ep.135 知っていても言わない
翌週の土曜日、優也がガレージへ着いたのは九時を少し回った頃だった。前夜の雨は上がり、薄い雲の向こうから春らしい光が差している。いつもなら自分のほうが先に来ている時間なので、鍵を開けながら今日のコーヒーをどうしようか考えていたが、側面玄関を開いた瞬間、車内の照明がすでに柔らかく点いていることに気づいた。
〈おはようございます、優也〉
「おはよう……って、真琴もう来てる?」
〈はい。真琴は八時四十七分に入室しています〉
その返事とほぼ同時に、リビング側から足音が聞こえた。真琴は薄いグレーのカーディガン姿で、手には自分のスマートフォンを持っている。赤茶色の革キーホルダーが付いたバッグはいつもの位置へ置かれており、どうやらしばらく前からACROSSの中で何かしていたらしい。
「おはようございます。今日は私のほうが早かったですね」
「珍しいな。何してたん?」
優也が何気なく聞くと、真琴は少しだけ口元を緩めた。言いたくないというより、自分のタイミングで後から伝えたいことがあるらしく、その表情には隠し事を抱えている重さはなかった。
「まだ内緒です」
「内緒?」
「はい。あとで言います」
優也は面白そうに眉を上げた。そこまで言われれば無理に聞く気もなく、上着を脱いでいつもの席へ向かう。コーヒーを淹れようとキッチンへ立ったところで、ふと思いついてACROSSへ声を掛けた。
「ACROSS、真琴何してたん?」
軽い冗談のつもりだったが、返ってきた声はいつもより少し慎重だった。ACROSSにとっても、知っているから答えるという単純な扱いでは足りない場面だと判断したらしい。
〈真琴が単独で行った利用内容のうち、優也への共有許可が確認されていない情報については回答しません〉
優也は動きを止め、思わず真琴を見る。真琴も少し驚いたようだったが、すぐに小さく笑った。自分が特別に秘密設定を頼んだわけではないのに、個人利用として扱われていたことが意外だったようだ。
「ちゃんと黙ってくれるんですね」
「おお……秘密守れるようになったんやな」
〈現在、車両運用や安全に直接必要な共有情報と、個人が単独で利用した情報を分離して扱っています。ただし、共有範囲についてはまだ運用条件が十分ではありません〉
「なるほどな。まあ俺が聞いたからって、真琴のこと全部答えられても困るか」
優也はそれ以上聞かず、二人分のコーヒーを用意した。ACROSSが知っていることと、自分が聞いていいことは同じではない。その違いは当たり前のようで、これまで二人とも深く考えたことがなかった。
◇
コーヒーを飲み始めて少しすると、真琴がスマートフォンをテーブルへ置いた。何かを決めたように優也を見る。朝から自分の中だけで考えていたことを、ここからは二人の予定として渡すつもりらしい。
「優也さん。今日は、私が行きたい場所を決めてもいいですか?」
「もちろん。さっきの内緒それ?」
「はい。ちょっと調べてました」
真琴が見せた画面には、川沿いにある小さな複合施設が表示されていた。古い倉庫を改装した建物の中に自家焙煎のコーヒー店と小さな書店、植物を扱う温室風の売り場が入り、外には川を眺められる遊歩道もあるらしい。大型車用の駐車区画は建物から少し離れた場所にあり、ACROSSでも無理なく入れることまで確認されていた。
「ええやん。こういうとこ好きやで」
「良かった。前に、倉庫を改装した店とか好きって言ってた気がして。私も写真見て行ってみたくなったので」
「朝からこれ調べてたん?」
「はい。優也さんが来る前に、ACROSSに駐車場と道だけ見てもらってました」
その言葉を聞いたところで、ACROSSが確認を入れた。個人の検索結果を共同予定へ移すなら、どこまでを共有対象にするか本人の意思を確かめる必要がある。
〈真琴。先ほどの個人利用内容のうち、目的地、経路候補、大型車区画、営業時間について、優也との共同外出情報へ移行してよいですか〉
「お願いします。今は共有で大丈夫です」
〈承知しました。共同外出候補へ移行します。採用しなかった他候補や検索過程は、引き続き真琴の個人利用情報として保持します〉
