ep.20 床下に残るもの
次の日曜日、福山優也と三浦真琴は、再び奈良の山へ向かっていた。
前回と違うのは、二人とも「気になるから見に行く」という段階を越え、現地で何を確認し、どこまでなら手を出していいのかを事前に決めていることだった。真琴が選んだ市販の放射線測定器に加え、懐中電灯、予備の電池、長めのメジャー、記録用のノート、スマートフォン用の小さな三脚。優也のバッグには、比較用としていつものキーホルダーと三つの金属部品も入っている。
もっとも、道具が増えたからといって、できることまで増やしたわけではない。点検口が見つかっても床下へ身体を入れず、奥にある物へ無理に手を伸ばさない。放射線測定器が正常値を示しても、それだけで安全だとは判断しない。何か見つけた場合も、その場の許可なく持ち出さない。
前日の夜に二人で決めた内容だったが、榛原へ向かう電車の中でも真琴はノートを開き、確認するように項目を指で追っていた。
「点検口の外から目視して、福山さんの鑑定で反応の位置を確認。何か見つかっても、最初は触らない。土地の境界が曖昧な山側には入らない。ここまで大丈夫ですね?」
「昨日も聞いたし、朝のメッセージでも見たで。さすがに覚えてる」
優也が呆れたように笑うと、真琴はノートから顔を上げた。
「覚えてるかどうかじゃなくて、福山さんが現物を見た瞬間に忘れないかを心配してるんです。今までだって、面白そうな物を見つけると急に行動が早くなるじゃないですか」
「俺、前回ちゃんと止まったやろ。山にも勝手に入らんかったし、納屋でも何も持って帰ってへん」
「そこは評価してますよ。だから今日は最初から一緒に来てるんです」
「なんや、その言い方。まだ信用半分くらいなん?」
真琴は少し考えるように窓の外へ目を向け、それから何でもない顔で答えた。
「半分よりは上です」
「微妙やなぁ」
思わず漏れた優也の声に、真琴が肩を揺らして笑う。以前なら、魔素について話し始めれば実験条件や危険性の確認だけで会話が終わっていたはずなのに、最近はこんなやり取りが自然に挟まるようになっていた。
榛原で前回と同じレンタカーを借り、山間部へ入っていく。路肩にはところどころ雪が残っていたものの、この一週間で気温が上がったためか白い場所はかなり減っている。陽の当たる斜面では土が見え始め、杉林の間から差し込む冬の日差しにも、前回ほど刺すような冷たさはなかった。
道幅が狭くなったところで優也が速度を落とすと、助手席の真琴が窓の外を眺めながら口を開いた。
「今日、早く終わったら寄り道できます?」
「調査が長引かんかったらな。前みたいに温泉でもええし、何か食べて帰ってもええやろ」
「普通の旅行はいつですか?」
「それは魔素関係ない日に行くんちゃうん?」
何気なく答えたつもりだったが、真琴がこちらを向いた気配がした。
「覚えてたんですね」
「そら覚えてるわ。三浦さんが言うたんやん。今度は調査じゃなくて普通にどっか行きたいって」
「福山さん、こういうこと意外と覚えてますよね」
「意外とは余計やろ」
優也は前方のカーブへ視線を戻した。ほんの少しだけ気恥ずかしくなったのを誤魔化すようにハンドルを切ると、隣から小さく笑う声が聞こえた。
◇
前回と同じ空き地には、すでに宮田の軽トラックが停まっていた。
二人が車を降りるのを見つけると、宮田は軍手を片手にはめながら歩いてくる。
「お、来た来た。今日は床のとこやったな」
「すみません、またお願いします」
「ええよ。親族さんにも昨日もう一回確認しといた。点検口を開けて中を見るくらいなら構わんって。ただ、下に何かあって持って帰りたい時は、その場で一回連絡してくれって話や」
優也が頭を下げると、真琴も隣で丁寧に礼を言った。
続いて宮田は納屋の裏手にある斜面を指差した。
「山側の境界も聞いてみたけどな、やっぱりややこしいわ。石垣から少し上まではここの土地らしいけど、杉林へ入った辺りから何筆か混じっとるらしい。昔の山やから、現地見てもどこから誰の土地か分からんって」
