ep.3 止まった時間
目覚ましが鳴る少し前、福山優也はふいに目を覚ました。
まだ薄暗い部屋の中で天井を見上げながら、しばらくは何も考えずにぼんやりしていたものの、昨夜の出来事が頭へ戻ってくるまでに、それほど時間は掛からなかった。
白い皿が消えたこと。その皿を何もない場所から取り出せたこと。さらに、スプーンや座椅子、水の入った段ボールまで、同じように出し入れできたこと。
「……夢ちゃうよな?」
寝起きの掠れた声でそう呟きながら目を閉じてみると、その答えはすぐに分かった。
昨夜収納した白い皿と、小さなペットボトル。その二つが今も“どこかにある”という感覚が、眠る前と変わらずはっきりと残っている。
優也は布団から右手だけを出した。
「とりあえず……水」
ペットボトルを取り出すことを意識した瞬間、何も持っていなかった手のひらへ重量が加わり、思わず腕が少し沈む。
「うおっ、冷たっ」
予想以上の冷たさに、残っていた眠気が一気に吹き飛んだ。
昨夜、冷蔵庫から取り出した直後に確かめた時と、ほとんど変わっていない。ボトルの表面には結露すらなく、今まさに冷蔵庫から出してきたと言われても疑わないほど冷えていた。
優也は身体を起こし、枕元に置いていたスマートフォンで時刻を確認する。
午前六時十二分。
収納したのは昨夜の九時過ぎだったから、すでに九時間近くが経過している。それだけ長い間、普通の部屋に置いていたなら、冬場とはいえ冷蔵庫から出した時の温度がそのまま残っているとは考えにくい。
「ほんまに時間、止まってんのか?」
キャップを開けて一口飲んでみると、水はしっかりと冷たかった。
味に変化があるわけでもない。ただの水なのに、その冷たさだけで妙に興奮してしまう。
昨夜作ったメモを開き、『温度変化ほぼなし』と入力したところで、優也は指を止めた。
とはいえ、温度が変化していないというだけで、収納内部の時間そのものが停止していると決めつけるのは早い。物体の温度だけが維持される仕組みかもしれないし、腐敗や劣化、電池で動く機械などがどうなるのかも、まだ何一つ分かっていない。
「……そこまで考え始めたら、仕事遅れるな」
時計を見ると、まだ多少の余裕はあったが、朝から実験を始めれば止まらなくなる自信だけはある。
優也はペットボトルを冷蔵庫へ戻し、白い皿も収納から取り出して食器棚へ戻した。昨日までは一枚足りなかった棚に四枚の皿が並んでいる光景を見ると、本当に何事もなかったように思えてしまう。
試しに、一番上の皿へ指を触れて収納を意識する。
皿は音もなく消えた。
「……やっぱあるんよな」
すぐに元へ戻し、小さく息を吐く。
今日も普通に起きて、着替えて、仕事へ向かう。その生活自体は昨日までと何も変わらないはずなのに、自分だけがとんでもない秘密を抱え込んだような妙な感覚があった。
◇
午前中の現場は、大阪市内の生活道路だった。
道路の片側には工事車両が入り、残った幅を使って歩行者と車両を順番に通していく。昨日とは違う場所ではあったが、仕事そのものは大きく変わらない。
「自転車通りまーす!」
「了解です!」
作業員へ声を掛けた優也は、規制区間へ入ろうとしていた車を止め、自転車に乗った高齢の女性が通り抜けるのを待つ。
「どうぞ、気ぃつけてください」
「ありがとう」
「はーい」
女性が通過したことを確認してから車両を流し始める。
仕事中だけは、昨夜のことをなるべく考えないようにしていた。交通誘導で意識を別のことへ持っていかれるのは危険だし、能力のことを考えて事故でも起こせば、それこそ笑い話では済まない。
ところが休憩時間になれば、どうしても頭へ浮かんでしまう。
コンビニで買った温かい缶コーヒーを両手で包みながら、優也は駐車場の隅へ停められた社用車に背中を預けた。
朝のペットボトルが冷たいままだったのなら、この缶コーヒーを収納すれば温かさも維持されるのだろうか。おそらく試せば答えは出るが、人目のある場所で突然缶を消すほど不用心になるつもりはない。
