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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
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ep.32 真琴の一日


 朝の研究室は、まだ人の気配が薄かった。


 窓際のブラインドから入る光が机の端を白く照らし、廊下の向こうでは清掃用のワゴンがゆっくり通り過ぎていく。真琴は白衣を椅子の背に掛けたまま、ノートPCの画面と手元のノートを何度も見比べていた。


 開いているのは、正式な研究テーマの資料ではない。大学の共有フォルダにも入れていないし、研究室のサーバーにも保存していない。自分の端末と紙のノートだけで管理している、優也の周囲で起きた現象の記録だった。


 白い皿が消えたこと。収納と呼ぶしかない空間が存在するらしいこと。鑑定で物の状態や性質が分かること。奈良で拾った黒い石、そこに強く残っていた未知の反応、そして優也自身の反応が一時的に変化したこと。


 最初は「未定義反応」と書いていた欄には、今では小さく『仮称・魔素』と付け足してある。


 その呼び名に科学的な根拠があるわけではない。二人で便宜上そう呼び始めただけで、真琴自身も本当に何らかのエネルギーなのか、物質なのか、それとも既存の分類そのものが通用しない現象なのか分かっていなかった。


 それでも、分からないからこそ記録しておきたかった。


 真琴は時系列の表を一行ずつ確認しながら、優也の鑑定で確認できた対象が増えていった時期に印を付けていった。最初は皿や身近な物だけだったものが、少しずつ材質や状態、未知の反応にまで踏み込むようになり、奈良から戻ったあとには収納領域そのものへ鑑定が届いている。


「やっぱり、変わってる……」


 独り言に近い声が漏れたところで、背後から椅子を引く音がした。


「三浦さん、朝から難しい顔してるね」


 振り返ると、研究室の准教授がコーヒーを片手に立っていた。四十代半ばの穏やかな男性で、真琴が研究寄りの進路を考え始めてから相談に乗ってくれている人でもある。


 真琴は画面を閉じるほど慌てはしなかったが、表示していたファイルだけは別のウインドウへ切り替えた。


「少し個人的に整理してるデータがあって。研究テーマとは別です」


「へえ。最近、三浦さんそういうの増えたね。前より材料系の論文も読んでるし、医学だけじゃなくなってきた」


 探るような言い方ではなく、純粋に興味を持っただけらしい。真琴は少し考えてから、嘘にならない範囲で答えた。


「生体だけで説明できない現象に興味が出てきたんです。まだ人に見せられるほど整理できてないですけど、もし本当に未知の反応があるなら、医学だけじゃなくて材料や物理も必要になるのかなって」


「なるほど。三浦さんらしいね。分からないものを分からないまま置いておけないタイプだから」


 准教授は笑い、無理に画面を覗き込むこともなく自分の席へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、真琴は少しだけ肩の力を抜いた。


 研究室という場所は、知らないことを追いかけるにはとても居心地がいい。ただし、優也の秘密まで研究対象として持ち込むわけにはいかない。興味を持つことと、公開していいことは別だった。


 真琴はもう一度ファイルを開き、最後の欄に小さく書き加えた。


『鑑定範囲の拡大――使用経験、魔素接触との関連可能性』


 まだ、仮説とも呼べない程度のメモだった。


          ◇


 昼休みになると、真琴は研究室を出て、大学の食堂へ向かった。


 入り口近くの窓際には、すでに二人の友人が席を取っていた。学生時代から付き合いのある佐伯美咲と小野寺彩香で、美咲は話し始めると止まらないタイプ、彩香はその横で必要なところだけ口を挟むタイプだった。


 真琴がトレーを置いて座るなり、美咲が目を細めた。


「三浦、最近ちょっと変わったよね」


「何が?」


「その反応。前なら『何が?』って言いながらもっと警戒した顔してた」


「それは今の質問が雑だからでしょ」


 真琴が笑いながら箸を取ると、美咲は「ほら、それ」と指を差した。


「最近スマホ見て笑うこと増えたし、昼休みでも返信してること多いし。前は通知来ても平気で放置してたじゃん」


 真琴は一瞬だけ箸を止めた。


 言われてみれば、最近は優也から連絡が来ると、内容を確認する前から少し気分が軽くなることがある。中古品の相談だったり、道路工事現場で見つけた妙なものの写真だったり、どうでもいい食事の話だったりするのに、届くこと自体が日常の一部になっていた。


 彩香が味噌汁を飲みながら、淡々と続けた。


「彼氏なら普通に言えばいいのに。隠してる感じでもないし」


「彼氏じゃないよ」


「じゃあ誰?」


 美咲の食いつきが早い。


 真琴は少し考えたあと、正直に答えた。


「友達。……たぶん」


 一拍置いて、美咲が吹き出した。


「『たぶん』が付く友達って何それ。いちばん怪しいやつじゃん」


 真琴自身も、言ってから少しおかしくなった。


 優也とは付き合っていない。けれど、ただの知人と呼ぶには一緒に抱えているものが多すぎる。秘密も知っているし、将来の夢みたいな話もする。毎日のように連絡を取ることもあれば、何日か空いても不自然には感じない。