真琴は斜面を一度見上げただけで、すぐに首を横へ振った。
「それなら今日は山へ入らない方がいいですね。反応があるとしても、まず納屋の方を確認した方がいいと思います」
「俺もそれでええよ。土地の話までややこしくしたないし」
優也が素直に答えると、宮田が少し意外そうな顔をしたあと笑った。
「前より聞き分け良うなっとるな」
「俺、最初からそんな勝手なことしてませんよ」
「そうやったか?」
「そうですよ」
すかさず真琴が横から「今日は信用度高めです」と付け足したため、優也は二人を見比べてから「なんで俺だけ採点されてんねん」とぼやいた。
軽く笑い合ったところで、三人は納屋へ向かった。
入口の手前で優也は一度立ち止まり、自分自身へ鑑定を使う。意識を身体へ向けると、ほどなく見慣れた情報が浮かんだ。
『魔素反応――極微量』
「基準は極微量。体調も特に変化なし」
真琴が時刻を確認しながらノートへ書き込む。
「十時五十二分。放射線の方も今のところ普段と変わらない範囲です。ただし、これが正常だから中も安全、とは考えませんからね」
「分かってるって」
「今日は返事が早いですね」
「何回言われたと思ってんねん」
優也は苦笑しながら納屋へ入った。
前回もっとも強い反応を感じた奥へ進むにつれ、意識して鑑定を使わなくても、頭の奥へ薄い引っ掛かりが生まれてくる。キーホルダーのように一つの物体からはっきり感じられるものではなく、床の下から周囲へ滲み出しているような曖昧な感覚で、立つ位置を半歩変えるだけでも強さが僅かに違った。
「やっぱり残ってるな。場所も前回とほぼ同じやと思う」
真琴はスマートフォンに残していた前回の写真を確認し、床板の継ぎ目や柱の位置と見比べる。
「強くなったとか、弱くなったとかは分かります?」
「そこまでは無理やな。前回はちゃんと基準を決めて比べてへんし、俺の感じ方自体が変わってる可能性もある。今は『同じ辺りから反応する』くらいにしといた方がええと思う」
優也がそう答えると、真琴は一瞬だけ顔を上げた。
「……福山さん、ほんとに慎重になりましたね」
「なんや。不満なん?」
「逆です。ちょっと驚いただけです」
「失礼やな」
そんな二人の横で、宮田が壁際に置かれていた古い木箱へ手を掛けた。
「前に言うてた点検口、たぶんこの下やと思うで。昔ここ直した時に、床下見れるように残したって聞いた覚えがある」
三人で木箱を動かすと、その下から周囲とは違う四角い切れ目の入った床板が現れた。四十センチ四方ほどだろうか。錆びた取っ手が付いているものの、板そのものは周囲よりわずかに新しく、後から作られた部分だと分かる。
「ほんまにあったな……」
優也がしゃがみ込む横で、真琴は先に放射線測定器を近づけ、表示をしばらく確認した。
「この位置では大きな変化なしです。福山さんはまだ開けないでくださいね」
「俺、触ってへんやん」
「先に言っておきました」
宮田が笑いながら軍手を両手にはめた。
「俺がやるわ。固かったら無理せんけど、これくらいなら開くやろ」
錆びた取っ手へ力を掛けると、最初こそ床板が僅かに抵抗したものの、やがて乾いた軋みを立てながらゆっくり持ち上がった。その下から現れたのは、懐中電灯の光も届かない暗い穴だった。
誰からともなく、三人とも一歩下がる。
「すぐ顔近づけん方がええな。しばらく開けとこ」
宮田の言葉に二人も頷き、納屋の入口と窓を開けて空気が動くのを待った。古い建物の床下に何が溜まっているか分からない以上、魔素以前の問題でも無理をする必要はない。
数分後、宮田が長い懐中電灯を点検口の縁へ置き、中へ光を向けた。
床下は想像していたほど深くなかった。地面までは六十センチほどで、乾いた土の上に小さな石や木片、錆びた金属片が散らばっている。奥には古い石積みの基礎らしい部分も見え、長い年月の間に落ちたのか、板切れや釘のような物も混じっていた。
「写真撮りますね。宮田さん、ライトそのままでお願いします」