「……家帰ってからやな」
「何がです?」
横から突然声が飛んできて、優也は肩を跳ねさせた。
「うわっ!」
「なんすか、その反応」
同じ現場に入っていた警備員が、紙コップを片手に怪訝そうな顔をしている。
「いや、何でもない」
「めっちゃ怪しいですけど」
「今日の晩飯どうしようかなって考えてただけ」
「それで『家帰ってからやな』になります?」
「なる時もある」
「ならんでしょ」
笑われながらも、優也は何食わぬ顔で缶コーヒーを一口飲んだ。
ふと、もしこの能力を誰かに話したらどうなるのだろうと考える。
友人へ見せれば驚くだろうし、動画にでも撮れば、下手をすれば一晩でネット中へ広がるかもしれない。研究機関へ持ち込めば、もっと大きな話になる可能性もある。
けれど、まだ自分自身ですら正体を理解できていない。
そんな段階で世間へ知らせる必要はないだろう。
今は便利さばかりが目につくものの、使うことで身体へ何らかの負担が掛かっている可能性だって残っているし、知らないだけで危険な条件があるかもしれない。面白半分で他人へ見せるには、分からないことが多すぎた。
優也は残っていたコーヒーを飲み干し、空になった缶をゴミ箱へ入れた。
まずは自分で調べる。
誰かに話すかどうかを決めるのは、その後でいい。
◇
仕事帰り、優也は自宅へ直行せず、駅近くの百円ショップへ立ち寄った。
籠へ入れたのは、デジタル式のキッチンタイマー、小さな透明容器、保冷剤、それから簡単な温度計。レジへ向かう途中では使い捨てカイロまで追加し、改めて自分の買い物を見下ろして苦笑する。
「……自由研究かよ」
四十四歳の男が一人で始める実験としては少々怪しいが、昨夜のように思いついた物を手当たり次第に収納するより、比較できる物を用意して試した方が分かりやすい。
帰宅すると、着替えを済ませた優也は夕食より先に買ってきた物をテーブルへ並べた。
「さて……何からやろかな」
最初に手に取ったのはキッチンタイマーだった。
試しに五分へ設定してスタートボタンを押すと、液晶に表示された数字が一秒ずつ減っていく。
残り四分五十二秒。
そこでタイマーへ触れ、収納を意識した。
手の中からタイマーが消える。
「これで五分以上待って、数字が減ってたら中でも時間は流れてる。止まってたら……」
最後までは言わず、スマートフォンで現在時刻を確認した。
こういう時に限って数分という時間は妙に長く感じる。テレビをつけても内容が頭へ入らず、結局スマートフォンを眺めながら七分ほど待ってから、収納していたタイマーを取り出した。
手のひらへ現れた液晶を見て、優也の眉が上がる。
「……おお」
表示は四分五十二秒。
収納した瞬間とまったく同じ数字だった。
そして目の前で、四分五十一秒へ切り替わる。
「マジか……」
優也は椅子へ腰を下ろし、しばらくタイマーを眺めた。
今度は感覚だけの話ではない。電池で動いている機械が、収納している間だけ明らかに動作を停止している。
念のためもう一度同じ実験を行い、今度は十五分ほど放置してみる。それでも結果は変わらず、取り出したタイマーは収納直前の数字から何事もなかったようにカウントを再開した。
「時間停止……って考えてええんかな?」
もちろん、空間そのものの時間が完全に止まっていると断定するには材料が足りない。それでも、少なくとも収納した物には通常の時間経過が起きていない可能性がかなり高くなった。
優也はスマートフォンのメモへ、
『収納中、キッチンタイマー停止。取り出すと再開』
と記録してから、次の実験へ移った。
冷凍庫から同じくらいの大きさの氷を二つ取り出し、それぞれを小さな透明容器へ入れる。片方はテーブルの上へ残し、もう片方だけを容器ごと収納して、三十分ほど様子を見ることにした。
その待ち時間を使って、遅くなった夕食を済ませる。
今夜は冷凍うどんと総菜の天ぷらだけという簡単なものだったが、食べながらも気になって、何度かテーブルの上の容器へ視線を向けてしまう。