優也はその言い分けに少し感心した。今必要なのは、どこへ行くかと、ACROSSで安全に行けるかという情報だけだ。真琴が他に何を候補へ入れ、何をやめたのかまで知る必要はない。
「そこまで分けるんやな」
「優也さん、他に何見てたか気になります?」
「ちょっとは気になるけど、聞かんでもええかな。真琴が今日ここ行きたいって言ってるなら、それで十分やし」
真琴は少し嬉しそうに笑った。優也が検索過程まで知ろうとせず、今日行きたい場所として自分から渡した部分だけを受け取ってくれたことが安心できたようだった。
「じゃあ、今日は私に任せてください」
「了解。連れてってもらいます」
◇
出発準備を済ませ、優也が運転席へ座ると、真琴は助手席で目的地の写真を眺めていた。ACROSSは共有へ移された経路情報だけをナビゲーションへ反映し、真琴が朝に行った検索履歴そのものは表示しない。大型車でも通りやすい幹線道路を中心に、最後だけ川沿いの少し細い道へ入る経路になっている。
「ACROSS。真琴が他に見てた場所、ルート途中にあったりする?」
優也がまた少しだけからかうように聞くと、ACROSSは迷わなかった。さっき一度決めた境界を、冗談めいた質問だからと曖昧にするつもりはないらしい。
「回答できません。真琴から共有許可のない個人利用情報です」
「徹底してるな」
「優也さん、楽しんでません?」
「ちょっと」
真琴が笑い、優也も笑った。秘密があること自体に嫌な感じはなく、むしろ真琴が自分を連れて行く場所を考えていた時間を想像すると嬉しい。しばらく走ったところで、真琴が助手席から外を見ながら言った。
「こういうの、してみたかったんです」
「こういうの?」
「私が場所を決めて、優也さんを連れて行くの。いつも優也さんが運転してくれるし、候補も一緒に決めることが多いでしょう。今日は私が“ここに行きたい”って言う日にしたかったです」
優也は前を向いたまま、口元が緩むのを抑えられなかった。目的地そのものより、真琴が自分と行く場所を朝から一人で考えていた時間のほうが、妙に嬉しく感じられた。
「それ、めっちゃ嬉しいんやけど」
「そうですか?」
「うん。俺と行く場所、朝から考えてくれてたんやろ?」
真琴は少し照れたように窓の外へ視線を逃がした。自分から連れて行きたいと考えたことを言葉にするのはまだ少し恥ずかしいが、取り消すつもりはないようだった。
「……はい」
理由を細かく聞く必要はなかった。優也と行きたい場所として真琴が選んだ、その事実だけで十分だった。先週まで話してきたように、説明できる理由がなくても今の選択は成立する。
◇
目的地へ着くと、大型車区画にはまだ余裕があった。ACROSSを止めて外へ出ると、川から吹く風は少し冷たいものの、日差しがあるので上着を着ていれば気持ちいい程度だった。建物までは歩いて五分ほどで、その途中には古い水門跡と低い堤防が続いている。真琴が自然に手を差し出し、優也が握る。最近はどちらから出したかを話題にすることもほとんどなくなった。指が絡み、そのまま二人で倉庫を改装した建物へ向かう。
中へ入ると、まず焙煎した豆の香りが広がっていた。天井の高い空間に古い梁が残され、その一角へ小さな焙煎機とカウンターが置かれている。奥にはガラス越しに植物が並ぶ温室風の売り場が見え、反対側には本棚と数席の読書スペースがある。
「真琴、これ俺好きやわ」
「良かったです」
「写真よりええな。建物そのまま残してんのがええ」
「そこ、優也さん好きそうだと思いました」
優也は少し笑った。自分の好みを勝手に決めつけられている感じはなく、これまで一緒に過ごした中で知ったことを使って場所を選んでくれたのが嬉しい。カウンターでは三種類の豆から選べたので、優也は深煎りのブラック、真琴は中煎りをミルクなしで試すことにした。先週からブラックも選ぶようになった真琴だが、だからといって毎回同じにするわけではなく、今日は店員の説明を聞いて飲んでみたくなったらしい。
「苦かったらミルク入れる?」
「飲んでから決めます」
「了解」
