ep.22 白い皿の向こう側
黒い石の実験を終えてから数日後、福山優也と三浦真琴は、駅近くの小さな貸しスペースで向かい合っていた。
この日は何か新しいことを試すためではない。机の上に広げられているのは、優也が一人で能力を確かめていた頃のスマートフォンのメモを印刷した紙、真琴が加わってから使い始めたノート、奈良で撮った写真、黒い石を収納する前後の測定値を書き込んだ用紙など、ここまで二人が残してきた記録ばかりだった。最初は数枚で済んでいたものが、今では机の半分以上を埋めている。
優也はコンビニで買ってきたコーヒーの蓋を開け、湯気の向こうに並ぶ紙を眺めた。
「こうやって全部出すと、結構あるな。最初なんか、皿一枚消えただけやったのに」
「その『皿一枚消えただけ』が普通じゃないんですけどね。しかも福山さん、その日のうちに何回も出したり消したりしてますし」
真琴は呆れたように言いながらも笑っていて、責めているわけではないらしい。優也も「そら確かめるやろ」と返しかけたものの、今の自分ならもう少し手順を考えるかもしれないと思い直し、肩をすくめるだけにした。
真琴は新しいノートを一冊開き、最初のページを三つに区切った。一つ目には『確認できたこと』、二つ目には『可能性』、最後には『まだ分からないこと』と書く。
「今日は、この三つを混ぜないようにします。何か思いついても、その場で新しい実験はしません。試したくなったら、次回やることの候補に入れるだけです」
「俺に向けて言うてるやろ」
「半分くらいは。でも私も黒い石の結果を見た時、もう一回収納したらどうなるか気になりましたから、今日は二人とも同じルールです」
そこまで言われると優也も反論しづらく、「ほな公平やな」と笑ってコーヒーを一口飲んだ。
最初に整理したのは収納だった。
白い皿をはじめ、座椅子や段ボール箱、容器に入れた水や氷、食品、充電器など、これまで収納できた物は多い。触れている物だけではなく、中身を含めて一つのまとまりとして認識した場合は箱ごと収納できる一方、水そのもののように対象として掴みにくいものは、そのままではうまく収納できなかったこともあった。
さらに、収納した氷がほとんど溶けなかったことや、時間を置いて取り出した食品にも目立った変化がなかったことから、収納先では現実と同じように時間が進んでいない可能性が高い。最近では、収納した物だけでなく、その見えない領域そのものへ鑑定を向けることで、以前なら得られなかった情報まで返ってくるようになっていた。
『収納領域』
『内部時間――停止状態』
『収容物――なし』
真琴はそこまでを書き終えると、ペン先で『確認できたこと』の欄を軽く叩いた。
「『内部時間――停止状態』って表示が出るところまでは事実として残していいと思います。でも、本当に時間そのものが止まっているかは別です。鑑定が福山さんに分かりやすい言葉へ置き換えてる可能性がありますから」
「つまり、氷が溶けへん、食べ物も変わらへん、鑑定では停止状態って出る。そこまでは確かやけど、物理的に時間がゼロです、までは言えへんってことやな」
「はい。それなら後から別の結果が出ても困りません」
優也は頷いた。以前なら表示された言葉をそのまま答えだと思っていたかもしれないが、黒い石に『保持状態』と出た時から、鑑定が返す言葉と現象そのものを同じにしてはいけないと考えるようになっていた。
次に二人は、鑑定について記録を並べ直した。
最初は手で触れた物を「知りたい」と意識した時だけ、材質や状態が何となく分かる程度だった。それが使い続けるうちに情報量が増え、近距離なら触れなくても対象を捉えられることがあり、優也自身や収納領域まで鑑定できるようになっている。
「奈良へ行った辺りから、距離あっても見やすくなってる気はするねんけどな」
「そこは『気がする』のままにしておきましょう。奈良の影響なのか、使い続けて慣れたのか、魔素反応の強い物を見たことで条件が変わったのか、今の記録では分けられません」
