ep.29 値段の向こう側
朝から空は薄く曇っていた。九月も終わりに近づいているというのに、日中の道路にはまだ夏の名残が残っていて、舗装の上に立っていると安全靴の底からじわじわ熱が上がってくる。
優也は片側交互通行の現場で、停止位置へ入ってきた車に赤旗を見せながら、無線の声を聞いていた。
「下り、最後トラック一台。そっち送るで」
「了解」
返事をして車列を送り出し、反対側からの合図を待つ。その繰り返しは、考え事をしているときほど妙に身体へ馴染んだ。腕を上げる角度も、運転手と目を合わせるタイミングも、何年か続けるうちにいちいち意識しなくなっている。
副業を始めたからといって、本業の景色が変わったわけではない。昨日までと同じ道路に立ち、同じように工事車両を通し、昼になればコンビニで買ったおにぎりとお茶で腹を満たす。違うのは、休憩に入るとスマートフォンを確認する習慣がひとつ増えたことだった。
資材置き場の隅でパイプ椅子に腰を下ろし、ヘルメットを膝に置いて画面を開く。通知欄には、数日前に発送した中古品の取引完了を知らせる表示が出ていた。
購入者からの評価は最高評価で、短いコメントまで添えられている。商品の状態説明が分かりやすく、梱包も丁寧だった、と書かれていた。
「へえ」
思わず小さく声が漏れた。
利益だけなら、今回の取引も数千円に過ぎない。送料と手数料を引き、仕入れに使った金額を差し引けば、財布が急に重くなるような額ではなかった。それでも、その短い評価文を見ていると、数字とは別の何かを受け取ったような気がした。
「何や、ええことあったんか?」
横から声がして顔を上げると、久保田が缶コーヒーを片手に立っていた。
「副業のやつ、評価ついたんですよ。梱包丁寧やったって」
「おお、商売人やんけ」
「まだ商売人ってほどちゃいますよ。月三万ちょいですし」
「三万でも俺にくれたら喜ぶで」
「なんでですか」
笑いながら画面を閉じると、久保田は隣の椅子に腰を下ろし、缶のプルタブを開けた。
「でもまあ、文句言われへんかったんやったらええやん。中古って、売ったあとが怖そうやしな。動かんとか、傷あったとか」
「そこは気ぃ使いますね。分かる範囲は全部書くようにしてます」
「真面目やなあ」
「後で揉めるほうが面倒くさいですから」
「それは分かる」
久保田が笑い、優也もつられて口元を緩めた。面倒だからこそ、最初にきちんとする。その考え方は、本業でも副業でもあまり変わらないのかもしれない。
休憩が終わり、再び道路へ戻りながら、優也はさっきの評価をもう一度だけ頭の中で思い返していた。鑑定があるから、商品の状態をかなり細かく見られる。これまではその利点を、主に「外れを引かないための能力」として考えていた。けれど、自分が分かっている状態をそのまま説明できるということは、買うときだけではなく、売るときにも意味がある。
嘘をつかずに済む。それは派手ではないが、商売を続けるなら意外と大きいのかもしれなかった。
◇
仕事を終えて帰宅した優也は、シャワーを浴びてから、いつもの木製テーブルにノートを広げた。これまでの記録には、仕入れ値、売値、送料、手数料、最終利益が並んでいる。そこへ新しく『作業時間』『購入者評価』という二つの欄を作った。
「……こうして見ると、仕事みたいやな」
いや、実際に仕事なのだろう。自分で仕入れ、状態を確認し、必要なら清掃や簡単な整備をして、写真を撮り、説明文を書き、売れたら梱包して発送する。会社から給料を受け取る働き方とは違うだけで、やっていることは十分仕事だった。
試しに過去の取引も思い出せる範囲で埋めていくと、少し面白いことが見えてきた。利益が高かった商品でも、清掃や確認に時間がかかり、出品してから売れるまで何日もかかったものがある。一方で、利益はそれほど大きくなくても、ほとんど手をかけず数日で売れた商品もあった。
「利益だけ見てたらあかんって、こういうことか」
真琴に言われた「時間も記録したほうがいい」という意味が、ようやく数字として見え始めた。ノートを閉じる前に、優也はスマートフォンを手に取り、翌日の帰りに寄れそうな中古店をいくつか確認する。すぐに何かを買うつもりはなく、今は商品を見る回数そのものを増やしたかった。
◇
翌日の夕方、仕事帰りに立ち寄った中古店は、カメラとオーディオを多く扱う店だった。
