ep.41 回る金、残る時間
GRANZの実寸モックアップを見た翌週から、優也の頭の中には二つの数字が並ぶようになった。
一つは、詳細設計へ進むための技術検討申込金、三百万円。
もう一つは、その先も生活を崩さずに維持できるだけの、毎月の余裕だった。
以前なら三百万円という大きな数字ばかりを見ていただろう。けれど、駐車場所、保険、整備、四軸八輪のタイヤ、消耗品、燃料、それに旅へ出れば日々の生活費も掛かる。車両代を払えた瞬間に終わる話ではなく、そのあと何年も持ち続けられるかどうかのほうが重要だった。
日曜の夜、優也は自宅のダイニングテーブルへノートを広げ、これまでの売買記録を見直した。
最初に扱った故障品のカメラから始まり、工具、交換レンズ、小型家電、ディーラー向け市場で落札した品まで、利益そのものは少しずつ増えている。ただ、金額が増えたからといって、同じやり方を単純に十倍へ広げればいいわけではない。
仕入れには現物確認が必要で、写真や動画越しでは鑑定が働かない。出勤日には時間が限られ、休日を全部仕入れへ使えば本業に響く。売れるまで在庫を抱える以上、使える資金にも限度があった。
優也は計算機を叩きながら、途中で手を止めた。
「金より先に、時間が足らんようになるな」
部屋には冷蔵庫の低い作動音だけが残った。
高く買って高く売るより、見落としの少ない品を無理のない範囲で回す。利益率だけを追わず、売れるまでの日数や梱包、発送、問い合わせ対応まで含めて考える。ディーラー市場では一度に持つのは二点まで。一点あたりの上限も五万円以下に抑え、現物確認済みのものだけを扱う。入札中にその上限を変えない。
これまで自分で決めてきたルールは、儲けを最大化するためではなく、失敗して生活まで巻き込まないためのものだった。
ノートの端に、優也は新しく一行だけ書き足した。
『仕入れ額ではなく、回転まで見る』
その下へ、売却までの日数、梱包時間、発送の手間、問い合わせ回数の欄を追加する。
面倒ではある。
けれど、こういう面倒を飛ばした先にあるのは、たぶん効率ではなく雑さだ。
◇
数日後、関西リユースリンクの担当者から一本の連絡が入った。
内容は落札や出品についてではない。
『現物を見る目が丁寧なので、一度紹介したい店があります』
最初は営業かと思ったが、続きを読むと少し違った。
大阪北部で中古カメラや工具を扱う小規模なリユース店が、店頭へ持ち込まれる動作未確認品の扱いに困っているらしい。全部を専門業者へ送るほど高価ではなく、未確認のまま安く処分すれば利益が残らない。もし現物を見て、販売候補と専門確認へ回す品をある程度分けられるなら、査定補助と委託販売を組み合わせた形で手伝ってほしいという話だった。
優也はすぐには返事をしなかった。
自分には鑑定がある。
だからこそ、簡単に引き受けるべきではないとも思った。
相手が何を期待しているのか、自分がどこまで責任を持つのかを曖昧にすれば、あとで必ず揉める。修理屋の真似をするつもりはなく、内部まで見えたからといって、それを根拠に「絶対に壊れません」と保証することもできない。
翌日の仕事を終えたあと、優也は真琴へ電話した。
「ちょっと変な話が来た。店の未確認品を見て、売れそうなん分けてくれへんかって」
『優也さんが鑑定できることは、もちろん知らないんですよね』
「知らん。俺が現物確認を細かくやってるから、見る目があると思われてるだけやと思う」
真琴は少し間を置いた。
『だったら、できることを狭く決めたほうがいいですね。故障の有無を保証するのではなく、販売候補を選ぶ補助まで。優也さん自身が扱うものは、さらに自分で現物確認してから委託を受ける形なら、不自然でもないと思います』
「俺もそう思ってる。何でも分かる人みたいになるんは嫌やしな」
『手数料と責任範囲も書面にしてください。売れなかった場合、返品された場合、輸送中に壊れた場合。そこを先に決めておいたほうが、長く続けられます』
優也は笑った。
「相変わらず夢ない答え返してくるな」
『優也さんが夢の車を買う話をしているから、他のところは現実的なくらいでちょうどいいんです』
「それ言われたら何も返されへんな」
電話の向こうで真琴も笑った。
彼女自身も大学側との予定や研究の手伝いで忙しい時期だったため、二人は長く話さず、その日のうちに通話を終えた。優也は真琴の言葉を思い出しながら、委託販売、査定補助、返品、輸送事故という見出しをノートへ書き出していった。
