ep.37 値札のない棚
業者市場の利用審査が通ったというメールは、申請から四日後の夜に届いた。
優也は仕事から帰ったばかりで、まだ作業着の上だけを着替えたところだった。冷蔵庫から水を出し、何気なくスマートフォンを確認すると、『関西リユースリンク 会員登録完了のお知らせ』という件名が目に入り、そのまま木製テーブルへ座った。
登録したのは、古物商許可を持つ事業者向けのオンライン市場だった。中古カメラ、時計、工具、家電、オーディオなどが出品され、決められた期間内に入札する形式で、一般向けのフリマサイトとは違い、商品の説明は簡潔だった。状態区分や動作確認の有無は記載されているものの、写真の枚数は少なく、細かな質問に一件ずつ答えてもらえる仕組みでもない。
その代わり、出品数は多い。
ログインすると、優也が普段中古店を何軒も回ってようやく見るような商品が、画面の中に何十件、何百件と並んでいた。
「……これは確かに、見るもん増えるわ」
カメラだけに絞っても、ボディ、交換レンズ、ストロボ、アクセサリー、ジャンク扱いの部品取り品まで次々に表示される。工具も同じで、単品だけでなく店舗整理品や買い替えで出た複数台のまとめ出品もある。
優也は一瞬だけ気持ちが浮き立つのを感じたが、すぐに真琴と決めた条件を思い出した。
初回は一商品だけ。十万円の枠は変えない。写真だけでは鑑定できない。届いてから状態が説明より悪くても、自分で処理できる価格にする。
ノートを開き、その四つをもう一度書き写す。
市場の画面には、残り時間が一時間を切った商品もあった。相場より明らかに安く見えるレンズや、店頭ならすぐ手に取っていたかもしれないカメラもある。それでも、優也は入札ボタンを押さなかった。
まずは見る。
どの商品が、開始価格からどこまで上がるのか。状態表記が同じでも、人気のある型番とそうでない型番でどれくらい差が出るのか。落札価格に市場手数料や送料を加えると、一般向けの相場とどれくらい違うのか。
気になった商品を十件ほどノートへ書き、終了まで追いかけた。
開始一万八千円だったレンズが三万七千円まで上がる。二万五千円のカメラボディが、終了五分前から一気に四万円台へ入る。逆に、外観が少し悪いだけで誰も競らず、ほぼ開始価格のまま終わる商品もある。
画面を眺めているうちに、優也は少し笑った。
「安い市場やなくて、安く見える市場やな」
結局、その日は何も買わなかった。
◇
翌日、休憩中にその話をすると、久保田は弁当の蓋を閉じながら首を傾げた。
「せっかく業者のとこ入れるようになったのに、何も買わんかったんか?」
「分からんまま買うほうが怖いですからね。写真だけやと状態よう分からんし、手数料足したら店とそんな変わらんやつもあります」
「でも、お前こういうの見分けるん得意やろ」
「現物あったら、です。写真だけやったら普通ですわ」
優也はそこまで言って、少しだけ可笑しくなった。
以前なら、鑑定のことを隠すために曖昧な返し方をしていたはずなのに、今の言葉はほとんどそのまま事実だった。現物が目の前にあれば能力は使える。しかし画面越しでは何も見えない。だから業者市場へ入ったからといって、急に無敵になったわけではなかった。
「ただ、来週に下見日あるんですよ。市場に出る商品の一部、倉庫で現物見れるらしいんで、一回行ってみようかなと思ってます」
「そこまでやるんか。休みの日まで仕事みたいやな」
「自分でもちょっと思ってます」
久保田が笑い、優也も笑った。
とはいえ、嫌ではなかった。
道路工事の現場とはまったく違う世界を覗いている感覚があり、まだ何も分かっていないからこそ面白い部分もある。ただ、その面白さに引っ張られて金を使いすぎないよう、線だけは引いておく必要があった。
◇
下見会は、大阪府内の湾岸寄りにある物流倉庫の一角で行われた。
最寄り駅からバスに乗り、少し歩く。周囲には配送センターや倉庫が並び、休日でも大型トラックが出入りしていた。
