ep.33 研究じゃない時間
日曜日の朝、真琴は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
カーテン越しの光は柔らかく、まだ部屋の中には夜の静けさが少し残っている。枕元のスマートフォンを手に取って時刻を確認すると、そのまま通知欄へ視線を落としたが、優也からの新しいメッセージはなかった。
昨日の夜、最後にやり取りしたのは『明日どうします?』という真琴の問いに対する、『昼からなら空いてるで』という短い返事だけだった。
それだけなのに、今日は何を着ようかと考えている自分に気づき、真琴は布団の中で少しだけ眉を寄せた。
研究の続きをするつもりではある。昨夜見せた記録をもとに、優也の鑑定が本当に変化しているのか、同じ対象を以前と同じ条件でもう一度確認したい。それが今日会う理由として一番分かりやすい。
ただ、それだけなら自宅で一時間もあれば済む。
真琴はベッドから起き上がると、クローゼットの前でしばらく考えた末、白い薄手のニットに濃い色のパンツを合わせた。研究だけならもっと適当でいいはずなのに、鏡の前で髪まで整えているところで、昨日の美咲の言葉を思い出す。
『友達。……たぶん』
自分で言った言葉なのに、今になって少し恥ずかしい。
「……たぶんって何」
小さく呟きながら、真琴はスマートフォンを手に取った。
『研究、一時間くらい。そのあと外に出ませんか?』
送信してから三分ほどで返事が来た。
『ええよ。研究のあと何する?』
真琴は少し考え、具体的な予定を決めずに返した。
『そのとき決めましょう。今日は研究だけで終わらない日にしたいです』
◇
昼過ぎ、優也は約束の時間より五分ほど早く真琴のマンションへ着いた。
オートロック越しに来訪を知らせ、部屋へ上がる。昨日ほど緊張してはいないつもりだったが、玄関の扉が開いて真琴が顔を出した瞬間、優也は一度だけ視線を逸らした。
「どうしました?」
「いや、昨日と雰囲気ちゃうなと思って」
「服が違うからじゃないですか」
「まあ、それもあるけど」
真琴はそれ以上追及せず、少しだけ笑って中へ招いた。
ダイニングテーブルの上には、昨夜のファイルと、いくつかの小さな物が並べられていた。白い陶器の小皿、ステンレス製のスプーン、透明なガラスのコップ、それに以前から記録を取っている黒い石を入れた小さなケース。
優也は椅子へ座り、並んだ物を見て笑った。
「ほんまに実験する気満々やな」
「昨日の仮説、思いつきのままにしておきたくないので。今日は、過去に一度鑑定したことがある物を中心に見てもらいます。同じ物から出る情報が増えてるなら、少なくとも変化してる可能性は高くなるでしょう?」
「なるほどな。ほな先生、どれからいきます?」
真琴は小皿を優也の前へ滑らせた。
最初は、特に変化がなかった。名称、材質、表面の状態。以前とほぼ同じ情報が頭の中に浮かぶ。
スプーンも似たようなものだった。
ところが、ガラスのコップを鑑定したとき、優也は少しだけ表情を変えた。
『ガラス製タンブラー――』
『材質――ソーダ石灰ガラス』
『表面――微細傷あり』
『欠損――なし』
『内部応力――軽微』
「……内部応力?」
真琴がすぐに顔を上げた。
「前、それ出てました?」
「いや。少なくとも俺は覚えてへん」
真琴はファイルを開き、以前の記録を確認した。過去に同じコップを試したときには、材質と表面状態までしか記録されていない。
「じゃあ、一個増えてる」
「でも、たまたま前に見落としただけかもしれんで」
「そうですね。だから一個だけでは決めません」
真琴はすぐに結論を出そうとせず、次の対象へ移った。
黒い石のケースを優也の前に置く。奈良で見つけた、七センチほどの不規則な黒い石。灰色の筋が走り、ところどころに茶色い斑点が残っている。
優也はケース越しに石を見つめ、意識を集中した。
『黒色岩石――』
『魔素反応――中程度』
『魔素――保持状態』
『外部漏出――微弱』
