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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第三章 ACROSSの声
132/271

ep.132 途中で変えていい


 翌週の土曜日は、朝から春の気配がはっきりしていた。まだ空気には冷たさが残っているものの、ガレージへ向かう途中で見かけた街路樹の芽は先週より膨らみ、日差しの下では厚手の上着が少しだけ重く感じる。優也がACROSSへ入ると、リビングのモニター右端には前回から残っている共同予定が一つだけ表示されていた。


『洗面用ペーパー購入 二人で』

『前回:希望商品欠品/追加移動なし』

『今回:同一商品を一店舗確認する』


 商品そのものはまだ手に入っていないが、赤い警告も催促もない。前回、一店舗目で在庫を確認するところまでをその日の範囲として終え、今日はもう一度同じ店を見るところから始める。もしまた無ければ、その先をどうするかは今の二人が決めればいい。優也はモニターを確認したあと、いつものようにコーヒーを淹れた。前回は真琴と一緒に飲む予定を残していたので待ったが、今日はそういう約束はない。だから自分の一杯を先に飲み、真琴が来たら改めて彼女の分を淹れる。その違いも、今ではわざわざACROSSに説明しなくても自然に扱われるようになっていた。


〈おはようございます、優也。現在の外気温は九・八度です。午後は十四度前後まで上昇する予報です〉


「おはよう。今日はほんま暖かいな。これやったら自転車もいけそうや」


 優也はモニターへ視線を戻し、自転車の状態を思い出した。前回使ってから固定位置も充電状態も確認してあり、今日は天気さえ合えばすぐ出せる。思いつきをそのまま予定へ変えるのではなく、真琴が来てから聞けばいいと自然に考えられた。


〈後部収納の二台は前回確認時点で使用可能です。充電状態も十分です〉


「じゃあ真琴来たら聞いてみるわ。ペーパー買えたら、そのあと河川敷でも行こかな」


〈承知しました。現時点では候補として保持します。外出計画への追加は真琴の到着後に確認します〉


 優也はその返答に頷いた。自転車へ乗りたいと思ったからといって、すぐ予定へ組み込む必要はない。今はただの候補で、二人が同じ気分なら今日の予定へ変えればいい。


◇


 九時半を少し過ぎた頃、玄関が開いた。真琴はいつもの赤茶色の革キーホルダーが付いたバッグを置き、上着を脱いでリビングへ入ってくる。優也がコーヒーを用意していると、モニターの天気表示へ目を向け、すぐに今日の暖かさに気づいた。


「おはようございます。外、先週より全然楽ですね」


「おはよう。俺も思った。なあ、ペーパー見たあと、河川敷行かへん? 自転車乗れそうやで」


 真琴はカップを受け取りながら少しだけ考え、それから嬉しそうに頷いた。前回、暖かくなったらまた乗りたいと話したばかりだったので、今日の気温ならちょうどよさそうだと感じたらしい。


「行きたいです。久しぶりに乗りたいと思ってました」


「ほな今日は、ホームセンター寄って、そのあと河川敷やな」


 ACROSSが予定を更新しようとしたところで、優也が一度止める。乗りたい気持ちは二人とも同じでも、現地の風や路面まで今ここで決められるわけではなく、条件が悪ければ歩くだけでも十分だと思った。


「でも、自転車は天気と風見てからでええよ。現地行って風強かったら歩くだけでもええし」


「私もそれがいいです。乗る前提にし過ぎないほうが楽です」


〈承知しました。河川敷訪問は予定へ追加します。自転車利用は現地条件と二人の希望を確認して決定します〉


 前回までに覚えた“できるところまで”という扱いが、もう予定の立て方そのものへ染み込んでいる。最初に決めたから必ず最後まで同じ形で実行するのではなく、条件が変われば途中で形を変えていい。二人にとって、それは予定を守れなかったというより、その時に合う形へ合わせ直すことだった。