真琴が点検口の外からスマートフォンを差し出し、身体を乗り出さない範囲で何枚か撮影する。広角で全体を一枚、奥の石積みを一枚、右側と左側をそれぞれ一枚。撮った画像をその場で確認してから、今度は優也へ視線を向けた。
「福山さんはどうです?」
「ちょっと待って。何があるか分からんから、一個ずつ探す」
穴へ手を伸ばすことはせず、点検口から一歩下がった位置で床下へ意識を向ける。
最初に返ってきたのは、土、木材、鉄、石といった雑多な情報だった。対象が一つではないため、普段の鑑定と違って輪郭が重なり合い、頭の中でいくつもの声が同時に聞こえるような分かりにくさがある。
優也は一度目を閉じ、材質を知ろうとする意識を切った。
今知りたいのは、そこではない。
魔素反応だけに意識を絞り、床下全体をゆっくり探っていくと、ぼんやりと広がっていた感覚の中に、強弱の違ういくつかの点が浮かび始めた。
「……複数ある」
声の調子が変わったのを感じたのか、真琴がすぐノートへペンを置いた。
「数まで分かります?」
「はっきり『六個』とかは無理やけど、五つか六つくらいやと思う。点検口のすぐ下に二つ。奥の石積み辺りにも何個かある。それと……右の奥。そこだけ明らかに強い」
優也は床の上から方向を伝え、宮田が懐中電灯をゆっくり右へ振った。
光が土の上を滑り、小さな木片と錆びた釘を越えたところで、一つの黒っぽい物体を照らし出す。
拳より少し小さな石だった。
丸みを帯びた黒灰色の表面には細い灰色の筋が走っているが、宝石のように光るわけでも、特徴的な形をしているわけでもない。山道の脇に転がっていれば、誰も足を止めないような石にしか見えなかった。
「たぶん、あれや」
「……石ですよね?」
真琴も写真を拡大して確認する。
「見た目はな。けど、反応はキーホルダーより分かりやすい」
「放射線を確認します。直接近づけられる範囲までで止めますね」
測定器を点検口の縁へ近づけ、しばらく表示を見ても大きな変化はない。少なくとも今使っている市販機器で拾える範囲の放射線が、その石だけから強く出ている様子はなかった。
「じゃあ、離れたまま一度鑑定してみる」
「無理に深く見ようとしないでください。分からなかったら、分からないで止めましょう」
「了解」
黒い石だけを対象にするつもりで意識を絞る。
距離があり、一部は土へ埋まっているため、最初は情報がうまく形にならない。優也は呼吸を整え、普段物を鑑定するときと同じように余計な力を抜いた。
数秒して、ようやく断片的な情報が浮かぶ。
『岩石――』
続いて、
『主成分――珪酸塩系』
『複数鉱物混在』
そこまでは、ごく普通の石として説明できる内容だった。
しかし、その情報の奥から重なるように、これまでよりはっきりした感覚が現れる。
『魔素反応――強』
優也は思わず息を止めた。
「……強や」
「中程度じゃなくて?」
「うん。『強』って出た。離れてこれやから、キーホルダーよりずっと分かりやすい」
真琴の表情から笑みが消えた。
「一回切ってください。体調は?」
「何ともない。頭痛もないし、気分も悪くない」
「じゃあ今は石だけで止めましょう。自分自身の反応を見るのは、ここを出てからでもできます」
以前なら「せっかくだから」と続けていたかもしれないが、優也は素直に鑑定を切った。何も起きていない時ほど、確認する順番を守った方がいい。自分でもそう考えられる程度には、これまでの経験が積み重なっていた。
宮田は二人の会話を聞きながら、床下の石と優也を交互に見る。
「そんな珍しい石なんか?」
「まだ何とも言えないです。見た目も、福山さんが見えてる普通の材質の情報も、そこまで変わった物じゃないみたいなんですけど……」
真琴が言葉を選びながら説明すると、宮田は「よう分からんなあ」と笑った。
「俺にも分かってませんよ。だから調べてるんです」
優也も笑ってから、今度は黒い石そのものではなく、その周囲へ意識を広げてみる。
