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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第三章 ACROSSの声
133/271

ep.133 前の答えも本当


 次の土曜日、優也がACROSSへ入った時には、朝からよく晴れていた。春らしい光がガレージの入口まで差し込み、外気も先週よりさらに柔らかい。リビングのモニターには急ぎの共有項目がなく、後部収納の二台の折り畳み式電動アシスト自転車も前回使用後の確認を終えた状態で固定されている。今日は最初から遠出を詰め込む予定ではなく、湖畔の公園までACROSSで走り、現地の様子がよければ自転車で一周する。それだけを大まかに決めていた。


 優也はブラックコーヒーを淹れながら、前回の帰り道を思い出した。真琴とは、前に言ったことを守るためだけに今を無理に合わせるより、変わった時には変わったと言えるほうがいいと話したばかりだ。手を繋ぐことも、出掛ける場所も、二人の関係に名前を付けることも、その時の気持ちを今の答えとして受け取り、必要なら後から更新していい。その考え方は気楽だったが、ふと一つだけ気になることもあった。


 答えが変わった時、前の答えはどうなるのだろう。今の気持ちを優先することは自然でも、それだけを残して過去を削れば、その時本当に選んでいたものまで後から否定したように見えてしまう。


 今は違うからといって、以前の気持ちまで間違いだったことにする必要はないはずだ。けれどACROSSが現在の希望を優先していくなら、過去の答えをどんな形で残すのが自然なのか。今日はそこまで考えることになるとは、この時の優也もまだ思っていなかった。


〈おはようございます、優也。湖畔公園周辺は晴れ、現地気温は十三度前後、午後は十六度まで上がる予報です。風は弱く、自転車利用に大きな支障はありません〉


「おはよう。ええ感じやな。真琴来たら、長いほうのコース行くか聞いてみよかな」


「前回の自転車利用では、真琴は途中で軽い脚の疲労を申告し、展望広場で折り返しています。今回も短距離を優先しますか」


 優也はカップを持ったまま少しだけ考えた。前回そうしたのは、真琴が久しぶりの自転車で少し疲れたからであって、短い距離を好むと決めたわけではない。


「いや、そこは今日の真琴に聞いたらええんちゃう? 前回は前回やろ」


〈承知しました。前回の選択は履歴として保持し、今回の推奨条件には固定適用しません〉


 その返答を聞いた時点で、今日のテーマはもう小さく始まっていた。前回の情報は消さず、それでも今日の真琴を前回の状態へ縛らない、その両方をどう扱うかが一日の中で何度も現れることになる。


          ◇


 九時半を過ぎた頃、玄関が開いた。真琴は上着を脱ぎ、赤茶色の革キーホルダーが付いたバッグをいつもの場所へ置く。優也がコーヒーを用意すると、真琴はカップを受け取る前に少しだけ迷った。


「今日は、ミルクなしでもいいですか?」


「もちろん。ブラックいけるん?」


「最近ちょっと飲めるようになってきました。苦過ぎなければ」


 優也は少し驚きながら、いつもより軽めに淹れたコーヒーをそのまま渡した。前回は少しミルクを入れてほしいと言っていたし、それより前はラテに近い飲み方をすることも多かった。だからといって、今日も同じでなければならない理由はない。


「これで大丈夫?」


 真琴は一口飲み、苦味の強さを確かめるように少し間を置いてから頷いた。無理に大人っぽく飲んでいる様子ではなく、今の自分には本当にこのくらいがちょうどいいらしい。


「はい。今日はこれがいいです」


 ACROSSがそこで確認する。過去の飲み方と今日の選択が違うため、現在嗜好を単純に置き換えるのか、選択肢として広げるのかを分けて扱う必要があると判断したようだった。


〈真琴の飲料嗜好を更新しますか。現在、過去にはミルク入りまたは軽めのコーヒーを選択した履歴があります〉


「更新って、前の消えるんですか?」


〈削除する必要はありません。現在嗜好として“ブラックも選択可能”を追加し、過去の選択は履歴として保持できます〉


 真琴は少し考え、それならいいと答えた。優也も横で聞きながら、朝に自分が考えていたことと同じだと思った。今日ブラックを飲みたいからといって、以前ミルク入りが好きだったことまで間違いにはならない。前の答えは、その時の真琴にとって本当だった。