三十分ほど経つ頃には、外へ残していた氷はかなり小さくなり、容器の底には溶けた水が溜まっていた。
そこで収納していた方を取り出して横へ並べる。
「……そのまんまやん」
容器の中には、収納する前とほとんど変わらない形の氷が転がっている。指で触れてみれば当然のように冷たく、溶けた形跡もほぼ見当たらない。
優也は二つの容器を見比べたあと、思わず笑った。
「これ、冷蔵庫いらんやん」
そこまで言って、すぐ首を振る。
「……いや、さすがにいるわ」
毎回食材を出し入れする生活など面倒だし、何を収納したか分からなくなれば、それはそれで困る。まして容量や使用条件についても、まだ何も分かっていない。
それでも、生鮮食品や冷凍品を劣化させずに長期間保存できるのだとすれば、とんでもなく便利な能力であることだけは間違いなかった。
旅行へ行く時なら、冷蔵品を気にせず持っていける。買い物の途中で寄り道をしても、冷凍食品が溶ける心配はない。大量の水や食料を備蓄できるのなら、災害時にも役立つかもしれない。
そこまで考えたところで、優也は椅子の背もたれへ身体を預けた。
昨夜の時点では、荷物を楽に持ち運べる程度の能力だと思っていた。しかし収納中に時間まで止まるとなれば、使い道は一気に広がる。
温かい弁当を収納すれば、数時間後でも出来立てに近い状態で食べられるかもしれない。冷凍食品だけでなく、普通なら時間とともに劣化していく物にも応用できる可能性がある。
とはいえ、実験したのは水と氷、それにキッチンタイマー程度だ。食品や薬品まで同じだと考えるのは、いくら何でも気が早い。
優也はメモの最後へ、自分自身への注意書きを付け加えた。
『便利そうでも、勝手に安全と思わない。』
「こんなもんかな」
分からないことは、一つずつ確認すればいい。焦って答えを出そうとするより、そのやり方の方が自分には合っている。
スマートフォンを置こうとしたところで、買ってきたまま使っていない温度計が目に入った。
考えてみれば、まだ試したいことはいくらでも残っている。
収納できる物の大きさには限界があるのか。重さは本当に関係ないのか。箱の中に複数の物が入っている場合、それらは箱ごと一つとして扱われるのか。水のような液体を容器なしで入れられるのか。取り出す位置はどこまで自由に指定できるのか――一つ答えが出るたびに、別の疑問が増えていく。
「……あかん。これ、ほんまに終わらんやつや」
昨日と似たようなことを口にしながら、優也は苦笑した。
ただ、昨夜とは少しだけ違っている。
最初は正体の分からない現象に振り回されているだけだった。それが実験を重ねるうちに、少なくとも一定の法則を持った“能力”らしきものとして輪郭を見せ始めている。
テーブルの上に置いたキッチンタイマーは、今も何事もなかったように数字を減らし続けていた。
四分二十秒、四分十九秒、四分十八秒。
その当たり前の変化を眺めながら、優也はふと妙な気分になる。
人が仕事をしている間も、眠っている間も、何もしないでぼんやりしている間も、時間は勝手に進んでいく。誰かが止めてほしいと願ったところで、待ってくれることなどない。
それなのに、自分の中に存在しているらしいあの奇妙な場所だけは、その当たり前から完全に外れている。
「……なんなんやろな、お前」
収納そのものへ問い掛けるように呟いてみるが、もちろん答えが返ってくることはなかった。
その夜、優也のスマートフォンに作られた『収納?』というメモには、昨日よりもずっと多くの記録が残った。そして、これまでの実験結果を読み返した末に、一番下へ新しい疑問を一つだけ書き加える。
『そもそも、この力はどこから来た?』
物を入れれば消え、取り出そうと思えば戻ってくる。中では時間すら止まるらしい。
だが、なぜ自分にこんな力があるのか。
それだけは、どれほど実験を重ねても、簡単には答えが出そうになかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
評価・感想も励みになります。