 名前を付けるなら友達なのだろうが、その言葉だけでは少し足りない気もした。


挿絵(By みてみん)


 笑いが収まったところで、彩香が少し真面目な顔になった。


「でも、三浦は進路のほうも変わったよね。普通に研修行くと思ってた」


「私も最初はそう思ってた。もちろん臨床をやらないって決めたわけじゃないし、必要ならあとで研修に戻るつもり。でも今は、研究のほうが気になる」


「お父さん、何も言わないの?」


 美咲が聞くと、真琴は首を横に振った。


「最初は驚いてたけど、最終的には自分で決めなさいって。病院を継げとも言われてないし、姉も好きなことしてるから、そのへんは昔から自由なの」


 父親が医師で、病院を経営しているからこそ、医師になったあとの道もある程度決まっているように見られがちだった。けれど実際の両親は、真琴の進路を決めようとはしなかった。


 だからこそ、自分で選ばなければならない。


「医学をやめたいわけじゃないの。ただ、人の身体だけ見てたら説明できないものがある気がして。材料とか環境とか、外側まで含めて見たくなってきたんだと思う」


 真琴はそこまで話してから、少しだけ言葉を飲み込んだ。


 本当なら「説明できないもの」が何なのかまで話したい。しかし、それは優也の秘密と切り離せない。


 美咲は深く追及せず、「三浦ってそういうとこ昔から変わってるよね」と笑った。


「普通、医師免許取ったらやっとスタートだって思うのに、そこから別の道探し始めるんだもん。でもまあ、楽しそうならいいんじゃない? 最近の三浦、前より顔が柔らかいし」


「それ、さっきの話と混ぜてない?」


「混ぜてる」


 美咲が即答し、三人で笑った。


 真琴は笑いながらも、少しだけ胸の奥に引っかかるものを感じていた。


 自分は変わったのだろうか。


 研究のことも、優也のことも、少し前までは想像していなかったものばかりだった。


          ◇


 夕方、大学を出た真琴は駅へ向かう途中で優也に連絡した。


『今日、時間ありますか?』


 返事はすぐに来た。


『あるで。ちょうど聞きたいことあってん。委託の――』


 そこまで読んだところで、真琴は思わず笑い、そのまま電話をかけた。


「今日は中古品の話、禁止にしません?」


『……俺、最近そればっかりやった?』


 電話の向こうで、優也が本気で少し考えている気配がした。


「かなりです。会っても利益率、電話しても仕入れ、メッセージでも中古カメラ。研究の話より多いです」


『言われてみたら、そうかもしれんな。じゃあ今日は封印するわ。何食べる?』


 それから二人は駅の近くで待ち合わせ、特別高い店でも流行の店でもない、ごく普通の洋食屋へ入った。


 優也が副業の話を封印すると、最初の数分は妙に間が空いたが、すぐに真琴の大学の話へ移った。研究室で何をしているのか、どうして臨床より研究に興味が向いたのか、今後どんなことを学びたいのか。優也が質問し、真琴が答える形で話しているうちに、真琴は自分でも思っていた以上に言葉が出てくることに気づいた。


「魔素って名前、私たちで勝手に付けただけでしょう。だから本当は、まだ何なのか全然分かってないんです。エネルギーなのか、物質なのか、それとも分類そのものが違うのかも分からない。でも、優也さんに触れたり、収納に入ったりすると何かが変化してる。そこだけは、記録を並べると見えてくるんです」


 優也はハンバーグを切る手を止めて、しばらく考えていた。


「俺は便利やから使ってるだけやったけど、真琴はずっと記録してたんやな」


「最初から全部じゃないですけどね。奈良のあとから、ちゃんと残さないと駄目だと思って。優也さん、覚えてるようで結構忘れるし」


「そこは否定できへん」


 優也は苦笑したが、真琴は責めるつもりで言ったわけではなかった。


「私、これを解明したいんだと思います。でも、今の段階で発表したいとは思ってないんです。誰かに認めてもらいたいわけでもなくて、まず自分たちで何が起きてるのか知りたい。優也さんの能力って、便利だけど、どこから来たのか分からないでしょう」


「せやな。ある日いきなりやしな」


「だから、知らないまま使い続けるのは少し怖いです」


 その言葉に、優也はすぐ返事をしなかった。


 怖いという感覚を、優也自身はあまり口にしない。皿が消えたときも、鑑定が見えるようになったときも、戸惑いながら結局は試している。それが優也らしさでもあるのだが、真琴には、それだけでいいとは思えなかった。