先ほど感じた通り、石の近くには弱い反応が二つほどあり、奥の石積み付近にも似たものが残っている。ただ、どれも黒い石ほど強くない。それ以上に気になったのは、黒い石の反応だけが、物体の輪郭へ綺麗に収まっていないことだった。
「三浦さん、これ……前のキーホルダーとは少し違うかもしれん」
真琴がすぐ近くへ寄ってくる。
「どう違います?」
「うまく言えへんけど、キーホルダーとか金属片は『その物に付いてる』って感じやったやろ。この石は中にもある感じがするけど、周りの土にも薄く広がってる。石だけで反応が終わってへんように感じる」
「石から出てる?」
「そこまでは分からん。逆に周りから石へ入った可能性もあるし、元から両方にあるだけかもしれん。ただ、表面に何かがちょっと付着してるだけ、って感じではないな」
真琴はそのまま断定せず、優也の言葉をほぼそのままノートへ残した。
「『石内部に強い反応。周辺土壌にも弱い反応。因果関係不明』くらいにしておきます」
「それがええと思う」
「……ちゃんと研究っぽくなってきましたね」
「最初から研究してたつもりやけど?」
「最初は福山さんが面白がって物を消してただけです」
「言い方」
優也が苦笑する一方で、真琴は点検口の写真をもう一枚撮り、黒い石の位置が分かるように画像へ印を付けた。
「宮田さん。この黒い石だけ、一時的に借りることってできますか? 持ち出せないなら、ここでできる範囲だけ調べて終わりにします」
「一個だけでええんか?」
「はい。他の物まで動かすと、元の位置も分からなくなりますし」
「ほんなら聞いてみるわ」
宮田は納屋の外へ出て、親族へ電話を掛けに行った。
残された二人は点検口から離れ、入口近くへ移動する。
真琴はノートを見返したあと、隣に立つ優也の顔を覗き込んだ。
「触りたいでしょ」
「めっちゃ触りたい」
即答すると、真琴が吹き出した。
「そこは迷わないんですね」
「そら触ったら、もっと詳しく鑑定できるかもしれんし。収納に入れたらどうなるかも気になるしな」
「許可が出ても、ここでは収納しませんよ。持ち帰るなら条件を決めて、変化を確認できる状態でやります」
「分かってるって。今日は石の状態を見るだけにする」
真琴は少しだけ目を細めた。
「ほんとに?」
「ほんまに。石は逃げへんし、わざわざ奈良の古い納屋で慌てて実験する意味ないやろ」
「……信用度、七割くらいまで上げてもいいかもしれません」
「さっき半分より上って言うてたやん。上がるの早ない?」
「良い行動は評価します」
「誰目線やねん」
二人で笑っているところへ、宮田が戻ってきた。
「ええって。石一個くらいなら調べるために持って帰っても構わんらしい。ただし、もしとんでもなく高い物やったら教えてくれって言うてるわ」
「それはもちろんです。勝手に処分したりもしません」
優也が答えると、宮田は頷き、納屋の隅に置かれていた長い火ばさみを持ってきた。
「ほな俺が取るわ。二人とも下に手ぇ入れん方がええやろ」
点検口から身を乗り出さないよう注意しながら火ばさみを伸ばし、土に半分埋まっていた黒い石をゆっくりつまみ上げる。
石が持ち上がった瞬間、優也には先ほどまで床下に広がっていた反応の中心が一緒に動いたことがはっきり分かった。
「……やっぱり中心は石やな」
「位置が変わっても反応が付いてきてる?」
「うん。少なくとも、さっき強かった反応はこれについて動いてる」
宮田は石を直接床へ置かず、用意していた古い金属トレーの上へそっと載せた。
改めて見ると、大きさは七センチほど。見た目通り極端に重そうでも軽そうでもなく、黒灰色の表面には先ほど見えた灰色の筋のほか、所々に薄い茶色の斑点も混じっている。
「ほんま普通の石やな」
「ですよね」
真琴もしゃがみ込むが、すぐには近づかず、最初に放射線測定器を石の周辺へゆっくり近づけた。数十秒ほど表示を確認してから、距離を少し変えてもう一度測る。
「今のところ大きな変化はありません。少なくとも、この測定器で分かる範囲では異常な放射線は出てなさそうです。ただ、それ以外が安全だという意味ではないので、直接触るなら手袋を使いましょう」