受付で会員証と古物商許可の確認を受けると、簡単な注意事項を説明された。商品は決められた範囲で手に取れるが、分解は禁止。動作確認用の電源や一部のテスト機材は用意されているものの、すべての商品を細かく試せるわけではない。下見中の写真撮影も、出品番号を控えるための範囲に限られていた。
倉庫の中へ入ると、優也は少し圧倒された。
中古店のような綺麗なショーケースはない。長いテーブルや金属棚に、番号札を付けられたカメラやレンズ、工具、オーディオ機器が整然と並べられている。外箱のないものも多く、いかにも「売り場」という雰囲気ではなく、次の持ち主を待つ在庫の集積地だった。
周囲では、同じように会員証を下げた人たちが無言で商品を確認している。
優也は最初から全部を見るのを諦め、カメラの区画だけへ向かった。
候補は事前に三つまで絞ってある。
一つ目は、中古店なら十万円近くで見かけることもある交換レンズだった。オンライン上の説明は『外装B・動作確認済み・光学未保証』。開始価格は三万六千円。
手に取って外観を見ると、確かに傷はあるが、それだけなら問題ない。マウントにも大きな変形はなく、リングも回る。
優也は周囲の視線を気にしすぎないよう、自然にレンズを見ながら鑑定した。
『交換レンズ――』
『光学系――内部曇りあり』
『カビ――微細』
『絞り機構――正常』
『フォーカス駆動――正常』
『外装――擦過傷あり』
『継続使用――要点検』
優也はすぐに棚へ戻した。
写真だけでは分からなかった。
説明に嘘があるわけではない。そもそも『光学未保証』と書かれている以上、買う側がリスクを取る商品なのだろう。
これが業者市場なのだと、最初の一本で理解した。
二つ目は古いミラーレスカメラだった。こちらは状態表記が比較的良く、実際に触っても大きな違和感はない。鑑定でも主要機能に問題はなかったが、一般向け相場との差が小さく、手数料と送料を入れると利益がほとんど残らない。
見送る。
三つ目は、外観に目立つ傷のある標準ズームレンズだった。
開始価格は二万八千円。
中古店では、外観が綺麗なものなら五万円台後半から六万円台で動いている。傷がある個体でも、光学と動作が良ければ四万円台後半で売れている例があった。
優也はレンズを手に取った。
鏡筒には擦れが多く、一か所だけ小さな塗装剥がれがある。見た目だけなら、一般の購入者が避けても不思議ではない。
しかし鑑定結果は違った。
『交換レンズ――』
『光学系――良好』
『カビ――なし』
『曇り――なし』
『絞り機構――正常』
『フォーカス駆動――正常』
『鏡筒――擦過傷多数』
『構造部――異常なし』
『継続使用――問題なし』
「見た目だけか」
声に出さないよう、口の中だけで呟く。
これなら候補になる。
ただし、その場で買えるわけではない。
優也は出品番号だけをメモし、棚へ戻した。
◇
帰宅したあと、優也はすぐ入札せず、もう一度計算した。
市場手数料、決済手数料、送料。届いてから清掃し、一般向けに出品した場合の販売手数料と発送費。
全部入れると、落札価格が三万五千円を超えたあたりから旨味が薄くなる。
優也は上限を三万四千円と決めた。
開始価格は二万八千円。
終了まで三時間。
その間、何度か価格を確認したが、自分からは動かなかった。
残り三十分で三万一千円。十分で三万二千円。五分前、別の入札が入り三万三千円。
優也はそこで初めて三万四千円を入れた。
自動延長が入り、相手が三万四千五百円を入れる。
画面を見ながら、優也は一瞬だけ迷った。
あと千円くらいなら。
そう思う。
けれど、その「あと千円」を繰り返すのが競りなのだろう。
優也は手を止めた。
三万四千五百円で、他の業者が落札した。
「負けたか」
少し悔しい。
ただ、不思議と後悔はなかった。
三万四千円を上限にした理由は、自分で計算して決めた。相手がそれ以上の価値を見ているなら、その人が買えばいい。
優也はノートへ『初回――見送り』と書いた。
