ep.39 家を連れていく
GRANZの保管場所と維持費まで考え始めてから、優也の頭の中には以前とは少し違う数字が並ぶようになっていた。三百万円の技術検討申込金、月七万円前後の保管場所、まだ具体額の出ていない保険や整備費、そこへ燃料や消耗品まで加わる。最初に動画でGRANZを見つけた夜には一つも考えていなかったものばかりで、調べるほど気軽な夢からは遠ざかっているはずなのに、不思議と熱は冷めなかった。むしろ「本当に持つなら、ここまで考えないといけないのか」と現実味が増し、大きな買い物というより、何年かかけて形にしていく計画へ近づいている。
そんな土曜日の昼前、母から『今週どっかで来る? 炊き込みご飯いっぱい作った』と短いメッセージが届いた。仕事が休みだった優也は『今日行くわ』と返し、夕方前に両親の住む賃貸マンションへ向かった。途中のスーパーでビールと刺身を買って玄関を開けてもらうと、母は袋を見てすぐに呆れた顔をする。
「何や、また買ってきたん。ご飯ある言うたやろ。刺身まで買わんでもええのに」
「刺身は別腹やし、ビールは俺が飲みたいだけや。そこは最初から認める」
「それならよろしい」
母に笑われながら靴を脱ぐと、居間では父がテレビを見ていた。テーブルの端には新聞と老眼鏡が置かれ、キッチンからは炊き込みご飯と煮物の匂いがしている。優也が買ってきたものを冷蔵庫へ入れ、母に言われるまま食器を運ぶ間も、父は仕事の様子や現場の忙しさを聞いてきたので、最近は道路工事の現場が続いていることや、新人へ誘導を教える機会があったことを話した。
副業を始めたことは以前に軽く伝えてある。ただ、GRANZについては「でかいキャンピングカー欲しいねん」程度しか話していなかったため、食卓を囲んでからも、優也はわざわざ自分から話題に出すつもりはなかった。
ところが母が炊き込みご飯をよそい直しながら、「そういや、あんた言うてた外国のでっかい車、どうなったん?」と思い出したように聞いた。
「まだ買える段階ちゃうけど、日本で走れるように特注する話までは進んでる。寸法とか灯火とか、いろいろ合わせなあかんらしいわ」
「中古で買ってそのまま乗るんちゃうんやな」
「元になる車は向こうのやつやけど、日本仕様はほぼ別物みたいになると思う」
父がそこで箸を止め、「そこまでして買うんか。で、いくらするんや」と聞いたので、優也は一瞬だけ迷った。適当に濁すこともできたが、ここまで具体的に動き始めている以上、今さら数百万円くらいだと言っても仕方がない。
「今の見積もりやと、二億ちょい」
母の手が止まり、父も黙ったまま優也を見る。聞き間違いを疑うような顔に、優也が「二百万円ちゃうで。二億」と付け足すと、数秒の沈黙のあと母が先に吹き出した。
「家より高いやん。あんた何買おうとしてんの」
「車やって言うてるやん」
「二億する車を普通の顔で言うな」
父まで呆れたように笑い出したので、優也もつられて笑った。スマートフォンを取り出し、RHEINHARDから送られてきた参考画像を三人が自然に見られる向きでテーブルの中央へ寄せる。四軸八輪の重厚な車体、高いキャビン、箱型の居住部、大径タイヤを見た母は「これ、車なん? 戦車みたいやん」と眉を上げ、父は画面を拡大しながら本当にタイヤが八個あることを確かめていた。
「山とか悪路も走る前提のエクスペディション車やねん。日本仕様は少し小さくするけど、四軸八輪は残す方向で話してる」
「こんなん、どこ停めるねん」
「それを先週見に行ってきた。大型車の駐車場で、条件いいとこやと月七万くらいする」
父が「買う前から金かかる話しかないな」と苦笑したので、優也も「最近、俺もそればっかり思ってる」と返した。
笑いが落ち着くと、父は少しだけ真面目な顔になった。
「金、借りるんか?」
