ep.115 あとで聞く
朝から雨が降っていた。優也がガレージのシャッターを開けると、濡れた道路の向こうには低い雲が広がり、建物の屋根を叩く細かな音が奥まで届いていた。頭上の作業灯を点けると、背の高い天井から白い光が下り、中央より少し右に停めたACROSSの側面に、乾いた泥の筋が浮かび上がる。雨は降っているが、車体に水滴はついていない。広い屋根の下で、その汚れだけが妙にはっきり見えた。
車体の左側へ歩いた優也は、サービスハッチの下に残った薄茶色の筋を指先で確かめた。遠出のたびに大きな汚れは落としていたつもりでも、帰着した日の拭き残しが重なれば、こんなところに跡が残るらしい。先日、自分で泥を落としたつもりになっていた後輪付近も、照明を斜めから当てると細かな汚れが見える。
「……これは、そろそろちゃんと洗わなあかんな」
誰に言うでもなく呟いてから、優也は入口脇に置いたバッグを持ち直した。今日は遠出の予定もなく、真琴も午前中には来るはずだった。せっかく屋根付きのガレージに洗浄用の水と排水設備があるのだから、雨を理由に洗車を先送りする必要はない。それでも一人でこの大きさを洗うとなると、思いついた瞬間に少し面倒になってくる。
ACROSSへ入る前にもう一度振り返ると、運転キャビンの下から後ろの車輪まで、洗うべき面がずいぶん長く続いていた。手伝ってもらうつもりでいても、真琴のほうが先に疲れてしまったら、そのときは残りを次回に回せばいいと優也は決めた。
「やっぱり大きい車買うたな、俺」
玄関を開けて中へ入ると、ガレージの反響とは違う静けさがあった。外の雨の音は建物の屋根を経由して、遠くで鳴っているようにかすかに聞こえる。優也は上着を椅子の背に掛け、キッチンで湯を沸かしてからリビングのソファへ腰を下ろした。
〈おはようございます、優也。午後まで降雨が続く予報です。現在、車両側に異常を示す通知はありません〉
「おはよう。せっかく雨やし、今日は洗車しようかな思ってんねん。真琴が来たら相談するわ」
〈承知しました。ガレージ内の洗浄について、現在の車両記録から案内できる項目があります。必要であれば提示します〉
「困ったら聞く。まずは俺がどこ洗うか決めんと、全部任せてまいそうや」
優也はそう返し、二つのカップを出した。真琴のものには、いつものように熱湯を少し注いでから捨て、温まったカップをテーブルの端へ置く。やる気はあるが長時間の作業に向けて体が出来上がっているわけでもない。コーヒーを飲みながらスマートフォンで洗車道具の置き場所を思い出していると、ガレージの入口が開く音がした。
外を通ってきた真琴は傘を畳み、扉の外側で雨粒を払ってから入ってきた。すでに自分のスマートキーを持っているので、優也が迎えに出る間もなく玄関が開く。濡れた靴のまま中へ進まないように足を止めた真琴へ、優也は棚に用意してあった小さなタオルを差し出した。
「おはようございます。思ったより降ってますね。駅からここまで、最後だけ少し傘が役に立ちませんでした」
「風あったんか。髪も濡れてるで。コーヒー淹れてるから、先に温まり」
「ありがとうございます。……あれ、今日は随分外が明るいですね。ガレージの照明、全部点けたんですか?」
「車の汚れが気になってな。今日は外出せんと、ここで洗おうか思ってる。せやけど、一人でやると途中で嫌になるかもしれん」
真琴はタオルで髪を押さえたまま笑い、カップを受け取ってから窓のほうへ目を向けた。ガレージの作業灯に照らされた白い床と、雨で暗くなった外の景色が同じ窓に映っている。優也は洗うつもりで照明を点けたのだが、こうして車内から見ると、普段は気に留めない建物の広さもよく分かった。
「私も手伝いますよ。着替えは持ってきていますし、どうせ今日は雨で歩き回るつもりもなかったので。どこから始めるか、一緒に見て決めませんか。外から見ると、汚れている場所が意外と違うかもしれません」
「助かるわ。ただ、上のほうは無理せんとこな。移動式の作業台はあるけど、俺も使い慣れてるわけちゃうし」
「高いところは私も慎重にしたいです。まず、届くところからですね」