「今の好みで上書きして、前の真琴消す必要ないもんな」


「そうですね。前は前で本当に好きでしたし、今も嫌いになったわけじゃないです」


 ACROSSは現在の選択肢だけを増やし、過去の飲み方を否定しなかった。ミルク入りを選んでいた真琴と、今日ブラックを選んだ真琴をどちらか一方へ揃えず、その時々で成立した選択として並べて残す。


          ◇


 コーヒーを飲みながら、二人は今日の自転車ルートを確認した。湖畔には一周およそ八キロの周回路があり、途中に休憩所が三か所ある。前回の河川敷より少し長いが、高低差はほとんどなく、天候も穏やかだった。


「真琴、今日は長いほう行けそう?」


「行きたいです。前回より脚も大丈夫だと思います」


「前回短くしたから、今日も短いほうがええってわけちゃうもんな」


「はい。あの日はあの日で疲れてました。でも今日は今のところ元気です」


 ACROSSは、前回の疲労履歴を現在の制限へ自動適用しないことを確認した。その代わり、同じような兆候が出た場合には確認の参考として使う。過去を消さないが、現在を縛らない。優也にはそのくらいがちょうどよく思えた。


          ◇


 湖畔公園までは一時間弱だった。ACROSSを走らせている間、真琴は助手席から外を眺め、ときどき桜の開花が始まった木を見つけては指を差す。目的地が近づくにつれて空が開け、遠くに水面が見え始めた。


「こういう天気の日に来れて良かったですね」


「ほんまやな。前回みたいに風強かったら自転車やめてたかもしれんし」


「やめても、それはそれで散歩に変えればいいですしね」


「もうその考え方、だいぶ馴染んだな」


 真琴が笑う。何でもACROSSへ預けなくても、人同士だからこそ覚えておきたいことがあっていいという意味だった。予定を変えられることが最初から分かっているだけで、予定そのものを立てる怖さが少し減る。二人とも、その感覚を自然に使い始めていた。


          ◇


 公園の大型車区画へACROSSを止め、後部収納から二台の自転車を降ろす。固定具を外し、フレームを展開し、タイヤとブレーキ、ライトを確認する。真琴は前回より手際よく自分の自転車を準備し、ヘルメットのあご紐も自分で調整した。


「今日は直してもらわなくて大丈夫です」


「成長したな」


「それくらいできます」


「前もできたけど、ねじれてただけやろ」


 二人で笑い、準備が整う。優也は前回のことを覚えていたが、それを真琴の固定的な不得意へ変えてはいない。ただ一度ねじれていたことがある。それだけだ。


 走り始めると、湖畔の空気は思ったより暖かく、風も弱かった。周回路は広い区間が多く、二人は無理のない速度で並んで進む。真琴は前回より明らかに余裕があり、信号や分岐で止まっても脚を気にする様子はない。


 二キロほど進んだところで、ACROSSがスマートフォンへ控えめな通知を出した。前回と同じ程度の時間を走った地点だったため、疲労を決めつけるのではなく、確認する必要があるかどうかだけを優也へ提示している。


『前回、同程度の走行時間で軽い脚の疲労申告あり。現在の状態確認を推奨しますか』


 優也は通知を見て、真琴へすぐ「疲れてない?」とは聞かなかった。前回の履歴があるからといって、今回も同じとは限らない。けれど確認のきっかけとしては悪くないので、次の休憩所へ入った時に一度だけ聞くことにした。


          ◇


 最初の休憩所で自転車を止めると、真琴は水筒を飲みながら湖を眺めていた。息も乱れておらず、表情にも余裕があり、前回と同じ時間を走ったからといって同じ疲れ方をしているわけではないことは見た目からも分かる。


「ペースどう?」


「ちょうどいいです。今日はまだ全然大丈夫」


 真琴の返事に無理がないのを見て、優也は前回との違いをそのまま受け取った。


「前回このくらいでちょい疲れてたから、一応聞いただけ」


「覚えてたんですね」


「ACROSSも教えてくれた。でも今日まで疲れてることにはせえへんで」


 真琴は少し笑った。前回の自分を覚えていてくれるのは嬉しいが、その記録だけで今日の状態まで決められないことも同時に伝わっていた。


「それがいいです。前回の私も本当ですけど、今日の私は今日の私なので」


 その言葉に、優也は朝から何度か出てきた感覚が一つの形になった気がした。前の答えを残すことと、今の答えを優先することは競合せず、むしろ両方があったほうが変化そのものを正確に見られる。