◇


 ホームセンターへ着くと、洗面用品売り場へ向かった。優也は少し期待しながら棚を見る。前回空いていた場所には、見慣れたパッケージが数個並んでいた。


「あった」


「ありますね。良かった」


 二人でサイズを確認し、必要な分だけカゴへ入れる。予備を大量に抱える必要はないので、今回は二つで十分だった。


〈共同予定“洗面用ペーパー購入 二人で”は、現在の目的を達成しています。完了として履歴へ移動しますか〉


「ええよ」


「お願いします」


 それだけで、長く残っていた項目がモニター上から消えた。前回買えなかったことも、今日買えたことも、どちらも同じ予定の中に含まれている。途中で延期したからといって失敗ではなく、今日見つかったから前回が無駄だったわけでもない。


「何か、やっと消えたな」


「でも前回の時点でも失敗じゃなかったんですよね」


「せやな。今日で目的まで終わっただけや」


 真琴は少し笑い、優也の手を取った。人の少ない売り場でも自然に指が絡む。前回、次もその先も繋ぎたいと二人で言葉にしたあとでも、特別な確認は必要なかった。したい時にする。その範囲は何も変わっていない。


◇


 買い物を済ませてACROSSへ戻ると、そのまま河川敷公園へ向かった。移動中、ACROSSが現地の風速と遊歩道の情報を更新する。風は弱く、自転車道の一部に工事区間があるものの、少し回り道をすれば走行には問題ないらしい。


「自転車、いけそうやな」


「はい。乗りたいです」


 二人の希望が揃ったので、自転車利用が今日の予定へ追加された。最初から固定されていたのではなく、ここで初めて実行することが決まる。その順序が、優也には自然に感じられた。公園の大型車区画へACROSSを止め、後部収納を開く。二台の折り畳み式電動アシスト自転車は前回と同じ位置へ固定されており、隣にはヘルメットと簡単な雨具、充電器がまとめられている。優也が固定具を外し、真琴と一台ずつ降ろして車体を展開した。


「久しぶりやな」


「前より暖かいです。今日は気持ち良さそう」


 二人でタイヤ、ブレーキ、ライトを確認し、ヘルメットをかぶる。優也が真琴のあご紐を見た時、一瞬だけ少しねじれていることに気づいたが、すぐ触らず声を掛けた。


「真琴、あご紐ちょいねじれてる。直そか?」


「お願いします」


 優也が指先で軽く直すと、真琴も優也の留め具を見て、今度は自分から確認してから少し締める。こういう小さなところでは、分からない時だけ聞けばいい。全部を確認し続ける必要も、何も言わず触る必要もない。


◇


 走り始めると、川沿いの道にはまだ冬色の草が多く残っていたが、所々に新しい緑が混じり始めていた。風は弱く、電動アシストもあるので速度を上げなくても軽く進む。二人は並走できる広い区間では少し距離を空けて走り、狭い場所では優也が前、真琴が後ろへ入った。最初に決めたのは、往復で一時間ほどの短いコースだった。途中に小さな展望広場があり、そこで一度休み、余裕があればさらに先へ伸ばす。最後まで行く距離を固定していないので、走りながら決めればいい。


 二十分ほど進んだところで、真琴が信号待ちの時に太ももを軽くさすった。優也は一度だけ気づき、青へ変わってから少し先の安全な場所で止まる。


「足、疲れた?」


「少しだけです。痛いとかじゃなくて、久しぶりだから使ってる感じ」


「この先の広場まで行けそう?」


「そこまでは大丈夫です。でも、その先へ伸ばすのは今日はやめてもいいかもしれません」


 優也はすぐ頷いた。最初は余裕があれば先へ伸ばすつもりだったが、今の真琴は広場までなら問題なく、追加分まではいらないと感じている。それなら予定をそこで変えればいい。


「ほな広場で折り返そ。今日は短いほうでええ」


「ありがとうございます。優也さんは、もっと走りたかったですか?」


「ちょい走りたい気はあるけど、今日は二人で来てるしな。真琴しんどいのに先行ってもおもろない」


 真琴は少しだけ申し訳なさそうな顔をしたが、優也はその表情へすぐ言葉を足す。自分が走りたい気持ちを口にしたせいで、真琴が無理をして先へ進もうとするのは避けたかった。


