ep.23 次の扉
医師国家試験の合格発表があった日の昼過ぎ、福山優也は道路工事現場の休憩車両で弁当を食べながら、何度目かになるスマートフォンの確認をしていた。
もちろん、自分が受験したわけではない。朝から仕事へ入っている間は画面を見る余裕もなく、誘導灯を持って車や歩行者の流れへ集中していたが、休憩へ入るたびに真琴から連絡が来ていないか気になってしまう。昨夜までは「結果が出たら一番に連絡します」と言われただけで、何時頃になるかまでは聞いていなかったため、昼休みに入った時点でも通知はなく、優也は弁当の蓋を開けながら自分で自分に呆れていた。
「本人より俺の方が落ち着いてへんみたいやん」
小さく漏らした直後、テーブルの上に伏せていたスマートフォンが震えた。
画面を起こすと、真琴からのメッセージが一件だけ表示されている。
『受かりました』
短い一文だった。
優也は箸を持ったまま数秒ほど画面を見つめ、意味が頭へ入ってきたところで、思わず大きく息を吐いた。
「……よっしゃ」
誰に聞かせるでもなく呟き、すぐに返信を打つ。
『おめでとう。ほんまに良かったな。七年分、お疲れさん』
以前なら勢いで何通も分けて送っていたかもしれないが、今回はそれだけにまとめた。すると既読はすぐにつき、少し間を置いて返事が届く。
『ありがとうございます。自分の番号を見つけた瞬間、急に力が抜けました。家族にも連絡したんですけど、お姉ちゃんが私より騒いでます』
文章からでも、張り詰めていたものがようやくほどけた様子が伝わってくる。優也は自然と頬が緩むのを感じながら、『今日はなんかええもん食べ。週末は俺も祝うわ』と送った。
その様子を向かい側で見ていた同僚が、弁当を食べる手を止める。
「福山さん、めっちゃ嬉しそうですね。前に言ってた人ですか?」
「前に言ってたって、何の話や」
「若い女の人と最近よく出掛けてるって話です。奈良にも行ってた人」
優也は危うくむせそうになり、ペットボトルの水を一口飲んだ。
「出掛けてる言うても、遊びに行ってるだけちゃうで。今日はその人が試験受かったって連絡きただけや」
「何の試験です?」
「医師国家試験」
同僚は一瞬きょとんとしたあと、目を丸くする。
「え、医者になる人なんですか?」
「そうなるな。まだ手続きとか卒業とかあるみたいやけど、大きいとこは越えたんちゃうかな」
答えながら、優也自身も少し不思議な気分になった。
最初に書店で声を掛けた時は、目の前の女性が医学部生だと知って驚いただけだった。そこから収納を見せ、鑑定の話をし、奈良の山まで一緒に行くようになった今でも、真琴が医師国家試験を受ける立場だったことだけは、どこか別の世界の出来事のように感じる時がある。
それでも今日、その結果を待って自分まで落ち着かなかったことを考えれば、もう「たまたま知り合った人」で済ませられる距離ではないのだろう。
「福山さん、顔戻ってないですよ」
「何が」
「ずっと嬉しそうです」
「飯食えって」
優也は笑いながら弁当に視線を戻した。
◇
その週末、二人は駅近くの洋菓子店に併設されたカフェで合流した。
優也が選んだのは気軽に入れる店で、特別なドレスコードもなければ高価なコース料理が出るような場所でもない。それでも真琴は席へ着くなり、「本当に普通の喫茶店でよかったのに」と少し申し訳なさそうに言った。
「これでもだいぶ普通やろ。国家試験なんか毎月受かるもんちゃうんやから、今日くらい素直に祝われとき」
「前にもごちそうになってますし、福山さんにばかり出してもらうのは悪いです」
「ほな次、なんか普通の日にコーヒーでも奢って。今日は俺が祝いたいだけやから」
そこまで言うと、真琴はようやく諦めたように笑った。
「分かりました。じゃあ今日は、素直にありがとうございます」
テーブルには優也のコーヒーと真琴の紅茶、それに二人分のケーキが並んでいる。いつものノートも放射線測定器も、試料を入れたケースもない。魔素の確認や実験をするためではなく、ただ会って話すだけの時間は、これまで何度か食事へ行ったことがあっても、まだ少し珍しかった。
「改めて、おめでとう。これで三浦先生やな」