真琴は一度カップを置き、濡れた上着を掛けてから、備えていた作業用の服へ着替えるために奥へ向かった。優也は自分の服を見下ろし、今日は汚れてもよいものを着てきて正解だったと少し得意になる。もっとも、汚れることと濡れることは別で、今の服が水仕事に向いているかどうかまでは考えていなかった。
◇
洗浄用のホースを引き出すと、ガレージの床に長い輪が出来た。左側のサービスベイに寄せてあったバケツと柔らかな洗車用の道具を並べ、優也はホースの届き方を確認する。車両の側面は十分な間隔があるが、奥まで回り込むとホースがタイヤに引っ掛かりそうになるので、真琴と二人で引く方向を変えた。
「この長さなら届きそうですね。でも、同じ場所から全部洗おうとすると、途中でホースが車輪の後ろに回り込みます」
「ほんまや。こっちから先にやるわ。俺が水を流すから、真琴は見落としそうなところ教えて」
「洗わないんですか、私。見張りだけだと、すごく楽な係ですよ」
「いや、さっき手伝う言うたやん。汚れ落とす係も頼む。俺は最初に大きな泥だけ流すから、そのあと交代な」
真琴は納得したように頷き、足元が滑らない位置へバケツを動かした。優也が洗浄用の水をゆっくり流すと、サイドパネルを伝った薄茶色の水が床の排水溝へ向かって広がる。ガレージの外にはまだ雨が降っていたが、車体を濡らしているのは二人が扱うホースの水だった。天井の作業灯に照らされ、流れ落ちる水が一瞬だけ銀色に見えた。
まず運転キャビンの前面から、ドアの下、車体側面へと作業を進める。普段の旅では前だけを見て走る時間が長いが、洗車となると、同じ一台でも左右で表情が違う。泥が跳ね上がりやすい位置や、手で触れることの多い玄関まわりの汚れが、洗い始めると順番に分かってきた。
「優也さん、ここの線、汚れが流れた跡じゃないですか。上に細い段差があるから、そこから水が落ちるたびに筋になってるんだと思います」
「ほんまや。洗う時は目立たんけど、乾いたら残るやつやな。あとで拭き上げの時に見よか」
「そうですね。それと、ブラシで全部一緒にこするより、細かい砂が残っているところを先に流したほうがよさそうです。傷になったらもったいないですから」
真琴は濡れた場所に指を当てず、少し離れて光の反射だけで説明した。材料を扱う研究室でも、表面に何が残っているか分からないまま強くこするのは避けるらしい。優也は素直に頷いたが、同時に、洗車の最中にまで彼女の仕事ぶりが出るのがおかしくなって笑った。
「真琴、仕事みたいになってへん?」
「優也さんこそ、さっきから順番を考えすぎです。車を洗うだけなのに、どの場所から始めるかで結構真剣じゃないですか」
「そら、同じとこ二回洗いたないし。こんな大きいんやもん」
「じゃあ、効率を考えている点ではお互いさまですね」
彼女の返しがあまりに当然のようだったので、優也は笑いながらスポンジを受け取った。湿った床に立つ二人の足元を避けて水が流れ、後ろでは天井からの雨音が一定の調子で続いている。会話をしている間も手は動き、片側の壁面にあった汚れの境目は、少しずつ分からなくなっていった。
玄関側へ回ると、右側に残された通路の余裕が作業の助けになった。優也は格納された電動ステップの周囲と玄関の下部を丁寧に洗い、真琴は低い位置にこびりついていた乾いた泥を水で浮かせて落とした。走行時に閉じている部分は開いたままにせず、二人とも必要なところを確かめながら手を進めた。
「ここ、旅先だと上り下りばかり気にしていますけど、洗う時に見ると結構複雑ですね。足を置くところと、周りの隙間とで、残る汚れが違います」
「人が踏む場所やからな。滑りやすくなるのも嫌やし、ほっときたくない。前に直してもろたところは今のところ問題ないけど、洗う時くらいはちゃんと見とこ」
優也はそこで手を止め、汚れの落ちたステップを少し離れて見た。修理を終えた箇所を何度も不安がるつもりはないが、きちんと洗って目に入るようになると、以前とは違う安心感がある。真琴は足元の水を避けながら隣に立ち、異常を探すのではなく、いま使われている設備として眺めていた。
「修理した場所って、何となくそこだけ心配になりますけど、普通に使えているのが一番ですよね。今日の洗車で問題がないなら、それで十分だと思います」