「俺自身が、どう見たらええか分かってきただけかもしれんしな。最初の頃なんか、何を聞けばええかも分かってへんかったし」
そう言いながら優也が古い紙を一枚持ち上げると、そこには自分でも笑ってしまうような走り書きで、『物に触れて“知りたい”と思うと情報が分かる?』と書いてあった。
「これ残しといて良かったな。雑すぎるけど」
「むしろ雑だから大事ですよ。その時に本当にどう感じたかが残ってますから。後から知識が増えると、昔の感覚まで今の言葉で説明したくなりますし」
優也は古いメモを裏返しかけ、思い直して元へ戻した。今なら『鑑定』の一言で片づけてしまう感覚も、当時は名前すら付いていなかったのだ。
「最初から『鑑定』って名前が出たわけちゃうもんな。俺が勝手にそう呼び始めただけやし」
「そういう部分も分けておいた方がいいですね。能力の名前なのか、福山さんが理解するための呼び名なのかも、まだ分かってませんから」
真琴は『鑑定』の横へ小さく『便宜上の呼称』と書き足した。優也はそこまで慎重にする必要があるのかと一瞬思ったが、今はむしろ、その慎重さがありがたかった。
そして三つ目として『魔素』と書かれたところで、二人とも自然に姿勢が少しだけ変わった。
収納や鑑定は、正体こそ分からなくても優也の意思で使える。しかし魔素は違う。優也が知らない場所や物からも反応が見つかり、奈良の山では普段より強く感じられた。納屋の床下には複数の反応があり、その中でも黒い石は明らかに強く、触れて鑑定した時には『魔素――保持状態』という、それまでに見たことのない情報まで返ってきた。
「今の段階で言えるのは、『一部の物や場所、それから俺自身にも、鑑定で魔素って表示される反応がある』くらいか」
「それが一番安全だと思います。魔法を動かすエネルギーとか、未知の粒子とか、そういう正体まで決めない方がいいです。名前に引っ張られて、見たいものだけを見るようになるのが一番怖いので」
優也は『魔素』と書かれた文字を眺めた。名前だけなら、どうしてもゲームや小説で見慣れたものを連想する。しかし今扱っているのは、画面の中の設定ではなく、自分の身体や実在する石から鑑定で返ってくる反応だった。
「字だけ見たら、どうしても魔法っぽく考えてまうけどな」
「私も連想はします。でも、そう思うことと、正体まで決めることは分けておきましょう」
真琴はそう答え、黒い石の記録を中央へ寄せた。
奈良の納屋から借りてきた石は、収納前の鑑定で『魔素反応――強』『魔素――保持状態』。それを十秒だけ収納したあとに取り出すと、見た目や重量、表面温度には目立った変化がなかった一方、魔素反応だけが『中程度』へ下がった。
同じタイミングで優也自身を鑑定すると、それまで『極微量』だった反応が一時的に『微量』となり、空にした収納領域にも『魔素反応――微弱』が現れた。優也の反応は約三十分後には『極微量』へ戻ったものの、石の反応は実験を終える時点では『強』へ戻っていない。
真琴が時刻と結果を指で追いながら説明すると、優也は改めてその並びを見つめた。
「やっぱり、石から減った分が収納の中と俺に移ったように見えるな」
「見えます。でも、そこはまだ『可能性』に置きましょう。石の『強』から『中程度』へ減った量と、福山さんの『極微量』から『微量』、収納領域の『微弱』が、同じ物差しで比較できる保証がありません。もしかすると対象ごとに基準が違うかもしれませんし、そもそも表示が量だけを意味していない可能性もあります」
真琴は三つの結果を矢印で結びかけたものの、その線を途中で止めて点線に変えた。関係があるように見えることと、移動を確認できたことは同じではない。その違いを図の上でも残しておきたいらしい。
「数字で出てくれたら楽なんやけどな。強とか微量だけやと、どれくらい差があるんか全然分からへん」
