ep.44 値段のついた家
初回の設計レビューを終えてから、優也の生活には小さな習慣が一つ増えた。
仕事から帰り、風呂と夕食を済ませたあと、RHEINHARD Mobility Japanから届いている共有データを開く。毎日更新されるわけではない。それでも、数日前にはなかった線が一本増え、前回まで赤字だった部分が黒へ変わっているだけで、しばらく見ていられた。
以前は「この装備も欲しい」「ここに収納があったら便利そうだ」と思いつくたびに足したくなったが、今は少し違う。一つ増やせば重量が増え、床下では配管や配線の取り回しが変わり、屋根なら空調や換気、固定式ソーラーの整備スペースまで影響する。何かを追加したくなったときほど、一度その理由を考えるようになっていた。
ある夜、優也が主寝室の図面を拡大していると、真琴からメッセージが届いた。
『ベッド下の収納、前より浅くなってません?』
優也は思わず画面へ顔を近づけた。
『ほんまや。後ろのガレージ側が上がったんかな』
数分後、電話が掛かってくる。
「今見てます?」
『見てます。後部ガレージの床構造が変わったみたいです。自転車か小型バイクを固定するレールの部分、少し上に取っていますね』
「そこ残すなら、寝室側の収納減るんはしゃあないな。服とかは別でどうにかなるし」
『優也さん、収納あるだけ詰めるでしょう』
「偏見や」
『工具、予備部品、椅子、使うか分からないコード。空いてたら入れますよね』
否定しようとして、優也は黙った。
真琴が笑う。
『だから、少し狭いくらいでいいと思います』
「俺の車やぞ」
『一緒に考えてるんだから、言うくらいいいでしょう』
さらりと返され、優也は口元だけ緩めた。
「まあ、言うだけならな」
『完成したら使いますけど』
「そこはもう決定なん?」
『使わせないんですか?』
「誰がそんなこと言うた」
優也が笑うと、真琴も笑った。
図面の話から始まった電話は、そのあと研究室で壊れかけた椅子の話や、久保田が昼休みに新しい工具を自慢していた話へ逸れていった。以前ならGRANZの話が終われば通話も終わっていたのに、最近は用事のない話が少しずつ長くなっている。
◇
二回目の設計レビューでは、車体と居住部をどう結ぶかが中心になった。
優也は最初、大型車なら頑丈な箱を載せればいい程度に考えていた。けれど、悪路ではシャシーそのものがわずかにねじれ、その動きを居住部へ直接伝えると、壁や家具、窓まわりへ無理な力が掛かる。
技術者は小さな模型を使い、片側の車輪が持ち上がった状態を見せた。
「シャシーを完全にねじれないものへするより、動くことを前提にして居住部を守ります。高強度のサブフレームを介して、必要な範囲だけ動きを逃がします」
優也は模型を横から覗き込む。
「家をちょっと浮かせるような感じですか?」
「感覚としては近いです。ただ、実際には決められた取付点で支えながら、シャシーの変形を全部居住部へ入れない構造です」
真琴は模型ではなく断面図を見ていた。
「それを入れると床が高くなりません? 全高は三・六メートル以下で変えないんですよね」
「そこは床下機器の配置と一緒に調整します。室内高を大きく犠牲にしない範囲へ収めますが、最終的な施工厚は実設計で確認します」
優也は天井側の図面へ視線を移した。
屋根には前後二基のルーフエアコン、固定式ソーラー、換気、通信設備があり、室内側には主寝室のモニターと照明が入る。床下には8×8の駆動系、水、燃料、バッテリーがある。
「上も下も取り合いやな」
「大きい車だから余る、ではないんです。大きいから載せたいものも増えます」
担当者に言われ、優也は苦笑した。
「それ、何回聞いても刺さるな」
「優也さんが欲張るからです」
真琴が何でもない顔で言う。
「いや、真琴も洗濯乾燥機と食洗機は残せ言うたやろ」
「毎日使うものは欲張りじゃないです。生活です」
担当者たちが小さく笑い、優也もそれ以上は言わなかった。
結局、見えない構造へ重量を使うことには迷わなかった。壁紙や装飾を豪華にするより、長く使っても歪みにくく、悪路へ入っても家として壊れにくいほうがいい。
レビューの終わりに、暫定の重量表が画面へ出た。