その下に、『上限を決めてから入る。競り中に変更しない』と付け足した。
業者市場に入った最初の取引は、落札ではなく見送りで終わった。
◇
翌週、もう一度下見対象の商品が更新された。
今度はカメラではなく、優也が以前に扱ったことのある充電式工具が出ていた。単品で、バッテリー付き。外装はかなり使い込まれているが、人気のある型だった。
開始価格は一万六千円。
下見日の仕事が休みと重なっていたので、優也は再び倉庫へ向かった。
実物を確認すると、外装は写真どおり傷だらけだった。グリップにも汚れがあり、見た目だけならかなり古く感じる。
しかし駆動部は正常。バッテリーは劣化しているものの、実用範囲。内部にも大きな異常はなかった。
優也は相場と費用を計算し、上限を二万四千円にした。
今回は終了間際まで価格がほとんど上がらず、二万一千五百円で落札できた。
市場手数料と送料を加えても、総額は二万四千円弱。
数日後、段ボールが届いた。
優也は開封前に外箱を撮影し、商品を取り出して状態を確認する。下見した個体と同じ傷があり、出品番号も一致している。
鑑定結果も変わらない。
外装を清掃し、バッテリーを充電して何度か動作を試す。トルク切り替え、正逆転、ライト、チャック。自分で確認できる範囲を一つずつ見た。
一般向けの出品価格は三万六千八百円。
傷は隠さず、写真にも大きく載せた。
それでも、出品から三日で売れた。
最終利益は、手数料や送料を差し引いて八千円台。
これまでの一件と比べれば、少し大きい。
ただ、優也が一番気になったのは、利益額ではなかった。
店を何軒も回らず、一つの市場の中から候補を選べたこと。下見で実物を確認できたこと。そして、上限を決めて競りに参加し、その範囲で仕入れられたこと。
同じやり方を繰り返せる可能性がある。
そこに初めて「規模を少し上げる」という意味が見えた。
◇
その週末、真琴が優也の部屋へ来た。
テーブルには、副業ノートと市場の明細、今回売れた工具の写真が並んでいる。
真琴は数字を一通り見たあと、最初に落札できなかったレンズのページで手を止めた。
「こっち、千円足せば買えたんですよね?」
「そう。けど上限三万四千って決めてたからやめた。正直、押しそうにはなったけど」
「そのほうが大事だと思います。落札できた工具より、こっちの見送りのほうが」
優也は少し意外そうに真琴を見た。
「儲かったほうちゃうん?」
「一回儲かるだけなら、運でもできます。でも、競ってる途中で自分のルールを変え始めたら、そのうち『あと一万円』『今回は特別』ってなるでしょう。優也さん、そういうの好きそうですし」
「人をギャンブラーみたいに言うな」
「全部盛りが好きな人には言われたくないです」
真琴は笑いながら、今度は工具の明細へ目を戻した。
「でも、これは面白いですね。今までみたいに店を何軒も回らなくても、下見の日にまとめて候補を見られる。しかも、優也さんは現物なら鑑定できる。そこは普通の業者よりかなり強いですよね」
「せやけど、下見できる商品ばっかりちゃうしな。写真だけのやつは普通に怖い。今んとこ、下見できるやつだけでええと思ってる」
「私もそのほうがいいと思います。あと、利益が八千円だったからって、次から一気に五個とか買わないでくださいね」
「買わへんて。まだ十万円枠やし」
優也はノートを開き、今のルールを見せた。
『初回期――一度に保有する業者市場仕入れは二点まで』
『一商品五万円以下』
『下見できた商品だけ』
『入札上限は事前決定、競り中に変更しない』
真琴はそれを読んで、小さく頷いた。
「これなら、少なくとも何をやってるか分からなくなることはなさそうですね。ただ、二点までって決めたなら、片方が売れるまで三点目はなしですよ」
「厳しいな」
「自分で書いたんでしょう」
「そうやけど」
二人で笑った。
優也はノートの別ページを開いた。
そこには『第一目標 3,000,000円』と書いてある。
現在のGRANZ資金は、今回の利益を加えて六万円台へ入ったところだった。