「了解」
優也は使い捨て手袋をはめた。
それでもすぐには手を伸ばさず、石から三十センチほど離れた位置で一度鑑定する。
『岩石』
『珪酸塩系鉱物――複合』
『魔素反応――強』
「離れてても同じやな」
「じゃあ、触れた時に情報が増えるかだけ確認しましょう。変な感覚がしたらすぐ離してください」
優也は頷き、右手の指先を石へ触れた。
何かが流れ込んでくるような衝撃はなかった。熱くも冷たくもなく、痺れも痛みもない。手袋越しに伝わる感触も、ごつごつとした普通の石そのものだった。
ところが鑑定へ意識を向けた瞬間、それまで距離越しに見えていた情報の輪郭が一気にはっきりする。
『岩石』
『珪酸塩系鉱物――複合』
『形成時期――推定不能』
『魔素反応――強』
さらに、その下に何かが続こうとしていた。
優也は眉を寄せた。
「……まだある」
真琴は慌てて覗き込まず、その場から尋ねる。
「何が見えてます?」
「分からん。文字になりそうやけど、今まで出たことない感じやな」
「無理に追わないでください」
「追ってへん。むしろ、こっちから見に行かんでも出てきそうな……」
言いながら少し力を抜いた。
情報を掴もうとするのではなく、浮かんでくるのを待つ。
すると、曖昧だった輪郭がゆっくり形を結んだ。
『魔素――保持状態』
「……保持?」
優也は思わず声に出した。
「何て?」
「『魔素――保持状態』って出てる」
真琴はすぐには答えず、まずその言葉をノートへ書いた。それからペン先を止め、少し考えてから優也を見る。
「普通に読むなら、石そのものが魔素という意味じゃなくて、石が魔素を持ってるように見えますね」
「俺も最初にそう思った。でも、鑑定の言葉って俺の理解に合わせて出てる可能性あるやろ。『保持』って出たから、物理的に何かを溜め込んでるとは限らへん」
「そうですね。福山さんが『石の中に魔素があるのか』って意識して見てるから、そのイメージに近い言葉になった可能性もある」
「せやから、今分かるんは『強い反応の石に、保持状態って表示が増えた』までやな」
自分からそう整理した優也を見て、真琴が少しだけ笑った。
「八割」
「何が?」
「信用度です」
「急に一割増えたな」
「今の発言は高得点です」
宮田が横で「何の点数や」と笑ったため、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
優也は石から手を離し、手袋を外して袋へ入れる。身体に何か変化がないか自分でも感覚を確かめたが、頭痛も吐き気もなく、手の痺れや異常な熱っぽさもなかった。
「今のうちに自分も鑑定する?」
そう尋ねると、真琴は少し考えてから首を横へ振った。
「ここではやめましょう。福山さん自身の反応が上がっていたとしても、この納屋に入った影響なのか、石の近くにいたからなのか、触ったからなのか分けられません。外へ出て、最初に測った場所と同じところで一回だけ確認した方が比較しやすいです」
「なるほどな。それでいこか」
続いて優也は、石を取り除いた床下へもう一度だけ意識を向けた。
強い反応の中心はなくなっていたが、点検口の下や奥の石積み付近には、まだ弱い引っ掛かりがいくつか残っている。黒い石一つですべて説明できるわけではなさそうだった。
「石取っても、床下の反応はゼロになってへん。弱いのが何個か残ってる」
「じゃあ、あの石だけが原因ではない?」
「少なくとも、全部ではないな。似た石が奥にあるんか、土や金属に何か残ってるんかは分からんけど」
「今日は動かさない方がいいですね」
「うん。位置まで分からんようになったら比較できへんしな」
二人は床下の状態を最後にもう一度撮影し、黒い石があった位置も記録した。宮田にも確認してもらいながら点検口を閉じ、木箱を元の場所へ戻す。
借りた黒い石は直接ほかの荷物と触れないよう袋を二重にし、そのうえで透明な樹脂ケースへ入れた。ケースの側面には真琴が用意した紙を貼り、『奈良・納屋床下/借用品』と日付を書き込む。