「私も欲しいです。魔素濃度三・二とか、残留量〇・八とか出たら、かなり比較しやすいんですけどね」
優也はしばらく真面目に頷いていたが、ふと机の端に置いた測定器を見て口元を緩めた。
「魔素測定器、ホームセンターで売ってへんかな」
「何売り場に置くんですか、それ」
真顔で返されたため、優也は想像してから吹き出した。
「電気工具の横とか?」
「絶対ないです」
短く笑い合ったあと、二人はまた記録へ戻った。冗談を挟めるくらいには慣れたものの、黒い石で起きた変化を軽く考えているわけではない。むしろ、収納と魔素、優也自身の反応が同じ実験の中で同時に変化したからこそ、これまでより慎重に扱う必要があった。
真琴は新しいページを開き、『今後の確認で守ること』と書いた。
「まず、強い魔素反応を持つ物は、福山さん一人の時には収納しない。これは今まで通りでいいですね。それから魔素反応が変わった場合は、対象だけじゃなく福山さん自身の反応と体調を一定時間確認する。現地へ行く時は所有者や管理者の許可が取れる範囲だけにして、境界の分からない山や古い建物へ勝手に入らない」
「そこは全部ええよ。今回も別に無茶してへんし」
「はい。だから続けるだけです。それともう一つ、予想外の結果が出ても、その場で実験を増やさない。次をやるなら一回記録を整理して、何を確かめたいのか決めてからにしましょう」
優也は最後の項目で少しだけ苦笑したが、反論はしなかった。黒い石を十秒収納した直後、自分も「もう一回なら」と思ったのは事実だったし、真琴が止めなければ時間を変えて試していた可能性は高い。
「なんか、最初と比べたらだいぶ慎重になったな、俺」
「そこは本当にそう思います。前なら『十秒で変わった。じゃあ次は一分』って、その場で続けてた気がします」
優也は反射的に「そこまで無茶せえへん」と言いかけたが、一分なら試したかもしれないと思って口を閉じた。その表情だけで伝わったらしく、真琴が可笑しそうに目を細める。
「……一時間はやらへんで。たぶん」
「一分を否定しない時点で、今日このルールを決めた意味はありましたね」
真琴が笑い、優也も釣られて笑った。以前なら「何で止めんねん」と不満に思っていたかもしれないが、今は手順を決めることが面倒というより、結果を無駄にしないために必要な作業だと分かり始めている。
笑いが収まったところで、真琴は少し声の調子を落とした。
「福山さん、怖くなりました?」
思っていなかった問いに、優也はすぐには答えなかった。紙カップの中に残っていたコーヒーを一口飲み、少し冷めた苦味を感じてから、机に散らばる記録へ目を向ける。
「最初よりはな。皿が消えた時も怖くなかったわけちゃうけど、あの頃は面白い方が勝ってた。収納できる量が増えたとか、鑑定で違う情報が見えたとか、そういうのが単純に楽しかったし。でも奈良で、自分が持ってきたわけでもない石から同じ反応が出て、収納したら俺の方まで変わったやろ。あれ見たら、ほんまに知らんもん触ってるんやなとは思う」
「じゃあ、やめたいですか?」
「それはないな。怖いから全部放っとこ、とは思わへん。むしろ何なんか知りたい。ただ、知らんまま勢いだけで触るのは違うかなって思うようになった」
口に出してみると、自分でも少し意外だった。何かを調べることにここまで時間を掛ける性格ではないと思っていたし、面倒なら途中で飽きると考えていた。それでも収納と鑑定、それに魔素のことだけは、分からないままにしておく方が落ち着かない。
真琴はしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「私も似てます。危険だからやめた方がいい、とは今のところ思ってません。ただ、面白いからこそ雑にしたくないです。せっかく結果が出ても、条件が分からなくなったら何も残らないですから」
「やっぱ三浦さん、こういうの好きなんやな」
