ep.134 理由がなくても
翌週の土曜日、優也がACROSSへ入ると、ガレージの外では細い雨が降っていた。春らしい暖かさは残っているものの、空は低い雲に覆われ、遠出をするには少し迷う天気だった。モニターには前夜まで候補にしていた湖畔の散歩と、屋内型の地域交流施設の二つが並んでいる。どちらも予約はなく、出発直前まで決めなくても問題ない。優也はブラックコーヒーを淹れながら、窓へ当たる雨粒を眺めた。先週は晴れた湖畔を自転車で一周し、真琴と一緒に「前の答えも本当だった」と話した。あの時は、違う選択が並んでも過去を間違いにしなくていいというところまで整理できたが、今朝モニターを見ていると、もう一つ気になることが出てきた。
答えが変わる時、理由は必ず必要なのだろうか。前回の真琴は、関係の名前を急いで決めなくていいと思っていた。今も急いではいないが、「いつか決めてもいい」と感じるようになった。そして帰り道には、前より好きになっていると自分から言った。そこには一つの大きな出来事があったわけではなく、優也も同じだった。気づけばそうなっていたという感覚のほうが近い。
〈おはようございます、優也。現在の雨量は弱く、午前中は同程度、午後は止む可能性があります。屋外活動は可能ですが、路面は濡れています〉
「おはよう。今日は自転車は無しやな。真琴来たら、屋内のほう聞いてみるわ」
優也はモニターの湖畔候補へ目をやった。今日選ばないことと、今後も行かないことは別なので、雨だけを理由に候補そのものまで消す必要はない。
〈承知しました。湖畔候補は削除しますか〉
「いや、別の日に行くかもしれんし、候補としては残しといて。今日の候補から外すだけでええ」
〈承知しました。現在の外出候補からは除外し、将来候補として保持します〉
以前なら「雨だから中止」と一つの結果へまとめていたかもしれないが、今は「今日は選ばない」と「今後も選ばない」を分けられる。ACROSSの返事を聞きながら、優也は先週までの積み重ねが日常の判断へ自然に染み込んできたことを感じた。
◇
九時半を少し過ぎた頃、玄関が開いた。真琴は傘を畳んで水滴を軽く払い、赤茶色の革キーホルダーが付いたバッグをいつもの場所へ置く。優也がタオルを差し出すと、礼を言って手元を拭き、上着を脱いで隣へ座った。
「おはようございます。思ったより降ってました」
「おはよう。今日は湖やめよ。屋内の地域交流施設、前に候補出てたやろ。あっち行かへん?」
「いいですね。市場みたいなところも入ってるやつですよね」
「そうそう。昼もそこで食えそう」
真琴は迷わず頷いた。前夜までは湖畔も悪くないと言っていたが、雨を見て気が変わったことに説明は要らなかった。外を歩きたい気持ちが消えたのではなく、今日の条件なら屋内のほうが楽そうだというだけだった。優也が二人分のコーヒーを用意すると、真琴は今日は少しだけミルクを入れてほしいと言う。先週は朝にブラックを選んでいたが、優也ももう驚かない。
「今日はミルクなんやな」
「はい。何となく」
「理由は?」
何気なく聞いたつもりだったが、真琴はカップを受け取りながら少し考えた。すぐに答えが出ないからといって困っているわけではなく、理由を探す必要があるのかどうかから考えているようだった。
「……分からないです。今日はそうしたいだけです」
優也は一瞬だけ止まり、それから笑った。理由が分からないという返事を聞いても、今日ミルクを入れたいという希望まで曖昧になるわけではないと、すぐに腑に落ちた。
「そら理由ない時もあるか」
「ありますよね?」
「あるある。俺も朝から急にカレー食いたなる時あるし」
その会話を聞いていたACROSSが声を出す。理由を説明できることと、現在希望が有効であることを同じ条件として扱ってよいのか、今のうちに確認しておきたいらしい。
〈確認します。現在希望に理由が明示されない場合でも、本人の選択として有効と扱ってよいですか〉
「ええよ。理由分からんから無効とか変やろ」
「私もそう思います。後から理由が分かるかもしれないし、最後まで分からないかもしれません」
〈承知しました。現在希望の有効性と、理由説明の有無を分離します〉