ガラスケースの中には、レンズや古いカメラボディが整然と並び、値札には状態を示す簡単な説明が添えられている。優也は入口に近い棚から順番に眺め、値段が気になったものだけを手に取っていった。
すぐに鑑定するのではなく、まず自分の目で見る。外装の傷、レンズ表面、マウント部分、操作リングの感触。分かるようになったことは少しずつ増えているが、専門店の店員ほど詳しいわけではない。だからこそ、自分で見たあとに鑑定結果を重ねると、何を見落としていたのかが分かる。
棚の中ほどに、一本の交換レンズがあった。外観はかなり綺麗で目立つ傷もなく、価格は七万円台。スマートフォンで中古相場を確認すると、状態が良ければ九万円台から十万円を少し超えるくらいで動いている。
「これ、条件だけ見たら悪くないな」
小さく呟き、店員に声をかけてショーケースから出してもらった。手袋をした店員がレンズをカウンターに置き、優也は了承を取ってからゆっくり確認する。
表面から見える範囲では問題なさそうだった。そこで優也は意識を集中する。
『交換レンズ――』
『外装――良好』
『光学系――微細な曇り』
『絞り機構――動作不安定』
『修理歴――あり』
『現状使用――可能』
『継続使用――要点検』
「……ああ」
思わず声が漏れた。
見た目だけなら、少なくとも自分では気づかなかった。店の説明にも、細かな使用感あり、としか書かれていない。優也はリングを操作しながら何度か動きを確かめた。鑑定で答えを知っている状態で注意してみると、ごく僅かに引っかかるような感触がある気もする。ただ、知らずに触っていれば気のせいで終わっていただろう。
「すみません。これ、絞りの動きって確認できます?」
「はい、少々お待ちください」
店員は嫌な顔をせず、確認用のボディを用意した。何度か操作したあと、店員の表情が少し変わる。
「……確かに、たまに反応が遅れますね。申し訳ありません。こちら、もう一度点検扱いにさせていただきます」
「やっぱりですか」
「よく気づかれましたね」
「触った感じが、ちょっとだけ気になったんで」
そこまで言って、優也は曖昧に笑った。
店員は商品をいったん奥へ下げた。確認後に価格を見直す可能性もあるという。もし値段が下がれば、数字の上では利益が出るかもしれない。修理歴まで把握したうえで、きちんと状態を説明し、それでも市場価格との差が残るなら仕入れ候補にはなる。
だが、優也は店を出るころには、すでに買わないと決めていた。理由は単純で、自分にはまだ光学系の曇りがどこまで実用に影響するのか、絞り機構の不安定さが今後どの程度悪化するのかを、鑑定以外の知識として説明できない。売るときに鑑定結果をそのまま書けるわけでもない以上、自分の言葉で責任を持って状態を説明できない商品は、今の段階では扱わないほうがいい。
店を出て駅へ向かいながら、優也は少しだけ可笑しくなった。能力があれば、もっと簡単に儲かると思っていた時期もある。けれど実際には、見えなかった不具合が見えるほど、「分かったから買える」のではなく、「分かったから買わない」という判断のほうが増えていた。それでも、不思議と損をした気分にはならなかった。
◇
その週末、真琴と会った。
夕食時を少し外したファミリーレストランは空いていて、二人は奥の四人掛け席に向かい合って座っていた。優也の前にはドリンクバーのコーヒー、真琴の前には紅茶が置かれ、その間にノートとタブレット端末が広げられている。
優也がここ一か月の記録を見せると、真琴は数字を追いながら、ときどき画面とノートを見比べた。
「作業時間まで付けたんですね」
「言われたからな。やってみたら、意外と分かりやすかったわ。利益高くても時間食うやつあるし、逆に千円二千円でもすぐ売れるやつもある」
「評価も?」
「昨日から。過去のは分かる範囲だけやけど」
「いいと思います。たぶん、そのうち利益額より大事になる数字も出てきますよ」
「たとえば?」
真琴は少し考えてから、ノートの端を指で軽く押さえた。
「何日で売れたかとか、同じ種類の商品で失敗が何回あったかとか。あと、説明文を書き直した回数とか。優也さん、今は一件ずつ覚えてるでしょうけど、数が増えたら絶対に分からなくなります」
「それはありそうやなあ」
優也は苦笑しながら、追加する項目を余白に書き込んだ。真琴はこういうとき、やたら細かい。だが、細かいからこそ助かっている部分も多く、優也一人なら利益が出たかどうかだけ見て「まあええか」で済ませていた可能性が高かった。