問いかけると、真琴は迷わず頷いた。ノートへ向けていた視線にも、さっきまでの慎重さとは別の、純粋な興味が残っている。
「好きですよ。分からないものが少しずつ分かるようになるのは。ただ、医学でも研究でも、面白いから何でも試していいわけじゃないでしょう?」
「まだ医者ちゃうのに、だいぶ先生っぽくなってきたな」
軽くからかったつもりだったが、真琴は急に困った顔をした。
「結果が出るまでは言わないでください。今それ思い出したら、急に緊張してきました」
国家試験の結果発表までは、もうそれほど長くない。優也は少し前の帰り道でその話を聞いていたのを思い出し、「そっちの方が今は大事ちゃうん」と言うと、真琴は困ったように笑った。
「大事ですけど、結果はもう変えられませんから。待ってる間ずっと考えてても仕方ないです。それに、こっちを整理してる方が気が紛れます」
「そらそうか。ほな今日は、魔素に感謝しとく?」
「それは嫌です。変な縁起担ぎしないでください」
二人でまた笑い、重くなりかけた空気が少し和らいだ。
休憩を挟んだあと、今度は試料や記録の呼び方を揃えることにした。透明樹脂の中に錆びた金属片が見えるキーホルダーは『樹脂チャーム試料』、奈良の納屋から借りている黒い石は『奈良黒色石試料』。床下に残った弱い反応については、何が反応しているのか確認できていないため、物として名前を付けず『納屋床下・未確認反応』として位置と写真だけを残す。
そこまで決めたところで、真琴が「福山さん自身の記録はどうします?」と尋ねた。
「俺は俺でええやろ。わざわざ試料みたいな名前付けんでも、誰のことか分かるやん」
「他と揃えるなら『反応媒介体』とか、『被験者A』みたいな書き方もできますけど」
真琴が半分冗談で候補を挙げると、優也は露骨に嫌そうな顔をした。
「どっちも嫌や。急に人間ちゃうみたいやし、普通に『福山本人』でええやろ」
結局、ノートにはそのまま『福山本人』と書かれた。あまりにも素朴な表記に真琴が笑い、優也も「これが一番分かりやすい」と満足する。
呼び名を揃える作業は地味だったが、やってみると意外に意味があった。過去のメモでは同じ金属片を『古い金属』『奈良の欠片』『錆びたやつ』と別々に書いている場所があり、後から読むと同じ物なのか分かりにくい。真琴が日付と試料名を付け直していく横で、優也も自分のスマートフォンに残っていた写真へ同じ名前を付けていった。
「こういうの、俺一人やったら絶対やってへんな」
「でしょうね。福山さんのメモ、『あの黒いやつ』とか平気で書いてますから」
指摘されて該当するメモを見つけると、本当にそのまま書いてある。優也は思わず笑い、言い訳するように紙を指で叩いた。
「その時は分かってん。けど今見たら、どの黒いやつか俺でもちょっと怪しいな」
「だから名前を揃えるんです。一か月後の福山さんでも分かるように」
真琴の指摘が正しすぎて、優也は言い返せなかった。
資料をファイルへまとめながら、優也は何気なく真琴のノートを見る。そこには現象だけでなく、日時、場所、誰が触れたか、体調、測定した順番まで揃っていた。自分一人の頃より明らかに面倒なことは増えているのに、不思議と嫌ではない。
「三浦さんおって助かってるわ。俺だけやったら、たぶん途中から何が何やら分からんようになってた」
何気なく言うと、真琴の手が一瞬だけ止まった。
「……急に素直ですね」
「たまには言うとかな失礼やろ。止めてもらってるだけちゃうし、一緒に見てもらってるから続けられてるとこもあるしな」
優也自身、そこまで言うつもりではなかったが、口に出してみれば本当にそう思っていた。一人で能力を試していた頃も面白かったが、今は何か分かれば真琴へ見せたいと思い、判断に迷えば一度相談しようと思うようになっている。
真琴は少しだけ視線を下げ、それから柔らかく笑った。
「私も、福山さんがちゃんと記録してくれるようになったから続けやすいです。最初の頃の話だけ聞いてたら、たぶんもっと止めてました」
