ep.52 届く日が見える
大型車の教習へ通い始めてから、優也の休日には以前とは違う緊張感が混じるようになった。仕事の日とは別の意味で身体を使い、普段なら何気なく見ていた大きな車両の動きを、自分の手で一つずつ確かめていく。最初のころは曲がるだけで余計に肩へ力が入り、バックするときにはミラーの中の情報を追うだけで頭がいっぱいになったが、回数を重ねるにつれて、少しずつ車体の大きさを「怖いもの」ではなく「考えて動かすもの」として捉えられるようになっていた。
といっても、急に上手くなったわけではない。
教習中に一度、狭い課題へ入る前の確認が足りず、指導員から「今のまま進むと後ろがきつくなります」と止められたことがあった。優也自身も途中で違和感を覚えていたのに、「たぶんいける」と進もうとしていたため、その日は帰宅してからも少し引っかかった。
翌日の現場で、大型ダンプが規制帯へ入るところを誘導しながら、優也は昨日のことを思い出した。外から見れば、運転手が一度止まり、ミラーを見直し、ゆっくり切り返しているのが分かる。以前の自分なら「もうちょい行けるやろ」と思ったかもしれないが、今は止まる意味が少し違って見えた。
休憩中、その話を久保田へすると、缶コーヒーを開けながら笑われた。
「大型車なんて、一発で決めるほうが偉いわけちゃうぞ。危ない思ったら止まる、分からんかったら見直す。それが普通や」
「分かってるつもりやったんですけどね。自分で乗ったら、早よ決めたくなるんですよ」
「それが一番あかん。お前、現場で車止めるときは安全優先やのに、自分で運転したら格好つけんのか」
「格好つけてるつもりはないですって」
「ほな、次から止まれ」
短く言われ、優也は素直に頷いた。
教習を受ける前から知っていたはずのことを、自分の身体で覚え直している。そんな感覚だった。
◇
その後、教習は大きな問題なく進んだ。
仕事の休みと副業の予定を見ながら通うため、一気に詰め込むことはできなかったが、焦って取る必要もない。GRANZ 8×8 Expeditionが完成するまでにはまだ少し時間があり、その間に必要な準備を整えればいい。
真琴も、ときどき教習の進み具合を聞いてきた。
ある夜、優也の部屋で夕食を食べながら、「もう慣れました?」と聞かれたので、優也は少し考えてから首を横に振った。
「前よりはマシ。でも『慣れた』って言うたらあかん気するわ。まだ毎回、最初に乗ったときちょっと緊張するし」
「そのくらいのほうがいいんじゃないですか。優也さん、慣れたと思うと急に雑になりそうですし」
「またそれ言う」
「自分でも言ってたでしょう」
真琴は笑いながら味噌汁を飲み、そのあと少し真面目な表情になった。
「でも、完成する前に教習を始めてよかったですね。今なら失敗しても教習車ですし、分からないことをその場で聞けますから」
「うん。GRANZ来てから初めて大きい車乗るとか、今考えたら怖いわ。早よ乗りたくて、余計焦ってたと思う」
「納車された日って、たぶん一番冷静じゃないですもんね」
「絶対テンション上がってるな」
「じゃあ、その日は私が横で落ち着かせます」
「頼むわ。たぶん効かんけど」
「効かなかったら乗せません」
「俺の車やぞ」
「安全の話です」
言い返せず、優也は笑った。
◇
教習を終える目処が立ったころ、駐車場所のほうにも動きがあった。
以前から候補にしていた東大阪の大型車向け区画で、納車時期に合わせて使える可能性が高い場所が一つ出たという連絡が管理会社から入った。まだ車両の完成日が確定していないため、契約の開始時期は相談しながら決めることになるが、条件そのものは優也が望んでいた範囲に近い。
週末、真琴と一緒にもう一度現地へ向かった。
これまでにも何度か見ている場所なのに、今回は少し見え方が違った。区画の入り口から中へ入る動線、隣の車両との間隔、車体の右側へ回れる余裕、左後部のガレージハッチから荷物を出し入れするときのことまで、優也の頭の中には完成したGRANZが具体的に置かれていた。
「ここやったら、右側も普通に使えそうやな。後ろ回るのも問題なさそうやし、道路出るときも前に見た候補より楽そう」
真琴は区画の端から入口側まで見てから頷いた。
「私もここがいいと思います。家から一番近いわけではないですけど、最初は距離より出入りしやすさのほうが大事でしょうし、慣れてからもっと条件のいい場所が見つかったら考え直せばいいですから」
「せやな。最初から完璧な場所探して、納車に間に合わんほうが嫌やし」