『構造変化――なし』
最後の二行を見た瞬間、優也は目を細めた。
「真琴」
「増えました?」
「増えた。『外部漏出――微弱』と『構造変化――なし』。前、そんなん無かったよな」
真琴は記録を確かめながら、ペンを止めた。
「なかったです。少なくとも、私が書いた記録にはない」
部屋の空気が少しだけ変わった。
昨日までなら、真琴の仮説は時系列を見て思いついた可能性に過ぎなかった。けれど、同じ対象から以前には出ていなかった情報が見えているなら、鑑定そのものが変化している可能性は確かに高くなる。
真琴はすぐに新しいページへ結果を書き込み、最後に日時を添えた。
「今日はここまでにしましょう」
優也は意外そうに顔を上げた。
「もうええん?」
「続けたくなるから、やめます。条件を増やしすぎると、何が原因で変わったのか分からなくなるので。次は別の日に、同じ物で再確認します」
「研究者って我慢する仕事なんやな」
「優也さんみたいに思いついたら全部試す人がいるので、誰かが止めないと駄目なんです」
真琴はそう言ってファイルを閉じた。
優也は反論しようとして、結局笑った。
◇
マンションを出た二人は、御堂筋線で長居方面へ向かった。
休日の午後で車内はそれなりに混んでいたが、立てないほどではない。真琴は吊り革につかまり、優也はその斜め横に立った。電車が揺れるたび、真琴の肩が少し近づいては離れる。
研究の話をしないと決めたわけではない。ただ、さっきまでの続きを今すぐ始める気にもならなかった。
「そういえば、長居公園って最近行きました?」
「だいぶ前やな。仕事で近く通ることはあるけど、わざわざ遊びには行かへん」
「じゃあちょうどいいですね。私も大学と家の往復ばっかりで、最近ちゃんと歩いてないので」
「研究終わったら散歩って、健康的すぎへん?」
「休日なんだからいいでしょう」
そんな話をしているうちに駅へ着いた。
地上へ出ると、昼の光は少し傾き始めていた。公園の中には家族連れやランニングをする人、自転車で通り抜ける人が行き交い、少し離れたところでは子どもの声が響いている。
優也と真琴は特に目的地を決めず、ゆっくり歩いた。
しばらく歩いたところで、真琴が小さな売店で飲み物を買った。優也はブラックコーヒー、真琴はミルク入りのカフェラテを選び、少し先のベンチへ腰を下ろす。
真琴はカップを両手で持ちながら、目の前を走っていく子どもたちを眺めていた。
「昨日、大学の友達に言われたんです」
「何を?」
「最近、スマホ見て笑うことが増えたって。前はそんなことしなかったらしいです」
優也はコーヒーを口へ運びかけた手を止めた。
真琴はそこで優也の顔を見ず、少し笑いながら続けた。
「誰から連絡来てるのって聞かれて、彼氏じゃないって言ったら、じゃあ誰って。私、『友達。たぶん』って答えたんですよ」
優也は一度咳払いをした。
「……たぶんって何やねん」
「私もあとで思いました」
真琴はようやく優也のほうを見た。
「でも、普通の友達って言うには、私たち知ってることが多すぎるでしょう。優也さんの能力のことも、魔素のことも、GRANZの話も。だから、何て説明するのが正しいのか分からなくて」
優也はすぐには答えなかった。
これまで二人の関係について、わざわざ名前を付ける必要を感じていなかった。会いたいと思えば連絡し、相談したいことがあれば話し、真琴が研究の話をすれば聞く。そうしているうちに、一緒にいることが当たり前になり始めていた。
「無理に名前付けんでもええんちゃう?」
優也は少し考えてから、ゆっくり言った。
「俺は今の感じ、結構好きやで。真琴と話してると、自分一人やったら雑に流してたことまで考えるようになるし、逆に俺が何か思いついたら真琴が止めてくれる。友達かって聞かれたら友達やろうけど、それで全部かって言われたら……俺もよう分からん」
真琴はその返事を聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
「同じなんですね」
