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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
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ep.42 三百万円の向こう側


 雨の音が、ベランダの手すりを細く叩いていた。


 仕事を終えて帰宅した優也は、濡れた上着を玄関へ掛け、先に風呂へ入った。夕食は冷蔵庫に残っていた豆腐と豚肉で簡単に済ませ、洗い物まで終えたところで、ようやくダイニングテーブルへスマートフォンを置く。


 画面には、夕方に届いていた入金通知が残っていた。


 北摂リユース商会から預かっていた測定器が売れ、その委託手数料が振り込まれている。もう一件、自分で扱っていた交換レンズも同じ日に決済が終わった。


 優也はすぐにGRANZ用の口座へ移さなかった。


 売上から経費を引き、税金用に残す金を分け、次の仕入れに必要な額も残す。計算機を二度叩き、数字が合っていることを確認してから、移しても問題のない分だけを振り替えた。


 最後に口座を開き直す。


 三百四万八千円余り。


 画面を見たまま、優也は少しの間動かなかった。


「……越えたな」


 もっと派手に嬉しくなると思っていた。


 三百万円という数字は、最初に聞いたときには現実味のない壁だった。そこへ届いたのだから、立ち上がってガッツポーズくらいするかもしれないと自分でも思っていた。


 実際には、椅子に座ったままブラックコーヒーを一口飲んだだけだった。


 その代わり、胸の奥にじわじわと熱が残る。


 現場へ行き、帰って中古品を見て、売れない日は待ち、利益が薄ければ見送る。大きく増えた月より、何も起きなかった月のほうが多かった。それでも、減らさないように続けてきた結果が、今の数字だった。