まだ家具材や細かな部品が確定していないため、数字には幅がある。それでも十九・八トン以下という最大車両総重量目標は、現段階では成立する見込みだと説明された。
「追加バッテリーは?」
優也が聞くと、設備担当は首を横へ振らなかったが、すぐに肯定もしなかった。
「六十キロワット時を標準として、このまま進めるのが安全です。ブラックタンクを廃止したことで床下に余裕はできましたが、その余裕を重量マージンとして残す価値もあります。追加するなら、完成重量が見えてから五から十キロワット時の範囲で再検討します」
「じゃあ、今は増やさんでええです」
優也が答えると、真琴が横から小さく頷いた。
以前なら「せっかく空いたのに」と思ったかもしれない。
今は、積まないことも一つの装備だと感じられた。
◇
外装の話へ移った日は、優也のテンションが少し戻った。
日本仕様だからといって、GRANZらしい重厚さを失わせたくはない。四軸八輪の大きな車体に派手な装飾を足すのではなく、低い光沢のアース系カラーを基本にする。オリーブとカーキの中間に少し茶色を混ぜたような色へ寄せ、足まわりや樹脂部は濃い色で締める。
画面へ外観レンダリングが出た瞬間、優也はしばらく黙った。
前に見ていた海外仕様のGRANZとは違う。
全長八・九六メートルへ伸びた日本仕様の車体は、長さのわりに間延びして見えないよう窓やハッチの位置が整えられ、右側には生活側の窓と主玄関、玄関キャノピー、メインオーニングが並ぶ。左側はサービス側として、給水、外部電源、電装、燃料、排水、ガレージアクセスがまとめられている。
「……これ、ええな」
優也がようやく言うと、真琴も画面を見たまま頷いた。
「思ったより落ち着いてますね。もっと大きさを見せる感じになると思ってました」
「これくらいがええ。派手にしたら、ただでさえ目立つのに余計目立つわ」
担当者が別の角度へ切り替える。
屋根は固定式ソーラーになったことで、以前の可動レールや展開機構がなくなり、側面から見た印象も少しすっきりしていた。前後のルーフエアコンとアンテナ類は屋根の低い位置へまとめ、走行時に不自然な突起が並んで見えないよう配置を詰める。
「ソーラー、動かんほうが見た目もええな」
「故障点も減ります」
真琴が言うと、優也は笑った。
「そこ先に言うんやな」
「旅先で展開機構壊れて帰れません、よりいいでしょう」
「帰れんことはないやろ」
「気分の話です」
そんな会話をしながら、二人で外観を何度も回して見た。
まだ画面の中なのに、駐車場へ停まった姿を想像できるくらいには、もう自分たちの車になっていた。
◇
主寝室と後部ガレージの調整では、最初に真琴が気づいた収納の問題がそのまま議題になった。
主寝室は最後部に置き、中央へ一九〇〇×一四〇〇ミリ級のベッドを縦向きに配置する。左右には実際に身体を通せる余白を残すが、その幅を机上で無理に固定せず、壁厚や配線、窓位置まで含めて成立する範囲で詰める。
ベッド下はすべて収納にせず、後部ガレージとの高さを優先した。
自転車か小型バイクを一台積めるスペースを確保し、床には固定レール、周囲には最低限の工具と旅道具を置ける収納を設ける。ただし、空いているからといってガレージを拡大しすぎない。
「広くすると、絶対入れるでしょ」
真琴が言った。
「何を?」
「工具、椅子、予備部品、使うか分からない物。そのうち『念のため』で全部増えます」
「俺を何やと思ってんねん」
「収納があると安心する人です」
優也は言い返しかけ、結局黙った。
担当者が笑いをこらえながら図面を進める。
寝室中央の天井には大型モニターを収納し、必要なときだけ多関節アームで展開する。その左右にはBS-EW3150を一基ずつ、室内側の局所二重天井へ前後方向に埋め込む。中央を照明で塞がないため、モニターと照明が干渉しない。
ベッド左右には読書灯とAC電源、USB-C。足元には夜間用の低照度灯を設ける。
「左右、完全に同じですか?」
真琴が聞いた。
「基本的には左右どちらでも同じように使えるようにします」
「じゃあ、どっちでも困らないですね」
優也が横を見る。
「前じゃんけん言うてたけど、まだ決めへんの?」
「景色で決めます」
「毎回変わるやん」
「だから公平でしょう」
真琴は当然のように返し、図面へ目を戻した。
優也は少しだけ笑った。