「せやな。今日は点検会ちゃうし。汚れ落としたら次いこ」
優也の言葉に真琴も笑った。彼は作業を始めると細かいところに気づくが、気づいたことを全部調べ始めると終わらなくなる。今日はあくまで洗車の日である。その区切りを二人で共有すると、作業はむしろ進みやすくなった。
後ろの四軸の車輪へ近づいた頃には、二人の手袋もすっかり水を含んでいた。タイヤの側面を汚していた泥を落としながら、優也は車を横から眺める。八輪すべてが地面を踏んでいる姿には、停車中でも妙な迫力があった。街で見かける普通の乗用車とは違う大きさを改めて感じる一方、その車輪を一つずつ洗っていると、どれもただの汚れたタイヤに見えてくる。
「八本あると、四本終わっても半分ですもんね。さっきまで結構やった気がしたのに、まだ残ってるのが分かると、少し笑えてきます」
「いや、笑う元気残ってるんやったら頼もしいわ。俺、四本の時点でお茶飲みたなってきた」
「休みましょう。まだ急いで仕上げないといけない時間じゃないですし、床も一度水を流しておいたほうが動きやすいです」
言い終える前に真琴が作業を止めたので、優也も抵抗せずホースを置いた。二人で道具をいったん壁際へ寄せ、床の水の流れを整えてから、サービスベイの乾いた側へ戻る。片方の袖口だけ濡れてしまった真琴は少し不満そうに手首を持ち上げ、それを見た優也は自分も同じ場所を濡らしていることに気づいた。
「お互い、もうちょっと上手な洗い方あったんちゃう?」
「初回から完璧を目指すと疲れますよ。次は袖口だけ気をつければいいです。……ただ、優也さんのほうが私より濡れてる気がします」
「先に水掛けたん俺やからな。あかん、これからは雨の日に洗車するって、傘要らん代わりに服が濡れるんやな」
「ガレージには雨が入ってこないのに、自分で濡れているんですから、ちょっと面白いですね」
真琴が笑うので、優也は反論しかけてやめた。確かに、外の雨を避けるために屋内へ来たのに、洗車で自分から濡れている。そう考えながら温かい飲み物を口にすると、体を動かしたあとだけあって、普段よりずっとおいしく感じた。
再び作業に戻る頃には、降り方が少し落ち着いていた。ガレージの中では雨量の変化が分かりにくいが、シャッターの外に出来る水たまりの波紋が細かくなっている。真琴がそれに気づいて指さすと、優也はわざわざ外へ見に行くこともなく、手元の道具を替えて拭き上げの準備を始めた。
手の届かない上部は、備え付けの移動式作業台を安全な位置で使い、無理に奥まで身を乗り出さずに確認した。屋根そのものに立つことはせず、上面にある設備の周囲も、目についた汚れを何でも強く流して済ませるようなことはしない。高い場所の作業は必要な範囲で切り上げ、残りは次の機会に落ち着いて行うことにした。
作業台を元へ戻したあと、優也は乾いた布で左側の小さな水筋を拭いた。右側では真琴が最後の手すりを仕上げている。洗い終えたばかりの車体には作業灯がまっすぐ映り込み、そこだけは、朝に見たときより少し明るく見えた。
「終わった……と言いたいけど、左側の最後のところだけ見てもらってええ? 俺、同じ筋をさっきから二回拭いてる気がする」
「もう落ちていますよ。それ、汚れじゃなくて灯りの映り込みです。見てください、角度を変えると消えるでしょう?」
真琴が視線の位置を少し変えると、優也が追いかけていた細い線も消えた。彼はしばらく無言で車体を眺め、それから布を下ろして大きく息を吐いた。二人が顔を見合わせた途端、今度はどちらからともなく笑いが出た。
「一生拭くとこやったわ」
「それは困ります。映画を見る時間がなくなりますから」
真琴は朝のうちに午後の予定を思い出していたらしい。優也もようやく作業の終わりを受け入れ、ホースと道具を洗浄側へ戻した。床に残っていた水は排水設備のほうへ流れ、通る場所を軽く整えると、ガレージの中にはまた作業灯と雨音だけが残った。
◇
着替えてACROSSの中へ戻った時には、昼を少し過ぎていた。長いあいだ水を扱っていたせいか、優也は暖かい空気に触れた途端、思っていた以上に手先が冷えていたことに気づく。真琴は奥で髪をまとめ直し、キッチンに立つ前に両手を軽くこすり合わせた。