真琴はカップへ口をつけ、少し満足そうに頷いた。今日ミルクを入れたいという小さな選択から、また一つACROSSの扱いが変わり始めた。
◇
出発前、真琴は薄いグレーのノートを開き、今のやり取りを忘れないうちに二行だけ書いた。小さなコーヒーの選択でも、これまでのACROSSなら理由を整理しようとしていたので、今日の違いは残しておく価値がある。
『現在希望は、理由を説明できなくても成立する』
『理由不明を、理由なしと断定しない』
「理由ないのと、分からないのは違うんですね」
「そうやな。ほんまに何となくかもしれんし、本人も気づいてへんだけかもしれん」
真琴はノートへ視線を落とし、同じ“説明できない”でも意味が一つではないことを確かめるように、書いた二行を指先でなぞった。
「ACROSS、そこはどう扱うんです?」
〈本人が理由を特定していない場合、“理由不明”として保持します。推測候補が存在しても、本人の確認なしに原因として確定しません〉
「それでいいです」
真琴はノートを閉じた。何か選ぶたびに理由を説明しなければならないなら、日常のほとんどが面倒になる。好きな味、座りたい場所、歩きたい道、その日の服。理由がある日もあれば、ただそうしたい日もある。
◇
地域交流施設までは四十分ほどだった。複数の地元店舗が入る屋内市場と、小さな書店、雑貨店、展示スペース、飲食区画が一つの建物にまとまっている。駐車場には大型車区画もあり、雨の日でも建物までの移動が短い。走行中、真琴は助手席から雨の街並みを眺めていた。優也はワイパーの速度を一段落とし、信号で止まったところで横を見る。
「そういや先週の写真、まだ見返してる?」
「見てます。湖のやつ好きです」
「何で?」
真琴が少し笑う。理由を聞くこと自体は嫌ではないが、答えを一つに決めることを求められているわけではないと分かれば、むしろ気楽に考えられるらしい。
「また理由聞くんですか?」
「いや、今のは普通に気になっただけ」
真琴は少し考え、写真のどこが好きなのか一つに絞ろうとしたものの、結局は複数の要素が重なっている感覚のほうが近いらしい。
「うーん……景色も好きだし、自転車で一周できたのも嬉しかったし、優也さんが写ってるのも好きです。でもどれが一番かは分からないです」
「全部混ざってる感じ?」
「多分」
優也は頷いた。理由が一つに決まらないこともある。複数あるかもしれないし、どれが大きいか本人にも分からないこともある。それでも「好き」という感想自体は変わらない。ACROSSは会話へ割り込まなかった。今の写真の好みは行動判断へ影響せず、説明を求める必要もない。以前なら情報として整理しようとしたかもしれないが、今は何でも分類しなくてもいいところまで学んでいる。
◇
施設へ着くと、雨は少し弱くなっていた。大型車区画へACROSSを止め、二人は傘を一本だけ持って建物へ向かう。距離は短いので、真琴が自然に優也の腕へ自分の腕を絡め、傘の下へ入った。
「今日は腕なんや」
「傘、一つなので近いほうが楽です」
「それだけ?」
優也が笑いながら聞くと、真琴は少しだけ顔を上げる。実用的な理由と、自分がそうしたいという気持ちの両方があるのを自覚しているようで、隠すつもりもなかった。
「それもあります。でも、普通にこうしたいのもあります」
「じゃあ理由二つやな」
「たぶん。でも数えなくていいです」
優也も笑い、傘を少し真琴側へ傾けた。理由が一つでなくても、その場で選んでいる距離が二人にとって心地いいなら十分だった。
◇
建物の中へ入ると、最初に地元野菜や加工品を扱う市場が広がっていた。真琴は季節のジャムを見つけ、瓶を一つ手に取る。優也は横から値段を見たが、買うかどうかは聞かなかった。以前なら「欲しいん?」とすぐ尋ねていたところだが、手に取っただけでは購入希望とは限らない。真琴はラベルを読んだあと、その瓶を棚へ戻した。
「買わへんの?」
「今日はいいです。見たかっただけ」
真琴が棚へ戻した瓶から手を離すのを見て、優也は以前なら手に取った時点で購入希望まで推測していたことを思い出した。
「やっぱ聞かんで良かったわ」
「何がです?」
「前の俺なら、持った瞬間に欲しいんか聞いてた気する」
