ep.34 いつもの現場
月曜日の朝、優也はまだ薄暗い空の下で現場へ入った。
道路脇には工事車両が並び、作業員たちが資材を下ろしている。今日の現場は大阪市内から少し外れた住宅地沿いの片側交互通行で、車道の一部を掘削し、古くなった配管を交換する工事だった。幹線道路ほど交通量は多くないが、通勤時間帯になると乗用車に加えて配送車や自転車も増えるため、油断できる現場ではない。
優也は会社の車から規制材を下ろし、カラーコーンとコーンバー、予告看板の位置を確認していった。久保田は反対側で矢印板を設置しながら、まだ眠そうな顔で欠伸をしている。
「福山、そっち一枚もうちょい手前ちゃうか。曲がってきた車から見えにくいやろ」
「ほんまやな。二メートルくらい戻しますわ。交差点から入ってくる車、あれやと気づくの遅そうです」
言われて見直すと、確かに交差点から入ってきた車には少し遅れて見える位置だった。優也は看板を持ち上げて移動し、車道側からの見え方をもう一度確認する。たった数メートルの違いでも、運転手が早く規制へ気づけるかどうかは変わる。現場ではそういう細かな差が、あとになって効いてくる。
副業を始めようが、魔素を調べようが、朝の現場ではそんなことは関係ない。規制の置き方が悪ければ危ないし、合図が曖昧なら車同士を鉢合わせさせる。何年やっていても、そこだけは変わらなかった。
朝礼が終わると、優也は下り側、久保田は上り側へ分かれた。無線でタイミングを合わせ、片方を止めてもう片方を流す。最初の一時間は通勤の車が途切れず、誘導棒を振る腕も休まらない。急いでいる車ほど停止位置のぎりぎりまで詰めてくることがあり、自転車は車列の脇をすり抜けようとする。歩道側から工事区間へ近づく人にも声をかけなければならず、単純に「車を止める仕事」と言われると、少し違うんやけどな、と優也はいつも思っていた。
やがて流れが少し落ち着いたころ、無線から久保田の声が入る。
『下り、白の軽バン最後。そっち送るで』
「了解。こっち止めてます」
優也は自分側の車列へ停止合図を出し、軽バンが通過するのを待った。ところが、その直後に無線が短く途切れ、耳元で小さな雑音が走る。
「久保田さん、聞こえます?」
返事がない。
一秒、二秒。たったそれだけでも、片側交互通行では妙に長く感じる。どちらも「相手が止めているはず」と思い込んで車を送れば、規制区間の中央で鉢合わせする。
優也は流入側を止めたまま、視線を道路の奥へ送った。向こう側の久保田もこちらを見ており、片手を高く上げて「止めている」と合図している。状況は把握できたので、車を流さず、そのまま無線機を確認した。
イヤホンではなく、本体側から一瞬だけ接触不良のような音がした。
休憩まで待ってもよかったが、気になった優也は無線機へ意識を向けた。
『携帯無線機――』
『送受信機能――正常』
『バッテリー残量――十分』
『外部端子――接触不安定』
『端子部――摩耗進行』
「……そこか」
以前なら「携帯無線機」「使用可能」くらいで終わっていた気がする。今は、どの部分が怪しいのか、それが一時的な不調ではなく摩耗によるものらしいところまで出ている。
ただし、現場で能力のことを考え込む暇はない。優也は予備機へ交換し、久保田へ合図を送った。
「無線、こっちの端子が怪しいです。予備に替えました。今からまた普通に取れます」
『了解。ほな一回こっちから最後送るで。焦らんといこ』
「了解です」
それだけ確認すると、二人は何事もなかったように誘導へ戻った。現場では、異常を見つけることより、異常があっても流れを崩さず安全に戻すことのほうが大事だった。
◇
午前十時を過ぎると、交通量はかなり落ち着いた。
交代で短い休憩へ入り、優也は作業車の横に置かれた折り畳み椅子へ腰を下ろした。さっき外した無線機を手に取り、端子部分を目で確認する。見た目だけなら、少し擦れている程度で、これだけを見て「もう交換したほうがいい」と断言するのは難しい。
「これ、壊れてたんか?」
缶コーヒーを持った久保田が横から覗き込んだ。
「完全に壊れてるわけちゃうんですけど、端子が怪しいですね。さっき実際に雑音入ったし、接触が不安定になってる感じです。念のため今日はこれ使わんほうがええと思います」
「よう分かったな。俺やったらイヤホン刺し直して終わりやわ」