「なんか急に証拠品みたいになったな」
「どこで何を見つけたか分からなくなったら困るじゃないですか。借り物なのも忘れちゃ駄目ですし」
「忘れへんよ。さすがに」
「福山さん、面白くなったら返すの惜しくなりそうだから」
「俺を何やと思ってんねん」
言いながらケースをバッグへ入れようとしたところで、真琴が手を伸ばして止めた。
「まだです。外で福山さん自身を確認してからにしましょう。バッグに入れると、近くに石がある状態で鑑定することになるので」
「おお……そこまで考えるんか」
「条件を一つずつ減らした方が、あとで見返しやすいですから」
優也は素直にケースを宮田から借りたトレーの上へ戻した。
◇
納屋を出た三人は、最初に優也自身を確認した入口前の場所まで戻った。
山から吹き下ろす風は冷たかったが、閉じた納屋の中にいたせいか、外の空気が妙に気持ちよく感じられる。優也は一度深く息を吸い、体調に変化がないことを確認してから自分自身へ鑑定を使った。
『魔素反応――微量』
朝ではなく、納屋へ入る直前に確認した時は『極微量』だった。
「微量まで上がってる」
真琴がすぐ時刻を書き留める。
「前回も調査のあとは微量でしたよね。ただ今回は、前回と違って石へ直接触れています」
「せやな。納屋に長くおったから上がったんか、黒い石の近くにいたからか、触った影響なんか、それとも全部関係あるんか……今は分けられへんな」
「体調は?」
「普通。何ともない」
「なら、今日はこれ以上確認しなくていいと思います。帰宅後も鑑定はして構わないですけど、収納へ入れたり、石へ何度も触ったりするのは無しで」
優也はバッグへ入れる前のケースを見た。
ほんの少し前まで納屋の床下に埋もれ、誰にも気づかれず転がっていた石である。見た目だけなら今でも何の変哲もない。それなのに、自分の鑑定ではキーホルダーや金属片よりはっきりした『魔素反応――強』が出て、触れれば『魔素――保持状態』という今までになかった情報まで現れた。
「福山さん」
「ん?」
「今、『収納に一秒だけなら』とか考えてませんでした?」
「……いや?」
「間がありましたけど」
「ちょっとは考えた」
「やっぱり」
真琴は呆れたように息を吐いたが、怒っているわけではなく、むしろ予想どおりだったと言いたげだった。
「収納で何が起きるかは私も気になります。でも、だからこそ条件を決めてからやりましょう。金属片の時みたいに魔素反応が弱くなるのか、逆に何か変わるのかも分からないですし、今回は借り物です。変化させて戻せなくなったら困ります」
「分かってる。今日は何もせえへんよ」
「帰ってからもですよ」
「はいはい」
「『はい』は一回」
「先生か」
優也が笑うと、真琴も堪えきれず笑った。
宮田に改めて礼を言い、石を返す時には必ず連絡すると約束してから、二人は車へ戻った。
エンジンを掛けても、すぐには出発しなかった。
優也は暖房が効き始めるのを待ちながら、助手席に置いたバッグを見る。黒い石はケースごと中へ収めてあり、外からはもう見えない。それでも、意識を向ければ弱く位置が分かるような気がした。
試しに鑑定しようとして、やめる。
「どうしました?」
「いや。今、バッグ越しでも分かるか試そうかと思ったけど、それも帰ってからでええかなって」
真琴は驚いたように目を瞬かせた。
「ほんとに福山さんですか?」
「失礼すぎるやろ」
「だって自分から止めましたよ」
「俺かて学習するっちゅうねん。それに、せっかく記録取ってんのに、帰るまでに色々試したら何が原因か分からんようになるやろ」
「……九割にしようかな」
「信用度?」
「はい」
「残り一割何なん?」
真琴はシートベルトを締めながら、少しだけ考える。
「福山さんが一人になった時です」
「信用なさすぎやろ」
「そこが一番危ないので」
「否定しにくいの腹立つな」
車内に笑い声が広がり、優也はようやく車を発進させた。
山道を下り始めてしばらくすると、緊張がほどけたのか二人とも急に空腹を感じた。朝から調査を優先していたため、時刻はすでに昼を大きく回っている。