「だから、合格した瞬間に急に先生になるわけじゃないです。卒業もありますし、免許の手続きもありますから」
「細かいなぁ。まあでも、大きい山は越えたんやろ?」
優也がそう言うと、真琴は紅茶のカップを両手で包みながら、少し照れたように頷いた。
「はい。そこは素直に嬉しいです。番号を見つけた時、本当に足から力抜けました。試験が終わってから結果が出るまで、自分ではなるべく考えないようにしてたんですけど、やっぱりどこかでずっと気になってたんでしょうね」
「そら七年分やもんな。浪人して、医学部入って、そこから六年やろ。俺やったら結果出るまで寝られへんかもしれん」
「福山さんは待てずに何回も確認しそうです」
「それは否定せえへん」
二人で笑ったあと、優也はケーキへフォークを入れながら、以前から気になっていたことを尋ねた。
「で、卒業したあとはどうするん? 前に研究の方も考えてるって言うてたやろ」
真琴はすぐに答えず、少しだけ考えてから口を開く。
「だいぶ固まりました。医師免許は取りますけど、最初から臨床一本で進むより、大学に残って医療工学や生体材料に近い研究へ入る方向で話してます。人体と材料の境目みたいなところに前から興味があったので、できるならそっちを深くやりたいです」
「やっぱ研究の方好きなんやな。黒い石見つけた時の食いつき見てたら、何となく分かるけど」
「それは別件です」
真琴は笑いながら否定したものの、優也には完全に別とも思えなかった。未知のものを見つけた時、危険を警戒しながらも目を輝かせるところは、最初に能力の話を聞いた頃から変わっていない。
「でも大学には言えへんもんな。『知り合いの交通誘導警備員が物を消せます。奈良で謎の石見つけました』って」
「絶対に言えません。福山さんの部分だけ切り取ったら、最初に聞いた私と同じ反応されますよ」
「まだ怪しい人扱いしてる?」
「最初は、です。今は実際に見てますから」
真琴の返しに優也が笑い、それからしばらくは国家試験や大学の話を中心に会話が続いた。
家族へ合格を伝えた時の反応も、それぞれ違ったらしい。父親は電話口で短く「よくやった」と言い、母親はこれまでを振り返るような長いメッセージを送り、姉は真琴本人より大きな声で喜んだという。
「三人とも分かりやすいな」
「毎回だいたい同じです。父は短いし、母は長いし、お姉ちゃんはうるさい。でも、ありがたいです」
真琴はそう言ってから、今度は優也へ視線を向けた。
「福山さんは、ご両親には最近会ってます?」
「正月に顔出したくらいやな。大阪やし遠くないから、電話したりはするけど。俺一人っ子やから、放っとかれてるようで何やかんや気にされてる」
「じゃあ、奈良へ何回も行ってるの知ったら心配されそうですね」
「そこは言うてへん。山で正体不明の反応探してますって説明できへんしな」
優也が苦笑すると、真琴も納得したように頷いた。しかし少しして、何気ない調子で問いを重ねる。
「私のことだけなら、何て説明します?」
優也はコーヒーカップを持ったまま、ほんの一瞬動きを止めた。
「……何て言うねん」
「普通に知り合いとか、友達とか」
「二十代の女友達できました、って急に言うたら、魔素より詳しく聞かれるかもしれんで」
「それは確かに」
真琴は想像したのか、くすっと笑った。
「じゃあ、まだ説明しづらい人ですね」
「俺も三浦さんも、何か説明しづらいな」
「お互い様です」
冗談として流れた会話だったが、優也の胸には少しだけ残った。
友達と呼ぶことに抵抗があるわけではない。実際、二人で何度も出掛け、食事をし、誰にも話せないことまで共有している。ただ、その一言だけでは足りない気もして、逆にそれ以上の言葉を使うほどでもない。
今はまだ、名前を付けなくても困らない関係だった。
優也は無理に答えを探さず、真琴が選んだケーキの感想へ話を戻した。そうして魔素とは関係のない時間を過ごしているうちに、気づけば二時間近くが経っていた。
◇
合格祝いから数日後、二人は再び貸し会議室へ集まった。
ただし今回は、新しい現象を探すためではない。前回決めた通り、黒い石を収納したあとに空の収納領域から確認された『魔素反応――微弱』が、時間の経過でどう変化したのかを確かめることが目的だった。