三百万円までは、まだ四十倍以上ある。
けれど、以前のように「二億円に対して六万円」と考えると何も見えなかったものが、「三百万円に対して六万円」と置き換えると、少しだけ輪郭を持つ。
今月はいくら増やせたのか。
一件あたりの平均利益はいくらか。
本業を続けながら何件まで扱えるのか。
業者市場を使えば、それがどう変わるのか。
優也は電卓を叩きながら、無理のない範囲で月五万円、十万円と利益を伸ばせた場合の時間を計算した。
単純計算では、月五万円でも三百万円まで何年もかかる。
月十万円でも、すぐではない。
その現実に少しだけため息が出た。
「結局、遠いな」
真琴は横から数字を見ていたが、安易に励まさなかった。
「遠いですね。でも、前より何が足りないのかは分かるようになったんじゃないですか。今は資金より、時間と取引件数の上限が先に来そうです」
「やっぱそこか」
「本業を辞めないなら、夜と休みだけで全部やるんでしょう。仕入れ先が増えても、清掃、確認、撮影、出品、発送は優也さん一人です。そこを変えない限り、売上だけ増やそうとすると先に疲れると思います」
優也は椅子の背にもたれ、天井を見た。
言われてみれば、そうだった。
金の問題だけを見ていたが、今の副業は優也一人の時間に全部依存している。
鑑定で状態確認を短縮できても、箱は自分で作らなければならないし、写真も撮らなければならない。購入者への連絡や発送もある。
「じゃあ、次に考えるんは、時間か」
「たぶん。利益率を上げる方法もあるでしょうけど、それだけじゃ限界が来ます」
真琴はそう言って、自分のノートへ何か書き込んだ。
「あと、三百万円をいつまでに用意しないといけないのか、RHEINHARD側に確認したほうがいいです。期限が一年なのか、二年待てるのかで、必要なペースは全然違うでしょう」
優也はすぐにスマートフォンを手に取った。
「それ、聞いてなかったわ」
「だから、数字を出す前に条件確認です」
「ほんまコンサルやな」
「研究者です」
真琴は少し得意そうに笑った。
◇
その夜、真琴が帰ったあと、優也はRHEINHARDの担当者へメールを送った。
技術検討申込金を支払う時期に期限があるのか。今すぐ申し込まなくても、日本仕様の検討自体は継続されるのか。価格が今後大きく変動する可能性はあるのか。
翌日の昼、返事が来た。
現時点では申込期限を定めていないこと。ただし、正式な生産枠を確保するのは申込と仕様確定のあとであり、将来的な材料費や輸送費の変動によって価格が変わる可能性はあること。そして、現在の日本仕様検討資料は、優也の希望を反映した参考案であって、申込までは購入義務も発生しないこと。
つまり、急いで三百万円を作らなければ権利が消えるわけではない。
優也はそのメールを読んで、少し肩の力が抜けた。
期限がないなら、焦ってルールを壊す必要もない。
ただし、のんびりしすぎれば価格が上がる可能性はある。
ちょうどいい。
急がない理由にも、止まっていい理由にもならない。
優也はノートの『第一目標 3,000,000円』の横へ、小さく書き加えた。
『期限なし。焦らない。でも止まらない』
その言葉を眺めてから、次の市場の下見予定日をカレンダーへ入れた。
最初の落札は、八千円の利益だった。
三百万円から見れば、まだ小さい。
それでも、五万円台だった資金が六万円台へ動き、店だけでは見つけられなかった商品を市場から仕入れる道も増えた。
何より、買えなかったレンズを追いかけずに済んだ。
優也には、その一件のほうが少し誇らしかった。
大きく稼ぐことより先に、続けられる形を作る。
その形ができれば、数はあとから増やせるかもしれない。
そしていつか、三百万円という数字が、今の十万円と同じように「回し方を考えられる金額」に見える日が来るのかもしれなかった。
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