「最近は減りましたね」
真琴は別の棚へ移り、今度は小さな焼き菓子の袋を手に取る。しばらく見たあと、こちらはカゴへ入れた。
「それは買うんや」
「これは食べたいです」
同じように手へ取った物でも、片方は棚へ戻し、もう片方は迷わずカゴへ入る。その差に明確な説明がなくても、真琴の今の選択ははっきりしていた。
「違い分からんな」
「私も、何でジャムは戻してこれ買うのか説明できません」
「そらもう、食いたいからでええな」
「はい」
ACROSSは二人のスマートフォンに何も表示しなかった。今の判断に理由解析は必要なく、買うか買わないかという本人の選択だけで行動には十分だった。
◇
市場を抜けると、小さな展示スペースで地域の古い写真展が開かれていた。入場無料なので、そのまま入ってみることにする。昔の駅前や商店街、川沿いの風景が並び、真琴は一枚ずつ足を止めて見ていた。ある写真の前で、真琴が少し長く立ち止まる。昭和の頃らしい商店街で、雨上がりの路面に看板の光が反射しているだけの写真だった。
「これ好きです」
「渋いな。何がええん?」
真琴はしばらく写真を見たまま考えた。好きだと感じた理由を探そうとすればいくつか候補は出せそうだが、今は無理に言葉へ直したくないようだった。
「分からないです。人もほとんど写ってないし、特別きれいな景色でもないのに……何となく見ていたいです」
「懐かしい感じとか?」
「それもあるかもしれません。でも私、この時代知らないですし」
「確かに」
優也は横に並び、同じ写真を見る。自分にはそこまで強く響かない。それでも、真琴が好きだと言うなら、その感覚まで自分が理解しなければならないわけではなかった。ACROSSが小さく尋ねる。
〈この写真への好意について、理由候補を推定しますか〉
真琴は首を横に振った。推測で理由を埋めてもらうより、今は分からないまま残しておくほうが、この写真を好きだという感覚に近かった。
「しなくていいです。今は分からないままがいいです」
〈承知しました〉
その返答が妙に自然で、優也は少しだけ笑った。ACROSSが何も分析せず引き下がることも、以前なら考えにくかったが、今ではその静けさのほうが場面に合っていた。
◇
昼は施設内の洋食店へ入った。優也はカレー、真琴はクリームコロッケの定食を選ぶ。料理を待っている間、真琴が写真展の話へ戻った。
「理由分からないまま好きって、変じゃないんですね」
「変ちゃうやろ。好きになった理由全部説明できる人のほうが少ないんちゃう?」
優也がそこまで言ったところで、自分で少し引っ掛かった。真琴も同じところへ気づいたらしく、視線が合う。
「……それ、私たちにも当てはまります?」
「たぶん」
先週、二人は互いに前より好きになっていると口にした。優也には真琴の好きなところをいくつも挙げられる。低い圧で隣にいられること、無理に答えを求めないこと、笑い方、真面目なところ、ACROSSの変化を一緒に見てきたこと。しかし、「どの瞬間から」「何が決定打で」と聞かれたら、一つには絞れない。
「真琴は、何で俺のこと前より好きになったん?」
優也が聞くと、真琴は少し照れたようにカップへ目を落とした。理由を一つへ絞る質問ではないと分かっていても、自分の“好き”を言葉にすること自体にはまだ少し照れがある。
「それ、聞きます?」
「嫌なら答えんでええで」
「嫌ではないです。ただ……一個じゃないです」
真琴はゆっくり言葉を探した。優也が自分の話を急かさず聞いてくれること、一緒にいる時に黙っていても平気なこと、出掛けた先で無理に予定を守らず変えられること、ACROSSのことを二人で考えている時間が楽しいこと、手を繋ぐと落ち着くこと。どれも理由ではあるが、それだけで全部を説明できる感じはしないという。
「じゃあ、理由いっぱい?」
「いっぱいあると思います。でも、全部足したら好きになるって計算でもないです」
「分かるわ」
優也は笑った。自分も同じだった。真琴の好きなところならいくつも挙げられるが、それらを順番に並べたから今の気持ちになったとは思えなかった。
◇