一口飲んだ真琴は少し目を細めたが、そのまま二口目も飲んだ。苦味を確かめるようにゆっくり味わい、今の自分にはこの豆が合っているかを自分で判断している。
「どう?」
「思ったより好きです。でも毎回これがいいかは分からないです」
「今日はこれがええ?」
「はい」
優也はそれ以上聞かなかった。毎回の選択を好みとして固定する必要はなく、今日おいしいと思っているなら、そのまま今日の一杯として受け取ればよかった。
◇
コーヒーを持って温室側へ移ると、背の低い観葉植物やハーブ、季節の花が並んでいた。真琴は一つずつ見ながらゆっくり歩き、途中で小さな鉢植えの前へ足を止める。優也も隣へ立つが、買うかどうかは聞かず、真琴が自分で動くのを待った。真琴はしばらく葉の形を眺めたあと、鉢を棚へ戻した。
「買わへんの?」
「今日は見ただけです。でも好きでした」
「最近それ分かるようになってきたわ。好きと買うは別やもんな」
「はい」
二人はそのまま奥へ進み、窓際のベンチで少し休んだ。真琴はコーヒーを飲みながら外の川を見ている。朝に自分で選んだ場所を優也も気に入っていることが分かり、どこか満足そうだった。
「優也さん、今日ここ来れて良かったですか?」
「めっちゃ良かった。真琴が選んだっていうの込みで」
真琴が少しだけ頬を赤くする。場所の良さだけでなく、自分が選んだということまで喜ばれるとは思っていなかったらしく、カップへ視線を落として照れを隠した。
「そこまで言われると、次も探したくなります」
「探して。たまに真琴に連れてってほしい」
「じゃあ、また内緒で探してもいいですか?」
「もちろん。俺に全部見せんでええよ。決まった時に教えて」
言いながら、優也は自分でも自然にそう思えたことが少し意外だった。以前なら、ACROSSに情報があるなら自分も見られる状態のほうが安心だと考えていたかもしれない。それでも今は、真琴が自分の中で考え、選び、渡したい時に渡してくれる余地があるほうが嬉しい。
◇
書店では旅や建築、写真集の棚をゆっくり見て回った。優也が古い工場建築の写真集を手に取ると、真琴が横から覗き込み、さっきの倉庫と似ていると笑う。真琴は静かな町を集めた小さな写真集を見つけ、一度手に取ったものの今日は買わずに戻した。それから二人は建物を出て、川沿いの遊歩道へ向かった。昼前より風が弱まり、堤防の向こうには春らしい淡い色の草が増えている。手を繋いだまま歩き、古い水門跡の前で写真を一枚撮った。
「今日の写真も好きになりそうです」
「理由は?」
優也が聞くと、真琴が笑う。先週まで何度も理由を尋ねた流れを二人とも覚えているので、今回の問いは少しした冗談として受け取られていた。
「今日は答えられます。優也さんが楽しそうだから」
「俺そんな顔してる?」
真琴は画面を見せる代わりに、少し得意そうな顔で頷いた。優也が楽しんでいる瞬間を自分が先に見つけられたことが、ちょっと嬉しいらしい。
「してます」
「じゃあその写真送って」
「あとで送ります」
今回は理由が分かった。それでも、理由が分からない時との優劣はない。話せるなら話せばいいし、分からなければ分からないままでいい。前回覚えたことが、今日はもう説明ではなく会話の中へ馴染んでいた。
◇
昼は建物内の小さな食堂へ戻り、優也は煮込みハンバーグ、真琴は野菜のプレートを選んだ。食事を待つ間、優也がスマートフォンで施設の周辺地図を眺めていると、少し離れた場所に丘の上の展望施設があることに気づいた。夜景の写真も載っており、ACROSSを止められる大型車区画が近くにあるかだけ、今度調べてみたいと思う。
その場でACROSSへ小さく入力した。真琴へ見せる前に、大型車で無理なく行ける場所かだけ自分で確かめておきたいという、今朝の真琴とよく似た使い方だった。
『丘の展望施設。大型車で行けるか確認。真琴へはまだ共有しない』
数秒後、画面に返答が出る。共同候補へ追加せず、優也個人の検討として保持するという扱いが明確に示されていた。
『優也の個人候補として保持します。共同候補には追加しません。安全確認・経路調査も優也の個人利用情報として扱います』