管理会社の担当者とも改めて条件を確認し、納車時期が正式に出た段階で契約開始日を合わせる方針になった。
その場で全部を決めたわけではないが、優也にはもう「ここへ帰ってくる」というイメージがはっきり見えていた。
◇
数日後、そのイメージを現実へ近づける連絡が|RHEINHARD Mobilityから届いた。
件名は、これまでの進捗報告とは少し違っていた。
『最終工程および納車時期のご相談』
優也は帰宅してからメールを開き、最初の数行を読んだところで姿勢を正した。
内装と主要設備の取り付けはほぼ完了し、現在は各部の動作確認と仕上げ、車両全体の最終調整へ入っているという。大きな問題が出なければ、今後の確認を終えたあと、納車可能な時期を具体的に相談できる見込みらしい。
日付そのものはまだ確定していない。
それでも、「完成したら」ではなく「いつ納車するか」を話せるところまで来た。
優也はメールを一度最後まで読み、それから真琴へ電話した。
「来たわ」
『何がです?』
「納車時期の相談。まだ日にちは決まってへんけど、最終工程入ったって」
電話の向こうで真琴が少し黙った。
『……本当に、もうそこまで来たんですね』
「うん。なんか、今までで一番実感ないかもしれん」
『どうしてですか?』
「ずっと待ってたからかな。骨組み見て、家具入って、教習行って、駐車場見てってやってたら、いつの間にか最後のほうまで来てた感じする」
真琴は少し笑った。
『でも、ここまで全部やってきたから、納車って言われても慌てずに済むんじゃないですか。駐車場所も候補がありますし、運転の準備も進んでますし』
「それはそうやな。前の俺やったら、メール来た瞬間に『いつでもいいです』って返してたかもしれん」
『今は違うんですか?』
「今は、ちゃんと準備終わってから迎えたいわ」
自分で言ってから、優也はその変化に少し驚いた。
◇
それから間もなく、教習の最後の段階を迎えた。
優也はこれまでより意識して、無理に一度で決めようとせず、確認が必要なら止まり、分からなくなればやり直した。最初のころは「上手く見せる」ことを考えていたわけではないつもりでも、今思えば少しだけ格好をつけていたのかもしれない。
最後の課題を終え、必要な手続きを済ませたとき、優也が感じたのは派手な達成感というより安心だった。
これで、少なくとも必要な入口には立てた。
もちろん、免許を取ったからといってGRANZをすぐ自在に扱えるわけではない。教習車とは車体の感覚も違うだろうし、納車後には改めて実車へ慣れる時間が必要になる。それでも、何も分からない状態から始めるのではなくなった。
帰り道、真琴へメッセージを送った。
『終わった。これで一応、運転する準備できた』
返事は少ししてから届いた。
『おめでとうございます。これで納車された日に「免許ないから乗れません」はなくなりましたね』
『それは最初から間に合わせるつもりやったわ』
『でも、すぐ一人で無茶しないでくださいね』
『はいはい』
『返事が軽いです』
優也は駅のホームで笑った。
その日の夜、久保田にも報告すると、「ほな次は実車でビビれ」と言われた。
「ビビれって何ですか」
「最初に怖い思っといたほうがええってことや。慣れてから調子乗らんようにな」
「真琴にも似たようなこと言われました」
「ほな間違いないな」
久保田は満足そうに笑った。
◇
教習が一区切りした翌週、優也と真琴は最終工程の確認で工場を訪れた。
製作スペースへ入ると、優也はすぐに足を止めた。
そこにあったのは、これまで見てきた途中のGRANZではなかった。
外装は落ち着いたアース系の色で整えられ、窓や玄関、足まわりまで一つの姿としてまとまっている。屋根には必要な設備が収まり、以前は仮の状態だった部分も仕上がっていた。
もちろん、最終確認中のため完全に納車状態というわけではない。
それでも優也には、もう完成車にしか見えなかった。
「……これ、俺の車?」
思わず出た言葉に、担当者が笑った。
「はい。まだ確認作業は残っていますが、外観としてはほぼこの状態です」
優也はゆっくり車体の周りを歩いた。
骨組みだったころを見ているからこそ、今の姿が妙に信じられない。向こう側まで見えていた居住部には壁と窓があり、何もなかった玄関には扉が付き、色のなかった車体には落ち着いた外装が載っている。
真琴も少し離れたところから全体を見ていた。
「完成予想図より、実物のほうが落ち着いて見えますね」
「俺も思った。もっとゴツい感じになるかと思ってたけど、ちゃんと車やな」
「その感想、今さらですか」