「いや。借金して無理やり買うつもりはない。今すぐ買えるとも思ってへんし、まず三百万の技術検討申込金まで自分で作る。副業もやってるから、そこまで行ってから次を考える。仕事も辞めへんし、副業だけで食っていこうとも思ってへん」
父はそれを聞いて少し表情を緩め、「ほな、好きにしたらええ。二億はよう分からんけど、お前の金で、お前が維持できる範囲でやるならな。ただ、こっちに金貸してくれ言うても無理やぞ」と言った。優也が「最初から頼む気ないわ」と笑うと、母も「私ら二億どころか二百万円でもびっくりする」と肩をすくめる。
優也自身、こうして口に出すと改めて異常な金額だと思う。それでも不思議と恥ずかしくはなかった。以前なら「宝くじでも当たったら欲しい」で終わっていた話が、今は寸法も、日本で走るための条件も、保管場所も、維持費も少しずつ分かっている。まだ届かないだけで、何も知らない夢ではなくなっていた。
◇
食後、母が押し入れから古いアルバムを出してきた。
「この車見てたら思い出したわ。あんた昔から、車でどっか行くん好きやったやろ。ほら、これ覚えてる?」
母が指さしたページには、小学生くらいの優也が、父の古いワゴン車の横で笑っている写真があった。後ろには簡単なテントと折り畳み椅子があり、河原らしい場所で家族三人が一泊したときのものだった。
優也はしばらく写真を見てから、「ああ……これ、夜めちゃくちゃ雨降ったやつちゃう?」と記憶を引っ張り出した。母がすぐに頷き、テントの端から水が入り、父が一人で外を走り回っていたことを笑いながら話す。父は「誰も手伝わんかったからな」とぼやいたが、母に「私と子どもは車に避難してたやん」と返されて苦笑した。
「お前、あのとき車で寝たい言うたんやぞ。テント濡れたから荷物どけて後ろ倒して、三人でぎゅうぎゅうなって寝たんや」
「そこまで覚えてへんなあ」
そう言いながら写真を見ていると、狭い車内で窓ガラスに雨粒が当たる音を聞いていた記憶が、ぼんやり戻ってきた。足は伸ばせず、荷物は邪魔で、朝になれば身体も痛かったはずなのに、不便だったことより、いつもと違う場所で夜を越した感覚のほうが強く残っている。
母がさらにページをめくると、海沿いの駐車場、山の展望台、安い旅館の前など、家族旅行と呼ぶほど大げさではない日帰りや一泊の写真が続いた。豪華な場所へ行った記憶はほとんどないのに、写真の中の自分はどこでも楽しそうに笑っている。
「うちは金なかったから、遠いとこなんかそんな行かれへんかったけどな。それでも、あんたは車乗って出かけるだけで喜んでたわ」
母の言葉を聞きながら古いワゴン車を眺めていると、優也はGRANZを欲しい理由について、自分でもこれまで少し表面しか見ていなかったことに気づいた。大きくて格好いいこと、どこでも走れそうなこと、中で生活できること、秘密基地みたいで面白いこと。その全部が理由ではあるものの、それだけならもっと安いキャンピングカーでもいいはずだった。
写真を見ているうちに、もっと根っこのところにあるものが少しずつ形になっていく。宿へ戻るための旅ではなく、その日の気分で進み、疲れた場所で自分の暮らしを続けられること。家を離れて出かけるのではなく、自分の居場所そのものを連れたまま移動できること。優也が惹かれているのは車体の大きさではなく、そういう自由なのかもしれなかった。
「もしほんまに買えたら、二人も一回乗せたるわ。最初は近場になると思うけど」
優也がそう言うと、母は「温泉連れてってくれるなら行く。ただし、いきなり変な山道は嫌やで」と笑い、父も「俺は運転せえへんぞ。そんなでかいの、ハンドル握るだけで寿命縮みそうや」と続けた。まだ買えてもいない車なのに、話はすでに誰がどこへ乗っていくかというところまで進み、その現実離れした会話が優也には妙に嬉しかった。数字や手続きばかり追っていたGRANZに、初めて家族を乗せた景色が重なった気がした。