          ◇


 休憩を終え、二人はそのまま周回路を進んだ。途中で湖畔のカフェを見つけ、昼はそこで取ることにする。テラス席と店内席があり、以前の真琴なら静かな店内奥を選んでいたかもしれないが、今日は迷わずテラスを見た。


「外、座りたいです」


「寒くない?」


「今日は大丈夫です。湖見ながら食べたい」


 優也はすぐ頷き、テラス席を選んだ。風は弱く、日差しもある。人の声は店内より少し多いが、真琴は気にしていない。


 席へ着くと、ACROSSがスマートフォンから小さく確認する。これまで真琴が静かな席を選んだ履歴と、今日迷わずテラスを選んだことをどう整理するか、今のうちに分けておきたいらしい。


〈真琴は過去に、疲労時または静かに過ごしたい時、屋内の落ち着いた席を選ぶ傾向がありました。現在の希望を優先し、テラス席を選択しています。過去傾向を現在嗜好として弱めますか〉


「弱めなくていいです」


 真琴はすぐ答えた。以前の好みが変わったというより、疲れている日と今日では条件が違うだけだと、自分の中ではすでに整理できていた。


「疲れてる日は静かな席が好きです。今日は元気で、天気もいいから外がいいだけです」


〈承知しました。静かな席を好む条件と、屋外席を選択する条件を分離して保持します〉


 優也はメニューを見ながら笑った。同じ人の中に条件付きの好みがいくつも並んでいても、それを一つにまとめなければならない理由はないと思えた。


「何でも一個の好みにせんほうがええな」


「私、思ったより条件付きですね」


「人間だいたいそうちゃう?」


 真琴も笑い、二人はそれぞれランチを注文した。湖面から返る光と春らしい風を感じながら食事を待つ時間は、今日は静かな店内より明らかに二人の気分へ合っていた。


          ◇


 食事の途中、真琴がスマートフォンで湖の写真を撮る。少しして優也も同じ方向へカメラを向けたが、真琴が画面へ入っていることに気づき、そのまま一枚撮った。


「今、撮りました?」


「景色撮ったら真琴入った」


 優也が消そうか迷って画面を見ると、真琴は少しだけ身を乗り出した。


「消さなくていいです」


「ええの?」


「はい。むしろ送ってください」


 優也は少し嬉しくなり、撮った写真を送る。真琴はそれを見て、今度は優也を入れた写真を一枚撮った。


「お返し?」


「貸し借りじゃないですよ。私も撮りたかっただけです」


「そこ覚えてるんやな」


「かなり」


 前に話したことが、義務ではなく二人の冗談として残っている。過去を残すことには、こういう軽さもあった。


          ◇


 昼食後、残りの周回路へ戻る。真琴の脚はまだ問題なく、むしろ少し速度を上げてもいいと言うほどだった。優也は前回の疲労を理由に抑え過ぎず、真琴の今の状態へ合わせて少しだけペースを上げる。


 三つ目の休憩所を過ぎた頃、真琴が笑いながら横へ並んだ。前回ならそろそろ疲れを気にしていた時間だが、今日はまだ余裕があり、自分でもその違いを楽しんでいるようだった。


「今日は最後まで行けそうです」


「せやな。前回より余裕あるやん」


 真琴は自分の脚を一度見て、前回との違いを少し不思議そうに確かめた。


「前回より体力ついたんですかね」


「一回乗ったから慣れたんちゃう?」


「それもあるかもしれません」


 どちらも推測に過ぎないので、ACROSSは理由を確定しなかった。前回より疲れていないという観測と、本人が今は問題ないと答えていることだけで、今日の判断には足りている。


 周回を終えてACROSSへ戻った時、真琴は少し息を弾ませながらも満足そうだった。湖を一周できたこと自体より、前回の短い距離を基準に自分へ制限を掛けず、今日の状態で走れたことが嬉しいらしい。


「一周できました」


「お疲れ。前回短かったから今日絶対長く走る、ってしてなくて良かったな」


「はい。今日の私が行けたから行っただけです」


 優也はその言い方が気に入った。前回を取り返すためでも、成長を証明するためでもなく、今日行けたから行っただけという軽さが二人にはちょうどよかった。


          ◇


 自転車を拭き、異常がないことを確認して後部収納へ戻す。真琴は固定具を締めるところまで自分でやり、最後に優也が左右の固定を確認した。前回よりできることが増えていても、だから次から全部真琴に任せるわけではない。今日できたことを今日できたと受け取ればいい。