自分の寝室のはずなのに、どちら側を真琴が使うかという話が、もう冗談として自然に成立している。
その距離を、今は無理に縮める必要はない。
◇
三回目のレビューでは、リビングとキッチンがようやく「間取り」から「暮らす場所」へ変わった。
玄関から入ると、右手から前方へ大きなラウンジが開く。運転席と助手席は停車後に後ろへ回転し、前方の席としてそのままリビングへ加わる。五人目の正式な走行席も、停車時に一脚だけ乗用車の椅子が残って見えないよう家具へ溶け込ませる。
中央通路は前後へ抜け、ソファと可動テーブルがその動線を邪魔しない。
テーブルは三分割で、食事、パソコン、書類作業など用途に合わせて左右へ逃がせる。ソファは就寝時に簡易ベッドへ変わり、キャビン上部の降下式ベッドを使うときにも足場を確保できる。
担当者が内装レンダリングを表示すると、優也は前のめりになった。
木目は明るすぎず、壁や収納は落ち着いたグレーを基調とし、金属部は光沢を抑えている。入口から奥まで視線が抜けるので、車幅そのものより広く感じた。
「……ほんまに家っぽいな」
優也が言うと、真琴も画面を見たまま少し笑った。
「家ですね。でも、普通の家より全部近くて、キャンピングカーよりちゃんと暮らせそうです」
「それ褒めてる?」
「かなり」
玄関左側には十五インチの統合操作パネル。普段は機械を意識させないよう、電装や通信のサービス部分は扉の中へ隠す。照明や空調、給湯、タンク、充電状態などはパネルでまとめて見られるが、主要な照明や設備には物理スイッチも残す。
「パネル壊れたら真っ暗、は嫌やもんな」
「そこは設計側も同じ考えです」
キッチンは左側。
大型シンク、二口IH、ビルトインのオーブンレンジ、食洗機、収納が一体になり、洗濯乾燥機も下部キャビネットへ収める。扉を閉じれば洗濯機が見えず、放熱や点検のための空間は裏側へ確保する。
そして、冷蔵冷凍庫。
担当者がレンダリングの一部を拡大すると、優也は一瞬どこにあるのか分からなかった。
「これ?」
「はい。上段が冷蔵、中段が野菜・チルド、下段が冷凍です。壁面と同じ面材で扉を作っています」
「ほんまに壁やな」
真琴が少し身を乗り出した。
「開けたら普通に冷蔵庫なんですよね?」
「もちろんです。見た目をフラットにしているだけで、内部は独立した三段構成です。走行中は機械式のトラベルロックを掛けます」
「これ、好きです」
真琴がはっきり言った。
優也が横を見る。
「そこそんな刺さる?」
「毎日見るものが『家電です』って主張しないの、いいじゃないですか」
「毎日見る前提なんや」
優也が言うと、真琴は一瞬だけ言葉を止めた。
「……完成したら、よく乗る予定なので」
「よく、な」
「何ですか」
「何も」
優也は画面へ視線を戻した。
笑いそうになる口元を隠すためだった。
◇
トイレ室のレンダリングが出たとき、優也は以前よりも興味深そうに見た。
Clesanaは水洗便器のような大きなタンクや配管を必要としない。そのぶん床下の構成は単純になり、室内側も手洗いと収納を取りやすい。とはいえ、トイレそのものを主役に見せる必要はないので、個室は落ち着いた内装にまとめている。
「これなら、ブラックタンクの残量気にせんでええんやな」
「消耗品の残量は気にしてください」
真琴が言う。
「現実的やなあ」
「旅先で切れたら困るでしょう」
「予備積むって」
「積みすぎないでくださいね」
「ライナーで重量オーバーせえへんわ」
二人で笑った。
シャワー室は別室で、防湿照明と換気を独立させる。トイレも個室換気を残し、臭気や湿気をリビング側へ流さない。
そこから主寝室まで見終えると、担当者が照明シーンの簡易シミュレーションへ切り替えた。
昼の明るい状態から、夕方の暖色、夜間の低照度へ変わっていく。
リビングの主照明だけでなく、ソファまわりの間接照明、キッチンの手元灯、玄関足元、主寝室の読書灯が別々に動く。夜中にトイレへ行くためだけに、車内全部を明るくする必要はない。
「これ、ええな」
優也が言うと、真琴も頷いた。
「夜に全部点けたら目が覚めますから。足元だけで動けるのはいいです」
「真琴、寝起き弱そうやもんな」
「優也さんに言われたくないです」
「俺、現場の日は起きるで」
「休みの日の話です」
「見たことないやろ」