◇
紹介された店は、駅前の派手なリユースショップではなく、住宅地と小さな工場が混じる通り沿いにあった。
店名は『北摂リユース商会』。
十数台分ほどの駐車場がある一階建ての店舗で、入口側にはカメラやレンズ、小型工具が並び、奥にはまだ値札の付いていないケースや箱が積まれている。大型チェーンのような華やかさはないが、棚は整理され、品物の状態を書いた札も細かかった。
店主は五十代半ばほどの男性で、優也が想像していたより慎重な人物だった。
「別に、故障を全部当ててほしいわけじゃないんです。うちもそこまでは求めません。ただ、持ち込みが重なると、一点ずつメーカーへ送るだけで時間と費用が掛かる。店頭で扱える可能性があるものと、専門確認へ回したほうがいいものを、もう少し早く分けたいんです」
「俺、修理屋じゃないですよ。そこは最初に言っときます」
「承知しています。関西リユースリンクの担当さんからも、福山さんは無理なものには手を出さない人だと聞いています」
その言葉に、優也は少しだけ肩の力を抜いた。
店主は奥の棚へ案内し、いくつかのケースを見せた。
古いミラーレスカメラ、交換レンズ、業務用の測定器、コードレス工具、未開封の消耗品。見た目はきれいでも内部に不具合があるものもあれば、外観が悪いだけで動作に問題のないものもあるという。
優也は一つずつ手に取った。
鑑定は使う。
ただし、見えた情報をそのまま口にすることはしない。
外装の傷、端子の腐食、可動部の引っ掛かり、バッテリー室の状態、レンズ内部の曇り。普通に確認できる部分を先に見て、それから必要なら簡単な動作確認をする。鑑定で異常が見えても、外から説明できないものについては「専門確認が必要」として分けた。
能力を使えるからこそ、普通の手順を雑にしてはいけない。
一時間ほど見たところで、優也は十数点のうち、店頭販売候補を四点、専門確認へ回すものを三点、部品取りかジャンク表記が妥当なものを残りに分けた。
店主は結果を見ても、すぐには喜ばなかった。
「これ、毎週お願いするとなると、福山さんの時間をかなり使いますよね」
「そうですね。本業あるんで毎日は無理です。多くても月二回くらいかな」
「でしたら、こちらも全部を渡すのではなく、ある程度絞ります。委託販売までお願いするものは、福山さんが自分で現物を見て、扱えると判断したものだけ。売れた場合は固定の手数料をお支払いする形にしましょう」
条件はその場で決めず、一度書面にしてから確認することになった。
優也にとって大きかったのは、品物を自分で買い取らなくても利益を得られる可能性ができたことだった。
これまでの商売では、仕入れるたびに現金が在庫へ変わる。売れるまで資金は戻らない。
委託なら、その詰まりが少ない。
もちろん、自分の時間と信用は使う。売れなければ手数料は入らず、説明が雑なら返品につながる。
楽に儲かる話ではない。
それでも、優也には今までとは違う道に見えた。
数日後、店主から送られてきた簡単な契約案には、優也が頼んだ項目がきちんと入っていた。
優也が行うのは、店が選別した品の外観・基本動作の確認と、販売候補として扱えるかどうかの助言まで。修理保証やメーカー基準の検査を代行するものではなく、専門的な診断が必要だと判断した品は、その時点で対象から外す。委託販売を受ける場合も、説明文と写真を優也自身が確認し、状態に確信が持てないものは出品しない。
返品が発生した場合の送料負担、売れ残った品を何日で店へ戻すか、配送事故が起きたときの連絡順まで書かれている。
紙にすると、利益より先に責任ばかりが並んでいるようにも見えた。
けれど優也は、そのほうが安心だった。
「ここまで決めといたら、後から『そんなつもりやなかった』は減るな」
自宅で書類を読みながら呟き、気になった二か所だけ赤字で質問を書き込む。手数料の割合と、売れ残りの保管期間。そこを詰めたうえで、最初は一か月だけ試すことにした。
翌週、真琴にその話をすると、彼女は資料を一枚ずつ眺めてから頷いた。
「いいと思います。最初から長期契約にしなかったんですね」
「続くか分からんのに一年契約とか怖いやろ。向こうも俺も、合わんかったら止められるほうがええ」
「その判断ができるなら大丈夫そうです」
「また地味な褒め方やな」
「でも前より安心して見ていられますよ。最初のころなら、三百万円が近づくって聞いた瞬間に仕事を増やしていた気がします」