「それ、褒めてるんやんな?」
念のため確認すると、真琴は今度は迷わず「かなり褒めてます」と答えた。優也も素直に「ほな受け取っとくわ」と笑い、二人の間に少しだけ照れくさい沈黙が落ちた。
それでも以前のような気まずさはなく、真琴が次の紙を手に取ると、優也も自然に続きを始めた。残っていた資料を一つずつ片づけながら、二人ともさっきの言葉をわざわざ蒸し返さなかった。
◇
一通りの整理を終えた頃には、貸しスペースの窓の外はすっかり暗くなっていた。
机を元の状態へ戻し、真琴が今日まとめたページをスマートフォンで撮影して優也へ送る。黒い石そのものはこの日は持ち込まず、優也の自宅でケースに入れたまま保管してあるため、帰宅後も追加の鑑定や収納はせず、次に奈良へ行く時に返却する方針も確認した。
建物を出ると、昼間より空気が冷えていた。二人は駅へ向かって歩きながら、次に何を確かめるかを相談する。
「まずは、収納領域に出た『微弱』が時間経ってどうなってるかやな。黒い石使わんでも、空のまま見たら分かるやろ」
「それが一番負担少ないと思います。石については、返す前に外から反応だけ確認して、今どの程度か記録するくらいでいいでしょうね。追加で収納する必要はないです」
二人の意見がそこで一致すると、次に気になるのは奈良側の情報だった。黒い石が床下にあった理由だけではなく、亡くなった家主の父親が山仕事をしていた頃に何を持ち帰っていたのか分かれば、反応の出所を考える材料になるかもしれない。
「奈良行った時に、宮田さんへ昔のこと知ってる人おらんか聞いてみよか。あの家の人が山から石とか道具持って帰ってたって話、もう少し分かったら手掛かりになるかもしれん」
「聞くのは賛成です。ただ、場所が分からなかったら無理に山を探さない。そこは今日決めた通りでお願いします」
念を押され、優也は苦笑しながら頷いた。
「分かってる。山一個掘り返す気はないって」
優也が笑うと、真琴も「それなら安心です」と笑った。
駅前の信号で足を止めたところで、優也はふと、今までの記録の一番最初に置かれていた白い皿の写真を思い出した。
「そういや、最初の皿って今も普通に家で使ってんねんけど、三浦さん見たことなかったよな」
「写真もちゃんとは見てないです。最初のメモに小さく写ってるくらいで」
優也は信号の向こうを見ながら、食器棚に重ねたままになっている白い皿を思い浮かべた。高価でも珍しくもなく、買った場所さえ曖昧な、ごく普通の食器だ。
「ほんま何の変哲もない白い皿やで。たしか数百円やったと思う。でも、それが最初に消えた。今考えても、俺がたまたま手にしてたからなんか、皿じゃなくても同じやったんか、その辺は何も分かってへん」
「だったら、今度は最初の記録と一緒に見てもいいかもしれませんね。何か特別な物だと決めつけず、最初に収納した物という比較対象としてなら意味はありそうです」
真琴の提案に優也も頷いた。今の鑑定なら昔とは違う情報が出るかもしれないと思ったものの、口にする前から「ただし今日は駄目ですよ」と釘を刺され、思わず笑ってしまう。
「分かってるって。今日だけで何回それ言われんねん」
ちょうど信号が青へ変わり、二人はそのまま笑いながら横断歩道を渡った。
白い皿が消えた夜から、優也の周りに起きたことは確実に増えている。それでも最初の出来事が解決したわけではなく、収納がなぜ使えるのかも、鑑定がどこから情報を得ているのかも、魔素が何なのかも分からないままだった。
ただ、以前とは違って、分からないことを一つの大きな塊として抱える必要はない。確認できたことと推測を分け、次に見るものを決め、その結果に合わせてまた考えればいい。今日一日やったのは地味な整理ばかりだったが、優也にはそれが、派手な実験を一回増やすより大事なことのように思えた。
駅の改札前まで来ると、真琴が足を止める。
「今日はここまでにしましょう。家に帰ってから何か思いついても、新しいことは明日以降ですからね」