「想像です」
真琴は涼しい顔をしていた。
優也は少しだけ、その「想像」がどこまで先を見ているのか気になった。
◇
レビューの帰り、二人は駅近くのファミリーレストランへ入った。
昼を軽く済ませていたせいで、優也はハンバーグのセットをすぐに決め、真琴は和風の定食を選んだ。
料理が来るまで、優也はスマートフォンに送られた内装レンダリングを何度も見ていた。
「まだ見るんですか」
「見るやろ。やっと中が全部つながったんやで」
「さっきまで実物大の画面で見てたじゃないですか」
「それとこれは違う」
真琴は呆れたように笑ったあと、自分もスマートフォンを開いた。
「主寝室、思ったより落ち着いてましたね」
「モニター出したら一気に変わりそうやけどな」
「でも、使わないときは隠れるからいいです。窓も両側残ったし」
「景色いいほう取るんやろ?」
「はい。じゃんけんで」
「まだ言うてる」
料理が運ばれてきたところで、二人とも画面を伏せた。
しばらく食べてから、真琴が箸を止める。
「優也さん」
「ん?」
「完成したら、最初どこ行きたいですか?」
少し考え、優也は答えた。
「両親連れて温泉かな。遠すぎんところから始めたい」
「優也さんらしいですね」
「真琴は?」
「私は……海が見えるところもいいですけど、最初は山のほうがいいかもしれません。車の中で朝起きて、外が静かなところ」
「研究道具持ってく?」
「最初くらい持っていきません」
「ほんまか?」
「失礼ですね」
真琴は笑いながら味噌汁を飲んだ。
優也はその横顔を見て、完成後の風景を頭の中へ置いてみた。
まだ契約もしていない。
金額すら最終提示前だ。
それでも、どこへ行くかを二人で話していると、車を欲しい理由が装備や大きさとは別のところへ移っている気がした。
「じゃあ、二回目山な」
「最初じゃないんですか?」
「一回目は親孝行」
「それなら仕方ないですね。二回目で」
真琴は自然にそう答えた。
優也も自然に受け取った。
◇
そこから数週間、設計は少しずつ最終案へ近づいた。
配管や電装の取り回しが固まり、外部電源、給水、サービスハッチの位置も決まる。前後二基のルーフエアコンはそれぞれ担当する空間を分け、固定式ソーラーは空調や換気、通信設備の整備余白を残したまま屋根へ収まった。
六十キロワット時級のハウスバッテリーは左右へ分散し、走行発電と外部電源を組み合わせる。追加容量は、あえて最終仕様から外した。
優也はそれを惜しいとは思わなかった。
最初のころなら、付けられるものを外すことを「妥協」と感じていたかもしれない。今は、必要のない重さを載せないことも設計だと分かる。
ある日のレビュー終盤、担当者が資料を閉じる前に言った。
「次回、最終仕様案と概算価格をご提示できる見込みです」
優也の手が止まった。
設計を進めている間、意識して考えないようにしていた数字が戻ってくる。
二億円を超える可能性が高い。
最初から聞いている。
けれど、今度出てくるのは動画で見た海外仕様の参考価格ではない。自分たちが一つずつ残し、削り、動かしてきた、その一台の値段だ。
工場を出たあとも、優也は少し静かだった。
「緊張してます?」
真琴に聞かれ、素直に頷く。
「するやろ。三百万の次に、いきなり本体価格やで」
「前から二億円を超えるかもしれないって言われてたでしょう」
「分かってても、数字で出るんは別や」
真琴は少し考えてから、優也の横へ歩幅を合わせた。
「高かったら、やめます?」
「いや」
答えは早かった。
「高いから一回止まることはあるかもしれん。でも、今の仕様見て『これじゃない』とは思ってへん。むしろ欲しくなってる」
「じゃあ、値段は次の問題ですね」
「そう簡単に言うなあ」
「簡単じゃないです。でも、車そのものに迷ってるわけじゃないなら、分けて考えたほうがいいと思います」
真琴の言葉に、優也は少し笑った。
「一緒に考えてくれる?」
「ここまで来て急に降りませんよ」
その一言が、値段の話より長く残った。
◇
最終仕様案が提示されたのは、それから十日ほど後だった。
打ち合わせ室のテーブルには、外観図、平面図、主要設備の一覧、重量計算の暫定結果、そして封筒に入った見積書が置かれていた。
優也は見積書へ手を伸ばさず、先に担当者の説明を聞いた。