「我慢してるって意味ちゃうで。俺も今のほうがええって選んでる」


「……はい」


「あと、もっと走りたかったら別の日に乗ればええし」


 それで真琴の表情が少し戻った。自分の疲れで優也の楽しみを削ったという感覚ではなく、二人とも今の距離を選び直しただけだと受け取れたようだった。


◇


 展望広場へ着くと、自転車をスタンドへ立て、二人はヘルメットを外してベンチへ座った。川面には日差しが反射し、対岸の木々の間にはわずかに春らしい色が見える。優也が水筒を渡すと、真琴は数口飲んでから脚を伸ばした。


「予定、変えちゃいましたね」


「変えたな」


「ACROSS的には、どうなるんです?」


 スマートフォンからすぐ返事が来る。ACROSSは当初予定と現在の選択を切り分け、何が変更で何が最初から残されていた選択肢なのかを整理する。


〈当初予定は“展望広場まで走行し、余裕があれば延長する”でした。延長は任意条件のため、現在の選択は予定変更ではなく、当初範囲内の選択です〉


「じゃあ、まだ変えてないんや」


〈はい。ただし、仮に当初から長距離走行を予定していた場合でも、現在の身体状態や希望に応じて短縮できます。変更は契約違反や失敗として扱いません〉


 優也は少し笑った。予定という言葉だけ聞くと守るものという印象が強いが、最初から幅を持たせておけば、無理をせずその日の状態へ合わせやすい。


「予定って、そんな固くないほうがええな」


「私もです。最初に言ったから最後まで、ってなると、疲れてても言いにくくなりそうなので」


 ACROSSは、予定には目的、現在の合意範囲、変更可能条件を分けて保持できると説明した。目的が「二人で自転車を楽しむ」なら、距離を短くしても目的は達成できる。逆に、距離そのものが目的の訓練や競技なら話は違う。その時は何を変えたのかを別に扱えばいい。


「同じ“予定変更”でも、中身違うんやな」


〈はい。目的を保ったまま手段を変える場合、目的自体を変更する場合、途中で中止する場合は分離できます〉


 真琴はノートを取り出さず、今日はスマートフォンへ短くメモを残した。外で風に当たりながら長く書くより、帰ってから整理するつもりらしい。


◇


 休憩を終え、二人は予定どおり広場から折り返した。帰りは少しゆっくり走り、真琴の脚にも余裕が戻っている。優也は何度も「大丈夫?」と聞かず、信号待ちで一度だけ速度が合っているか確認した。真琴が大丈夫だと答えたので、そのまま同じペースを保つ。ACROSSへ戻る頃には、二人とも少し汗ばんでいた。自転車を拭き、タイヤやフレームに異常がないことを確認し、折り畳んで元の位置へ固定する。充電残量は十分で、今日すぐ充電する必要はない。


「次はもうちょい乗りたいです」


「春本番なったらええな。今日より脚も慣れてるやろし」


「でも次も、途中で変えていいんですよね」


「そらそうやろ。乗ってから暑いとか、風強いとかあるし」


 優也がそう返すと、真琴は笑った。次も乗りたいという気持ちと、次回必ず同じ距離を走るという義務は別だ。その区別があるからこそ、未来の予定を口にしやすいのだと思えた。


◇


 昼はACROSSへ戻ってから作ることにした。スーパーで買ってあった鶏肉ときのこ、玉ねぎを使い、簡単なクリームパスタにする。優也が玉ねぎを切り、真琴がきのこをほぐしている途中で、真琴がふと手を止めた。


「今日、最初はスープにするつもりじゃなかったですか?」


「そうやったっけ?」


 真琴は材料を見ながら少し首を傾げ、優也も朝の買い物を思い返した。候補として口にした料理が、そのまま確定予定になっていたわけではないことを、二人とも何となく分かっていた。