 優也はスクリーンショットを撮りかけ、やめる。


 代わりに真琴へ短いメッセージを送った。


『三百万、越えた』


 返信はすぐには来なかった。


 大学にいる時間だろうと思い、優也は気にせず立ち上がった。明日の弁当用に米を研ぎ、洗濯物を畳み始めたところで、スマートフォンが震える。


『おめでとうございます。』


 そこまでは予想していた。


 続けて届いた二通目を見て、優也は思わず笑った。


『でも、今日振り込まないでくださいね。』


「そこから入るんかい」


 声に出した直後、着信画面へ真琴の名前が表示された。


「もしもし」


『今、笑いました?』


「笑うやろ。普通、おめでとうの次にそれ言う?」


『言います。優也さん、三百万円をずっと目標にしていたでしょう。到達した勢いで、そのまま申込金を払ったら困ります』


「払わへんよ。三百四万しかないのに三百万出したら、ただのアホや」


『ならいいです』


 真琴の声から、少しだけ力が抜けた。


 優也は畳みかけていたタオルを膝の上へ置き、ソファの背にもたれた。


「でもな、三百万って見たら、もうちょい何か変わると思ってたわ」


『何がです?』


「分からん。達成感というか、やったった感というか。実際は、次どうするかなって考えてるほうが強い」


『そのほうがいいんじゃないですか。そこがゴールだったら、GRANZはまだ一台もできてませんし』


「容赦ないな」


『事実です』


 優也は苦笑した。


 けれど、その返しが嫌ではなかった。


 数字に浮かれている自分を止めてほしいわけではない。それでも、三百万円の向こう側にも生活が続くことを、真琴は最初から当たり前のように見ている。


「週末、時間ある?」


『土曜なら午後から空いてます』


「飯行こ。祝い」


『高い店ですか?』


「三百万貯めた直後に高い店行ってどうすんねん」


『やっぱりそう言うと思いました』


 電話の向こうで真琴が笑った。



          ◇


 翌日の現場は、住宅街に近い片側交互通行だった。


 昼休み、優也がコンビニの弁当を開けていると、久保田が向かいの椅子へ腰を下ろし、缶コーヒーのプルタブを起こした。


「なんや今日、機嫌ええな」


「そう見えます?」


「見える。朝から一回も文句言うてへん」


「普段どんだけ文句言うてるんですか」


「交通量多い、ダンプ遅い、昼短い。だいたいその三つや」


 優也は笑い、箸を割った。


「昨日、ちょっと目標にしてた金額に届いたんですよ」


「副業のほうか?」


「そうです」


 久保田は「ほう」とだけ言い、金額までは聞かなかった。その距離感がありがたい。


「で、仕事辞めるんか」


「辞めませんよ」


「即答やな」


「副業でちょっと金できたくらいで辞めたら、来月どうすんですか」


「前よりまともになったなあ」


「前からまともです」


「自分で言うやつは怪しいねん」


 笑いながら話しているうちに休憩終了の時間になり、二人は立ち上がった。


 午後の規制が始まれば、三百万円のことを考えている暇はなかった。車列を止め、歩行者を通し、工事車両を入れる。無線の声を聞きながら、いつも通り目の前の流れを見る。


 昨日まで届いていなかった数字に届いても、自分の生活が急に別物になるわけではない。


 その当たり前さが、優也には少し心地よかった。


          ◇


 その日の仕事帰り、北摂リユース商会へ寄ると、店主がカウンターの奥から封筒を一つ出した。


「ちょうど福山さんに相談しようと思ってたんです」


「嫌な予感するなあ」


「悪い話じゃないですよ。前に紹介したいと言っていた店、やっぱり一度会いたいそうです。月に一回だけでも見てもらえないかって」


 優也は封筒を受け取らず、少し考えた。


 以前なら、仕事が増えることをそのまま喜んでいたかもしれない。今の副業なら利益も出ているし、三百万円を越えた直後なら、さらに先へ進みたくなる。


 けれど、頭に浮かんだのは通帳の数字ではなく、来週の勤務表だった。


「今はやめときます」


 店主が少し意外そうに眉を上げる。


「会うだけでも?」


「会ったら、たぶん断りにくなるんで。今の店で月二回、それに自分の分もある。これ以上増やしたら休日なくなります」


「せっかく三百万円に届いたのに?」


 店主は優也がGRANZの申込金を貯めていることを、細かい事情までは知らないものの聞いていた。


「届いたからです。ここで増やして崩したら、何のために地味にやってきたか分からんので」


 店主はしばらく優也を見たあと、封筒を引っ込めた。


「分かりました。じゃあ、向こうには今は枠がないと伝えておきます」


「すみません」


「謝ることじゃないですよ。むしろ、そのくらいの人だから紹介したくなるんでしょうね」


 店を出るころには、外はもう薄暗くなっていた。


 優也は駅へ向かいながら、少しだけ笑う。


 三百万円を越えた翌日に仕事を断る。


 昔の自分なら、たぶん理解できなかった。



          ◇


 土曜日の昼、二人が入ったのは駅から少し離れた定食屋だった。


 焼き魚、だし巻き、小鉢、味噌汁。真琴は料理が運ばれてくると、膳を見下ろして少しだけ首を傾げた。


「本当にここなんですね」


「何が不満や」


「不満じゃないです。三百万円達成のお祝いって聞いたので、もう少し特別なところかと思っただけです」


「ここ、だし巻きうまいやん」


「知っていますけど」


「じゃあ完璧や」


 優也が箸を取ると、真琴も笑いながら手を合わせた。


 しばらくはGRANZの話をしなかった。


 優也の現場で、久保田が新品の防寒手袋を三日で片方なくしたこと。真琴の研究室で、誰かが買ってきた菓子を冷蔵庫の奥へ隠したまま忘れていたこと。駅前にできた店が思ったより混んでいたこと。