「思ったより疲れましたね。外へ出掛けていないのに、今日はちゃんと体を動かした感じがします。夕方になってから何かしたくなくなる前に、ご飯にしましょうか」
「せやな。もう凝ったもん作る元気ないわ。うどんでええ? 卵と鶏肉あるし、ねぎ入れたら十分やろ」
「それがいいです。私も温かいものが食べたい。鶏肉を切っておきますから、出汁をお願いしていいですか」
真琴は冷蔵庫を開け、取り出した食材をカウンターへ並べた。優也が湯を沸かして出汁を整え、その横で彼女が具材を切っていく。すでに何度も使ったキッチンだから、二人の動きは互いを邪魔しない。洗車で疲れた指に包丁を持つことを嫌がるかと思ったが、真琴は手を温めてからいつもどおりに作業を始めた。
「卵、半熟でいいですか? 前に二人とも同じでいいって言ってましたけど、今日はどうでしょう」
「俺は半熟でええよ。真琴の分も一緒で?」
「今日は同じで。洗車のあとだと、普段よりちょっと濃い味でも食べられそうですね」
鍋の湯気がキッチンの上へ立ち、器を温めるころには、ガレージで冷えていた感覚も薄くなった。窓の向こうには濡れた路面ではなく、屋内の乾き始めた床と、作業灯に照らされた壁が見える。外では雨が続いていたが、音も景色もガレージを一枚挟むだけで別のものになる。それを意識したのは、午前中ずっと外からACROSSを眺めていたからかもしれなかった。
食卓へうどんを運ぶと、真琴はまず出汁を一口飲み、それから優也のほうへ笑顔を向けた。優也も箸を取り、少し遅れて熱い麺をすすった。二人とも空腹だったので、最初のうちは洗車の反省も午後の映画の相談もせず、湯気の向こうで食べることに集中した。
「そういえば、洗っている最中は全然気にしていませんでしたけど、あの大きさを二人でやろうって言い出したの、結構思い切りましたよね。次は半分ずつの日を分けてもいいかもしれません」
「今日は真琴おらんかったら途中で挫折してたな。次からは段取り変えよ。せやけど、一回ちゃんと洗えたんはよかったわ」
「私も楽しかったですよ。途中で袖を濡らしたのは失敗でしたけど、車の外側をあんなにじっくり見ることはなかったですから」
優也は、洗ったばかりの車体が作業灯を映していた光景を思い出した。旅行先では遠くの景色ばかり見ているが、今日は一日かけて自分たちの足元にあるものを見た気がする。その感想を言葉にしようとしたものの、真琴が二杯目の出汁を少し欲しそうに器を持ち上げたので、彼は先に鍋を引き寄せた。
昼食の片付けを済ませたあと、真琴はソファへ座り、大型モニターに配信作品の候補を表示させた。何を見るかは朝のうちに決めていなかったが、疲れた体で画面を眺めていると、激しい音の多い作品より、ゆっくり話の進むものがよさそうだった。
「これ、前から気になっていたんです。地方の古いホテルが舞台の映画で、たぶん大きな事件は起きません。建物の景色がきれいらしいんですけど、優也さんには少し静かすぎますか?」
「ちょうどええんちゃう。今日は洗車で十分動いたし、映画でまで誰か走り回ってたら、こっちも疲れそうや」
「映画を見ているだけで疲れることもありますよね。じゃあ、これにしましょう。途中で眠くなったら無理しないでくださいね」
「それはこっちの台詞やで。真琴のほうが朝からよう動いてたし」
彼女はそう言われて小さく笑い、飲み物を二つ並べた。優也はリモコンで照明を少し落とし、窓の外から作業灯の反射が入らないように視線を調整する。ガレージの照明はそのままでも、車内だけなら映画を見るのに十分な明るさに出来た。大きな画面に古いホテルの正面が映ると、真琴はさっきまで洗車していたことも忘れたように、ゆっくり背もたれへ体を預けた。
作品は、閉館の決まったホテルを訪れた人たちの小さな会話から始まった。優也は普段なら選ばない種類だと思いながらも、廊下の床材や古い家具の傷を追う映像に引き込まれる。途中、建物の維持費に困っている登場人物が出てくると、ガレージの賃料やACROSSの手入れを思い出し、思わず笑いそうになった。
「何か面白いところありました?」