「信用度上がった言うてたのに、最後まで念押しするやん」
優也が苦笑すると、真琴は「信用してるから言えるんです」と返した。以前より、一度決めたことを守るようになったからこそ念を押せるのだと言われると、少し上から目線に聞こえながらも悪い気はしない。
「ほな三浦さんも、今日は魔素のこと忘れて国家試験の結果待っとき。そろそろやろ?」
今度は真琴の方が露骨に困った顔をした。「今ちょうど考えないようにしてたのに」と恨めしそうに言われ、優也は笑いながら謝る。
「でも、結果出たらちゃんと連絡してや。俺も気になるし」
「……はい。分かったら一番に連絡します」
真琴は少し照れたように笑い、改札の向こうへ歩き出した。優也はその背中が人の流れへ混じるまで見送り、自分も反対側のホームへ向かった。
◇
帰宅して夕食を済ませたあと、優也は駅前で話題にした白い皿が気になり、食器棚の前で足を止めた。奥に重ねてある皿を何枚か持ち上げ、その下から一枚を取り出す。少し厚みのある無地の陶器皿で、縁には使っているうちについた細かな擦り傷があり、特別な店で買った物でもなければ、何か由来のある品でもない。テーブルへ置き、椅子へ腰を下ろして眺めても、やはりただの皿にしか見えなかった。
「これやもんなぁ」
あの夜、優也はただ洗い物をしていただけだった。確かにそこへ置いたはずの皿が見当たらなくなり、流し台の周りや棚の中まで探しても見つからず、自分がどこかへ置いたのだと思い込もうとした。そのあと、戻れと考えた瞬間に何もない場所から現れた出来事を、今なら『収納が起きた』とは説明できる。けれど、それは現象へ名前を付けられるようになっただけで、なぜ自分に起きたのかまで分かったわけではない。
優也は右手を伸ばし、皿の縁へ触れかけたところで止めた。今なら鑑定で以前より多くの情報が返ってくるかもしれず、魔素反応の有無も確認できる。収納へ入れて最初の頃との違いを見たい気持ちも正直なところ少しあったが、今日は新しいことを試さないと二人で決めた日だった。
「……逃げへんしな」
黒い石を持ち帰った夜と同じ言葉が自然に出て、優也は自分で笑った。
皿は明日もここにある。何を見るのか決めてから確かめれば、その方が結果も残しやすい。昔なら考える前に収納していただろうが、今は手を伸ばさずに止まれることを、少しだけ面白く感じた。
代わりにスマートフォンを取り出し、皿の写真を撮る。照明が反射しないよう少し角度を変えてもう一枚撮り、真琴へ送った。
『これが最初の皿』
数十秒ほどして既読が付き、真琴から『本当に普通ですね。でも、こんな普通の皿だったのがなんかいいです』と返ってきた。優也が『何がええねん。期待外れやった?』と送ると、今度は少し間を置いて返信が届く。
『逆です。最初に消えた物が特別な道具じゃなくて、今も普通に食器棚にあるところです』
その言葉を読み、優也はもう一度皿を見た。
確かに、皿そのものは何も変わっていない。収納を使えるようになったあとも特別な光を放つわけではなく、鑑定を覚えたからといって模様が浮かんだわけでもない。時々食事にも使い、洗えばほかの食器と一緒に棚へ戻す。それでも、この一枚が消えたことで優也は、自分の身に起きている異変へ初めて気づいた。
皿が特別だったのか、自分の方に何かが起きた瞬間、たまたま手元にあっただけなのかは分からない。だから今すぐ意味を持たせる必要はないのだろう。
すると、真琴から『今、鑑定しようとしました?』と追加で届いた。図星を刺された優也は思わず笑い、『何で分かんねん。してへんで。触りかけて止めた』とまとめて返す。
『福山さんだから分かります。ちゃんと止めたなら、かなり成長してます』
「誰目線やねん」
声に出して笑いながらも、優也は否定しなかった。以前なら反射的に試していたはずで、自分でも少し変わった自覚はある。