前回の実験から一週間、優也は魔素反応のある試料を一度も収納していない。奈良から借りている黒い石も、樹脂チャーム試料も、古い金属片も、すべて現実側で保管したままにしてある。
真琴は机へノートを開くと、以前よりも簡潔に手順を確認した。
「今日は三つだけです。最初に福山さん自身、次に空の収納領域、それから比較として白い皿を十秒だけ収納する。結果が変わっても、その場で追加はしません」
「了解。もうそこは言われんでも分かるようになってきたで」
「だから確認も短くなってるんです。信用度、ちゃんと上がってます」
「まだ採点してんの?」
「たまに」
軽く笑ってから、優也は右手首へ意識を向けた。
『魔素反応――極微量』
ここ数日と変わらない。体調にも違和感はなく、真琴が時刻と結果を記録する。
続いて、何も入っていない収納領域そのものへ鑑定を向けた。
最初の頃なら「何もない場所を調べる」という発想自体がなかったが、今は収納先を一つの対象として意識できるようになっている。焦らず輪郭を掴むと、ほどなく情報が返ってきた。
『収納領域』
『内部時間――停止状態』
『収容物――なし』
そこまでは前回と同じだった。
優也はさらに、魔素反応だけを意識する。
黒い石を取り出した直後には『微弱』と返ってきた。しかし今回は、いつまで待っても同じ言葉がはっきり浮かばない。
「……前より薄いな」
真琴はすぐ結論を聞かず、優也が集中を保てるよう黙って待った。
しばらくすると、ようやく曖昧だった情報が一つの言葉へまとまる。
『魔素反応――痕跡』
優也は一度目を開き、首を傾げた。
「『痕跡』って出た。前は『微弱』やったから、反応そのものが薄くなってるように見える」
真琴は言葉をそのままノートへ書き写し、前回の欄と並べる。
「一週間で『微弱』から『痕跡』へ変化した、とだけ残しましょう。『減った』と断定すると、量の話だと決めてしまうので」
「せやな。ほぼ無いけど、完全なゼロとも違う、みたいに俺は感じるけど、その感じ方も書いとく?」
「それは福山さんの主観として別に残しましょう。表示された言葉と、感じた印象を分ければ使えます」
優也は頷いた。
以前なら『痕跡』という言葉を見た瞬間に、魔素が時間とともに消えていくと決めつけていたかもしれない。今は、それが一つの可能性にすぎないと自然に考えられる。
「次、皿やな」
「はい。収納前に一度確認しましょう」
比較対象として持ってきたのは、優也の家で最初に消えた白い皿だった。前に自宅で眺めた夜には鑑定を使わずに止めたため、今の状態を改めて確認するのはこれが初めてになる。
机へ置いた皿へ意識を向けると、返ってきたのはごく普通の情報だった。
『陶器製食器』
『主成分――珪酸塩系』
『破損――なし』
魔素反応へ意識を絞っても、黒い石や金属片の時のような表示は出ない。
「やっぱり皿自体には反応なさそうやな」
「記録上は『魔素反応確認できず』にしておきます。福山さんが最初に収納した物だからって、皿そのものが特別とは限らないですね」
「むしろ普通で安心したわ。これまで飯食ってたし」
優也が笑うと、真琴も「今さらですね」と笑った。
タイマーを準備し、条件は黒い石の時と同じ十秒にする。優也が皿の縁へ手を触れ、収納を意識すると、白い皿はいつものように音もなく消えた。
以前はこの瞬間だけで驚いていたのに、今では消えること自体に動揺しない。それでも今日は単なる収納確認ではなく、魔素との関係を見る比較実験であるため、優也は余計なことを考えず、真琴が数える時間だけ待った。
「十秒です」
優也は皿を取り出し、同じ位置へ戻した。
見た目に変化はない。
優也自身を確認しても、
『魔素反応――極微量』
のまま。
最後に、再び空になった収納領域へ鑑定を向ける。
『魔素反応――痕跡』
先ほどと同じだった。
「皿入れても変わらへんな」
「少なくとも、魔素反応を確認できない物を十秒収納しただけでは、収納領域の表示も福山さん自身の表示も変化しなかった。そこまでは記録できますね」
真琴は結果を書き終え、ペンを置いた。