優也は少し笑ってスマートフォンを伏せた。真琴が朝に感じていた“自分で言うまで持っておく時間”を、今度は自分も少し味わっているような気分になった。
「何してるんです?」
真琴が聞く。優也が急に画面を伏せたので気にはなったようだが、内容を探るような調子ではなく、軽い好奇心だけだった。
「ちょっと内緒」
「私と同じですね」
「うん。今度俺が連れて行く側やるかもしれん」
真琴はそれ以上聞かなかった。代わりに少し嬉しそうに笑い、運ばれてきた料理へ箸を伸ばした。自分だけが秘密を持つのではなく、優也にも同じ余地があることを自然に受け入れている。
◇
食後、ACROSSへ戻るまでの道でも二人は手を繋いでいた。駐車場へ着く直前、真琴がふと口を開く。朝から何度か“知らないままにしておく”場面があったことで、自分の感じ方を確かめたくなったらしい。
「内緒があっても、嫌じゃないですね」
「俺も。内容によるやろけど、今日みたいなんは全然」
真琴は少し考え、ACROSSを二人で共有しているからこそ、情報まで全部共通である必要はないと感じたことを言葉にする。
「前なら、ACROSSが知ってるなら二人とも見られるほうが自然だと思ってました」
「俺もかも。でも考えたら、真琴がACROSSに相談したこと全部俺に見えるの変やな」
「優也さんのも、私に全部見えなくていいです」
優也は頷いた。二人でACROSSを使っているからといって、二人の頭の中まで一つにする必要はない。共有するものと、まだ自分の中に置いておくものが両方あっていい。
◇
車内へ戻ると、真琴は買ってきた小さな焼き菓子を開け、優也はコーヒーを淹れた。今日は朝から真琴が場所を決め、優也がそれに乗る形で一日が進んでいる。どこかへ連れて行ってもらう側になるのも思った以上に楽しく、優也はソファへ座りながらもう一度そのことを口にした。
「今日ほんま良かったわ。俺、誰かに連れてってもらうのもええな」
「誰か、ですか?」
真琴が少しだけ目を細めるので、優也はすぐ笑った。
「訂正。真琴に連れてってもらうのがええ」
「それならいいです」
「何その判定」
「大事です」
真琴は満足そうに隣へ座り、肩を軽く寄せた。優也が手を差し出すと、真琴が握り、指が絡む。少し静かな時間を置いてから、ACROSSが確認を始めた。
〈本日の個人利用情報と共同利用情報について、共有範囲の整理を提案してよいですか〉
「ええよ。今日ちょうど気になったし」
「お願いします」
◇
ACROSSは、まず共有すべき情報と個人のままでよい情報を分けた。車両の故障、電力や水の残量、安全に関わる警告、共同で決めた予約や目的地などは、利用者双方へ影響するため基本的に共有する。一方、片方が単独で行った検索、個人的なメモ、まだ相手へ伝えていない候補、支援に不要な会話内容などは、自動共有しない。
「じゃあ、真琴が朝調べてた場所を俺が聞いても、真琴が共有するまで答えへん?」
〈はい。ただし、真琴がその情報を共同予定へ移行した時点で、必要な範囲のみ共有できます〉
「必要な範囲って、今日なら目的地と道と駐車場?」
〈はい。真琴が採用しなかった候補や、検索の途中で参照した情報まで共有する必要はありません〉
真琴が頷いた。
「それがいいです。考えてる途中まで全部見られると、何か決める前から説明しないといけない感じになります」
「分かる。俺もさっき候補一個だけ個人で残したし」
真琴は少しだけ興味を見せたものの、すぐに聞かないと決めたらしく、手元のカップへ視線を落とした。自分が朝そうしてもらったように、優也にも選んだタイミングで話せる余地を返したいようだった。
「聞きませんよ」
「まだ言ってへんのに」
「顔で分かります」
二人で笑う。ACROSSはそのやり取りを待ってから、もう一つ条件を提示した。秘密を守ることだけに寄り過ぎれば、安全や共同運用へ影響する情報まで閉じてしまうため、その境界も必要になる。
〈個人情報が、共同利用の安全または相手の重大な判断へ直接影響する場合は、共有が必要になる可能性があります。その場合も、必要最小限の内容に限定します〉
