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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
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ep.36 次の桁


 そのメールが届いたのは、平日の夜だった。


 優也は仕事を終えて帰宅し、夕食の片づけを済ませたあと、いつもの木製テーブルで副業ノートを開いていた。久保田の義兄から預かる予定の電動工具について、型番と中古相場を確認している途中で、スマートフォンの通知欄に見慣れない差出人名が表示された。


『RHEINHARD Mobility Japan』


 指が止まる。


 以前、日本向け特別仕様について問い合わせ、オンラインで一度話をした相手だった。


 優也は工具の検索画面を閉じ、メールを開いた。


 件名は、『GRANZ 8×8 Expedition 日本仕様検討資料更新のご案内』。


「……来た」


 誰もいない部屋で、自然に声が出た。


 本文には、以前の相談内容をもとに、日本国内での登録と走行を前提にした仕様検討が一段進んだこと、車体寸法や総重量、灯火類、乗車設備、制動系などについて国内側の協力会社と確認を進めていることが書かれていた。


 添付されていた資料をノートPCへ移し、優也は一ページずつ開いていく。


 全長はおよそ七・二メートル。全幅は二・四九メートル。走行時の全高は三・六メートル前後。四軸八輪は維持する方向で、車両総重量は二十トン未満を目標とする。居住部は物理的なスライドアウトを設けず、日本の道路事情と構造上の余裕を優先する。


 そこまでは以前にも聞いていた。


 今回の資料で大きく違ったのは、その下に金額と支払い段階が書かれていたことだった。


 車両本体、日本仕様への設計変更、輸送、国内側での適合作業、居住部の製作、通信設備、電源設備、各種オプション。まだ最終金額ではないと断りが付いているものの、希望している装備をほぼ入れた場合の総額は、二億円を少し超える可能性が高い。


 優也は一度そこを読み飛ばし、もう一度戻った。


「やっぱり二億超えるんか……」


 分かっていたはずなのに、具体的な項目の横へ数字が並ぶと重さが違う。


 さらに下へ進む。


 正式契約の前に、日本仕様の詳細設計へ入るための技術検討申込金が必要になる。これは車両代そのものとは別ではなく、契約成立時には一部が車両代へ充当されるが、個別設計を開始したあとに購入を取りやめた場合は、作業済みの費用を差し引いて返金される仕組みだという。


 金額は三百万円。


 正式契約時には、その後さらに車両価格の一定割合を支払い、製作途中と完成時にも段階的に支払う。


 優也は三百万円という文字を見たまま、しばらく動かなかった。


 二億円よりは、遥かに小さい。


 しかし、今のGRANZ資金は五万円台である。


「小さくなったのに、全然小さないな」


 思わず笑った。


 それでも、二億円という巨大な数字だけを見ていたときとは違った。目の前に、最初に越えなければならない具体的な金額が現れた。


 三百万円。


 そこへ届かなければ、詳細設計にすら進めない。


 優也は資料を閉じず、真琴へメッセージを送った。


『GRANZ、更新来た。最初の壁、三百万やった』


 数分後、返事ではなく電話がかかってきた。


「三百万円って、何の金額ですか?」


「詳細設計に入るための申込金。正式契約したら車両代に回るみたいやけど、先にこれが要るらしい。総額はやっぱ二億ちょい。オプション削れば下がるけど、俺が欲しい仕様やとその辺やって」


 真琴はすぐに「高いですね」とは言わなかった。


「資料、送れます? 金額そのものより、支払い条件をちゃんと見たいです。三百万円払ったあと、いつ次のお金が必要になるのか分からないまま払うのは危ないでしょう」


「そこ見るんやな」


「そこ見ないで何を見るんですか。三百万円だけ何とかしても、翌月に三千万円必要ですって言われたら終わりですよ」


 言われてみれば、その通りだった。


 優也は添付資料を共有できる範囲で真琴へ送り、二人で同じページを見ながら話した。


 正式契約は、技術検討の結果、日本仕様が成立することと、最終見積もりへの合意が条件。契約時の支払いは総額の一部、さらにシャシー確保時、居住部製作開始時、完成・出荷前と段階が分かれている。


「つまり三百万円はゴールじゃなくて、入口ですね」


「分かってる。けど、二億よりは入口見えた感じするわ」


「それはそうです。だったら、今は二億円をどうするかじゃなくて、この三百万円までに副業をどこまで育てられるかを見るほうが現実的かもしれませんね。ただ、生活費や借金みたいな本来必要なお金を削って入れるのはなしです」