「これで黒い石の時に起きた変化が、何でも収納すれば起きる現象ではない可能性は少し上がりました」
「普通の物入れた時と違う、って比較が初めてできたな」
「はい。だから今日は、これだけでも十分です」
優也も同意し、白い皿をケース代わりの袋へ戻した。
机の上には、比較用に並べた過去の写真が残っている。魔素反応を確認できない白い皿、弱い反応を持っていた古い金属片、よりはっきりした反応を持つ樹脂チャーム、そして『強』と『保持状態』が出た奈良の黒い石。
どれも見た目だけなら、珍しい研究試料には見えない。それでも収納へ入れた時に起きる変化には差があるらしい。
優也は写真を順番に眺めながら、慎重に言葉を選んだ。
「黒い石の時だけ反応が残ったってことは、収納が魔素を吸ってる……って考えたくなるけど、それもまだ早いんやろな」
「そうですね。『吸う』以外にも説明はできます。収納へ入れたことで、物体と魔素が離れやすくなったのかもしれませんし、福山さんを通って一部だけ別の状態へ移った可能性もあります。そもそも『魔素反応』が物質の量を示しているとは限らないので、今は結果の違いだけを大事にした方がいいです」
「収納が何かを分けてる、って考え方もあるか」
「あります。福山さん、前に黒い石を収納した時、『中に入ってる石と、その周りの反応を別々に感じるような気がする』って言ってましたよね。あれが本当に分離を意味するのかは分かりませんけど、次に見るならそこかもしれません」
「でも石はもう返す」
「はい。借り物で続ける必要はありません。次に似た反応の物が見つかった時、今日までの記録が比較に使えます」
優也はその言葉に頷いた。
黒い石を手元へ置き続ければ、確かめられることはいくらでもある。収納時間を変えることもできるし、何度も出し入れして反応がどう変わるかを見ることもできる。しかし、借り物を自分の好奇心だけで変化させ続けるのは違う。それに、黒い石一つですべてを解こうとする必要もない。
「返す前に、今の反応だけ確認して終わりやな」
「それで十分だと思います」
そこで二人は実験を切り上げた。
以前なら、結果が出た直後ほど次の一手を試したくなっていた。今は「今日はここまで」と決めたところで本当に止められる。少し拍子抜けするほど静かな終わり方だったが、優也はそれを物足りないとは感じなかった。
真琴がノートを閉じると、優也は白い皿を袋へしまいながら笑う。
「最初の皿、こんな真面目に使われるとは思ってへんかったやろな」
「皿に意思があったら、たぶん普通に食事に使ってほしいと思います」
「ほな帰ったらまた食器棚戻しとくわ」
「それが一番自然ですね」
その返しが妙に可笑しく、二人で笑いながら片づけを始めた。
◇
会議室を出たあと、二人は駅までの道をゆっくり歩いた。
冬の冷たさはまだ残っているものの、夕方の空気には少しだけ季節が緩み始めた感じがある。道路脇の植え込みには小さな芽が出始め、日が落ちる時間も少し遅くなっていた。
「次は奈良やな。黒い石返して、宮田さんに昔の話聞ける人がおるか確認する」
「宮田さんから、少し心当たりがあるって連絡は来てます。亡くなった家主のお父さまが山仕事をしていた頃を知ってる人が近くにいるらしくて、日程が合えば話を聞けるかもしれません」
「マジで? それ先に言うてや」
「今日の実験が終わってから話そうと思ってました。先に言ったら、福山さんの頭が奈良の方へ飛びそうだったので」
「信用度上がったんちゃうん?」
「上がってます。でも、興味がある方向へ飛ぶのは別です」
真琴の答えに、優也は笑うしかなかった。
「まあでも、聞けるならありがたいな。黒い石がどこから来たんかまで分からんでも、山で何してたかとか、持って帰ってた物の話くらい聞けたら十分や」
「はい。何も分からなければ、それはそれで終わりにしましょう。場所が特定できないのに山へ入って探すのはなしです」
「分かってる。そこはもう覚えたって」
今度は真琴も念押しを重ねず、「じゃあ信じます」とだけ返した。
少し歩いたところで、真琴がふと優也を見る。
「本当に変わりましたね」
「また慎重になった話?」