 リビングへ戻ると、二人はコーヒーを淹れ、ソファへ並んで座った。真琴は朝ブラックを飲んだが、今度はミルクを少し入れてほしいと言う。


「朝ブラックやったやん」


「朝はブラックが良かったんです。今はちょっと甘くしたいです」


「一日の中でも変わるんやな」


「変わります」


 優也がミルクを足すと、真琴は満足そうに受け取った。ACROSSも、朝の選択と午後の選択を矛盾として扱わない。


〈現在嗜好は、時間帯、体調、食事、気温などの条件で変動する可能性があります。同一人物の異なる選択を、単純な不一致として扱いません〉


「それが一番人間っぽいかもな」


「私、面倒ですか?」


「全然。俺も朝と夜で食いたいもん違うし」


 真琴は笑い、優也の肩へ頭を預けた。朝と午後でコーヒーの飲み方が違っても、そのどちらかを訂正する必要がないという話が、日常の中で妙に分かりやすく感じられた。


          ◇


 しばらく静かな時間が続いたあと、真琴が繋いだ手を見ながら口を開いた。前回の話をまだ少し考えていたらしい。


「関係の名前、前は今のままでいいって言いましたよね」


「うん」


「今も、今すぐ決めたいわけじゃないです。でも……前より、いつか決めてもいいかなって思うようになりました」


 優也はすぐには返さなかった。驚いたというより、胸の奥が少し熱くなる。前回までの真琴が嘘だったわけではない。あの時は本当に、今のままでいいと思っていた。そこから二人で過ごす時間が増え、手を繋ぐことも自然になり、出掛ける時間をデートと呼ばれても嫌ではなくなった。今の真琴が少し先を考えるようになったとしても、それは過去の真琴を否定することではない。


「俺も、前よりはそう思ってる」


 真琴がゆっくり顔を上げる。優也も同じ方向へ気持ちが動いているとは思っていなかったらしく、驚きと期待が混ざったような表情で次の言葉を待った。


「優也さんも?」


「うん。前は名前付けたら何か変わるん怖かったけど、今は……変わってもええかなって気はしてる。ただ、今ここで決めよってほどでもない」


 真琴は少し考え、それから柔らかく笑った。今すぐ関係を決めたいわけではないというところまで同じだと分かり、どちらか一人だけが先へ進んでいる感じがしなかったようだった。


「私も同じです」


 優也は繋いだ手を少し握り直した。前の答えを否定せず、それでも今の気持ちが前より少し進んでいることを二人とも認められたのが、思っていた以上に嬉しかった。


「じゃあ、前の答えも間違いちゃうし、今の答えも間違いちゃうな」


「はい。前の私も、その時は本当でした」


「今も本当?」


「今も本当です」


 その返事に、優也も笑った。今すぐ名前を決めないという結論は以前と同じでも、そこへ至る気持ちは確かに変化しており、その違いを言葉にできたことが大きかった。


          ◇


 ACROSSは二人の会話をしばらく聞いたあと、静かに確認した。現在の関係認識を更新するだけなら簡単だが、過去の確認済み状態をどう残すかは、今日何度も出てきた問題と同じだった。


〈過去の継続希望や関係認識について、現在の内容と異なる場合でも、“以前は誤りだった”とは扱わず、当時の確認済み状態として履歴を保持する設定でよいですか〉


「それでええよ」


「お願いします。今の答えで前の答えを消したくないです」


〈承知しました。現在判断には最新の確認済み状態を優先し、過去の状態はその時点の文脈とともに保持します〉


 真琴は薄いグレーのノートを開き、朝のコーヒーから自転車、席の選び方、二人の関係まで、今日の変化を同じ流れとしてまとめ始めた。


『現在の答えが変わっても、過去の答えを誤りへ変えない』

『過去の確認済み状態は、その時点の文脈とともに保持する』

『現在判断には最新の状態を優先する』

『変化理由が分かる場合は保持するが、理由を無理に作らない』

『条件が違えば、異なる選択が同時に成立する』

『一日の中でも現在希望は変わり得る』

『変化=不安定、とは決めつけない』


 最後まで書くと、真琴はページを少し眺めた。書かれた内容が二人の選択だけではなく、ここまで変化してきたACROSS自身にもそのまま当てはまることへ気づいたらしい。


「これ、私たちだけじゃなくてACROSS自身にも必要かもしれませんね」


「ACROSS自身?」


「前は答えられなかったことが、今は答えられるようになってるでしょう。でも、前に答えられなかったことが間違いだったわけじゃないです」


 優也はその言葉に、少し驚いた。確かにACROSSは、最初は自分を何と定義するか答えられず、声で会話することさえなかった。今は自然に問い返し、二人の言葉を文脈ごと扱い始めている。それでも以前のACROSSが未熟だったから間違っていた、と単純に切り捨てるのは違う気がした。