「はいはい、先生」


「そこ、軽く返事しないでください」


 真琴の声は少し強かったが、心配しているだけなのは分かる。


 優也も、生活そのものを壊してまでGRANZへ突っ込むつもりはなかった。欲しいからこそ、途中で全部投げるような買い方はしたくない。


          ◇


 週末、優也と真琴は大阪市内で開かれていた大型車両の展示イベントへ足を運んだ。


 RHEINHARDの実車が置かれているわけではない。日本仕様の検討を担当している協力会社が商用車や特殊車両の展示に参加しており、担当者から「大型車両のサイズ感を見るだけでも参考になります」と案内をもらったからだった。


 会場へ入ると、普段の乗用車イベントとは空気が違った。


 配送用の大型トラック、災害支援車、移動診療車、特殊作業車。車体の横に立つと、人の身長が急に小さく見えるような車ばかりが並んでいる。


 優也は四軸の大型シャシー展示の前で足を止めた。


「写真で見るんと全然ちゃうな」


「大きいですね」


 真琴も見上げる。


 展示車はGRANZではない。それでも、四軸の長い車体、大径タイヤ、キャビンの高さを目の前で見ると、自分たちが話している車が普通のキャンピングカーとはまったく違うものだと分かる。


 担当者が横で説明した。


「GRANZ日本仕様は、これより全長を抑えます。ただし車幅は上限に近く、乗用車の感覚で扱える車ではありません。駐車場所、進入経路、整備拠点まで含めて考える必要があります」


 優也は何度も頷いた。


「それでも、乗りたいんですよね。デカいの分かってても」


「そこは最初のお問い合わせから変わってませんね」


 担当者が笑った。


挿絵(By みてみん)


 展示会場では、居住部を持つ特殊車両もいくつか見た。


 災害対応車の中には、限られた車幅の中で通路と設備をどう配置するか工夫されたものがあり、真琴はキッチンより先に収納と動線を見ていた。


「これ、通路狭いですね」


「大型車でも中はそうなるんやな」


「外が大きくても、壁厚とか設備入れたら思ったより残らないんじゃないですか。GRANZもスライドアウトなしなら、普通に生活すると狭く感じる場所は出そう」


「そこはしゃあないやろ。日本で走れるほう優先や」


 優也はそう答えたが、実際に狭い通路を通ってみると、少し引っかかるものはあった。


 二人が並んですれ違うには、一方が少し身体をよける必要がある。展示車だから設備配置はGRANZと違うものの、「大型車なら中も何でも広い」と単純に考えていた部分があったことには気づかされた。


 担当者からは、日本仕様の居住部について、運転席・助手席の回転、対面ソファ、中央通路、独立したシャワーとトイレ、後部寝室という基本構成は成立する見込みだと改めて説明された。その一方で、通路幅や収納量、設備の寸法は、希望を全部最大にすれば互いに食い合う。


「冷蔵冷凍庫をさらに大型化すれば、当然そのぶん通路か収納が減ります。シャワーを広くすれば、向かいのトイレ側へ影響します。寝室のベッド幅も同じです。最終設計では、優先順位を一つずつ決めてもらう形になります」


