一方、キッチンとシャワー室の間にあたる通路天井には、車内全体の主換気を担うRV PLUS FUNが収まっていた。キャビン、リビング、主寝室の空気は小型ファンとダクトを介して中央の換気プレナムへ集め、必要なときにここからまとめて外へ逃がせる。
屋根側には、強い雨の吹き込みを抑えるため、GRANZ専用に製作された低背型のステンレス製レインカバーも追加されている。RV PLUS FUNの開閉や吸排気を妨げず、前後のDometic FreshJet 3、約三・二キロワットのSolbian SP Series Custom、Starlink Performance Kit(Gen 2)、Panorama AntennasのMegalodon、デジタル簡易無線用のAZ350FXとも干渉しないよう、形状そのものが専用設計されていた。
「これ、雨の日に一回使ってみたいな」
「わざわざ雨を待たなくても、そのうち当たりますよ」
「それもそうか」
設備そのものを眺めて満足するというより、使ったあと困らないことへ意識が向いている自分に、優也は少し可笑しくなった。
◇
最後部の主寝室へ入ると、中央の縦向きベッドが静かに収まっていた。左右には実際に人が通れる余白があり、両側の窓にはブラインドが付いている。天井中央には大型モニターが収納され、その左右へビームテックのBS-EW3150が一基ずつ収まる。照明を落とせば読書灯と足元灯だけにでき、夜中に動くためだけに部屋全体を明るくする必要もない。
真琴が窓を見た。
「最初の一泊、天気いいといいですね」
「朝の景色見るため?」
「それもあります。優也さんが起きてればですけど」
「起こして」
「自分で起きてください」
優也は笑い、ベッドの端へ軽く腰掛けた。
「今日はここで寝たらあかん?」
「駄目です。車庫まで連れて帰る日でしょう」
「分かってるって」
真琴も少し笑いながら、反対側へ腰掛けた。工場で何度も見た寝室なのに、今日は不思議なくらい静かに感じる。完成したからではない。この場所が、もう誰かが仕上げてくれる途中の部屋ではなく、自分たちが使う部屋になったからなのだろう。
◇
必要な手続きを終え、最後に担当者からキーを受け取った。手のひらに乗る小さな鍵を見た瞬間、優也は車体そのものを見たときより緊張した。
「これでほんまに俺のなんやな」
「契約した時点でもう買ってましたけど」
「気分の話や」
真琴が笑う。優也は運転席へ座り、シート位置、ミラー、周囲の表示を一つずつ確認した。教習車とは見え方も車体感覚も違うし、今日初めて自分で公道へ出す車である以上、慣れているつもりになる理由は何一つない。
助手席へ真琴が座り、シートベルトを締めた。
「緊張してます?」
「めっちゃしてる。教習車より高いし、長いし、何よりこれ俺のやからな」
「なら、今日はゆっくりでいいです。後ろから何か言われても気にしないで、安全に行きましょう」
真琴が自分のシートベルトを引いて確認するのを見て、優也も肩の力を抜くように一度息を吐いた。
「はい、先生」
「先生じゃありません。ただし必要なら言います」
「やっぱ先生やん」
二人で笑った。担当者に見送られながら、GRANZはゆっくり動き始めた。最初の数メートルで、優也はすぐに教習車との違いを感じた。ハンドルの感覚も、視界の高さも、後ろへ意識を配る感覚も少しずつ違う。けれど、やることは同じだった。分からないまま勢いで進まない。必要なら止まる。ミラーと周囲を確認してから動く。工場の出口へ近づいたところで、優也は一度しっかり停止した。
「右、どう?」
「来てません。左も大丈夫です。焦らなくていいですよ」
「了解」
ゆっくり道路へ出る。その瞬間、優也は思わず笑った。
「走ってるわ」
「車なんだから走りますよ」
「そういう意味ちゃうって。俺がこれ運転してんねんで」
「分かってます。だから前見てください」
「はい」
真琴に言われ、優也は笑いながら視線を戻した。
◇
最初の移動は、観光でも試走でもない。工場から屋内車庫まで、走りやすい道を選んで連れて帰る。それだけだった。それでも優也にとっては、その道のりが十分に特別だった。信号で停まるたび、隣の車から視線を向けられる。歩道から振り返る人もいるし、交差点ではスマートフォンを向ける人もいた。
「やっぱ目立つな」
「八輪ですからね」
「屋外に置いとったら、俺ほんま毎日気にしてたかもしれん」
「スプレーの心配までしてた人には、屋内で正解だったと思います」
「まだ言うか」
優也は苦笑した。走行中は、地図上の近道ではなく、普段から大型車が通る道を優先した。数分短くなるからと細い道へ入るより、曲がりやすく見通しのいい道を選んだほうが、自分にも車にも優しい。
教習を受ける前なら、そういう遠回りを「もったいない」と感じたかもしれない。今は、それが一番早いと分かる。真琴も助手席で景色を見ながら、必要なときだけ周囲を確認してくれる。