 そういう話をしている時間のほうが長かった。


 食事が半分ほど進んだところで、真琴が味噌汁の椀を置いた。


「それで、どうします?」


「何を?」


「三百万円です。昨日は振り込まないって言ってましたけど、その次」


 優也は魚の骨を箸で外しながら、少し考えた。


「一回、RHEINHARDに確認する。申込金の条件が今も同じか。あと、こっちが仕様変えてるやろ。そこも全部ちゃんと最新になってるか見たい」


「Clesanaと固定ソーラーも?」


「そこも。ブラックタンクなくしたぶん、重量も変わるしな」


 真琴は頷いた。


「バッテリーを増やす話も、まだ確定にはしないんですよね」


「うん。空いたから積めるだけ積む、はやめた。六十キロワット時で足りるなら、そのままでもええ。増やすとしても、重量見てからやな」


 以前なら、容量が増えると聞けば単純に喜んでいたかもしれない。


 けれど今は、増やした分だけ重くなることも、床下のどこへ置くかで軸重が変わることも知っている。


 真琴は少し嬉しそうに笑った。


「ちゃんと我慢できるようになりましたね」


「子供扱いすんな」


「最初のころ、ソーラーもバッテリーも『載せられるなら載せよう』って言ってたのは誰ですか」


「昔の俺や」


「最近です」


「細かいなあ」


 二人で笑った。


 そのあと、優也は少し声を落とした。


「俺な、三百万いったら絶対すぐ申し込むと思っててん。でも今は、ちょっと違う」


「怖くなりました?」


「怖いのは最初からや。そうじゃなくて、払えることと、払ってええことは別やなって」


 真琴は箸を置き、正面から優也を見た。


「それなら、私は安心です」


「また安心って言うな」


「だって、前は止める役が必要そうだったので」


「今は?」


「一緒に確認する役くらいで大丈夫そうです」


 優也は返事をせず、残っていたご飯を口へ入れた。


 その言い方が、妙に嬉しかった。


          ◇


 食事のあと、二人はそのまま駅へ向かわず、近くの河川敷まで歩いた。


 空はよく晴れていたが、風はまだ少し冷たい。土手の上では犬を連れた人が何人か歩いており、川面には午後の日差しが細かく反射している。


 優也は歩きながらスマートフォンを取り出し、RHEINHARD Mobility Japanから以前届いた資料を開いた。


「今の仕様、向こうに全部入ってるか、明日メールするわ」


「今日じゃないんですね」


「せっかく外出てんのに、ここで仕事みたいなん始めたら嫌やろ」


「それはそうです」


 優也は画面を閉じた。


 真琴はしばらく前を向いて歩いたあと、ふと隣を見る。


「三百万円、長かったですか?」


「長かった。でも、思ってた長さとは違ったな」


「どう違うんです?」


「最初は毎日三百万のこと考えてると思ってた。でも途中から、仕事して、売って、飯食って、真琴と出掛けて、その間にちょっとずつ増えてた感じやった」


「それなら、ちょうどよかったんじゃないですか」


「何が?」


「GRANZだけのために生活してたら、買う前に嫌になってたかもしれません」


 優也は少し考え、それから笑った。


「それはあるな」


 真琴が手すりの向こうへ視線を向ける。


「私は、今のほうが楽しみです」


「車まだないで」


「知っています。だからです。完成したものを待ってるだけじゃなくて、こうやって少しずつ決めてるのが面白いんです」


 優也は何も返さなかった。


 ただ、歩幅をほんの少し真琴に合わせた。


          ◇


 翌日の夜、RHEINHARDへ送った確認メールには、その日のうちに返信が来た。


 最新版の基本仕様は反映済み。


 全長八・九六メートル、全幅二・四九メートル、全高三・六メートル以下。五人乗り、右側玄関、左側キッチン、最後部主寝室という大枠は変わっていない。


 冷蔵冷凍庫は三段式のフラットなビルトイン構造。洗濯乾燥機はキッチン下部へ収まり、普段は同じ面材で隠す。トイレはClesanaへ変更し、ブラックタンクは廃止。屋根のソーラーも、以前のスライド展開式ではなく固定式として再配置する。


 そこまでは、優也と真琴が決めた通りだった。


 ただし、最後の一文だけは赤字になっていた。


『重量および各軸負荷については、詳細設計で最終確認が必要です。追加バッテリー容量は、その結果を確認してから確定します。』


 優也はその文章を読み、すぐ真琴へ画面を送った。


『ここ、ちゃんと残ってた』


 しばらくして返ってきたのは短い一文だった。


『それでいいと思います。』


 優也も同じだった。


 数字を大きくすることより、成立することのほうが大事だ。


 RHEINHARDからは、技術検討申込みに進む場合の最新条件も添えられていた。申込金三百万円。正式契約へ進めば車両代へ充当される。詳細設計が終わった時点で最終仕様と正式価格を提示し、その時点で製作契約へ進むか判断する。