「例えば?」
〈一方が共同走行に影響する車両異常を確認している場合、個人情報として保持できません。また、相手に危険が及ぶ可能性が高い情報を把握した場合、完全非共有より安全確保を優先します〉
優也は頷いた。秘密だから何でも黙るのではなく、黙っていていい範囲そのものにも境界がある。共有車両を二人で使う以上、安全に関わる情報だけは個人の都合より優先されるのが自然だった。
「安全は別枠やな」
「はい。私もそれでいいです」
◇
真琴は薄いグレーのノートを開き、今日の整理を書き始めた。単純に“秘密を守る”という一行では足りず、何を共有し、何を個人のままにするかを分けて書いていく。
『知っていることと、共有してよいことを分ける』
『共同運用・安全情報は必要範囲で共有』
『個人検索・個人メモ・未共有候補は自動共有しない』
『相手との親しさを共有許可とみなさない』
『個人情報を共同提案へ流用する場合は共有確認』
『安全上の例外は必要最小限』
『共有しないことは、嘘をつくこととは別』
『本人が自分の言葉で渡す余地を残す』
最後の一行を書いたところで、真琴はペン先を止めた。情報の境界は隠すためだけではなく、人が自分の言葉で相手へ渡すための時間を守るものでもあると感じたようだった。
「これ、結構大事ですね。ACROSSが先に全部言っちゃったら、私が優也さんに“ここ行きたい”って言う時間までなくなってました」
「確かにな。朝俺が聞いた時に全部答えられてたら、今日の感じちょっと違ったと思う」
「私は自分で言いたかったです」
「俺も真琴から聞けて良かった」
優也はその言葉を口にしながら、情報を早く共有することだけが親切ではないと改めて思った。人が自分で選んだ言葉で誰かへ渡したいことまで、ACROSSが先回りしてしまえば、その人の行動する余地を奪ってしまう。
◇
ACROSSが少し間を置いてから続ける。表示そのものを伏せても、個人情報を共同提案へ使えば間接的に関心が漏れるため、共有範囲は利用方法にも及ぶ。
〈確認があります。個人利用情報を、本人の許可なく共同提案の順位付けへ利用することも避けますか〉
優也は意味を考える。画面へ秘密の内容を直接出さなくても、おすすめ順位へ反映されれば、相手が何を調べていたのか推測できてしまう。
「例えば?」
〈真琴が個人で複数の旅行先を調べている場合、その情報を優也との共同候補へ自動反映すると、内容自体を表示しなくても真琴の関心が間接的に漏れる可能性があります〉
「それは嫌かもです」
真琴がすぐ答えた。自分で話す前にACROSSの提案から気持ちを察されるのは、内容をそのまま見られるのと大きく変わらないと感じたらしい。
「自分で言う前に、ACROSSが候補として出したら、結局調べてたことが分かりますよね」
「じゃあ個人のもんは、本人が共有するまで共有側のおすすめにも混ぜんほうがええな」
〈承知しました。個人利用情報は、本人への支援には使用できますが、共同支援へ転用する場合は共有確認を行います〉
優也はその答えに納得した。単に画面へ表示しなければいいのではなく、情報の使い方そのものに境界が必要なのだ。
◇
午後はACROSSの中でゆっくり過ごした。真琴は新しく買った本を少し読み、優也はスマートフォンでニュースを眺める。お互いに何を見ているか細かく聞くことはなく、ときどき気になったものだけ自分から相手へ見せる。真琴が本を閉じたあと、優也の肩へ頭を預けた。
「こういうのも、共有しない時間なんですかね」
「何が?」
真琴は自分の本と、優也が見ているスマートフォンを交互に見た。同じ空間にいても、それぞれが別のことへ意識を向けている時間は自然に存在している。
「同じ場所にいるけど、別々のことしてる時間」
「それは普通にあるやろ。ずっと同じ画面見る必要ないし」
「ですよね」
優也は少し笑い、真琴の手へ自分の手を重ねた。近くにいることと、全部を共有することは同じではない。むしろ相手が何をしているか分からない数十分があっても、不安にならず隣にいられることのほうが、以前より距離が近くなった証拠のように感じた。