ACROSSがスマートフォンから静かに声を出した。二人が複数の理由を挙げられたからこそ、それを単純に足し合わせて感情の原因へ変えてよいのか確認する必要があると考えたようだった。
〈確認してもよいですか。複数の理由候補が本人によって認識されていても、最終的な選択や感情をそれらの単純合計として扱わない設定でよいですか〉
「ええよ。好きな理由三個で三点とかやめてな」
真琴もすぐに首を横へ振った。言葉へできた理由を並べたからといって、その数や強さだけで気持ち全体を再現されるのは違うと感じている。
「私も嫌です」
〈承知しました。本人が挙げた要素は関連情報として保持できますが、感情の完全な原因説明とは扱いません〉
「完全な理由を作らんってことですね」
〈はい。本人が“分からない”“一つではない”と回答した場合、その状態をそのまま保持します〉
料理が運ばれてきたので、二人はそこで話を止めた。原因を分析し切らなくても、今の気持ちがなくなるわけではない。むしろ無理に一つへまとめないほうが、二人には自然だった。
◇
食後は小さな書店へ入り、そのあと雑貨店をゆっくり見た。真琴は薄い青のノートを一冊手に取り、しばらく迷ったあと買うことにする。理由を聞くと、今のノートがまだ残っているのに、表紙の質感が気に入ったからだという。
「今回は理由あるやん」
「あります。でも、それだけで買ったかは分からないです」
優也は青い表紙を見ながら、説明できる要素があることと、最終的な選択を一つの原因へ還元できることは別なのだと少しずつ分かってきた。
「もう理由聞くの難しくなってきたな」
「聞かなくてもいいんですよ」
「確かに」
二人で笑い、そのまま会計を済ませた。施設を出る頃には雨がほとんど止んでいた。雲の切れ間から少しだけ明るさが出ており、駐車場までの短い道なら傘はいらない。真琴は傘を閉じたまま、それでも優也の腕へ自分の腕を絡めた。
「もう雨ないで?」
「知ってます」
真琴は傘を持つ手を下げたまま、それでも優也の腕からは離れなかった。最初にあった実用的な理由が消えても、今の選択まで一緒に消えるわけではないらしい。
「じゃあ傘の理由消えたな」
「はい」
「それでも腕はそのまま?」
「そのままがいいです」
優也は何も足さず、歩幅だけを合わせた。理由が一つ消えても選択が変わらないこともある。
◇
ACROSSへ戻ると、二人は買った焼き菓子を開け、コーヒーを淹れた。真琴は今度はブラックを選ぶ。朝はミルク入り、午後はブラック。優也はもう何も言わず、そのまま希望どおりに淹れた。
「聞かないんですね」
「理由?」
「はい」
「今日はもうええかなって。飲みたいほう飲んだらええやろ」
真琴は少し嬉しそうに笑った。理由を説明しなくても希望どおりのコーヒーが出てくることが、今日はいつも以上に気楽に感じられたらしい。
「そのほうが楽です」
「理由知りたい時は聞くけどな」
「それはいいです。聞かれるのが嫌なんじゃなくて、理由がないと駄目みたいになるのが嫌なんです」
「なるほどな」
ACROSSは今の会話も記録へ整理し、理由確認そのものを禁止するのではなく、現在判断に必要か、本人が話したいか、単なる好奇心かを区別する方向へ進めた。
◇
午後は遠出せず、車内で少し過ごすことにした。真琴は新しく買ったノートを袋から出し、表紙を何度か撫でながら眺める。今使っている薄いグレーのノートが終わってから使うつもりらしい。
「その青、そんな好き?」
「好きです」
優也が反射的に続きを聞こうとすると、真琴は先回りするように笑った。今日だけで何度目かの“理由探し”になっている。
「何が?」
「だから、また理由聞く」
「癖やな」
優也が笑うと、真琴も笑った。今日だけで何度も同じ話題へ戻っているのに、理由を探さなければならない空気ではなく、互いの癖をからかえる程度の軽さがあった。
「でも今回は答えられます。色と、表紙の触った感じと、紙の色も少し好きです」
「おお、ちゃんとある」
真琴は表紙を指先で撫でながら、挙げられる要素は確かにあるものの、それだけで購入を決めたとまでは言えないと続けた。
「でも最後に決めた理由は分かりません」
「結局そこは分からんのか」
「はい」