「四軸八輪の家見て『普通の車』とは言われへんやろ」
真琴は笑った。
◇
車内へ入ると、前回残っていた保護材の多くが外され、家具や設備も完成状態に近づいていた。リビングのソファへ座ると、工事途中の匂いが少し残っているものの、もう「作業中の車内」という印象は薄い。
担当者は、各設備の動作確認が進んでいることや、最終的な調整を終えたあとに納車前確認を行うことを大まかに説明した。優也は以前なら一つ一つ細かく聞いていただろうが、今回は必要なことだけを確認し、それ以外は任せることにした。
代わりに気になったのは、完成後の使い方だった。
「納車の日って、受け取ったあとそのまま俺が運転して帰る感じですか?」
「基本的にはその形が可能ですが、当日は車両説明や確認にも時間が掛かりますので、余裕のあるスケジュールをおすすめします。最初の移動距離も、無理のない範囲がいいと思います」
優也はすぐに頷いた。
「最初から遠出はしません。まず駐車場まで持って帰って、何回か近場で慣らしてからにします」
真琴も横で頷いていた。
「そのほうがいいです。納車の日に、そのまま旅行へ行くのはやめましょう」
「そこまではせえへんって」
「優也さんなら少し考えそうなので」
「ちょっとだけな」
担当者まで笑った。
◇
車内の確認が終わったあと、打ち合わせ室で納車時期について相談した。
製作側の最終確認と必要な手続きを終えたうえで、問題がなければ数週間先の範囲で受け渡しができる見込みだという。優也の仕事の休み、駐車場の契約開始、真琴の予定も見ながら、候補日をいくつか挙げることになった。
そこで優也は、初めて自分の予定表へ「納車」という文字を入れた。
今までは、いつ完成するか分からない未来の出来事だった。
それが今は、候補日の横へ丸を付けられるところまで来ている。
真琴も横から予定を確認し、大学の都合を見ながら「この日なら私も行けます」と言った。
「来るん?」
「当然でしょう。最初からずっと見てきたのに、納車だけ来ない理由がないです」
「そらそうか」
「むしろ置いていかれたら怒ります」
「前も聞いたな、それ」
二人は笑った。
結局、その場では一つに決めず、駐車場側の開始日と最終確認の進み具合を合わせて、数日以内に確定することになった。
優也はそれでよかった。
ここまで来たからこそ、最後だけ急ぐ必要はない。
◇
最後に、担当者から運転席側も確認しておきますかと声を掛けられた。
優也はこれまで何度も外からキャビンを見ていたし、設計段階ではシートやモニターの配置も確認している。それでも、実車の運転席へ自分が座るのは初めてだった。
ステップを上がり、シートへ腰を下ろす。
視線が一気に高くなった。
教習車で大型車の高さには慣れ始めていたものの、自分のために作られたGRANZの運転席から見る景色は、やはり別物だった。正面には広いフロントガラスがあり、左右や車体周囲を確認するための表示も、自分が実際にここから車を動かすことを前提に並んでいる。
「……ここから運転するんやな」
優也がハンドルへ軽く手を置くと、助手席側へ回った真琴もシートへ座った。
「今まで後ろの家ばっかり見てましたけど、ここも大事ですね」
「一番大事かもしれん。ここしくじったら家ごと持ってかれるからな」
「だから最初はゆっくりでお願いします。教習が終わったからって、急に上手くなったわけじゃないですし」
「分かってる。むしろ教習行ったから、前より怖いわ」
優也はそう言いながら、左右の確認位置や前方の見え方をゆっくり確かめた。教習車で覚えたことを、そのまま当てはめればいいわけではない。それでも、大きな車体を動かすときに何を見なければならないか、どこで無理をしないほうがいいかは以前より分かる。
真琴は助手席から前を見たまま、「ここに座ってると、本当に旅行へ行く車なんだって感じしますね」と言った。
「後ろ入ったら家やのに、前座ったら急に車やな」
「両方あるのがGRANZなんでしょうね」
優也は頷いた。
停まれば家になり、走れば大きな車になる。
その当たり前のことを、運転席へ座ったことでようやく身体で理解した気がした。
担当者から、納車時には運転席まわりの操作も改めて説明すると聞き、優也は今日はそれ以上触らずに降りた。少し前の自分なら、動かせるものを全部試したがったかもしれないが、今は「その日は納車の日に取っておこう」と思えるくらいには待てるようになっていた。
◇
工場を出たあと、二人は近くの喫茶店へ入った。