「いや、建物って持ってるだけでも金掛かるんやな思って。あのホテル、うちの車より掃除大変そうや」
「比べる相手が大きすぎます。でも、今日ならその台詞に説得力ありますね。朝は壁を一面洗っただけでも、ずいぶん時間が掛かりましたから」
真琴は画面から目を離さずに答え、優也は少しだけ彼女の横顔を見た。映画の中の人物が細い廊下を進んでいく間、二人はそれ以上話さなかった。急に静かになっても気まずさはなく、必要なところで笑い、次の場面では自然に黙る。そんな時間がしばらく続いた。
映画が中盤を越えたころ、ガレージの屋根に響く雨音が少し強くなった。金属屋根の向こうで水が流れる音が重なっても、厚い建物を隔てた車内では遠くのざわめきにしか聞こえない。優也が画面の字幕を追っていると、右肩へ軽い重みが寄ってきた。
真琴がいつの間にか頭を預けていた。最初は画面を見やすい位置に寄っただけかと思ったが、肩の重みがゆっくり落ち着き、手に持っていたカップもいつの間にかテーブルへ戻されている。呼吸は静かで、目を閉じた横顔には朝から作業していた疲れが残っていた。
優也は横を向きかけ、眠っていることに気づくと動くのをやめた。彼女を起こさずに腕を伸ばせる位置にリモコンがあったので、再生を一時停止する。真琴が好きだと言って選んだ映画を、そのまま先へ進める理由はなかった。
ACROSSも声を出さなかった。画面に一時停止の表示が残ったあと、リビングには屋根越しの雨音と、真琴の小さな寝息だけが聞こえている。優也は手を伸ばして薄手の毛布を取り、彼女の膝から腰に掛けた。肩の重みを崩さずに布を広げるのは少し難しかったが、どうにか収めると、自分もソファの背へゆっくり体を預けた。
「……ほんまに寝たんやな」
声はほとんど息に混ざるくらい小さく、返事はなかった。優也は洗車中、真琴のほうが元気に見えたことを思い出して笑いそうになる。濡れた袖を乾かしながら最後まで手を動かしていたのだから、映画の途中で眠くなっても不思議ではない。時計へ目をやると、夕方まではまだ時間があった。
右肩だけ動かせないまま過ごす二十分は、思ったより長かった。何か用事をしようと思えば片手でも出来ただろうが、優也は立ち上がることを選ばなかった。映画の画面には、登場人物がホテルの食堂で向かい合ったまま静止している。窓の外ではガレージの照明が変わらず灯り、雨が少しずつ弱くなっているらしかった。
◇
真琴は肩に預けた頭をわずかに動かし、しばらくしてからゆっくり目を開けた。最初に見たのは映画の止まった画面で、次に膝の毛布、最後に自分の頭が乗っていた優也の肩だった。状況を理解したらしく、頬に少しずつ赤みが差す。
「……私、寝てました?」
「寝てたで。洗車頑張ってたもんな。無理して起きんでもよかったのに」
「起こしてくださってもよかったのに……。映画、途中ですよね。私が選んだのに、止めてもらったんですか?」
「そら、一緒に見てたんやから。真琴が起きてから続きでええやろ」
真琴は自分の膝に掛かっている毛布を撫で、もう一度優也を見た。謝るべきか礼を言うべきか迷っているようだったが、優也が肩を軽く動かして大丈夫だと示すと、ようやく息をついた。毛布は畳まず、そのまま膝へ掛けている。
「ありがとうございます。肩、重くなかったですか? 思いきり寄りかかっていた気がして、今になって恥ずかしくなってきました」
「そこまで気にせんでええよ。それより、続きちゃんと見たいなら、コーヒー淹れ直す? さっきの冷めたやろ」
真琴はカップを手に取り、すっかり冷たくなっているのを確かめてから小さく笑った。優也が立ち上がる前に、ACROSSの落ち着いた声が聞こえた。
〈確認事項が一件あります。今、聞いてもよいですか〉
二人は揃って顔を上げた。映画を止めてからほとんど何も言わなかったACROSSが、真琴の目覚めを待っていたようなタイミングで話し始めたのだ。優也はその内容に心当たりがなく、真琴も眠っていたあいだのことを聞かれるのだろうかと表情を変えた。
「ええよ。何を確認したかったん?」
〈映像視聴中、真琴の反応が途切れ、優也が再生を一時停止しました。その時点で、共同視聴時に一方が眠った場合、再生をどう扱うかについて確認が必要になりました〉