全長八・九六メートル、全幅二・四九メートル、走行時全高三・六メートル以下。四軸八輪の8×8で、右ハンドル、日本国内での登録を前提に適合を進める。
居住部は物理的なスライドアウトを使わず、シャシーのねじれを逃がすサブフレーム構造を採る。右側主玄関から入れば前方へリビングが開き、回転式の運転席と助手席まで停車時の居場所になる。五人目の正式な走行席もラウンジへ統合し、中央通路を塞がない。
左側キッチンには壁面と同材で隠した三段式冷蔵冷凍庫、ビルトインのオーブンレンジ、下部へ収めた洗濯乾燥機。独立シャワーとClesanaのトイレ室。その奥には中央縦置きのベッドを置く主寝室があり、中央天井には収納式大型モニター、左右にはBS-EW3150を一基ずつ埋め込む。
屋根は固定式ソーラーを中心に、前後二基の空調、換気、通信設備を互いに邪魔させない。床下は中央の8×8駆動系を避けながら、清水、グレー水、燃料、六十キロワット時級のバッテリーを左右へ分散する。ブラックタンクはない。
細かな数字を全部読み上げるのではなく、担当者は「前回までの確認から、大きな変更はありません」と言った。
優也も、それで十分だった。
「重量は?」
「現段階の計算では目標範囲内です。ただし、実車製作後の確認までは確定値とは申し上げません。追加バッテリーは今回の価格には入れていません」
「そのままでお願いします」
担当者が頷き、ようやく見積書を優也の前へ向けた。
紙の上に印字された総額を見た瞬間、優也は声を出せなかった。
二一八、六〇〇、〇〇〇円。
二億一千八百六十万円。
分かっていた。
二億円は超えると何度も聞いていた。
それでも、数字として印字されると重さが違った。
「……家どころか、ちょっとした建物やな」
ようやく出た言葉に、担当者も苦笑した。
「完全特注の四軸車両、日本仕様への適合、専用居住部、電源・通信設備まで含むため、一般的なキャンピングカーとは単純に比較できない価格になります」
優也はもう一度数字を見た。
隣の真琴は、金額だけに目を止めず、その次のページへ視線を移している。
「支払いは段階ごとなんですね」
「はい。正式な車両製作契約時、ベースシャシーの発注、居住部フレーム完成、主要設備搭載、最終検収という形を基本にしています。詳細な割合は資金調達方法も含めて調整しますが、契約時点で相応の前払いが必要です」
仮の例では、契約時に総額の二割前後。
四千万円を超える。
三百万円を作り、ようやく入口へ来たと思った先に、桁の違う数字が待っていた。
優也はしばらく見積書を見たあと、なぜか少し笑った。
「三百万であんな悩んだのに、次四千万か」
「笑うところではないと思います」
真琴はそう言いながらも、少しだけ笑っていた。
担当者からは提携先の金融機関やリース会社へ相談する方法も説明された。ただし、個人向けの高額な特注車両であり、給与だけを見て簡単に全額を借りられるものではない。自己資金、継続収入、副業の実績、帳簿、契約形態などを見て判断される。
「こちらとしても、無理な資金計画でご契約いただくことはお勧めしません。設計はここまで固まりましたので、この仕様を基準に資金計画を整えていただくこともできます」
優也は見積書を閉じず、しばらくそのまま眺めていた。
二億一千八百六十万円。
高い。
どう考えても高い。
それでも、不思議と「無理や」で終わる数字には見えなかった。
何に金が掛かっているかは、ここまで一緒に見てきた。
削れば安くなるところもある。
けれど、値段だけを下げるために削れば、自分が欲しかった車ではなくなる。
「今日は契約しません」
優也が言うと、担当者は静かに頷いた。
「もちろんです」
「でも、仕様はこれでいいです。俺が欲しいのは、このGRANZです。あとは、この値段をどう現実にするか考えます」
真琴は横から何も足さなかった。
優也が自分で言い切るのを待っていた。
◇
工場を出たあと、二人はすぐ駅へ向かわず、少し遠回りして歩いた。
優也は見積書の入った封筒を鞄へ入れていたが、その重さを妙に意識していた。
「二億一千八百六十万」
声に出してみる。
「聞いていました」
「言うたらもっと高いわ」
「でも今日いきなり二億になったわけじゃないでしょう」
「分かってんねんけどな」