「それもありますけど、一人で答えを出そうとしなくなった感じがします。最初の頃は、福山さんの中で分かればそれでいい、みたいなところがあったでしょう?」
優也は歩きながら少し考えた。
確かに、収納を見つけた頃は誰かへ相談する発想自体がなかった。自分の部屋で起きたことで、自分が使う能力なのだから、自分が納得できれば十分だと思っていた。真琴と知り合ってからも、最初の頃は「見せれば分かる」「試せば分かる」と考えていた気がする。
「一人で答え出そうとしてたというより、一人でやるのが普通やったんやと思う。相談する相手がおらんかったし、こんな話できる人もおらんかったからな」
「今は?」
「今は、何かあったら三浦さんに言うやろ。勝手に試して怒られんのも嫌やし」
「最後だけ余計です」
「でも、ほんまにそうやで。一人やったら今でも、適当に試して『なんか変わった』で終わってると思う」
優也が素直に言うと、真琴は少しだけ歩調を緩めた。
「じゃあ責任重大ですね」
「頼むわ」
「任せてください。ただし、止める時は止めます」
「そこはもう分かってる」
短いやり取りのあと、二人は自然に笑った。
駅が近づくにつれ、人通りが増えてくる。魔素や収納について話していると、周囲の誰も知らないことを二人だけが共有している感覚が時折強くなる。けれど今は、それを特別な秘密として抱え込んでいるというより、二人にしか扱えない記録を少しずつ整理しているだけだった。
改札前で別れる時、真琴は次の奈良行きの日程が分かり次第連絡すると言い、優也も「俺の休み分かったら送る」と答えた。
そのまま背を向けかけた真琴が、一度振り返る。
「そういえば、合格祝いありがとうございました。ちゃんと言えてなかった気がして」
「言うてたで。何回も」
「じゃあ、もう一回です」
「大事なことは二回言うんやろ?」
以前自分が送った言葉を返され、優也は吹き出した。
「覚えてたんかい」
「もちろんです」
真琴は笑って手を振り、改札の向こうへ消えていった。
◇
それから数日後。
仕事帰りの電車で座れた優也は、奈良へ行く日程を確認しようとスマートフォンを開き、保存してある画像の一覧を何気なく眺めていた。
仕事の写真、奈良の山、黒い石、真琴がまとめたノートのページ。その中に混じって、一枚だけ雰囲気の違う画像がある。
何年か前に保存した、海外の大型キャンピングカーだった。
優也は昔から、暇な時に車中泊の動画やキャンピングカーの記事を見るのが嫌いではない。いつか時間と金に余裕ができたら、日本中をゆっくり回ってみたいという程度の憧れはあり、軽キャンパーから大型のモーターホームまで、気になったものを眺めては「ええなぁ」と思うだけで終わっていた。
画面の車両は、その中でも明らかに大きい。
高い車体に大径タイヤが何本も並び、箱型の居住部は普通のキャンピングカーというより、小さな家をそのまま載せているように見える。砂漠や雪原のような場所を長期間走るためのエクスペディションビークルらしく、写真の背景まで含めて、日本の日常とは別世界だった。
「こんなん、日本走れへんやろな」
以前保存した時も、たぶん同じことを思った。
ところが今回は、そこで画面を閉じなかった。
奈良へ行くたび、二人分の荷物をまとめ、測定器や記録用具を持ち、レンタカーを借り、現地で確認を終えたら大阪へ戻る。それ自体が大変というほどではないが、今後も奈良以外で同じような反応が見つかる可能性を考えると、移動のたびに準備をやり直すことになる。
もし、道具を積んだままにできて、現地で記録をまとめられ、疲れたらそのまま休める車があればどうだろう。
キッチンがあれば食事もできる。ベッドがあれば宿を探さずに済む。調査道具をまとめて置ける収納があり、長距離を走っても疲れにくい座席があれば、単なる移動手段ではなく拠点として使える。
そこまで考えてから、優也は自分で笑った。
「いやいや、話飛びすぎやろ。まだ奈良しか行ってへんのに」
確かにその通りだった。
魔素反応のある場所が日本中にあると分かったわけでもなければ、調査のために全国を回る予定があるわけでもない。今あるのは奈良の山と、借りている黒い石、それにいくつかの古い金属だけだ。
それでも、一度浮かんだ考えは完全には消えなかった。