優也は皿を触らないままテーブルの端へ寄せ、今日二人でまとめた写真をスマートフォンで開いた。『確認できたこと』『可能性』『まだ分からないこと』の三つに分けただけで、頭の中は驚くほど整理されて見える。次にやるのは、収納領域に残った『微弱』の反応が時間経過でどうなるかの確認。奈良の黒い石は追加で収納せず、返却前に反応だけを記録し、宮田には昔の納屋や周辺の山について知っている人がいないか尋ねる。白い皿も、最初の記録と何を比較するのかを決めてから改めて見ればいい。
こうして順番に並べれば、どれも今夜急いでする必要はなかった。
そこへ真琴から、『今日は整理できてよかったです。今までは分からないことが増えるたびに次を試してましたけど、これなら少しずつ切り分けられそうです』と届いた。優也も同じことを感じていたため、『俺も。何から見たらええか分かりやすくなったわ』と返し、少し迷ってから『一人やったら絶対ここまでやってへん。ありがとな』と付け加える。
既読が付いたあと、珍しく少し間を置いて、『こちらこそです。福山さんが見つけなかったら、私はこんなものがあることすら知らなかったので。これからも無茶しない範囲で一緒に確認しましょう』と返ってきた。
優也はその文をしばらく眺めた。白い皿が消えた夜、自分以外の誰かとこんな話をすることになるとは思っていなかったし、収納を試していた頃も、鑑定という言葉を使い始めた頃も、基本的には一人で分かればそれでいいと思っていた。けれど今は、何か見つければ真琴へ伝えたいと思うし、結果が変なら一緒に考えればいいと思える。勢いで進みそうな時に止められることも以前ほど鬱陶しく感じなくなっており、それは収納や鑑定が変化したこととは別の、もっと日常に近い変化だった。
少し照れくささを感じながら、『ほな、これからも頼むわ』と送ると、真琴からは『はい。こちらこそ』と返ってきた。そこで優也が国家試験の結果も必ず連絡してほしいと付け加えると、『今いい感じに忘れてたのに! 分かったら連絡します。福山さんは明日仕事なんだから、もう寝てください』と一気に返される。
『はいはい』
そう返した直後、『“はい”は一回です』と届き、優也は「まだそれ言うんか」と笑いながら、『はい』とだけ送り直した。
スマートフォンを伏せると、部屋は急に静かになった。優也はテーブルの白い皿へ目を向け、しばらくしてから両手で持ち上げる。
数百円で買った、ごく普通の陶器の皿。それがどうして最初に消えたのかは今も分からず、収納がどこへつながっているのか、鑑定が何を読み取っているのか、魔素という反応が何なのかにも答えは出ていない。それでも、何も分からなかった頃とは違い、今は確認できたことと分からないことを分け、次に何を確かめるかを決められる。自分一人の思いつきだけで進まず、同じ記録を見ながら考えてくれる相手もいた。
優也は皿を食器棚へ戻し、他の食器と同じように重ねて扉を閉めた。何かの記念品のように特別扱いする必要はなく、少なくとも今夜はそれでいい。台所の照明を落とす前にもう一度だけ棚へ目を向けると、白い皿は扉の向こうに隠れて見えなくなっていたが、あの夜に感じた驚きだけは今でもはっきり覚えている。
「まあ、焦らんと一個ずつやな」
声に出してみると、妙にしっくりきた。明日になればまた道路工事の現場へ行き、誘導灯を持って車や歩行者の流れを見ながら一日仕事をし、終わればいつものように家へ帰ってくる。その日常は白い皿が消える前と大きく変わっていないように見えても、優也の中には次に確かめたいことがいくつも残っている。急ぐ必要はないし、だからといってやめる理由もなかった。
優也はスマートフォンに残した今日の記録が保存されていることだけ確認すると、今度こそ画面を閉じた。食器棚の中では、最初に消えた白い皿が、ほかの皿と重なったまま静かに収まっていた。
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