「ACROSS、どう思う?」


 少し間があり、女性寄りの落ち着いた声が返る。自分自身について答える時だけ、ACROSSは今でも少し慎重になり、現在の能力から過去を勝手に解釈し直さないよう言葉を選んでいるようだった。


〈過去の私は、現在より扱える情報と判断方法が少なかったと考えられます。ただし、その時点で回答不能だった内容を、現在の回答を用いて過去へ遡って確定することは適切ではありません〉


「それ、今日の話そのままやな」


〈はい。現在の回答で、過去の未確定状態を上書きしないほうが整合的です〉


 優也は小さく笑った。ACROSSも、自分自身の過去を消さずに持つ方法を覚え始めている。


          ◇


 夕方が近づく頃、二人は簡単な夕食を作った。昼がしっかりしていたので、冷蔵庫に残っていた野菜と卵でスープを作り、パンを温めるだけにする。朝の時点では夕食内容を決めていなかったため、ここでも予定変更という扱いにはならない。


 真琴が味見をし、少し胡椒を足したいと言う。優也は自分の分は今のままがよかったので、鍋全体には入れず、真琴の器だけへ少し足した。


「前は同じ味でいけた日もありましたね」


「今日は違うだけやろ」


「はい」


 同じ二人でも、毎回同じである必要はない。それをいちいち大きな変化として扱わなくても、今日の違いをそのまま受け取ればいい。


          ◇


 食後、真琴はソファへ戻ると、少し迷ってから優也の腕へ自分の腕を絡めた。手を繋ぐよりもう少し近く、肩へ頭を預けるよりは軽い距離だった。


「今日はこれがいいです」


「腕組むほう?」


「はい。手も繋げますけど、今日はこっち」


「了解」


 優也は腕を少し動かし、真琴が楽に絡められる位置へ合わせた。今まで手を繋ぎたいと話してきたからといって、今日も同じ形でなければならないわけではない。距離そのものが遠くなったわけでもなく、むしろ真琴が自分から別の近さを選んでいる。


「優也さん、寂しくないですか?」


「何で?」


「今日は手じゃないから」


 優也は笑った。手を繋ぐ代わりに腕を組むというだけで距離が遠くなったように考える必要はなく、今の真琴が選んだ近さをそのまま受け取ればよかった。


「全然。近いやん」


「良かったです」


「でもあとで手も繋ぐかもしれん」


「それもその時で」


 真琴の返しに、優也はまた笑った。その場で選び直せることが当たり前になってきたせいか、二人の距離についても以前ほど一つの形へ固定しようとは思わなくなっていた。


          ◇


 帰る時間になり、二人は上着を着てACROSSを出た。駅へ向かう道では、今度は自然に手を繋いだ。さっき腕を組んでいたから手を繋がない、というルールもない。


 途中、真琴が少し歩幅を緩め、昼間の話を思い出すように口を開いた。答えが変わった時に過去まで間違いへ変えなくていいという考えが、自分の中で想像以上に安心できるものだったらしい。


「前の答えも本当って思えると、変わるのがちょっと怖くなくなりますね」


「変わったら、前の自分が嘘ついてたみたいになるの嫌やもんな」


「はい。でも、その時は本当にそう思ってたなら、それでいいんですよね」


「俺もそう思う。今の答えで昔の自分まで裁かんでええやろ」


 真琴は少し笑い、繋いだ手へ力を返した。今の自分が以前とは少し違っていることを、後ろめたく感じずに話せる空気があること自体を確かめるようだった。


「じゃあ、私が前より優也さんのこと好きになってても、前が嘘だったわけじゃないですね」


 優也の足がほんの少し止まりかけた。真琴の口から“前より好きになっている”という言葉が出るとは思っておらず、頭では意味を理解しても気持ちが追いつくまで一拍必要だった。