優也はブラックコーヒーを頼み、真琴は紅茶を選んだ。注文が来るまでの間、二人ともさっき撮ったGRANZの写真を何度か見返している。
「今日のは、もう完成写真みたいですね」
真琴が言うと、優也も頷いた。
「骨の写真と並べたら別物やで。あれからここまで来たんやな」
「長かったですか?」
「長かったけど、思ってたより早かった気もする。金貯めてたころから考えたらめちゃくちゃ長いけど、契約してからは工場行くたびに変わってたしな」
真琴は少し考えてから笑った。
「私は、優也さんの部屋で最初にあの車のサイトを見たときが一番遠かった気がします。二億円を超えるって分かって、それでも欲しいって言ってましたよね」
「今考えたらよう言うたな」
「本当に買うとは思ってませんでした」
「俺もや」
二人で笑ったあと、優也はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、買うって決めてからも、ずっと『ほんまに行けるんかな』って思ってたわ。三百万のときも、見積もり見たときも、審査のときも。今やっと、ほんまに来るんやなって感じする」
「来たら来たで、たぶん今度は別のこと考えますよ。駐車が怖いとか、荷物どこに置くとか、最初の夜ちゃんと寝られるかなとか」
「もう考えてる」
「でしょうね」
真琴は笑った。
◇
帰宅後、優也は駐車場の管理会社へ連絡し、納車候補の時期を伝えた。ちょうど希望していた区画を使える見込みが立ち、開始日の調整もできるという。
これで、車を迎える場所もほぼ決まった。
教習も終わり、運転するための準備も整った。
工場では最終確認が進み、あとは受け渡しの日を合わせるだけになりつつある。
優也は一つずつ確認しながらも、不思議なくらい落ち着いていた。少し前なら、ここまで条件が揃えばすぐにでも「一番早い日で」と言っていたかもしれないが、今は仕事の予定も真琴の都合も、駐車場側の受け入れも整った日にしたいと思っている。
数日後、すべての予定が合ったところで、|RHEINHARD Mobilityから最終的な候補日が届いた。
優也はカレンダーを開き、その日付を見た。
仕事は休みを取れる。
真琴も来られる。
駐車場もその日から使える。
条件は揃っていた。
優也はしばらく画面を見たあと、返信欄を開き、希望日としてその日を選んだ。
送信ボタンを押した瞬間、派手な音が鳴るわけでもなく、画面に何か特別な演出が出るわけでもない。ただ「送信しました」と表示されただけだったが、優也にはそれで十分だった。
◇
その夜、真琴が優也の部屋へ来ると、ダイニングテーブルの上に開かれたノートを見つけた。
「決まったんですか?」
「うん。向こうからも確認来た。駐車場も合わせられたし、その日で行く」
真琴はノートを覗き込み、書かれた日付を見たあと、少しだけ笑った。
「じゃあ、その日から本当に優也さんのところへ来るんですね」
「契約した時点で俺のやと思ってたけど、実物が来るってなるとまた違うな」
「今度は工場へ会いに行くんじゃなくて、連れて帰るんですもんね」
その言い方が妙にしっくりきて、優也は頷いた。
ノートには、すでにいくつか書いてある。
『保管場所――確定』
『運転――準備完了』
『納車日――決定』
以前なら、その下に必要な荷物や当日の予定を細かく書き始めたかもしれない。しかし今は、それ以上を書き足さずにペンを置いた。
準備することはまだある。
けれど、それは明日から順番にやればいい。
今夜はただ、日付が決まったことを眺めていたかった。
真琴が向かいに座り、「最初の一泊、まだ近場で変わりませんよね」と確認すると、優也は笑いながら頷いた。
「変えへんよ。まずは駐車場までちゃんと帰って、何回か乗って、そっから一泊。遠く行くんはそのあとや」
「それなら安心です。最初の日から旅に出るって言われたら止めようと思ってました」
「信用ないなあ」
「楽しみにしてるから、壊したくないんです」
真琴はそう言って笑った。
優也も笑ったが、その言葉はよく分かった。
ずっと欲しかった車だからこそ、焦らず迎えたい。
ずっと待ってきたからこそ、最初の一日を無理に特別なものへしなくてもいい。
工場の中で線から骨になり、壁を持ち、家具と灯りが入り、ようやく完成へたどり着いたGRANZは、もうすぐ自分たちの生活へ入ってくる。
優也はノートに書かれた日付をもう一度見た。
今まで遠くにあった納車は、ついに「いつか」ではなくなった。
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