◇
帰り際、母は残った炊き込みご飯を保存容器へ詰め、煮物まで袋へ入れた。優也が「こんないらんて」と言っても、「どうせ明日食べるやろ」と押し切られ、結局いつものように両手へ荷物が増える。
玄関で靴を履いていると、父が後ろから「優也、欲しいもんあるんはええけど、無理だけはすんなよ。欲しいもんのために今の生活潰したら意味ないぞ」と声をかけた。優也は靴紐を結び終えて振り返り、「分かってる。仕事も辞めへんし、無茶な借金もせえへん。買えんかったら、そのときはそのときや。ただ、買えるところまで行けるかは試したい」と答えた。
父はそれ以上何も言わず、「それならええ」とだけ頷いた。
マンションの廊下へ出てエレベーターを待ちながら、優也はさっきのアルバムを思い返した。雨の音が響く狭い車内や、荷物を避けながら横になった夜のことは曖昧なのに、「家に帰らなくても一晩過ごせた」という感覚だけは、今の自分のどこかにつながっているような気がする。あの不自由さを豪華にしたいからGRANZが欲しいわけではなく、目的地に着くことより、どこかへ向かっている途中そのものが楽しかった感覚が、昔からほとんど変わっていないのかもしれなかった。
◇
マンションを出ると空はもう暗くなっており、駅へ向かう途中で真琴から『今日はご実家でしたよね。ゆっくりできました?』とメッセージが届いた。優也が『できた。GRANZの値段言ったら二人とも固まってたけど』と返すと、すぐに電話がかかってきた。
「二億円って、そのまま言ったんですか? さすがに驚かれたでしょう」
「最初は二百万円と聞き間違えられたわ。でも、無理して借金せんかったら好きにしろって。母親は買えたら温泉連れてけ言うてるし、父親は絶対運転せえへんらしい」
真琴が笑う気配がしてから、「いいですね。だったらゲストが本当に泊まれるようにしておかないと。設備としてベッドがあるだけじゃなくて、ご両親が何日か過ごしても困らない収納とか動線も考えたほうがよさそうです」と、早くも車内の使い方へ話を広げる。
「ほら、また装備増やそうとする」
「私じゃなくて、ご両親のためです。それに、優也さん自身が使いやすいほうが結局いいでしょう」
優也は笑いながら駅へ向かい、そのままさっき見たアルバムの話をした。昔、家族で河原や海へ出かけ、夜中の雨でテントが濡れ、三人で狭いワゴン車に寝たこと。自分ではほとんど忘れていたのに、写真を見た瞬間、窓を叩く雨の音だけ妙に蘇ったことまで話すと、真琴は途中で茶化さず最後まで聞いていた。
「それを聞くと、優也さんが普通のキャンピングカーじゃなくてGRANZに惹かれる理由、少し分かる気がします。大きいとか格好いいとかだけじゃなくて、どこへ行っても自分の場所を持っていきたいんじゃないですか。泊まる場所へ行くというより、生活する場所ごと動かしたいというか」
駅前の信号で足を止めた優也は、その言葉を少し考えてから「それ、俺も今日似たこと思ったわ。家から旅に出るんじゃなくて、家ごと旅する感じやな」と答えた。口にすると妙にしっくりきて、真琴も「だったら、中の暮らし方は余計に大事ですね。設備をたくさん入れるだけじゃなくて、毎日そこで過ごして疲れないかどうかまで考えないと」と続ける。
「結局、現実の話に戻るんやな」
「そこまで含めて面白いんじゃないですか。夢だけなら、写真眺めて終わりですし」
優也も笑った。
駅のホームへ上がっても電話は切らず、電車が来るまでベンチ近くでホームの先を眺めながら話を続けた。優也が「もしほんまに買えたら、最初どこ行きたい?」と聞くと、真琴は少し考えたあと、最初から北海道や九州へ行くのではなく、何かあっても大阪へ戻れる距離で、温泉と食事が楽しめ、大型車でも入りやすい場所がいいと答えた。