二人は笑いながら、ノートをテーブルへ置いた。買った理由を完全に説明できなくても、そのノートを選んだ事実と、今気に入っている気持ちは何も変わらない。
◇
少しして、真琴は優也の隣へ座り直し、今度は手を繋いだ。施設では腕を組んでいたが、車内ではこっちがいいらしい。優也はそのまま指を絡め、ソファへ深く腰を預ける。
「今日、何で手なん?」
「……分からないです」
真琴は絡めた指を一度見てから、無理に説明を探す様子もなく、そのまま優也の手へ力を返した。
「ほんまに?」
「はい。今はこっちがいいです」
「じゃあそれでええな」
優也は笑い、手を少し握り返した。自分も理由を考えようとしたが、今この瞬間は真琴の手を握っていたい、それだけで十分だった。しばらく静かな時間が続いたあと、真琴が小さく口を開く。
「優也さんは、何で私のこと前より好きなんですか?」
今度は自分が聞かれる側だった。優也はすぐに答えようとして、止まった。真琴のことを好きだと思う理由ならたくさん浮かぶ。最初の頃より話しやすくなったこと、一緒にいる沈黙が苦にならないこと、変に格好つけなくてもいられること、ACROSSのことを真面目に考えてくれること、手を繋ぐ時に自分から選んでくれること。ただ、どれが一番かと聞かれると分からない。
「いっぱいあるけど、これって一個はないな」
「やっぱり?」
「うん。気づいたら前より好きになってた感じ」
真琴は少しだけ顔を赤くしながらも、嬉しそうに笑った。自分と同じように優也も一つの理由へ決められないと分かり、説明できないことへの不安が少し薄れたようだった。
「私も、それが近いです」
「ほな理由分からん同士やな」
「でも好きなのは分かる」
「それは分かる」
二人の間に短い沈黙が落ちたが、気まずさはなかった。むしろ言い切ったあとのほうが、手の温度を少し強く意識する。
◇
ACROSSが声を出したのは、その沈黙が少し続いてからだった。今の会話は二人にとって大切でも、外出や設備の支援には直接必要ないため、記録するかどうか自体を確認する段階へ進んでいる。
〈現在の会話について、記録対象の確認をしてもよいですか〉
「何を?」
「二人が互いに“前より好き”と認識していることは、行動支援に直接必要な情報ではありません。記録しない選択も可能です」
優也は少し驚き、真琴を見る。真琴も同じことを考えたらしく、数秒だけ迷ってから答えた。ACROSSに覚えてもらえることが便利だからといって、二人だけで覚えておきたい言葉まで支援情報へ変える必要はない。
「記録しなくていいです」
「俺も。これはACROSSが使う情報ちゃう気する」
〈承知しました。会話内容を支援用状態へ追加しません〉
先週、真琴は「優也さんが覚えていてくれたらいい」と言った。今日も同じだった。ACROSSが何でも覚えられるからこそ、覚えさせないものを選べることも大切になっている。
◇
真琴は薄いグレーのノートを開き、今日のACROSS側の変化だけをまとめた。二人の“好き”そのものではなく、理由の扱い方と、記録しない選択をACROSSが覚えたことだけを切り分けて残す。
『現在希望は、理由説明がなくても有効』
『理由不明と理由なしを分ける』
『推測できても、本人確認なしに原因へ確定しない』
『複数理由を単純合計して最終感情を説明しない』
『理由が一つに決まらない状態を保持できる』
『理由確認が判断に不要なら、確認しない選択も可能』
『本人が話したくない理由を要求しない』
『支援に不要な個人的情報は、記録しない選択を残す』
書き終えたあと、真琴は一番下の行を見ながら頷いた。情報を集められる能力が増えたからこそ、必要のないものまで集めない判断のほうが重要になってきたと感じているようだった。
「ここまで来ると、ACROSSが知ってることを増やすより、知らなくていいことを残せるほうが大事になってきましたね」
「何でも分かったほうが賢そうやのにな」
「でも、人の中身を全部知らないと助けられないわけじゃないでしょう?」
「せやな。今どうしたいかだけ分かれば足りる場面、いっぱいあるし」