「たぶんな」
優也がわざと最後に付け足すと、真琴は声を出して笑った。
そのあとは、さっきまでの微妙な緊張が嘘のように、どうでもいい話が続いた。優也が現場で見かけた妙に人懐っこい猫の話、真琴の友人が研究室でコーヒーをこぼした話、最近食べて美味しかったもの。どれも記録する必要のない話ばかりだったが、気づけば時間は早く過ぎていた。
◇
夕方になり、公園を出るころには空の色が少しずつ薄くなっていた。
帰りの電車へ乗る前、真琴が「少しだけ寄っていきます?」と聞いたので、二人は再び真琴の部屋へ戻った。
優也は玄関で靴を脱ぎながら、昨日より自然に部屋へ入っている自分に気づいた。
「二日連続やな」
「嫌なら帰ってもいいですよ」
「そんな言い方されたら帰られへんやろ」
「じゃあ上がってください」
真琴は笑いながらキッチンへ向かい、冷蔵庫から水を出した。
研究を再開するつもりではなかった。昼間の結果はもう記録したし、真琴自身が「今日はここまで」と決めている。
二人はしばらくソファでテレビを眺めていたが、優也がふとダイニングテーブルの端に置かれた黒い石のケースへ目を向けた。
「なあ。あれ、ほんまに変わってるんかな」
「今日はもうやりませんよ」
「分かってる。見るだけ」
優也が立ち上がり、ケースの近くまで歩いていく。真琴もそのあとを追った。
ケースの中の黒い石は、昨日までと何も変わらない。収納へ入れたことで魔素反応が落ちたあと、その状態を保ったまま時間だけが過ぎている。
優也はケースに触れず、少し距離を置いたまま石を見た。
「これさ、もし鑑定がほんまに成長してるなら、そのうち触らんでも色々分かるようになったりするんかな」
「可能性はありますけど、期待しすぎないでください。昨日と今日で、急に別物になるわけじゃないですから」
「そらそうか」
優也は笑って視線を外した。
真琴はそんな優也を見ながら、今日の結果そのものより、優也が以前より慎重になっていることのほうが少し嬉しかった。能力が便利だから使うだけだった人が、今は「どう変化しているのか」を気にし始めている。
それだけでも、記録してきた意味はあったのかもしれない。
真琴はケースを元の位置へ戻すと、冷蔵庫からもう一本水を出して優也へ渡した。
「次に調べるなら、同じ条件で何回か繰り返してからにしましょう。今日みたいに新しい情報が出たからって、すぐ成長したと決めるのは早いです」
「了解。先生の言う通りにします」
「その言い方、絶対あとで勝手に何か試す人の言い方です」
「信用ないなあ」
「実績がありますから」
真琴は笑いながらソファへ戻った。
優也もその隣へ座ったが、二人の間には一人分ほどの距離が残っている。近すぎるわけでも、遠すぎるわけでもない。その距離が今の二人には妙に自然だった。
テレビでは旅番組が流れていた。
山道を走る車が映り、画面の向こうで出演者が温泉へ向かっている。
「こういうの、GRANZあったら好きなだけ行けるな」
優也が何気なく言うと、真琴は画面を見たまま答えた。
「そのとき、私も誘ってくれるんですか?」
優也は一瞬だけ黙り、すぐに笑った。
「今さら一人で行ったら怒るやろ」
「怒るかどうかは分かりませんけど、研究記録は取れなくなりますね」
「それは困るな。ほな一緒に来てもらわんと」
真琴は何も返さず、少しだけ笑った。
まだGRANZは遠い。副業で増えた金額も小さく、能力について分からないことはむしろ増えている。それでも、優也が未来の話をするとき、その中に自分がいることを真琴は自然に受け入れ始めていた。
そして優也もまた、それを特別な約束として口にしたつもりはなかった。
だからこそ、その言葉は二人の間に静かに残った。
研究ではない時間の中で、何かが少しずつ変わっていることだけは、鑑定を使わなくても分かるような気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
評価・感想も励みになります。