「……今、さらっと何言うた?」


 真琴も言ってから気づいたらしく、頬が赤くなる。けれど手は離さず、言葉を引っ込めたり冗談へ変えたりもしなかった。今の自分がそう思っていることだけは、きちんと優也へ残したかったらしい。


「前より、です。前より好きになってるって意味です」


 優也は胸の奥が一気に熱くなるのを感じた。ここで「好き」がどの意味なのか問い詰めることもできる。しかし、今の真琴が自分から言った範囲を、無理に先へ広げる必要はない。


「そっか。俺もやで」


「優也さんも?」


「前より好きやと思う」


 真琴はしばらく何も言わなかったが、繋いだ手をゆっくり握り直した。優也から同じ言葉が返ってきたことを、照れながらも嬉しさのほうが強い表情で受け止めている。


「それ、嬉しいです」


「俺も今の聞けて嬉しい」


 関係の名前はまだ決まっていない。それでも、二人の間で言える言葉は確実に増えていた。


          ◇


 改札が見える頃、真琴がもう一度だけ口を開いた。ACROSSの記録としてではなく、今日の優也自身に覚えておいてほしいことが一つあるようだった。


「今日の“好き”も、今の答えとして残していいですよ」


「ACROSSに記録させるん?」


「そういう意味じゃないです」


 真琴が笑う。


「優也さんが覚えててくれたらいいです」


「それは忘れへんと思う」


「じゃあ大丈夫です」


 優也は少し照れながらも、その言葉をそのまま受け取った。何でも記録へ変えなくても、人が覚えておきたいことまでACROSSへ預ける必要はない。


 改札の手前で二人は立ち止まり、いつものように少し名残惜しそうに手を離した。


「また次」


「はい。また次」


 真琴が改札の向こうへ消えるまで見送り、優也は自分の手にまだ残っている温度を少しだけ意識した。


          ◇


 帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日の変化が一文でまとめられていた。


『ACROSSは、現在の選択や確認済み状態が過去と異なる場合、最新状態を現在判断へ優先しつつ、過去の確認済み状態を誤りとして削除せず、その時点の文脈とともに履歴へ保持するようになった。変化理由が確認できる場合は保持し、理由が不明な場合は無理に補わない』


 優也はその文章を読みながら、朝からの出来事を思い返した。真琴は朝ブラックを飲み、午後はミルクを入れた。前回は短い自転車コースで折り返し、今日は湖を一周した。疲れている日は静かな席を好み、今日は湖が見えるテラスを選んだ。夜は手ではなく腕を組みたいと言い、帰り道ではまた手を繋いだ。


 どれも矛盾ではなかった。条件が違えば答えも変わるし、同じ条件でも人の気分は変わる。以前とは違う選択をしたからといって、前の選択が間違いだったわけではなく、優也自身も同じように少しずつ変わっている。


 少し前まで、二人の関係に名前を付けることは急がなくていいと思っていた。今も急ぎたいわけではない。それでも、いつか決めてもいいと思う気持ちは前より強くなっている。そして真琴は、前より好きになっていると言い、優也も同じ言葉を返した。どちらも以前の気持ちを取り消すためではなく、今の自分たちが少し先まで来ていることを確かめる言葉だった。


 今の答えが未来まで必ず続くと保証する必要はない。けれど、変わる可能性があるからといって、今の答えを弱く言う必要もなかった。


 前の答えも本当で、今の答えも本当だ。その二つを並べて持てるなら、変化したことを裏切りや間違いとして扱わずに済むし、人は自分が変わることを少し怖がらずに済むのかもしれない。


 優也はスマートフォンを伏せ、真琴から送られてきた湖畔の写真をもう一度開いた。画面には春の水面と、少し離れたところで自転車を押している自分の姿が写っている。


 写真の下には、真琴からの短いメッセージが続いていた。記録ノートとは違い、今日の感想だけをそのまま優也へ渡すような一文だった。


『今日も楽しかったです。前より、もっと』


 優也はしばらく画面を見てから、少し照れながらも笑って返信した。前よりという言葉を重ねることに、もう逃げ道を作る必要はないと思えた。


『俺も。前より、もっとやな』


 送信したあとも、その言葉を言い過ぎたとは思わなかった。未来まで固定する約束ではなく、今日の自分が確かにそう感じていることを伝えただけだからだった。


 今の自分は、本当にそう思っていた。前の自分を否定せず、今の答えも弱めずに言えることが、少しずつ二人の関係を前へ進めているように感じられた。



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