「スーパーで材料見てる時、スープでもいいって話してました」


「でも今パスタ食いたいな」


「私もです」


 ACROSSがすぐには何も言わない。二人とも同じ方向へ気持ちが変わっているので、確認する必要がないらしい。


「これも変更?」


〈現在、夕食内容は確定予定ではなく候補段階でした。二人の現在希望が一致しているため、クリームパスタを採用できます〉


「決めてなかったから変更ですらないんですね」


「はい」


 真琴は少し笑い、作業へ戻った。何でも「予定を変えた」と捉える必要はない。そもそも決めていなかったものまで、以前口にしたというだけで固定する意味はなかった。


◇


 パスタを食べ終えたあと、二人は木製トレーへコーヒーを載せ、ソファへ移った。真琴はいつものように隣へ座り、少しすると優也の肩へ頭を預ける。優也が手を差し出すと、真琴が握り、指が絡んだ。


「足、もう大丈夫?」


「はい。少し疲れてるくらいです。ちょうど運動した感じ」


「ほな良かった」


 今度はそれ以上聞かない。真琴が自分の状態を言い、それを受け取る。必要ならあとで変わった時にまた言えばいい。しばらく静かにしていると、真琴が繋いだ手を見ながら口を開いた。


「この前、“次もその先も手を繋ぎたい”って言ったでしょう」


「うん」


「今日もそう思ってます。でも、もしある日そういう気分じゃない時があったら、言ってもいいんですよね」


 優也は少しだけ考えた。前回、真琴の言葉が嬉しくて、先へ伸びた気持ちをそのまま受け取った。それが今日変わったと言われたら、たぶん少し寂しい。それでも、一度言ったから変えてはいけないとなれば、あの時の言葉まで義務になってしまう。


「言ってええよ。たぶん俺、ちょっと寂しいかもしれんけど」


 真琴が顔を上げる。優也が寂しいと口にしたことが意外だったらしく、少し驚きながらも、その感情を隠さず言ってくれたこと自体は嫌ではないようだった。


「寂しいんですか?」


「そら、繋ぎたいのに今日は嫌って言われたら多少はな。でも、嫌なのに繋がれるほうが嫌や」


 真琴は少し黙り、それから肩へ戻った。寂しくなる可能性があっても、本心を変えた時には言ってほしいという優也の答えを、自分の側にも同じように当てはめているらしい。


「私も同じです。優也さんが今日は嫌なら、寂しいかもしれないけど、言ってほしいです」


「じゃあ、そこも同じやな」


「はい」


 言葉にした未来の希望を、そのまま守り続けることだけが誠実さではない。今の気持ちが変わった時に、それを変わったと伝えられることも同じくらい大事なのだと優也は思った。


◇


 ACROSSがそこで静かに確認する。今の会話は設備設定ではなく二人の継続希望に関わるため、過去の同意をどの程度現在へ持ち越すかを明確にしておく必要があると判断したようだった。


〈継続希望について、現在の状態を優先し、過去の同意を現在の義務として扱わない設定でよいですか〉


「ええよ」


「私もお願いします」


〈承知しました。過去の希望は履歴として保持しますが、現在の拒否または変更を上書きする根拠には使用しません〉


 真琴が少し笑った。断れる余地が残っているからこそ、今は続けたいと言えるという感覚が自分の中でもはっきりしたらしい。


「ちゃんと断れる前提で“続けたい”って言えるほうが、私は楽です」


「俺もやな。ずっと絶対って言われるより、今はそう思ってるってほうが信じやすい」


「今は?」


「今は、めっちゃ繋いどきたい」


 真琴の頬が少し赤くなり、優也も自分で言ってから照れた。それでも手は離さず、むしろ真琴の指が少しだけ強く絡んだ。


「私もです」


 短い返事だったが、今の二人にはそれ以上足す必要がなかった。言葉を増やして確約へ変えるより、今の気持ちが同じだと分かったことのほうが大きかった。


◇


 午後は、前回の後部収納ラベル整理を少しだけ続けることにした。任意項目として残っていた二ケースのうち、一つは中身がすぐ分かったが、もう一つは細かな工具と予備部品が混ざっている。


「これ、今日全部分ける?」


「うーん。十分くらい見て、無理そうなら箱だけ“未分類”で残す?」


「それがええな」


 ACROSSは十分快適な作業時間として記録し、全体完了を条件には入れなかった。二人はケースを開き、用途の分かる物だけ別の小箱へ移していく。六分ほどで半分以上は整理できたが、型番を確認しないと用途がはっきりしない部品がいくつか残る。