「俺も昔ならそうしてたかもしれません。でも、一回途切れたやつそのまま使って、また車送る瞬間に切れたら嫌でしょ。予備あるなら替えたほうが早いです」
優也はそれ以上説明せず、交換済みの札を付けてケースへ戻した。
久保田も深く追及せず、隣の椅子へ座った。缶を一口飲んでから、思い出したように笑う。
「そういや、この前のカメラな。嫁に金渡したら、えらい機嫌よかったわ。『押し入れのゴミが金になった』言うてた」
「ゴミ言うたらカメラかわいそうですよ。普通にまだ使えるやつでしたやん」
「俺にはもう使わんから一緒や。でな、義理の兄貴が古い電動工具あるらしくて、福山に見てもらおかな言うてんねん。インパクトとか丸ノコとか、何個かあるらしいわ」
優也はコーヒーを飲みかけた手を止めた。
「いや、一旦待ってください。写真だけなら見ますけど、いきなり全部預かるのはやめときます」
「何や、嫌なんか?」
「嫌とかじゃなくて、今は一件ずつやるって決めてるんですよ。久保田さんのやつ終わったばっかりやし、何でも預かり出したら本業終わってから全部見ることになるでしょ。工具なら状態分かるやつもありますけど、種類によっては俺も相場知らんし、刃物系やったら確認の仕方も変わるし、とりあえず写真と型番だけ見せてもらうくらいにしときます」
久保田は一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「商売人のくせに仕事断るんやな。普通、話来たら喜ぶとこちゃうんか」
「商売人ちゃいますって。それに無理に増やして雑になるほうが嫌なんです。預かったもん傷つけたり、説明ミスったりしたら、利益どころの話ちゃうし」
「真面目やなあ」
「面倒くさいだけです。後で揉めるほうがもっと面倒なんで」
優也がそう返すと、久保田は「それは分かる」と頷いた。
少し前なら、話が広がること自体をチャンスだと思って、勢いで引き受けていたかもしれない。けれど今は、自分が扱える量を越えることのほうが怖い。副業で使える時間は、本業が終わったあとの数時間しかないのだから、預かる品物が増えれば増えるほど、確認も説明も雑になる。
十万円を守るのと同じで、時間にも上限がある。
その感覚が少しずつ身についてきていた。
◇
昼を過ぎたころ、現場に応援の警備員が一人入った。
二十代後半くらいの男性で、同じ会社ではあるが優也とは初対面だった。経験はまだ浅いらしく、無線の返事も誘導棒の出し方も少し硬い。現場責任者から「福山さん、しばらく横で見てやって」と言われ、優也は自分の立ち位置を少しずらした。
「車止めるとき、棒だけ出すんじゃなくて運転手の顔見たほうがええですよ。こっち見てへん人、たまにそのまま来ますから。あと、止まったの確認してから反対へ送る。無線の返事を急いで、確認飛ばすほうが怖いんで、焦らんで大丈夫です」
新人は何度も頷きながら、次の車へ停止合図を出した。
最初の数台は少しぎこちなかったが、優也が横で声をかけるうちに動きは落ち着いてきた。車を止める位置も、最初は規制の直前すぎたものが、少しずつ余裕を取れるようになる。
ところが、しばらくして一台のワンボックスが規制区間へ速い速度で近づいてきた。新人が誘導棒を大きく振って停止を示すが、運転手は前を見ているようで見ていない。
「一歩下がって。前出んでええ」
優也は短く言い、新人を車道側から外した。
自分は安全な位置を保ったまま、誘導棒と空いた手を使って、より大きく停止合図を出す。ワンボックスは規制の手前でようやく速度を落とし、少し急なブレーキで止まった。
運転手は窓を開けると、苛立った顔で「早よ行かせてや」と言った。
優也は声を荒らげなかった。
「すみません、今向こうから最後の車が来てます。ここで行かせたら中で詰まるんで、あと少しだけ待ってください。抜けたらすぐ出します」
実際、数秒後には反対側から最後の車が通過した。無線で確認を取り、優也が合図するとワンボックスはすぐに走り去っていった。
新人は少し青い顔をしていた。
「今みたいな人、たまにおるから。自分が止めなあかんって思って前へ出たら危ないで。止まらん車は止まらん。まず自分が轢かれへん位置におること。そのうえで合図を大きくして、必要なら周りにも知らせる。無理なもんは無理やから、自分の身体張ってまで止めんでええ」