「温泉どうする?」
優也が尋ねると、真琴は少し迷ったあとバッグの方を見た。
「今日はやめません? 借り物を車に置いたまま長く離れるのも嫌ですし、持って入るのも変です」
「俺も同じこと思ってた。飯だけ食うて帰ろか」
「賛成です。温泉は普通の旅行の日に取っておきます」
「またそこへ戻るんやな」
「大事なので」
結局、途中の道の駅へ車を停め、遅めの昼食を取ることになった。
店内の端にある二人掛けの席へ座り、優也は温かい蕎麦、真琴は定食を選んだ。目の前に食事が運ばれてくると、それまで魔素と石でいっぱいだった頭がようやく日常へ戻ってくる。
「こういう時に普通に飯食うてると、さっきまでの話が急に変に思えるな」
優也が蕎麦の湯気越しに言うと、真琴は箸を止めて笑った。
「床下の石から未知の反応が出ました、って話ですからね。普通に聞いたらだいぶ怪しいです」
「それ調べてる二人が道の駅で飯食ってんねんもんな」
「でも、そのくらいでいいんじゃないですか。何か見つけるたびに大事件みたいになってたら、福山さん絶対疲れますよ」
「三浦さんもやろ」
「私は今のところ面白い方が勝ってます」
「俺もや」
二人とも同じ答えだったことがおかしく、また笑った。
食事をしながら、今日分かったことを一つずつ確認した。
床下には複数の魔素反応があり、そのうち一つは黒い石と一緒に移動した。黒い石からは『魔素反応――強』が確認され、触れて鑑定すると『魔素――保持状態』という新しい表示が出た。一方で、石を取り除いても床下の反応は完全には消えず、弱い反応がいくつか残っている。
そして優也自身は、納屋へ入る前の『極微量』から、調査後には『微量』へ変化していた。
「並べると、結構増えたな」
「増えましたね。でも答えはほとんど増えてません」
「手掛かりが増えた分、疑問も増えた感じやな」
「石が魔素を保持しているとして、どうして保持してるのか。どこから来たのか。床下の他の反応は同じ物なのか。それに福山さんの反応が上がる理由もまだ分かりません」
「収納もあるしな」
「それは次です」
優也が少し笑う。
「三浦さんも、やりたいんやろ?」
「……やりたいですよ」
真琴は否定せず、湯飲みに手を伸ばした。
「強い魔素反応を持った物を収納へ入れた時、金属片と同じように反応が弱くなるのかは確認したいです。それに、福山さんが収納の中で魔素をどう感じるのかも気になります。ただし、最初は短時間。入れる前と出した後の状態を記録して、福山さん自身も確認する。それくらいは最低限やりたいです」
「十秒くらい?」
「時間は帰ってから決めましょう。今日は決めても実行しません」
「分かってるって」
「念押しです」
言葉では呆れながらも、真琴の表情には隠しきれない好奇心が浮かんでいる。
優也はそれを見て、少し前まで自分一人で試していた頃との違いを改めて感じた。
白い皿が消えた時は、何が起きたのか知りたいというより、ただ信じられない出来事に興奮していた。収納できる物が増えれば面白くなり、鑑定で新しい情報が見えれば次を試したくなる。それだけでも十分だった。
今も面白いことに変わりはない。
ただ、黒い石を前にして考えているのは「何ができるか」だけではなくなっていた。
どうして魔素という表示が出るのか。なぜ奈良の山で反応が強くなるのか。収納と魔素の間にどんな関係があるのか。そして、その中で自分自身は何に触れ、何が変わり始めているのか。
分からないから試すのではなく、分からないものを少しずつ切り分けていく。そのやり方を、優也自身もいつの間にか面白いと思い始めていた。
「なんか俺、研究とか絶対向いてへんと思ってたけど、こういうのは意外と嫌いやないな」
ぽつりと口にすると、真琴が少し首を傾げた。
「福山さん、元々そういうところありますよ。気になったらずっと調べるし、試した結果も結構覚えてますし。ただ、順番を飛ばすだけで」
「最後いらんかったやろ」
「一番大事なところです」