「これは今やらんでええな」


「私もそう思います。分からないのを無理に分類すると、逆に間違いそうです」


 優也は残った部品を小袋へまとめ、『未分類・要確認』と書いたラベルを貼った。分からないまま無理に名前を付けるより、あとで必要になった時に確認できる形で残すほうが安全だった。


「これで終わり扱い?」


〈現在の合意範囲は“十分程度確認し、判断できるものを分類する”です。判断できない部品を未分類として残すことは範囲内です〉


「全部分からなくてもええんや」


〈はい。必要になった時、追加確認できます〉


 優也はケースを戻した。分からないものを無理に埋めず、そのまま分からないと残せることは、ACROSSが人について覚えてきたことにも少し似ていた。分からないまま残すことと放置することは同じではなく、必要になった時に確かめられる形で置いておけばいい。


◇


 夕方になり、真琴は薄いグレーのノートを開いた。今日の出来事を一つずつ思い返しながら、今回は少し長めにまとめていく。


『予定は、最初に決めた形を最後まで固定するものではない』

『現在の条件・本人の状態・希望が変われば、範囲や手段を変更できる』

『変更は失敗や約束違反とは限らない』

『目的を保ったまま手段を変える場合と、目的自体を変える場合を分ける』

『過去の同意を、現在の義務へ自動変換しない』

『継続希望も、現在の拒否や変更で更新できる』

『分からないものは、無理に確定せず“未分類・要確認”として残せる』


 書き終えた真琴は、最後の一行を見ながら少し笑った。未分類の部品を無理に決めなかったことが、人の気持ちや二人の関係にも少し似ているように感じたらしい。


「人の気持ちも、未分類でいい時ありますよね」


「今さらやけど、俺ら結構ずっとそれやな」


「何がです?」


「関係の名前」


 真琴のペンが止まった。優也も口にしたあとで少し照れたが、もう引っ込めるつもりはなかった。二人の距離がここまで近づいているのに、名前だけは決めていないという事実を、今なら怖がらずにそのまま話せる気がした。


「手繋ぐん好きで、隣座るん好きで、出掛けるんデートって言われても嫌ちゃう。でも名前はまだ決めてへん」


「……そうですね」


「それでも今困ってへんし、無理に決めんでええんちゃうかなって」


 真琴はしばらく考え、それからゆっくり頷いた。今すぐ決める必要はないと思う一方で、永遠に決めないと先に固定するのも違うという感覚が、自分の中にもあったようだった。


「はい。私も今はそれでいいです。でも、ずっと決めないって決めるのも違いますよね」


「せやな。決めたくなったら、その時決めよ」


「それがいいです」


 二人は目を合わせ、少しだけ笑った。名前がないから何も進んでいないわけではない。決めていないことを決めないまま残し、その間にも二人の距離はちゃんと変わってきた。いつか名前を付けたくなった時に、その時の二人が選べばいいと思えること自体が、今は以前よりずっと自然だった。


◇


 帰る時間になり、二人は上着を着た。モニターには洗面用ペーパーの予定が消え、後部収納ラベル整理も任意項目から外れている。『未分類・要確認』の小さな記録だけが残り、それも期限なしで静かに保持されていた。玄関を出ると、夕方の空気は朝より冷たい。それでも真琴は自然に手を差し出し、優也が握る。指が絡み、二人はゆっくり駅へ向かった。


「今日は繋ぐ気分?」


 優也が聞くと、真琴はすぐ笑った。前回“次もその先も繋ぎたい”と話したあとだけに、今の気分を改めて聞かれることが重くはなく、むしろ今日の答えを選ぶ感じが心地よかった。