優也は否定しかけて、やめた。
たぶん、そうしていた。
早く届くことを良いことだと思い込み、休日を削り、在庫を増やし、利益が出ている間は無理に気づかなかっただろう。
今は、続けられる速さのほうが大事だと分かる。
◇
そこからの数か月で、生活は少しだけ忙しくなった。
平日は道路工事の交通誘導へ出て、帰宅後に問い合わせへ返信し、休日の一日を現物確認か発送準備へ回す。残りの休日まで全部商売へ使うと身体がもたないので、何もしない日も意識して残した。
久保田には、最近また荷物増えたんちゃうか、と笑われた。
「副業、本業になってへんやろな」
「なってないですよ。こっち休んでまでやったら意味ないし」
「それならええ。金増えても、現場でぼーっとされたら俺が怖いわ」
優也は笑って返したが、その言葉は案外大事だった。
自分が欲しいのはGRANZであって、GRANZのために今の生活を壊すことではない。
北摂リユース商会との委託は、最初の月に三点だけ試した。古い交換レンズ、業務用のレーザー測定器、外装に傷の多いミラーレスカメラ。
どれも高額品ではない。
ただ、状態を正直に書き、写真では伝わりにくい部分を説明文で補い、問い合わせには曖昧な返事をしない。レンズにはわずかなチリがあること、カメラの外装傷は多いが操作系統は確認できていること、測定器は校正証明までは付かないこと。
売るために欠点を隠すのではなく、欠点を書いたうえで納得する人に買ってもらう。
そのほうが、結局は返品も少なかった。
最初の委託手数料は合計で二万八千円。
自分で仕入れた品の利益と合わせ、その月の副業利益は六万円台になった。
翌月は八万円台。
さらにその次は、十万円をわずかに超えた。
数字だけ見れば急に伸びたように感じるが、実際には扱う量を無理に増やしたわけではない。仕入れに資金を寝かせる品を減らし、委託を混ぜ、売れやすい価格帯へ寄せた結果だった。
優也は毎月、利益の一部を税金用に分け、残りから次の仕入れ資金を確保し、そのあとでGRANZ用の口座へ移す。
全部を車へ入れない。
全部を仕入れへ戻さない。
その配分が、ようやく自分なりに分かってきた。
最初の一か月を終えたところで、北摂リユース商会の店主から継続の打診があった。
「うちとしては助かっています。福山さんが来る日まで候補をまとめておけるようになったので、前みたいに全部を止めておく必要がなくなりました」
「俺も今くらいの量なら続けられます。増やすなら無理ですけど」
「そこは増やしません。むしろ、福山さんに見てもらう前に、こちらで明らかなものを落とすようにします」
相手側まで作業のやり方を変えてくれたことが、優也にはありがたかった。
能力のおかげで自分だけが速くなるのではなく、その速さに周囲が依存しすぎない形へ調整する。そうしておけば、自分が忙しい月があっても店の仕事まで止まらない。
優也はその場で継続に同意したが、月二回までという条件だけは変えなかった。
帰りの電車で、スマートフォンのメモへ一行追加する。
『増やせる仕事と、増やさない仕事を分ける』
これも、GRANZを買うための遠回りに見えて、実際には近道なのかもしれなかった。
◇
週末、二人は駅から少し離れた蕎麦屋で遅めの昼食を取った。
真琴は大学での予定が一段落したばかりらしく、席へ着くなり温かい茶を両手で包んだ。優也もこの日は発送の予定を入れておらず、久しぶりに時間を気にせず話せる。
「で、どうなんですか。副業のほう」
「今月、初めて十万超えた」
優也がさらりと言うと、真琴は箸を止めた。
「月の利益が、ですか?」
「うん。十一万ちょい。毎月続くとは思ってへんけど、六万、八万、十一万って来たから、前よりは形になってきた」
真琴はすぐに喜ぶのではなく、少し考えてから尋ねた。
「在庫、増えすぎていませんか?」
「そこは逆に減った。委託が入ったから、自分の金で抱える分は少なくしてる。ディーラー市場も二点まで、上限五万までのルールはそのまま」
「それなら安心しました。利益が増えたことより、仕入れを増やしていないことのほうが大きいです」
「褒め方が地味やなあ」
「派手に褒めて、次の月に無茶されたら困ります」
「俺、そんな信用ない?」
「欲しいものを見つけた時の優也さんは、少し怪しいです」
真琴の視線に含まれた意味が分かり、優也は笑いながら蕎麦をすすった。
GRANZのことだ。
「そこは否定できへんな」
食事を終えたあと、二人は駅までゆっくり歩いた。