「思ってたより静かですね」
「俺も思った。もっと『巨大な車動かしてます』って感じするかと思ってた」
真琴は助手席から後方へ続く居住部を一度振り返り、すぐに前へ視線を戻した。
「後ろが家だって忘れそうです」
「俺は忘れへん。後ろに二億円分あると思ったら一生忘れん」
「その考え方、疲れません?」
「たぶん疲れる」
二人で笑った。少しずつ、ハンドルを握る手から余計な力が抜けていった。
◇
車庫のある工業地域へ近づくと、優也は再び意識して速度を落とした。
「ここからやな」
「入口の前で一度止めてください。私が先に降ります」
「頼むわ」
車庫前へ着き、周囲の邪魔にならない位置で停車する。真琴が先に降り、シャッターを開けた。優也は運転席から建物の中を見た。何も入っていなかった空間へ、自分のGRANZを入れる。それだけのことなのに、工場を出た瞬間より緊張した。真琴が車体の見える位置へ移動し、手でゆっくり合図する。優也は焦らず進んだ。
入口へ差しかかったところで一度停止し、左右を確認する。車体後部の位置もモニターで見ながら、少しずつ中へ入れる。途中で角度が浅いと感じ、一度切り返した。以前なら「一回で入らなかった」と悔しくなっていたかもしれない。今は違う。分からなければ直せばいい。無理に決める必要はない。もう一度ゆっくり進め、車体全体が建物の中へ収まったところで、真琴が正面から大きく丸を作った。
優也は所定の位置で停め、パーキングと車両状態を確認してから深く息を吐いた。
「……入った」
車内で一人呟き、そのあとでようやく笑った。
◇
玄関から外へ出ると、真琴はすでに車体の横へ回っていた。
「お疲れさまでした。ちゃんと入りましたね」
「途中一回切り返したけどな」
「一回で入れる競技じゃないので、それでいいでしょう。無理に行かなかったから安心しました」
「みんな同じこと言うなあ」
「みんな正しいんでしょうね」
優也は苦笑しながら、車庫の中に収まったGRANZを見上げた。外で見るより大きく感じる。それでも、右側には玄関を普通に使える通路が残り、左側には外部電源や給水、洗車、点検に使う広いサービススペースが確保されている。左後部のガレージハッチを開いても自転車や荷物を扱える余裕があり、実際に車が入って初めて、ここが単なる保管場所ではなくGRANZを維持するための場所なのだと実感できた。シャッターを閉めれば、外からは車体がほとんど見えない。
「……やっぱここにして良かったわ」
「私もそう思います。準備や片付けもしやすそうですし」
「心配性やからちゃうで」
「それもあります」
「そこは否定して」
真琴は笑った。シャッターを一度閉めて外から建物を見ると、さっきまでそこに八輪の巨大な車がいたことすら分からない。その普通さが、優也には妙に嬉しかった。
◇
そのまま帰るには惜しくて、二人はもう一度GRANZへ戻った。本格的な旅支度はまだしていない。冷蔵庫の中も空で、収納にも最低限の物しか入っていない。それでも、ソファへ座り、照明をRELAX相当の落ち着いた明るさへ落とすと、工場で見たときとは空気がまるで違った。担当者は来ない。次の確認項目もない。何時までに出なければならないということもない。二人が帰ろうと思うまで、ここにいていい。
優也はキッチンで持ってきた水をコップへ入れ、真琴の前へ置いた。
「記念すべき最初の飲み物、水やで」
「いいじゃないですか。まだ何も買ってないんだから」
「コーヒーくらい用意しとけばよかったな」
「それは次でいいです。今日は無事にここまで来たことのほうが大事です」
真琴はコップを持ちながら、車内をゆっくり見回した。
「静かですね」
「シャッター閉めたから余計やな。外から見えへんし、秘密基地感増したわ」
「その言葉、ほんとに好きですね」
「実際そう見えるやろ」
優也はソファの背へ身体を預けた。これまで何度も工場で座った場所なのに、今日は時間の流れ方が違う。
「これから、こういう時間増えるんやな」
「どういう時間です?」
「何もせん時間。どっか観光行くでもなく、車の中で飯食って、コーヒー飲んで、寝るだけみたいな」
真琴は少し考えたあと、ゆっくり頷いた。
「私は、そういうのも楽しみです。毎回どこかを見に行かなくてもいいでしょう。景色のいい場所で一日何もしないとか、雨ならここで本読んで過ごすとかでも」
「それ聞いて安心したわ。俺、予定ぎっしりの旅行は絶対しんどい」
「知ってます」
二人で笑った。窓の外に見えるのは、まだ旅先の景色ではない。閉じた車庫の壁だけだ。それでも優也には、この時間そのものがもう旅の手前にあるように思えた。
◇
しばらくして、真琴がソファから立ち、キッチン側へ歩いた。冷蔵庫の扉を一度開け、当然ながら何も入っていない中を見て笑う。
「本当に空ですね」
「次来るとき何入れる?」
「今日は泊まらないんですよね」
「分かってる。次の話」