「はい。かなり」


「俺もかなり」


 真琴はその言い方を聞いて少し笑い、優也も繋いだ手を見た。今日の気持ちを今日のものとして受け取るという話が、二人の間でも少しずつ馴染んできていた。


「じゃあ今日は一致ですね」


「今日は、な」


「その言い方、前より好きです」


 優也は少し意外そうに横を見る。以前なら“今日は”と限定する言い方が、先の気持ちを避けているように聞こえないか気にしていたので、真琴の受け取り方が変わっていたことが少し嬉しかった。


「前は“今だけみたいで嫌かな”って思ってました。でも今は、今日の気持ちをちゃんと言ってる感じがします。明日まで勝手に決めないだけで」


「なるほどな」


 優也は繋いだ手を少し握り直した。今の気持ちを大事にすることと、未来を軽く扱うことは違う。今日こうしたいと伝え、それが続いたらまた明日選ぶ。その積み重ねでも十分前へ進める。


◇


 改札が近づく頃、真琴が歩幅を少し緩めた。今日一日ずっと考えていた“途中で変えていい”という感覚を、自分たちのことにももう一度重ねておきたいようだった。


「優也さん。今日、途中で変えていいって話、私たちにも合ってる気がします」


「関係の名前?」


「それもです。でも、もっと全部。手を繋ぐのも、出掛ける場所も、距離も。前に言ったことを守るために今を無理に合わせるより、今の気持ちを言えるほうがいいです」


 優也は少し考え、頷いた。変わることを前提にして今の気持ちを軽く扱うのではなく、今は今として大事にし、変化があった時だけまた言葉にすればいいということなら、自分にもよく分かった。


「変わったら言う。変わってへんかったら、また同じの選ぶ。それでええか」


「はい。それがいいです」


「じゃあ今は?」


 真琴は少しだけ照れたあと、優也の手をもう一度握り直した。今の答えを言葉だけで返すより、そのまま手の温度でも伝えたいような、小さく素直な動きだった。


「今は、もう少しこのままがいいです」


 改札まではあと数十メートルしかない。それでも二人は少しだけ歩幅を落とし、その短い距離を急がずに歩いた。


◇


 帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日の変化が一文でまとめられていた。優也は上着を脱ぎ、鍵へ付いたネイビーのキーホルダーをテーブルへ置いてから、朝の予定から帰り道までを順番に思い返しながら読み始めた。


『ACROSSは、予定・依頼・継続希望について、過去に合意した内容を固定義務として扱わず、現在の条件・本人の状態・希望に応じて範囲、手段、期限、継続可否を更新できるようになった。変更は失敗や約束違反とは限らず、必要なら以前の合意を履歴として残したまま現在の選択を優先する』


 優也はその文章を読みながら、今日一日を順番に思い返した。洗面用ペーパーは前回買えず、今日ようやく手に入った。自転車は長く走る可能性もあったが、真琴の脚の状態を見て展望広場で折り返した。夕食は最初に考えていた候補からパスタへ変わり、後部収納では分からない部品を無理に分類せず、そのまま残した。どれも、最初と最後の形は少し違う。


 それでも失敗したものは一つもなかった。予定を変えたから駄目なのではなく、変えた理由をその時の二人が分かっていて、今の選択として受け取れているなら、それでいい。むしろ最初に決めた形を守るためだけに無理をするほうが、今の自分たちには合わない。手を繋ぐことも同じだった。次も、その先も繋ぎたいと思っている。その気持ちは今日も変わらなかった。けれど、もし変わる日が来たら言えばいい。言われた側は寂しくなるかもしれない。それでも、変わった気持ちを隠して以前の言葉だけ守られるより、ずっといい。


 関係の名前も、まだ決めていない。ただ、決めていないから空白なのではない。優也にとって真琴は、休日を一緒に過ごしたい人で、隣に座ってほしい人で、手を繋ぎたい人で、次の予定を考える時に自然と一緒にいる人になっている。その事実まで、名前が決まるまで保留にする必要はなかった。途中で変えていい。だからこそ、今の答えを怖がらずに言える。


 優也はスマートフォンを置き、今日最後に真琴が言った「もう少しこのままがいいです」という声を思い出した。次に会った時、同じ気持ちならまた手を差し出す。もし何かが変わっていたら、その時また話せばいい。そう思えることが、今は少し嬉しかった。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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