真琴は少し黙って歩いたあと、優也のほうへ顔を向けた。
「それでも、欲しいんですよね」
「うん」
「なら、今日はそれでいいんじゃないですか」
「四千万の前金見ても?」
「そこは次に考えるところです。車が違うと思ったなら設計から戻らないといけませんけど、車はこれでいいんでしょう?」
「これがいい」
返した声は、自分で思っていたより迷いがなかった。
真琴は少し笑う。
「じゃあ、次はどう買うかですね。ただ、また急に副業を倍にするとかはなしです」
「先に釘刺すな」
「必要なので」
「俺もせえへんって。今の生活壊してまで買ったら意味ない」
「それなら大丈夫です」
しばらく歩いてから、優也がふと聞いた。
「真琴は、高すぎると思わん?」
「高すぎます」
「即答やな」
「でも、優也さんが何年も払えないローンを無理に組んで、毎月苦しくなるなら止めます。そうじゃなくて、ちゃんと買える形を作るなら、私は一緒に考えます」
優也は足を少し緩めた。
「一緒に?」
「ここまで何回図面見たと思ってるんですか」
「そういう意味か」
「他に何があるんです?」
「いや、別に」
優也は前を向いた。
真琴も追及しなかった。
ただ、二人の歩幅は自然に揃ったままだった。
◇
その夜、優也は自宅で見積書をもう一度開いた。
隣のモニターには完成予想のレンダリングが表示されている。
重厚な四軸八輪の車体。
落ち着いたアース系の外装。
右側の主玄関。
固定式ソーラーが載る屋根。
その中には、二人で何度も話して決めた生活が入っている。
ノートを開き、今日の日付を書く。
『最終仕様案――確認』
その下へ、
『概算総額――218,600,000円』
と記した。
数字だけ見ると、やはり笑いたくなるほど大きい。
けれど、三百万円を目標にしたころとは違う。
今は、いくら必要か分からないから怖いのではない。
必要な額が、はっきり見えてしまったから怖い。
その違いは大きかった。
優也は次のページを開き、思いつくままに書き始めた。
契約時に必要な自己資金。
副業を一時的な売買ではなく、第三者へ説明できる形にすること。
帳簿と申告。
融資やリースの条件。
本業を続けること。
生活防衛費には触れないこと。
以前なら「どうやって二億作るか」と一行で終わっていたかもしれない。
今は違う。
買うための金と、買ったあとに生きるための金を同じものとして扱わない。
そのうえで、無理なく返せる形を作る。
そこまで書いたところでスマートフォンが震えた。
真琴からだった。
『見積書、また見てます?』
優也は笑った。
『なんで分かる』
『たぶん今頃ノート広げてると思ったので』
『怖いな』
『長い付き合いになってきましたから』
その一文を見て、優也の指が少し止まった。
何と返すか考えた末、
『否定できん』
とだけ送った。
すぐに返事が来る。
『無理はしないでくださいね。でも、諦めるとも言わないんでしょう?』
優也はモニターのGRANZを見た。
『言わん』
送信してから、ノートの最後へ一行だけ足した。
『無理はしない。でも、諦めない』
三百万円を貯めると決めたころ、この言葉は自分を焦らせないためのものだった。
今は少し意味が違う。
二億円を超える現実を見ても、欲しい気持ちは消えなかった。
なら、車を小さくするのではなく、自分の側を、この値段に耐えられる形へ近づけていく。
そのために何年も立ち止まる必要があるのか、もっと別の方法があるのかは、まだ分からない。
ただ一つ分かっているのは、明日も仕事へ行くことだった。
道路工事の現場へ立ち、帰れば副業の記録を見る。真琴と話し、必要ならRHEINHARDへ確認する。
二億一千八百六十万円という数字だけを睨んでも、一円も近づかない。
優也は見積書を封筒へ戻し、モニターのレンダリングを閉じた。
部屋が少し静かになる。
設計図の中に形を持ち始めた家には、今日、初めて値段が付いた。
その値段は、夢を終わらせるための数字ではなかった。
次に、自分が何を積み上げればいいのかを教える数字になっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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