「せっかく納車された最初の旅行で、狭い道に挟まって終わりみたいなのは嫌ですから。まずは近場で車幅とか曲がり方とか、生活設備の癖も覚えたほうがいいと思います」
「夢より道路幅が先に出てくるの、ほんま真琴らしいな。でもまあ、そのほうがええか。最初は近場で練習して、温泉入って飯食って、それから少しずつ遠く行けばええ」
「はい。そのうち、もっと遠くへ行きましょう」
その返事を聞きながら、優也は未来の中に真琴がいることを、以前ほど特別なこととして意識しなくなっている自分に気づいた。最初は能力の秘密を共有する相手で、その次は研究を手伝う人になり、今ではGRANZの設計や資金計画を一緒に考え、買えたあとの旅先まで当たり前のように話している。
付き合っているわけではないが、「一人で行く未来」を想像するほうが少し不自然になっていることだけは分かる。だからといって今すぐ関係へ名前を付ける必要もなく、こうして次の話が自然に続いていることのほうが、優也には大事に思えた。
◇
帰宅すると、優也は母から持たされた保存容器を冷蔵庫へ入れ、いつもの木製テーブルへ座った。今日は業者市場を見る気分にはならず、代わりにRHEINHARDの資料を開く。
右側中央の入口、対面ソファ、キッチン、独立したシャワーとトイレ、後部寝室、停車中にはリビングの一部になる回転式の運転席と助手席。これまで図面として見ていたときは、それぞれが単なる設備だったが、今夜はその配置の向こうに生活が見えた。
朝、知らない町でカーテンを開け、キッチンでコーヒーを淹れる。真琴がテーブルへ資料を広げ、両親を乗せた日は途中の道の駅で休憩し、夜になればその日の停車場所で照明を落とす。後部寝室で眠る日もあれば、運転席側のブラインドを閉めたあと、リビングで遅くまで話す日もあるだろう。そう考えると、冷蔵庫の容量や収納の数、通路の幅やベッドへの上がりやすさまで、単なる豪華装備ではなく、誰かがそこで普通に暮らすための条件に変わっていった。
優也はノートの新しいページを開き、『GRANZで何をするか』と書いたあと、その下へ箇条書きではなく一つの文章を続けた。
『旅をするだけじゃなく、そこで普通に生活する。両親を乗せて温泉へ行き、真琴と移動しながら研究する。どこへ行っても、自分の場所として戻ってこられる車にする』
書き終えてしばらく眺めていると、これまでノートに増えてきた価格、寸法、維持費、駐車場、仕入れ上限といった数字や条件が、初めて一つの目的へつながった気がした。二億円の車が欲しいというだけなら、いつかその金額に負けて諦めるかもしれない。それでも、その車でどう暮らしたいのかまで見えてくると、三百万円を貯めることも、駐車場を探すことも、業者市場で利益を積み上げることも、全部が同じ方向へ続く途中の作業に思えてくる。
優也が欲しいのは、大きな車そのものではなかった。自分の暮らしを連れたまま好きな場所へ行き、そこで普段と変わらない時間を続けられることだった。
ノートを閉じて冷蔵庫からビールを一本取り出し、プルタブを開ける。静かな部屋に小さな音が響き、窓の向こうにはいつもの大阪の夜が広がっていた。まだGRANZはなく、三百万円にも届いていない。それでも今夜だけは、遠い金額を眺めて焦るより、その先で誰とどこへ行き、どんなふうに暮らすのかを考えていたかった。
夢が現実になるまでには、金も時間も手続きも要る。それでも、全部を越えた先に何をしたいのかが分かっているなら、進む方向だけは見失わずに済む。優也は缶を一口飲み、さっきノートに書いた言葉を頭の中でもう一度つなげた。
家から旅に出るのではなく、自分の家を連れて旅をする。
その考えが、これまで「欲しい車」だったGRANZを、初めて優也自身の「暮らし」に変え始めていた。
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