しばらく数字の話を続けたあと、優也はコーヒーを一口飲み、背もたれへ身体を預けた。
「でもさ、これ、ほんまに二億とか届くんかな」
口にしてから、自分でも随分気の長い話をしていると思った。目の前の記録にある利益は三万一千二百四十円。GRANZの見積もりは、仕様次第で二億円を超える可能性がある。桁が違う、という言葉では足りない。
真琴はすぐに答えず、ノートへ視線を落としたまま数秒考えた。
「今のやり方のままだったら、たぶん届かないと思います」
「……そこは夢見させてくれへんのや」
「嘘ついても仕方ないでしょう」
真顔で返され、優也は思わず笑った。
「まあ、そうやけど」
「でも、今のやり方をずっと続けるって決めたわけじゃないですよね」
真琴はそう言うと、三万一千二百四十円と書かれた欄を指した。
「最初は、これもゼロだったんですよ。しかも優也さん、まだ十万円までしか使わないって決めてる。だったら今やってることは、二億円を稼ぐ方法というより、十万円をどう回すか覚えるための練習なんじゃないですか」
その言葉を聞いて、優也は少し姿勢を戻した。
「十万円を回せるようになったら?」
「次は三十万円でできることを考える。三十万円で回せるようになったら、百万円でできることを考える。その途中で、今のやり方よりいい方法が見つかるかもしれないし、得意な分野が分かるかもしれない。逆に、これはやらないほうがいいって分野も分かると思います」
「なるほどな」
「最初から二億円の稼ぎ方を考えると、たぶん変なことしますよ」
「変なことって何やねん」
「十一万八千円のカメラ買うとか」
「それは買わんかったやろ」
「だから、ちゃんと進んでるんじゃないですか」
真琴は少し笑った。優也はその表情を見ながら妙に納得してしまった。買った商品より、買わなかった商品のほうが記憶に残っている。利益が出た取引より、見送った判断のほうが、自分の中では大きかった。
鑑定があれば正解が分かるわけではない。ただ、判断材料が増えるだけで、その材料をどう使うかは自分で考えなければならない。
「真琴って、たまに厳しいよな」
「優也さんが勢いで行きそうだからです」
「俺、そんな無茶する?」
「GRANZに全部盛りしようとしてる人が何言ってるんですか」
「……それは別や」
「別じゃないです」
二人で笑い、そこで話は一度途切れた。窓の外には夜の車が流れ、店内には食器の触れ合う音と、少し離れた席の話し声が混じっている。二人の間に置かれたノートにはまだ空欄が多かったが、何を書くかが少しずつ分かってきたせいか、その空欄も以前ほど頼りなくは見えなかった。
◇
帰宅したのは、午後十時を少し過ぎたころだった。
部屋の明かりをつけ、上着を椅子の背に掛ける。冷蔵庫から水を出して一口飲んだあと、優也は自然に木製テーブルへ向かい、ノートを開いた。ページの上には、これまでと同じように取引の数字が並び、一番下には『GRANZ資金 31,240円』と書かれている。
その数字をしばらく眺めてから、新しいページを開き、『目標① 十万円を減らさず回せるようになる』と書いた。
二億円という数字と並べれば、あまりにも小さく、誤差にもならない目標だった。それでも今夜は、それでいいと思えた。二億円をどうやって用意するかと考えると頭の中に浮かぶのは巨大な壁だけだが、十万円を減らさず回すために何をするかと考えれば、明日からできることがいくつも見えてくる。
仕入れを急がず、相場を見る。自分が説明できない商品には手を出さず、利益だけではなく売れるまでの日数や作業時間も記録し、購入者の評価を積み上げる。どれも地味なことばかりだったが、だからこそ自分には合っているのかもしれない。
優也はスマートフォンを伏せて置き、今日追加した項目をもう一度確認した。二億円という文字は消さないまま、その遥か手前に最初の目印を置いたことで、これまで一本の長い直線にしか見えなかった道に、ようやく足場ができた気がした。
GRANZはまだ写真と図面の中にしか存在せず、自分のものになる保証も、本当にそこまで辿り着けるのかも分からない。それでも、少なくとも今は遠さを測って立ち尽くす必要はない。次の一歩なら見えているのだから、明日も朝から現場へ出て、変わらない毎日の中で少しずつ積み上がっていくものを、今度は見落とさずにいようと思った。
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