優也は笑いながら残っていた蕎麦を口へ運んだ。
◇
大阪へ戻る頃には、外はすっかり夕方の色へ変わっていた。
レンタカーを返し、駅で真琴と別れる前に、二人はもう一度だけ確認した。今日は黒い石を収納しない。必要以上に触らず、帰宅後はケースに入れたまま保管する。優也自身については、体調に変化がなければ翌朝一度だけ魔素反応を確認する。
「次に試す日、また連絡します。私も今日の記録まとめておきますね」
「分かった。俺も家帰ったら、忘れんうちに今日感じたこと書いとく」
「収納は?」
「せえへん」
「石に直接触るのは?」
「せえへん」
「ちょっとだけなら?」
「せえへんって」
そこまで答えてから、優也は笑った。
「どこまで疑ってんねん」
「最後の確認です。福山さん、『一秒だけなら実験じゃない』とか言い出しそうなので」
「そこまで屁理屈言わへんわ」
「なら安心です」
真琴も笑い、改札へ向かう前に一度振り返った。
「じゃあ、また連絡します」
「うん。今日はありがとな」
「こちらこそ。面白かったです」
それだけ言って手を振ると、人の流れの中へ消えていった。
優也は少しの間その背中を見送り、それから自分も帰路についた。
家へ着くと、最初に黒い石の入ったケースをバッグから取り出した。置き場所を少し考え、直射日光も暖房も当たらない棚の上へ置く。
透明な樹脂越しに見る石は、奈良の納屋で見た時と何も変わらない。
七センチほどの黒っぽい石。
灰色の筋と、薄い茶色の斑点。
それだけなら、やはりどこにでもありそうに見える。
収納へ入れてみたいという気持ちは、もちろん消えていなかった。むしろ家まで持ち帰ったことで、手を伸ばせばすぐ試せる状態になっている。
優也はケースの前で腕を組み、しばらく石を眺めた。
「……逃げへんしな」
誰に言うでもなく呟く。
明日になっても石はそこにある。急いで試したところで、分からないことが一気に分かるわけでもない。今日だけでも、床下の複数の反応と黒い石、『魔素――保持状態』という新しい情報まで手に入った。
それで十分だった。
優也はケースへ手を伸ばさず、代わりにスマートフォンを取り出した。今日の時刻と自分の反応、石に触れた時に感じたことを忘れないうちに書き残していく。
しばらくすると、真琴からメッセージが届いた。
『帰りました。体調どうですか?』
『普通。石もちゃんとケースのまま』
数秒後、すぐ返信が来る。
『えらいです』
『子供扱いすんな』
『収納してないですよね?』
『してへん』
『触ってない?』
『触ってへん』
『ほんとに?』
優也は画面を見ながら苦笑し、その場で棚の写真を撮って送った。
『証拠』
透明なケースの中には、持ち帰ったままの黒い石が収まっている。
しばらくして、
『合格です』
と返ってきた。
「何の試験やねん」
口ではそう言いながら、優也は笑っていた。
スマートフォンをテーブルへ置き、棚の上の石へもう一度視線を向ける。
最初に白い皿が消えた時、自分に起きたことの理由まで考える余裕はなかった。ただ物が消え、戻せる。それだけで十分に現実離れしていて、能力を試すことそのものが面白かった。
けれど今は、その奥にあるものが気になっている。
収納とは何なのか。
鑑定は何を見ているのか。
魔素とは何なのか。
そして、奈良の山と自分の力の間に、本当に何か繋がりがあるのか。
答えはまだ一つも出ていない。
それでも、何も掴めなかった頃とは違う。
棚の上には、借り物とはいえ、はっきりと『魔素反応――強』を示す物がある。
優也はそれを見ながらコーヒーを一口飲み、今度こそ石から視線を外した。
「今日は、ここまでやな」
急いで答えを出さなくてもいい。
次に試す時は、何を見るのかを決めてからやればいい。
そう考えられたこと自体が、以前の自分とは少し違っていた。
黒い石は何も語らず、透明なケースの中で静かにそこにあり続けていた。
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