 優也はそこまで読んで、画面を閉じた。


 条件そのものは、以前と大きく変わっていない。


 違うのは、自分の側だった。


 もう三百万円を「用意できない金」として眺める必要はない。


 払うかどうかを選べる。


 そのことのほうが、残高の数字より重かった。


          ◇


 数日後、真琴が優也の部屋へ来た。


 テーブルの上には、RHEINHARDから届いた仕様確認資料と、優也のノートが並んでいる。


 真琴は資料を読んだあと、ページを戻さず、そのまま優也のほうを見た。


「申し込むんですか?」


「うん」


 返事は思ったより早く出た。


 真琴は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑う。


「今日は迷わないんですね」


「迷ったで。この何日かずっと」


「何が最後に決め手になったんです?」


 優也はノートを開き、以前から書いていた数字を真琴へ向けた。


 生活防衛費。


 税金用。


 仕入れ用。


 GRANZ用。


 どれも別に残っている。


「三百万払ったらスッカラカン、にはならん。副業も今のやり方なら無理なく続いてる。本業も辞める気ない。あと、仕様見直しても、まだ欲しい」


「最後が一番大きそうですね」


「そやな」


 優也は笑った。


「高い。デカい。停める場所も選ぶ。維持費も掛かる。しかも、詳細設計した結果、重量で何か調整になるかもしれん。それ全部分かった上で、まだ欲しいなら、もうええかなって」


 真琴は少し黙り、資料の端を指で撫でた。


「私も、乗りたいです」


 優也が顔を上げる。


 真琴は視線を資料へ戻したまま続けた。


「完成したら、ですけど。温泉にも行きたいし、前に話してた山のほうも行ってみたいです。あと、あの大きさなら、雨の日に何もしないで中で過ごすのも楽しそうです」


「何もしないんかい」


「毎回研究しなくてもいいでしょう」


「それはそうやな」


 優也の口元が緩んだ。


 最初に欲しいと思ったときは、自分一人の車だった。


 今も契約するのは自分で、支払う責任も自分にある。


 それでも、その車で何をするか考えるとき、真琴がいる景色のほうが自然になっていた。


 優也はノートパソコンを開いた。


 RHEINHARDの担当者宛てに新規メールを作り、件名を入れる。


『GRANZ 8×8 Expedition 技術検討申込みについて』


 本文は長くしなかった。


『技術検討申込みを正式に進めたいと考えています。現在の条件と必要書類、支払方法について最終確認をお願いします。』


 入力し終えたところで、優也の指が止まる。


「押すで」


「私に確認するんですか?」


「一応」


「優也さんのお金ですよ」


「分かってる」


 真琴は少し笑った。


「じゃあ、どうぞ」


 優也は送信ボタンを押した。


 画面が切り替わり、メールが送信済みに移る。


 部屋の中は何も変わらない。


 エアコンの音も、テーブルの上のコーヒーも、窓の外を走る車の音もそのままだった。


 それなのに、優也には一つだけ線を越えた感覚があった。


 三百万円の向こう側にあったのは、完成したGRANZではない。


 ようやく、自分たちの一台を本当に設計してもらうための入口だった。


「送った」


「はい」


 真琴が静かに頷く。


 優也は椅子の背へ体を預け、息を吐いた。


「なんか、思ったより普通やな」


「何がです?」


「もっと手震えるかと思ってた」


「明日、申込書が届いたら震えるかもしれませんよ」


「やめてくれ」


 真琴が笑い、優也もつられて笑った。


 その夜は、それ以上GRANZの資料を開かなかった。


 二人でコーヒーを飲み、途中から別の動画を見て、いつも通りの時間を過ごした。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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