 優也は笑った。


「全部最大で、は無理なんですね」


「物理法則まではオプションで変更できません」


 担当者の返しに、真琴が先に笑った。


「優也さん、そこ聞くと思ってました」


「聞くだけやん」


「顔が本気でした」


 会場を出るころには、二人とも足が少し疲れていた。


 近くのカフェへ入り、優也はブラックコーヒー、真琴は紅茶を注文した。テーブルへ資料を広げることはせず、今日見た車の話だけをした。


「ほんまに買えたら、あれで旅行すんねんな」


「買えたら、じゃなくて、買うつもりなんでしょう?」


「そらそうやけど、二億やで」


「じゃあまず三百万円ですね」


「現実に戻すなあ」


「入口が見えたって喜んでたの、優也さんですよ」


 真琴は少し楽しそうに笑った。


 優也も笑ったが、頭の中では三百万円という数字を何度も見ていた。


 五万円から三百万円。


 約六十倍。


 普通に中古品を一件ずつ売っているだけでは、すぐには届かない。


 だからといって、ここで賭けのような仕入れへ走れば、これまで決めてきたルールを自分で壊すことになる。


 必要なのは、単価ではなく仕組みを一段大きくすることなのかもしれなかった。


          ◇


 数日後、そのヒントは意外な場所から来た。


 仕事帰りに寄った中古店で、顔を覚えられていた店員から声をかけられた。


「最近よく来られますよね。カメラ、お仕事で扱ってるんですか?」


「副業で少しだけです。古物の手続きして、中古を買って整備して売ったり、知り合いのを預かったりしてます」


「なるほど。だから見るところ細かいんですね」


 店員は納得したように頷いたあと、少し声を落とした。


「もし古物商でやってるなら、業者向けの市場って見たことあります?」


「市場?」


「一般の人が買うフリマとかオークションじゃなくて、古物商同士の交換会とか、オンラインの業者市場です。うちも全部そこで仕入れるわけじゃないですけど、店頭に出しにくい在庫とか、まとめて動かすときに使うんですよ」


 優也は初めて聞く言葉ではなかった。


 古物関係を調べたとき、業者間市場の存在自体は目にしている。ただ、自分にはまだ関係ないと思って読み飛ばしていた。


「個人でも入れるんですか?」


「市場によります。古物商許可があれば申請できるところもあるし、紹介や利用実績が要るところもあります。会費も手数料もありますし、店みたいに保証してくれるわけじゃないから、初心者がいきなり大量に買うと普通に失敗しますよ」


 最後の一言が妙に現実的だった。


「やっぱ危ないですよね」


「そりゃそうです。安い理由がある物も多いですから。ただ、自分で状態を見られるジャンルがあるなら、店頭だけ見るより選択肢は増えます」


 店員はそれ以上勧めることもなく、接客へ戻っていった。


 優也は何も買わずに店を出た。


 駅へ向かう途中、頭の中では三百万円と業者市場という二つの言葉が並んでいた。


 安く大量に仕入れる。


 そう考えた瞬間、自分で違うと思った。


 大量に買うためではない。


 今までより、選べる母数を増やすため。


 そう考えるなら、自分のルールを壊さず試せる可能性がある。


          ◇


 帰宅すると、優也はすぐには登録しなかった。


 まず調べた。


 利用資格、会費、落札手数料、出品側の責任、商品の検品基準、返品条件、支払い期限。市場ごとに違いがあり、一般向けサービスより説明が簡素なところも多い。


 写真と短い状態表記だけで判断しなければならない商品もあり、現物を触れない以上、鑑定を使える場面そのものが限られる。画面越しの写真に鑑定が効くのかという疑問も浮かんだが、優也はそこで試そうとはしなかった。


 写真に写った商品と、目の前にある商品は同じなのか。


 能力がそこまで届くのか。


 それは副業の都合だけで勝手に試すより、真琴と条件を決めて確認するべきことだと思えた。


 優也は候補の市場を二つだけメモし、登録条件を印刷した。


 その夜、真琴に電話する。


「三百万の入口見えたと思ったら、その次に業者市場っていう新しい沼見つけたわ」


「沼って自分で言ってる時点で、すぐ登録しないでくださいね」


「してへん。ちゃんと調べてる。偉いやろ」


「最近それを褒めてもらう前提になってません?」


 真琴は笑ったあと、話を聞いた。


 優也は、一般の中古店やフリマだけではなく、古物商同士で在庫を動かす市場があること、参加条件が市場ごとに違うこと、安く見えても保証が薄く、現物確認できない商品も多いことを説明した。


「だから、いきなり高いもん買う気はない。もし使うなら、最初は今まで扱ったことあるカメラか工具で、三万円とか五万円くらいまで。十万円の枠も変えへん」


「それなら、試す意味はあるかもしれませんね。ただ、その前に一つ確認したいです」


「写真の鑑定やろ」


 優也が先に言うと、電話の向こうで少し間が空いた。


「……分かってるじゃないですか」


「俺も成長してるんです」


「そこは認めます。画面越しの画像を見て、実物と同じように鑑定できるかどうかは、今までちゃんと条件を揃えて試してないです。もしできたとしても、どこまで信頼できるのか確認してからにしましょう」