 しばらくして、優也が小さく息を吐いた。


「じゃあ、今日は真琴の話聞く日で正解やったな。俺、一人やったら多分そこまで考えへんかったわ」


 真琴は少し笑った。


「そのために呼びました。あと、見せたいものがあります」


          ◇


 食事を終えたあと、二人は真琴のマンションへ向かった。


 優也が真琴の部屋へ来るのは初めてだった。


 オートロックを抜け、エレベーターで上がり、玄関のドアが開く。優也は靴を脱ぎながら、必要以上に周囲を見ないようにしているのが逆に分かりやすかった。


「何か緊張してます?」


「そらするやろ。女の人の一人暮らしの部屋なんて、そうそう入る機会ないし」


「別に普通の部屋ですよ」


 真琴が先に入って照明をつけると、白と淡い木目を基調にしたLDKが明るく浮かび上がった。ライトグレーのソファ、小さめのダイニングテーブル、テレビ、壁際の収納。窓の向こうには中低層の建物と住宅の灯りが広がり、派手な夜景ではないが、静かな大阪の生活圏が見えている。


 優也は一度部屋全体を見回したあと、ぽつりと言った。


「……普通やな」


 真琴は足を止めて振り返った。


「どういう部屋だと思ってたんですか」


「いや、もっとこう……お嬢様っぽいというか」


「天蓋付きベッドとか?」


「そこまでは言うてへん」


「顔に書いてあります」


 少しむっとした真琴を見て、優也は笑いながら謝った。


 実際には、優也の部屋より新しく、設備も整っている。それでも高級ホテルのような空間ではなく、医学書やファイル、充電ケーブル、椅子に掛けられたカーディガンなど、真琴がここで普通に暮らしていることが分かる部屋だった。


 真琴はLDKを抜け、洋室側の研究机から厚めのファイルを二冊持ってきた。


「これです」


 ダイニングテーブルに並べると、優也は向かい側ではなく真琴の隣へ座った。二人で同じ向きから見たほうが資料を追いやすかったからだ。


挿絵(By みてみん)


 最初のページには、白い皿のことが書いてあった。


 その次に収納の検証、鑑定で見えた情報、金属片、奈良へ行ったときの記録、黒い石、魔素反応の変化。時系列に並べられた出来事の横には、真琴が後から気づいたことや、まだ確認できていない点が細かく書き込まれている。


 優也はページをめくるたびに、少しずつ口数が減っていった。


「俺、こんな色々やってたんやな」


「やってましたよ。しかも、その場では結構適当に」


「適当言うな」


「白い皿を出したり入れたりしてた人に言われたくないです」


 真琴は笑ったあと、あるページを開いた。


 そこには、優也の鑑定で確認できる情報が増えていった順番がまとめられていた。


 最初は物の名称や状態だけだったものが、未知の反応を捉えるようになり、さらに収納領域そのものの状態まで見えるようになっている。その変化の横には、魔素を含む物質へ触れた時期と、能力を使った回数の概算が並んでいた。


「これ、まだ証明できないです。でも私は少し気になってます」


 真琴は指先で表をなぞった。


「優也さんの鑑定って、最初から今の性能だったわけじゃないでしょう。使ってるうちに対象が増えて、魔素に触れたあとにも変化してる。もし偶然じゃないなら、経験か魔素との接触、あるいはその両方で、少しずつ能力そのものが変わってる可能性があります」


 優也は表をしばらく眺め、やがて真顔のまま言った。


「……レベルアップ?」


 真琴は呆れたように優也を見たが、完全には否定できなかった。


「ゲームみたいに言わないでください。まだ仮説です。ただ、もし本当に変化してるなら、これから先も同じとは限りません」


「強くなるかもしれん?」


「逆もあります。負担が増えるかもしれないし、何か条件があるかもしれない。だから、能力が増えたら喜ぶ前に記録してください」


「はい、先生」


 優也が素直に返したので、真琴は少し笑った。


 二人の間に置かれたファイルには、まだ空白がたくさん残っている。分からないことのほうが圧倒的に多く、仮称・魔素という名前さえ正しい保証はない。


 それでも、優也が一人で能力を試していたころとは違う。


 今は、その変化を見ている人がいる。


 優也は最後のページまで目を通したあと、閉じずにそのまま手を置いた。


「なあ真琴。これ、これからも続けてくれる?」


 真琴は少しだけ驚いてから、ゆっくり頷いた。


「そのつもりです。というか、もう途中でやめられないですよ。気になるので」


「やっぱ研究者やな」


「優也さんが適当に使うからです」


 二人で笑い、真琴は新しい記録用のページを一枚追加した。


 そこにはまだ何も書かれていない。


 次に何が起きるのかも、能力がどこまで変わるのかも分からない。ただ、分からないものを分からないまま放置せず、一つずつ残していくことならできる。


 そしてその夜、二人の間で初めて、鑑定は「使える能力」から「変化するかもしれない現象」へと意味を変え始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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