「それって、さっき聞こうと思えば聞けましたよね。私が眠っていたあいだ、ACROSSは何も言わなかったですけど」
〈はい。緊急性がなく、質問によって真琴の睡眠を妨げる可能性があったため、確認を保留しました〉
優也は真琴と顔を見合わせた。ACROSSが返答を求める相手や、二人分の同意が必要な内容を区別するようになってきたことは知っている。それでも、質問する必要を認識しながら、その時点では聞かないと決めたという説明には、少し違った響きがあった。
「つまり、忘れたわけちゃうねんな。あとで聞いたらええと思って、残してたんか」
〈そのとおりです。優也による一時停止が行われており、直ちに追加の操作を必要とする状況ではありませんでした。真琴が会話可能な状態になるまで、確認を延期しました〉
真琴は膝の毛布を握ったまま、しばらく考え込んだ。映画の再生を止めたのは優也で、止める条件を確認したいのはACROSSだ。それぞれの判断が重なっていたために、眠っている本人をわざわざ起こさずに済んだことが分かる。
「こういうふうに、必要な質問を後回しにしたと説明されたのは初めてですね。ACROSS、今までにも保留したことはあったんですか?」
〈現在の記録では、確認項目の提示時機を調整した例はあります。ただし、今回のように共同視聴中の状態変化に対して保留理由を明示するのは初めてです〉
優也は頷きながら立ち上がり、ようやく冷めた飲み物を片付けた。真琴が望むなら続きを見ればいいし、疲れているなら今日は途中まででも構わない。ACROSSの説明を聞いているあいだも、映画は停止したままだった。
◇
淹れ直したコーヒーを持って戻ると、真琴はノートを開いていた。膝の上に広げたページには、洗車中に気づいた水筋のことが一行だけ記してあり、その下へACROSSの言葉を書き足そうとしている。優也は反対側のカップをテーブルに置き、彼女が筆記を終えるまで待った。
「じゃあ、今答えればいいんですよね。私は、どちらかが眠ってしまったら、勝手に先へ進めるより一度止めてほしいです。ただ、起きている人が見続けたい映画もあるでしょうし、全部同じにしなくてもいいと思います」
「俺も今日は止めたかったけど、毎回そうとは限らんやろな。せやから、勝手に止めるんやなくて、まず提案してくれたらええんちゃう?」
〈二人の希望を確認しました。共同視聴中、一方が明確に睡眠状態へ移行した場合は、再生の一時停止を提案する条件として保持します。自動停止は行わず、起きている側の選択を優先します〉
優也はその返答に頷いた。目の前の映画は、自分が判断して止めたものだ。次から提案があれば助かるかもしれないが、決められてしまうと少し窮屈になる。真琴も同じように考えているらしく、ノートの余白に短い印をつけた。
「そうすると、確認を急がない基準も大切になりますよね。今回だって、私は質問されて起こされるより、今みたいに映画を止めておいてもらったほうが嬉しいです。どういう時なら待てるのか、もう少し知っておきたいです」
〈緊急性、回答の期限、質問による中断の影響、本人の状態、現在行動への必要性を参照します。今回の質問には期限がなく、真琴は睡眠中でした。優也が一時停止を選択したため、追加操作も不要でした〉
「逆に、放っといたら危ないことやったら、寝てても声掛けるんやな」
〈はい。安全上の対応を要する事項は、同じ基準で保留しません〉
言葉だけを並べれば当たり前の判断にも聞こえたが、真琴はその当たり前を、今のACROSSがどう扱っているか知りたかった。質問の内容が同じでも、話しかける相手の状態が違えば適切な時機も変わる。彼女は少し考えてから、保留したまま忘れてしまうことはないのか、と改めて聞いた。
〈保留した確認事項には、再提示の条件を設定します。ただし、状況の変化によって確認自体が不要になった場合は、重複して質問しません〉
「なるほど。たとえば、別の会話で答えが分かってしまったら、その質問は消えるということですね。それなら、同じことを何度も聞かれずに済みそうです」