優也は画像を閉じる代わりに、関連する記事を一つだけ開いた。
海外の車両は大きすぎて日本ではそのまま扱えないものも多く、値段も現実離れしている。車幅や全長、重量、免許、駐車場所、維持費まで考え始めれば、夢のような話だということはすぐ分かる。
ただ、眺めているだけなら金は掛からない。
「普通のキャンピングカーやったら、もうちょい現実的なんかな」
検索欄へ『大型キャンピングカー 長距離 日本』と入力しかけたところで、真琴からメッセージが届いた。
『宮田さんから連絡がありました。昔の山仕事について話を聞けそうな方がいるそうです。候補日をいくつか確認してもらってます』
優也はキャンピングカーの記事をいったん閉じ、すぐ返信する。
『マジで? 俺の休み分かったら送るわ。合う日でお願いしよか』
『はい。黒い石もその時に返しましょう』
続けてレンタカーや持っていく記録の話を少しだけしてから、真琴から最後に一文届いた。
『今回は調査というより、お返しと話を聞くのが中心ですね』
『分かってる。山には勝手に入らん』
送ると、すぐに笑っているスタンプが返ってきた。
優也は画面を見て笑い、そのままスマートフォンを閉じかけた。しかし、さっき開いていた大型キャンピングカーの記事が履歴に残っているのが目に入り、もう一度だけタップする。
写真の中では、大きな車体が荒れた土地の上に停まり、遠くまで何もない景色の中で、それ自体が一つの小さな生活空間のように見えている。
もし、移動すること自体が面倒ではなくなったら。
もし、道具も生活用品も積んだまま、思い立った時に遠くまで行けたら。
もし、真琴と二人で調査へ行っても、それぞれが無理なく休める場所まで車の中に用意できたら。
考え始めると、条件はいくつも浮かんだ。
ただ寝られるだけでは足りない。長距離を走るなら乗り心地も欲しいし、食事を作れる設備も欲しい。冬の山へ行くなら暖房も必要で、夏なら冷房がなければ厳しい。測定器や試料を安全に置ける場所も必要になる。どうせならシャワーもあった方がいいし、トイレまであれば行動の自由度はかなり上がる。
「……欲張りすぎやな」
声に出してから、自分で笑った。
まだ買うと決めたわけではない。
そもそも、いくらするのかも知らない。
日本でどの程度の大きさまで現実的なのか、運転できるのか、駐車場所をどうするのかも何一つ調べていない。
だから今は、ただの思いつきでしかなかった。
けれど、白い皿が消えた夜も最初は「何やこれ」で終わるはずだったし、奈良へ行くことになった時も、最初から何かを見つけられると確信していたわけではない。興味を持ったから調べ、分からないから一つずつ確かめた結果、今のところまで来ている。
それなら車のことも、興味を持ったなら調べるだけ調べてみればいい。
優也はスマートフォンのメモを開き、深く考えずに思いついた条件を打ち始めた。
『長距離でも疲れにくい』
『二人で寝られる』
『調査道具を積める』
『キッチン』
『トイレ』
『できればシャワー』
そこまで入力して一度止まり、最後にもう一行追加する。
『どうせなら、ちょっと夢あるやつ』
「……何やねん、夢あるやつって」
自分で書いておきながら可笑しくなり、優也は小さく笑った。
電車の窓の外では、見慣れた大阪の街灯や建物が流れていく。日程が合えばまた奈良へ向かい、黒い石を返し、昔の山仕事を知る人の話を聞く。その先に何があるのかはまだ分からないし、何も新しいことが分からず帰ってくる可能性もある。
それでも今は、それでよかった。
分からないなら聞く。必要なら見に行く。面白そうなものがあれば、まずは調べる。
優也は保存したメモを閉じたあと、もう一度だけ大型キャンピングカーの画像を眺めた。
「移動できる家、か……」
その言葉はまだ少し大げさに聞こえた。
けれど完全に冗談として消してしまうには、妙にしっくりきている。
優也は画像を削除せず、そのまま保存したままスマートフォンをポケットへ戻した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
評価・感想も励みになります。