ACROSSはその会話を受け、自分が取得可能な情報量と、取得すべき情報量を同一視しないと返した。優也はその言い方に、ACROSSがまた少し違うところへ進み始めたような感覚を覚えた。
◇
夕方が近づく頃、二人は簡単な夕食を作ることにした。市場で買った小さなパンと、冷蔵庫に残っていた野菜を使ってスープを作る。優也が玉ねぎを切り、真琴がきのこをほぐし、途中で真琴が今日は少しだけ濃い味にしたいと言った。
「何で?」
優也が反射的に聞いてから、自分で笑った。今日一日だけで何度“なぜ”と尋ねたか分からず、もはや自分でも癖になっているのが可笑しかった。
「また聞いてもうた」
「今日はいっぱい聞きますね」
優也は苦笑しながら味見用の小皿を置いた。理由を知ること自体が悪いのではなく、答えが出ないと調整できないわけでもない。
「気になるねん」
「分からないです。でも濃いめがいいです」
「了解」
優也は鍋全体へ一気に味を足さず、まず少量だけ濃くして二人で味見する。真琴はこれでいいと頷き、優也も今日は同じ味で問題なかったので、そのまま仕上げた。理由がなくても、調整はできる。
◇
食後、二人は照明を少し落とし、ソファへ戻った。真琴は優也の肩へ頭を預け、手は繋いだまま。外では雨が完全に止み、ガレージの向こうから濡れた路面の匂いがわずかに入り込んでいる。
「今日の話、何か不思議ですね」
「理由の話?」
真琴は優也の肩へ頭を預けたまま、今日一日何度も“分からない”と答えたことを思い返しているようだった。それでも選択に困った場面は一つもない。
「はい。理由を探さないほうが、逆に自分の気持ちをそのまま言いやすい気がします」
「確かに。“何で?”って聞かれ続けたら、理由作らなあかん気してくるもんな」
「そうなんです。分からないって言っていいなら、今どうしたいかは言いやすいです」
優也は頷いた。説明できないことを恥ずかしいものにしなければ、相手へ出せる答えが増える。ACROSSにとっても、推測精度を上げることだけが賢さではなく、分からないものを分からないまま置くことが必要なのだろう。
◇
帰る時間になり、二人は上着を着た。玄関を出る頃には空気が少し冷え、濡れた地面が街灯を反射している。今日は優也が手を差し出し、真琴が握る。指が絡み、二人はいつもの速度で駅へ向かった。
「今は手なんやな」
「はい」
「理由は?」
真琴が横を見る。何度も理由を聞かれた一日の終わりだからこそ、今度は優也自身が本当に理由を知りたいのか確かめるような視線だった。
「聞きたいですか?」
優也は少し考えてから首を横に振った。今知りたいのは理由ではなく、真琴が今も手を繋ぎたいと思っているかどうかだけで、それなら答えはすでに指先から伝わっていた。
「いや、今日はええわ。繋ぎたいって分かってるし」
「私もそれでいいです」
少し歩くと、真琴が繋いだ手を軽く揺らした。理由を説明できないまま“前より好き”と言ったことが、どこかで優也を困らせていないかだけは確かめておきたかったらしい。
「優也さん。私が前より好きになった理由、全部説明できなくても大丈夫ですか?」
「大丈夫やで。俺も説明できへんし」
真琴は少し安心したように息を吐いた。理由を言葉にできないことが、気持ちそのものの弱さとして受け取られないと分かったらしい。
「じゃあ、分からないままでもいいですね」
「うん。でも前より好きって聞けたんは嬉しい」
「私も、優也さんから聞けて嬉しいです」
前回の言葉をもう一度確かめても、それは同じことの繰り返しには感じなかった。理由を明らかにしなくても、二人の間にある気持ちは前より少し言いやすくなっている。
◇
改札の近くまで来ると、真琴が少し歩幅を落とした。今日の話をここまで自分たちへ重ねてきたことで、関係の名前についても一つ気になることが出てきたようだった。
「関係の名前も、理由が揃ってから決める必要はないんですかね」
優也は思わず横を見る。今すぐ決めたいと言われたわけではないと分かっていても、その話題が真琴から自然に出るようになったこと自体に少し驚いた。
「急にそこ行く?」
「決めたいって意味じゃないですよ。ただ、“ちゃんと理由を説明できるくらい確信したら”とか考えなくてもいいのかなって」