「すみません。ちょっと焦りました。止めないと駄目だと思って、前に出そうになってました」
「俺も最初そうやったよ。車って、こっちが棒出したら絶対止まるように思うやろ。でも見てない人もおるし、スマホ触ってる人もおるし、そもそも止まる気ない人もおる。だから『止める』より『止まったのを確認する』って覚えたほうがええ」
優也はそこで話を切り、次の車列へ視線を戻した。
新人には、そのあとしばらく優也の横で流れを見てもらった。歩行者や自転車が規制の内側へ入りそうなときの声のかけ方、工事車両が出入りするときに一般車をどこまで待たせるか、救急車が来た場合に誰へ先に連絡するか。どれも手順書だけでは身につきにくく、実際の道路で何度も経験しながら覚えていく部分だった。
優也自身も、最初からうまくできたわけではない。車が止まってくれるものだと思い込み、前へ出すぎて先輩に怒鳴られたこともあるし、無線の返事が遅れて反対側とタイミングがずれたこともある。それでも続けているうちに、運転手の目線や速度の落ち方を見るだけで、「この車は止まる」「これはまだ信用したらあかん」と感覚的に分かるようになった。
鑑定のように答えが文字で出るわけではない。けれど、こういう経験で身についた感覚も、ある意味では同じなのかもしれない。見える情報が増えたから安全になるのではなく、その情報をどう使うかを覚えて初めて役に立つ。最近の副業でも、真琴との研究でも、似たようなことを何度も考えていた。
新人が次の車列を落ち着いて止め、反対側へ無線を入れるのを確認すると、優也は少し離れた位置へ下がった。任せられるところまで来たなら、いつまでも横に立っている必要はない。必要なときだけ戻ればいい。その距離感も、昔より少し分かるようになっていた。
◇
午後三時を過ぎると、工事側の作業も終盤へ入った。
掘削していた箇所が埋め戻され、仮舗装が始まると、規制内を出入りする車両も増える。一般車を止める時間が少し長くなるため、運転手の表情も朝より険しくなりがちだった。
優也は車列の先頭へ軽く頭を下げながら、無線で久保田とタイミングを合わせていく。待たせすぎないことは大事だが、安全確認を削ってまで急ぐものではない。朝から何時間も立っていると集中力が落ちてくる時間帯だからこそ、動作を雑にしないよう意識する必要がある。
途中、買い物帰りらしい高齢の女性が歩道の規制前で立ち止まり、「向こうのスーパーまで行きたいんやけど」と声をかけてきた。工事区間の歩道側も一部狭くなっていたため、優也は作業員へ確認を取り、安全に通れるタイミングまで少し待ってもらった。
「すみません、今だけ重機動いてるんで、止まったら一緒に通ります。二、三分くらいです」
「ええよええよ。急いでへんから」
女性は笑って答えた。
ほどなく重機が止まり、優也は足元の段差に気をつけてもらいながら歩道の脇を案内した。通り抜けたところで「ありがとう」と言われ、それだけで少し気分が軽くなる。
この仕事で大きな達成感を感じる日は、正直それほど多くない。何事も起きず、誰にも怒鳴られず、規制を外して帰れれば十分という日がほとんどだ。それでも、誰かが安全に通り抜けてくれたり、新人が一つ動きを覚えたりするたびに、「まあ、やってて無駄ではないか」と思える瞬間はある。
◇
夕方、規制解除の時間になると、全員でカラーコーンや看板を回収した。
道路が元の形へ戻っていくと、朝からそこにいたはずの工事現場が急に消えたように見える。最後の矢印板を作業車へ積み込み、優也がヘルメットを脱いだところで、久保田が横から声をかけた。
「福山、最近ちょっと変わったな」
「何がです?」
「前より機嫌ええ日増えた。前やったら朝からずっと同じ顔してたやろ。副業で儲かってるからか?」
「月に何万かで、そんな人生変わりませんよ。まだ全然やし」
「ほな女か」
優也は一瞬黙った。
その間が答えみたいになったらしく、久保田はニヤッと笑った。
「おるんやな」
「おらんって。付き合ってへんし」
「付き合ってへん、まで聞いてへんけどな。そこまで言うってことは、相手はおるんやろ」
「……うるさいなあ。そういうんちゃいますって」
優也が笑いながら作業手袋をバッグへ突っ込んだところで、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、真琴からだった。