「せやな。それが分からんまま市場使ったら、結局ただの勘で買うことになるし」


 二人は週末に試すことだけ決めた。


 結果がどうであれ、その日のうちに業者市場へ登録したり、商品を買ったりはしない。


 そこまで決めて電話を切ると、優也は少し不思議な気分になった。


 以前なら、新しい方法を見つけた時点で登録画面まで進んでいた気がする。


 今は、調べて、試して、それから決める。


 速度は遅い。


 けれど、そのぶん戻らなくて済む道を選べるようになっていた。


          ◇


 週末、真琴が優也の部屋へ来た。


 今回は、真琴の部屋ではなく優也宅で試すことにした。過去に実物を鑑定したカメラやレンズが手元にあり、写真と現物を同じ条件で比べやすかったからだ。


 テーブルの上に、古いカメラボディを一台置く。


 まず優也が実物を鑑定する。


『ミラーレスカメラ――』

『撮像部――正常』

『シャッター機構――正常』

『外装――擦過傷あり』

『端子部――正常』

『バッテリー――劣化軽度』


 真琴が記録する。


 次に、同じカメラを真琴のスマートフォンで何方向かから撮影し、実物を別室へ移した。


 優也は写真だけを見る。


 意識を集中する。


 数秒待っても、いつものような情報は出なかった。


「何も出えへん」


「じゃあ、拡大したら?」


 画像を拡大する。


 それでも変わらない。


 別角度の写真、動画、画面を明るくした状態。何度か試したが、鑑定は反応しなかった。


 優也は少し残念そうに椅子へもたれた。


「便利機能追加ならず」


「むしろ良かったと思います」


「何でやねん」


「写真だけで全部分かったら、能力の範囲が急に広がりすぎます。少なくとも今は、目の前にある実物に対して働いてる可能性が高いって分かったでしょう」


 真琴の言葉に、優也は納得した。


 能力が使えないなら、業者市場では写真と説明だけで買うことになる。


 つまり、そこでは普通の古物商と同じように、自分の知識と経験で判断しなければならない。


 それは悪い結果ではなかった。


 むしろ、どこまで能力に頼れるのか線が引けた。


挿絵(By みてみん)


 二人は実験結果を記録し、そのあと業者市場の資料を見直した。


 写真だけでは鑑定できない。


 なら、最初からそれを前提に使う。


 市場で買う商品は、自分が写真と型番だけでもある程度判断できる分野に限定する。価格上限は今までの十万円枠の中。初回は一商品だけ。届いたら実物を鑑定し、説明と違う状態でも自分で処理できる金額にする。


 優也はノートへ条件を書きながら、笑った。


「またルール増えたな」


「いいじゃないですか。増やしたあと、必要なくなったら変えればいいんです」


「真琴、最近俺の副業コンサルみたいになってへん?」


「研究対象が勝手に破産したら困るので」


「研究対象って言うな」


 二人で笑った。


 その日の夜、優也は一つだけ業者市場の利用申請を出した。


 審査が通るかどうかはまだ分からない。


 通ったとしても、すぐ大きな買い物をするつもりはない。


 それでも、五万円台だったGRANZ資金の横に、優也は新しい目標を書いた。


『第一目標 3,000,000円』


 ゼロの数を確認しながら、少し笑う。


 二億円はまだ遠すぎる。


 けれど、三百万円なら、どうやって届くかを考えられる。


 今のまま一件ずつ二千円、三千円の利益を積むだけでは時間がかかりすぎる。だからといって、一発で何十万円も狙う必要はない。


 取引の数を少し増やす。扱える商品を絞る。仕入れ先を増やす。預かりや探し物も、無理のない範囲で続ける。


 一段ずつ、桁を上げる。


 優也はその言葉を、目標の下へ書き足した。


 そこへ真琴からメッセージが届いた。


『今日の画像鑑定の結果、私のほうでも整理しておきます。市場の審査が通っても、勝手に入札しないでくださいね』


 優也は笑いながら返信した。


『分かってる。初回は一個だけ。上限も守る』


 少しして返事が来る。


『それなら大丈夫です。たぶん』


 優也は画面を見て、思わず声を出して笑った。


 以前、真琴が使った「友達。たぶん」という言葉を、今度は逆に返されたらしい。


 スマートフォンを伏せ、もう一度ノートを見る。


 三百万円。


 五万円台から見れば、まだ途方もない。


 それでも今夜、その数字は初めて「夢の金額」ではなく、「次に届かせる金額」に見えていた。


 GRANZへ続く道は、ようやく次の桁へ入り始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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