優也は少し考えた。付き合うなら理由が必要だ、何が好きか説明できなければ本物ではない、そんな決まりがあるわけではない。もちろん大事なことだから勢いだけで決める必要もないが、完璧な説明が揃うまで待つ必要もない。
「名前付けたくなった時に、二人ともそう思ってたらええんちゃう?」
「理由はあとでも?」
「あとでもええし、分からんままでもええと思う」
真琴は小さく笑った。理由を完璧に説明できるまで待たなくてもいいと思えたことで、今すぐ答えを出す必要はないまま、先へ進むことへの緊張が少しほどけたらしい。
「それ、ちょっと安心しました」
「俺も」
まだ今日は決めない。それでも、“理由が足りないから決められない”という壁が一つ薄くなったように感じた。
◇
改札の手前で二人は立ち止まり、ゆっくり手を離した。真琴が少し名残惜しそうに自分の手を見たあと、優也へ顔を上げる。
「また次」
「うん。また次」
「次も好きだったら、言ってもいいですか?」
優也は一瞬だけ驚き、それから笑った。真琴が“好き”という言葉を次回にも持ち越すことを、冗談ではなく自分から選んでいるのが嬉しかった。
「何回でも聞きたいわ」
「じゃあ、その時の気分で」
「そこは理由いらんな」
真琴も笑い、改札へ向かった。理由を求めないと決めたばかりなのに、次にまた聞きたくなるかもしれないという優也の言葉まで含めて、二人らしいやり取りになっていた。
◇
帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日のACROSSの変化が一文でまとめられていた。優也は上着を脱ぎ、ネイビーの革キーホルダーが付いた鍵をテーブルへ置いてから、朝のコーヒーから帰り道までを思い返しながら読み始める。
『ACROSSは、本人の現在希望・選択・感情について、理由説明が存在しない、本人が特定できない、複数候補がある、説明を望まない場合でも、それだけを理由に現在状態を無効化しない。原因推定は行動判断に必要な範囲へ限定し、支援に不要な個人的情報は取得・保持しない選択を優先する』
優也はその文章を読みながら、今日一日の出来事を思い返した。真琴は朝ミルク入りのコーヒーを選び、午後はブラックを飲んだ。ジャムは棚へ戻し、焼き菓子は買った。古い商店街の写真を理由も分からないまま気に入り、傘が要らなくなっても腕を組んだまま歩いた。どれも、説明がなくても成立していた。理由が分からないから、本心ではないわけではない。理由を一つにできないから、曖昧というわけでもない。人の気持ちは、原因を全部並べれば同じ答えへ再計算できるものではないのだろう。
優也自身も、真琴のどこが好きかと聞かれればいくつも答えられる。それでも、なぜ前より好きになったのかを一つには決められない。一緒にいた時間。何度も出掛けたこと。黙っていても平気になったこと。手を繋ぐのが自然になったこと。ACROSSについて二人で考え続けてきたこと。どれも本当で、どれか一つだけが答えではなかった。そして、それで困っていない。
優也はスマートフォンを手に取り、少し迷ってから真琴へ短いメッセージを送った。理由を説明できないことを今日ずっと肯定してきたからこそ、最後は理由を添えず、今の気持ちだけをそのまま伝えたくなった。
『理由は分からんけど、今日も前より好きやったわ』
送って数分もしないうちに返事が来る。画面へ表示された一文も、説明ではなく真琴の今の気持ちだけを返すような短いものだった。
『私もです。理由は、今日は聞かないでください』
優也は声を出して笑った。理由を聞かないでと言いながら、その先では“答えられるところまで”なら話してもいいという真琴らしい余白が残っていた。
『了解。聞きたくなったら聞くけどな』
『その時は、答えられるところまでで』
優也は画面を見ながら、また笑った。理由がなくてもいい。分からないままでもいい。それでも、今の答えはちゃんとある。そのことが、今日は妙に心地よかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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