真琴は空の棚を一段ずつ見てから扉を閉め、優也のほうへ向き直った。
「飲み物と、簡単に食べられるものくらいでいいと思います。最初からいっぱい入れたら、また増えますよ」
「信用ないなあ」
「空いてるところを見ると埋めたくなる人なので」
優也は反論しかけてやめた。
「否定できへん」
真琴は笑って扉を閉める。その仕草があまりに自然で、優也は少しだけ視線を止めた。キッチンを使い、冷蔵庫を開け、ソファへ戻る。工場では全部が設備だった。今はもう、真琴がそこを歩くだけで生活に見える。
「何ですか?」
「いや。ほんまに家みたいやなって」
「家みたいじゃなくて、走る家にしたかったんでしょう?」
「そやった」
優也は笑った。
◇
帰る前、二人で車内を一度見て回った。水まわり。電源。空調。窓。玄関。最初だから確認には時間が掛かるが、急ぐ理由はない。真琴が言う。
「最初の何回かだけ、出発前と帰ったときの確認を簡単にメモしてもいいかもしれませんね。慣れたら見なくても分かるでしょうけど」
「それええな。細かいマニュアル作るんやなくて、忘れたら困るとこだけ」
「増やしすぎると確認自体が面倒になるので、それくらいで」
「俺、面倒になったら見んようになるからな」
「そこは自覚あるんですね」
優也は笑いながらスマートフォンへ簡単なメモを作った。窓。火気。電源。水。扉。車外確認。それ以上は増やさなかった。最後に玄関の鍵を掛け、シャッターを下ろす前にもう一度振り返る。薄暗くなった車庫の中で、GRANZが静かに停まっている。工場にあったときは、完成していてもどこか借り物に見えていた。今は違う。ここが帰る場所だ。明日からは、自分たちが好きなときに扉を開け、好きなところへ連れていける。
その実感が、ようやく身体へ追いついた。
◇
車庫を出たあと、二人は近くの店で夕食を取った。優也は何度か鞄へ手をやり、車庫の鍵とGRANZのキーが入っていることを確かめてしまう。真琴は三回目で笑った。
「今度は鍵が心配なんですか?」
「確認やって」
「今日だけで何回目です?」
優也は鞄から手を離し、自分でも少しやりすぎだと思って苦笑した。
「初日やからしゃあない」
「じゃあ今日だけにしてくださいね」
「努力します」
食事を終え、駅へ向かう途中で、真琴が聞いた。
「次、いつ乗ります?」
優也は少し考えた。
「休み合う日に、まず近場だけ走ろか。泊まりはまだせんと、車庫から出して一般道走って、途中で一回休憩して、そのまま戻る。それくらいでええ気がする。今日、工場から来ただけでも結構神経使ったし」
「私もそのほうがいいと思います。予定合えば付き合いますよ。車庫へ入れるのも、何回か一緒にやったほうが安心ですし」
「助かる」
そこまで言ってから、優也は少し笑った。
「ていうか、最初から付き合う前提で話してるな」
真琴は前を向いたまま答えた。
「ここまで来て、今さらでしょう」
短い言葉だった。けれど、優也にはそれで十分だった。
◇
自宅へ戻ったあと、優也はノートを開いた。
『納車――完了』
『工場から車庫――問題なし』
『車庫入れ――一回切り返し。無理しない』
『次――近場を走る』
そこまで書き、ペンを止める。設計中は、ノートの中に未来のことばかり書いていた。資金を作る。契約する。製作を始める。車庫を決める。教習へ行く。受け入れ準備をする。ずっと「次にやること」が先にあった。今日初めて、その中へ過去形で書けることが増えた。納車した。連れて帰った。車庫へ入れた。優也は少しだけページを眺め、それから最後に一行付け足した。
『家が来た』
自分で書いておいて、少し大げさだと思った。でも消さなかった。八輪の巨大な車を買ったというだけでは、今の気持ちをうまく表せない。何度も線を引き直し、何を載せないかまで考え、真琴と何度も工場へ通い、ようやく作った家が、自分たちの生活へ入ってきた。まだ旅へは出ていない。冷蔵庫も空だ。ベッドで一晩寝てもいない。シャワーも使っていない。それでも、もう始まっている。
優也はスマートフォンを手に取り、車庫で撮った一枚を開いた。シャッターを閉める前、GRANZの横に立つ真琴が小さく写っている。車体が大きすぎて、人ひとりが妙に小さく見える写真だった。そこへ真琴からメッセージが届いた。
『今日はお疲れさまでした。次はもう少し気楽に乗れそうですね。』
優也は少し考えてから返した。
『次も助手席よろしく』
返事はすぐに来た。
『もちろんです。』
画面を見ながら、優也は自然に笑った。次の休みには、観光地へ向かわない。泊まりもしない。ただ車庫を開け、自分たちだけでGRANZを外へ出し、少し走って、また帰ってくる。たぶん地味な一日になる。けれど今の優也には、その地味な一日が妙に楽しみだった。家はもう来た。あとは、この家と一緒に過ごす普通の時間を、少しずつ増やしていけばいい。
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