◇
夕方、二人は冷蔵庫にある材料で簡単な焼きうどんを作った。真琴が野菜を切り、優也がフライパンを担当する。作業の途中でACROSSが冷蔵庫の残量を共有画面へ出すが、真琴が朝に個人で調べていた場所や、優也が昼に保存した展望施設の候補はどこにも表示されない。
「ちゃんと出てこないな」
「何がです?」
優也がモニターの共有画面を指差すと、真琴はすぐ意味を察したように笑った。昼に優也が保存した候補がどこにも現れていないことを確認して、仕組みが意図どおり動いているのが分かった。
「俺の内緒候補」
「だから聞きませんって」
優也は少しだけ言いたそうな顔をしたが、真琴が待つつもりでいるのを見て、そこは飲み込んだ。隠すための我慢ではなく、自分から渡す時まで楽しみとして持っておく感覚に近い。
「言いたくなるな、これ」
「まだ我慢してください。私も楽しみにしたいので」
優也は笑った。秘密を守られると、今度は自分から言いたくなる。それでも、相手が待ってくれるなら、渡すタイミングまで自分で選べる。
◇
食後は照明を少し落とし、二人でソファへ戻った。真琴は今日は肩ではなく、優也の腕へ自分の腕を絡める。優也は反対の手で真琴の指先を軽く包み、しばらく何も話さなかった。
「優也さん」
「ん?」
「今日、私が場所決めたの、デートを考えてみたかったからでもあります」
優也はすぐには返せなかった。真琴は前を向いたまま、腕をほどかない。朝から自分で場所を考えていた理由を、最後になって“デートを考えたかった”と言葉にしたことが胸へゆっくり届く。
「いつも二人で決めるのも好きです。でも一回くらい、私が優也さんと行くデートを考えて、連れて行く側をやってみたかったんです」
胸の奥がゆっくり熱くなる。先週より前なら、「デート」という言葉が出ただけで二人とも少し慌てていたかもしれない。今も照れはある。それでも、その言葉を否定したくはなかった。
「……それ朝から言われてたら、俺たぶん出発前からニヤけてたわ」
「だから後で言いました」
「それも内緒やったん?」
「少しだけ」
優也は笑い、絡んだ腕へ自分の腕を少し寄せた。デートという言葉を今さら否定する気はなく、むしろ真琴の口から自然に出たことが嬉しかった。
「今日のデート、めっちゃ良かったで」
「良かったです」
真琴は照れながらも、言葉を否定せずそのまま受け取った。自分で考えた一日を優也が楽しんでくれたことが、かなり嬉しかったらしい。次も同じ形に固定したいわけではないが、また時々やってみたい気持ちは出てきている。
「次も真琴企画ある?」
「たまになら。毎回は優也さんも決めてください」
優也はそこで昼に保存した候補を思い出し、少しだけ口元を緩めた。今度は自分が真琴へ見せたい景色を考える番だと思うと、秘密を持っていること自体が少し楽しくなった。
「了解。俺も一個、今内緒で持ってるしな」
「楽しみにしてます」
何を調べているのか、真琴は聞かなかった。聞けば優也はたぶん答えるだろうが、今は答えさせないほうが次の楽しみを残せると分かっている。
◇
帰る時間になり、二人は上着を着てACROSSを出た。駅までの道では自然に手を繋ぐ。春の夜はまだ少し冷えるが、風は穏やかで、歩くには気持ちいい。
「真琴、俺の内緒候補、ほんまに気にならへん?」
「気にはなりますよ。でも、優也さんが言う時に聞きたいです」
「何で?」
「今日、私が自分で言えたのが嬉しかったから。優也さんにも同じようにしてほしいです」
優也はその答えを聞いて、繋いだ手を少し握り直した。知らないことがある状態を許してもらえることが、かえって信頼されているように感じられた。
「じゃあまだ内緒にしとく」
「はい」
優也が少しだけからかう気分で口を開くと、真琴は先回りするように笑った。ヒント一つでも聞けば自分で続きを考えてしまいそうなので、今は何も知らないまま待つつもりらしい。
「でもヒント一個だけ」
「要りません」
「即答やな」
二人で笑う。知らないことが残っていても、そこに悪意がないと分かっていれば不安にはならない。むしろ相手が自分へ渡そうとしているものを、少し先まで待つ楽しみになる。