「三百万円、まだ遠いですか?」
真琴が前を向いたまま聞く。
「遠い。めちゃくちゃ遠い。でも、前みたいに見えへん数字ではなくなった気はする」
「どういう意味です?」
「最初は三百万って壁が一枚ドンって立ってるだけやった。でも今は、一か月で何万円残せるかが見えてきたやろ。時間掛けたら届くって形にはなってきた」
優也はポケットへ手を入れたまま、少し考えて続けた。
「それに、三百万だけ作って終わりやったら意味ない。GRANZ買ったあとに維持できへんかったら笑えんし。申込金を作るのと、毎月ちゃんと残せる形を作るのを一緒にやらんとな」
真琴は頷いた。
「前よりずっと現実的になりましたね。最初に動画を見ていたころは、完全に『これ欲しい』だけでしたから」
「そこは今も変わってへんで」
「知っています。でも、欲しいまま現実に近づけているのが違います」
その言い方が、優也には少し嬉しかった。
駅前へ近づいたところで、真琴が足を緩める。
「もし本当に三百万円ができたら、すぐ申し込むんですか?」
「一回全部見直す。払ったあとに生活費まで危なくなるなら待つ。副業も、数か月だけ調子ええのと続くのは別やし」
「そうしてください。そのほうが、私も安心です」
「私も?」
優也が聞くと、真琴は一瞬だけ視線を逸らした。
「だって、もうかなり一緒に考えてますから。途中で無理して倒れられたら困ります」
「車より俺の心配?」
「両方です」
「そこは即答なんやな」
真琴は少し笑い、そのまま駅へ向かって歩き出した。
優也も隣へ並ぶ。
自分の車の話だったはずなのに、いつからか彼女の中でも、二人で考える場所になっていた。
今は、それで十分だった。
◇
その夜、優也は副業用の口座とGRANZ用の口座を並べて確認した。
三百万円にはまだ届いていない。
けれど、直近三か月の利益は六万円台、八万円台、十一万円台と続いている。大きい金額ではないが、一度の当たりではなく、やり方そのものが少しずつ形になっているのが分かった。
ノートへ新しい欄を作る。
『月利益――三か月連続プラス』
『次の確認――五万円以上を六か月維持』
『GRANZ資金――仕入れ資金、税金、生活防衛費とは分ける』
以前なら、三百万円へ一日でも早く近づくことばかり考えただろう。
今は違う。
残すべき金を残し、止めてはいけない仕事を続け、そのうえで積み上げる。
時間は掛かる。
けれど、壊れにくい道になってきた。
机の端には、RHEINHARDから届いた最新の簡易平面図が置いてある。
右側の主玄関から入ると、右手から前方へリビングが開き、停車時には回転した運転席と助手席まで一体になる。五人目の正式な走行席も玄関を塞がないようラウンジへ組み込まれ、左手には十五インチの統合操作パネルと、普段は扉で隠された電装・通信サービスウォールがある。
その先の左側キッチンにはシンク、IH、ビルトインのオーブンレンジが並び、洗濯乾燥機は同じ面材の扉の内側へ収められる。冷蔵冷凍庫も家具とは別物に見えないよう壁面へ溶け込み、上段の冷蔵、中段の野菜・チルド、下段の冷凍という三段構成になっていた。
水回りは独立したシャワー室とトイレ室に分かれ、トイレは水やブラックタンクを使わないClesanaの封止式を採用する。最後部の主寝室には中央縦置きのベッドがあり、天井中央の収納式大型モニターを避けるように、左右へBS-EW3150が一基ずつ埋め込まれる。
屋根上は、以前のように展開機構を持たせず、固定式のソーラーパネルを空調や換気、通信設備の邪魔にならない範囲へ配置する。床下もブラックタンクがなくなったぶん、電源や重量配分を見直す余地が増えていた。
まだ紙の上の家だ。
実車になれば、重量も軸配置も、すべてが図面通りに簡単に収まるとは限らない。それでも、一つずつ不自然なところを潰すたび、最初に動画で見ただけの巨大な車が、自分たちの暮らしへ少しずつ近づいている。
三百万円という数字も同じだった。
届いてはいない。
ただ、どうやって近づくかは見え始めている。
優也はノートを閉じる前に、最後の行へ書いた。
『急がない。でも、回し続ける』
その横へ、少し考えてからもう一つ付け足す。
『次は、月十万円を偶然にしない』
GRANZへ続く道は、派手な一発ではなく、ようやく繰り返せる形になり始めていた。
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