『昨日の黒い石の記録、整理しました。次は一週間あけて同じ条件で確認しましょう。あと、勝手に試さないでくださいね』
最後に念押しまで付いている。
優也は思わず口元を緩めた。
「ほら」
久保田がすぐ横から言った。
「何が『ほら』なんですか」
「今の顔や。仕事中そんな顔せえへんやろ。誰からや」
「教えません。っていうか人のスマホ覗かんといてください」
「それが答えやんけ。まあええわ、今度紹介せえとは言わんから安心しろ」
「何の話まで進んでるんですか」
優也は呆れながらスマートフォンをポケットへしまい、久保田を無視するように作業車の後部扉を閉めた。
帰り支度をしながら、優也は朝に交換した無線機のことも現場責任者へ伝えておいた。予備機へ替えて問題なく終わったこと、端子部分に接触不良らしい症状があったこと、次の現場へ持ち出す前に点検してほしいことだけを簡潔に説明する。責任者はケースへ貼った札を確認し、「了解、会社戻ったら見てもらうわ」と答えた。
能力で分かったことを、そのまま口にする必要はない。自分の目や耳で確認できた異常を、現場で使える言葉に置き換えて伝えれば十分だった。そこを曖昧にしないことも、真琴と記録を取り始めてから意識するようになったことの一つだった。
けれど、久保田に言われたことについては、完全には否定できなかった。
副業が少しずつ形になってきたことも、鑑定の変化を真琴と一緒に追っていることも、以前にはなかったものだ。毎日の仕事そのものは変わっていないのに、その外側に考えることや楽しみにすることが増えたせいで、同じ現場でも少し違って見えているのかもしれない。
◇
帰宅した優也は、夕食を済ませてから二冊のノートをテーブルへ出した。
一冊は副業用。もう一冊は、真琴と共有するために自分でも付け始めた能力の記録だった。
今日の無線機について、優也は後者へ書き込んだ。
『携帯無線機。外部端子の接触不安定、摩耗進行まで表示』
過去に同じような機械を鑑定したとき、どこまで見えていたのかは記録がない。だからこれだけでは比較できない。ただ、ガラスの内部応力や黒い石の外部漏出に続いて、以前なら意識していなかった細かな情報が出ている。
真琴が言う通り、能力が変化している可能性は高くなっている。
優也はスマートフォンを手に取り、真琴へ今日の結果を送った。
『無線機見たら端子の摩耗まで出た。仕事中やったから検証はしてない。ちゃんと我慢したで』
ほどなく返事が来た。
『えらいです。明日、詳しく聞きます』
そのあとに、小さな拍手の絵文字が一つ付いていた。
優也は笑いながらスマートフォンをテーブルへ置いた。
特別な一日ではなかった。いつもの道路に立ち、車を止め、無線を使い、後輩に少し仕事を教え、歩行者を案内し、規制を片づけて帰ってきただけだ。
それでも、能力の変化は研究室や奈良の山だけで起きているわけではない。毎日の仕事の中にも、その兆しは入り込み始めている。
そして、それを誰かに話せることも、以前とは違っていた。
少し前までなら、妙なことが起きても一人で考え、一人で試し、飽きたらそのまま忘れていたかもしれない。今は、何か見え方が変われば真琴へ伝えようと思うし、真琴もそれを記録して次の確認方法を考える。そうやって誰かと続きを共有していること自体が、優也にはまだ少し不思議だった。
優也は能力のノートを閉じると、その上へ副業のノートを重ねた。
道路工事の交通誘導、副業、魔素、GRANZ、そして真琴。まるで別々に始まったものが、少しずつ同じ生活の中へ収まり始めている。
まだ、どれがどこへつながるのかは分からない。GRANZを買えるほど金が貯まるのかも、鑑定がこの先どう変わるのかも、真琴との関係にどんな名前が付くのかも、今の優也には答えられなかった。
ただ、答えがないままでも、明日の朝になればまた現場へ向かう。道路に立てば目の前の車を止め、必要なら誰かへ声をかけ、終われば規制を片づける。その繰り返しの中に、少しずつ新しいものが混じり始めている。
その「いつも」が、以前とまったく同じではなくなっていることだけは、もう確かだった。
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