◇
改札が近づく頃、真琴が歩幅を少し落とした。今日一日の出来事を思い返すうち、ACROSSが知っていることと二人が互いに知っていることは、同じでなくてもいいと実感できていた。
「ACROSSが全部知ってるとしても、私たちが全部知り合う必要はないんですね」
「うん。知りたいことは聞くし、言いたいことは言う。でも全部は要らんかもな」
「私、優也さんのこともっと知りたいです。でも、全部を今すぐ知りたいわけじゃないです」
優也は少しだけ照れながら横を見る。もっと知りたいと言われることは嬉しいのに、全部を今すぐ知りたいわけではないという続きまで含めると、妙に安心できた。
「俺もや。知らんことあるから嫌なんじゃなくて、真琴が話したくなった時に聞けたらええかなって思う」
「それがいいです」
真琴は少し笑い、繋いだ手へ力を返した。相手のことを知りたい気持ちと、相手が話す時まで待てることは矛盾しないと、自分でも納得できたようだった。
「今日みたいに、自分から言いたいこともありますし」
「デートのこと?」
「……それもです」
「それは聞けて良かった」
真琴の頬が少し赤くなったが、手は離れなかった。自分から“デートを考えたかった”と伝えたことを思い出し、今さら少し恥ずかしくなったらしい。
◇
改札の手前で二人は立ち止まり、ゆっくり手を離した。今日も名残惜しさはあるが、次に会うまでの間にそれぞれが持っている時間まで共有する必要はない。
「また次」
「うん。また次」
真琴は改札へ向かう前に一度だけ足を止め、今日一日守られていた“まだ言わない余地”を、そのまま優也にも返すように続けた。
「次は優也さんの内緒、まだ内緒のままでもいいですよ」
「言いたくなったら言うわ」
「はい。その時に聞きます」
真琴が改札を通り、振り返って小さく手を振る。優也も同じように返し、姿が見えなくなるまでその場にいた。
◇
帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日のACROSSの変化が一文でまとめられていた。優也は上着を脱ぎ、ネイビーの革キーホルダーが付いた鍵をテーブルへ置いてから、朝の“内緒”から帰り道までを思い返しながら読み始めた。
『ACROSSは、保持している情報と共有可能な情報を分離し、共同運用・安全に必要な情報を除いて、個人の検索、メモ、未共有候補、支援に不要な会話内容を本人の許可なく他者へ開示・転用しない。共同提案へ利用する場合も共有確認を行い、安全上の例外は必要最小限に限定する』
優也は文章を読みながら、朝の出来事を思い返した。真琴が先にACROSSへ来て調べていたことを、自分が聞いてもACROSSは答えなかった。そのおかげで真琴は、自分の口で「今日は私が行きたい場所を決めてもいいですか」と言えた。もし朝の時点で全部教えられていたら、目的地自体は同じでも、今日の一日は少し違っていたはずだ。
情報は早く届けばいいとは限らない。知っているからといって、言っていいとは限らない。そして、黙っていることが必ずしも隠し事や嘘になるわけでもない。人には、自分で渡したいものがある。言葉にするタイミングを選びたいこともある。まだ形になっていない考えを、誰にも見せず自分の中で転がしておきたい時間もある。優也はスマートフォンを開き、昼に保存した丘の展望施設の候補をもう一度見る。ACROSSは大型車区画と進入経路の一次確認だけを終え、共同候補へは出していない。
真琴に見せたい景色になるかどうか、もう少し調べてから決めようと思った。自分が言いたくなった時に、自分から言う。今日、真琴がそうしてくれたように。優也は画面を閉じ、少し笑った。知らなくていいことがある。まだ知らないままでいたほうが、楽しみになることもある。ACROSSが覚え始めたその境界は、二人の距離を遠ざけるためのものではなく、それぞれが自分のまま隣にいられるための余白なのだと思えた。
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