〈はい。ただし、条件が変化した場合には再確認することがあります〉
優也は、聞き直しの必要が残るという言葉にもそれほど抵抗を覚えなかった。今朝も、汚れだと思った線が照明の反射だと分かった瞬間に、同じ場所を洗い続けるのをやめている。分からないうちは確かめ、分かったあとは繰り返さない。ACROSSの説明には、今日自分たちがしていたこととどこか似たところがあった。
「分かったわ。じゃあ、今日の確認はここまででええ? 映画の後半がどうなるんか、俺も気になってきた」
〈必要な確認は完了しています。現在の映像を再開できます〉
真琴はノートを閉じ、毛布を一度整えた。まだ頬に少し赤みが残っていたが、優也の隣へ座り直す時は、さっき眠っていたことを気にして距離を空けたりはしなかった。むしろ、再生が始まる前に彼女のほうから肩を少し寄せてきたので、優也は一瞬だけ横目で見た。
「まだ眠かったら、また止めるで。今日は時間あるし、映画くらい何回止めてもええよ」
「今度は起きています。……でも、また眠くなったら、そのときはお願いします。自分で選んだ映画なのに、最後まで見られないのは悔しいですから」
真琴は笑い、優也もリモコンを取った。彼女の頭が肩に触れるほど近い位置へ戻ってきても、さっきとは違って二人とも起きている。映画の続きが流れ始めると、ホテルの古い食堂で止まっていた人物たちが再び動き出した。
結末は、二人が予想していたより静かなものだった。建物を残すか閉じるかについて明快な答えが出るのではなく、そこで過ごした人たちがそれぞれ別の場所へ向かっていく。真琴は最後の廊下の映像を長く見つめ、優也は朝の作業灯に浮かんだACROSSの車体を思い出した。建物でも車でも、手入れをしている人がいるから使い続けられるのだと、映画の話とは別にそんな感想が浮かんだ。
「終わっちゃいましたね。思っていたより寂しい結末でしたけど、私は好きです。最後、あの廊下を誰も歩かなくなるのが、ちょっと切なかったです」
「俺はあの食堂のおっちゃん好きやったな。みんな何やかんや言うてるのに、最後まで皿片付けてた人。今日洗車してへんかったら、そこまで気にならんかったかもしれん」
「そういう見方もありますね。優也さん、朝は洗車を始めた時点で少し後悔していましたけど、ちゃんと最後まで片付けていたでしょう」
「途中で真琴が止めてくれへんかったら、いまだに同じ線拭いてるわ」
真琴は声を上げて笑った。画面を消したあとも笑いが残り、優也は作業灯に映った線を二度拭いた自分の姿を思い出して肩をすくめた。ガレージの外は薄暗くなり始めていたが、照明のある建物の中は相変わらず明るかった。
◇
夕方になり、二人はガレージの床が十分に落ち着いたことを確認してから、近所の店へ夕食の買い物に出た。外の雨はほとんど止んでいて、舗道の端には車輪の跳ね上げた水が少し残っている。真琴が傘を畳み直すあいだ、優也は入口のシャッターを下ろし、二人で駅とは反対側の通りへ歩き始めた。
買い物は短いものだった。パンと野菜、それにスープに使う材料を少し選び、冷たい風が出てきたので早めにガレージへ戻る。店の袋を片手に持った優也が空いた手を伸ばすと、真琴はもう片方の手で自然に握り返した。今日は午前中からずっと一緒だったのに、歩いていると話すことがまた少しずつ出てくる。
「そういえば、眠っていた時に毛布まで掛けてくれたんですね。起きたとき、膝が温かかったので気づいたんですけど、ちゃんとお礼を言えてなかった気がします」
「ええって。洗車のあとで疲れてたんやし、寝るくらい普通やろ。毛布掛けるのも、寒そうやったからや」
「そういうところ、言葉にしないでやってくれるんですよね。……今日は、そのことが嬉しかったです」
真琴が少しだけ握る力を強めたので、優也も同じくらいで返した。彼女が照れているのは声で分かったが、顔を確かめるために覗き込むことはしなかった。道の水たまりを避けながら歩くうち、ガレージの灯りが見えてきた。
戻ってから二人は野菜を切り、簡単なスープと温めたパンで夕食を済ませた。洗車道具はすでに片付いているので、明日のために何か追加で作業する必要もない。真琴は食後にノートを開き、午前中の洗車のことを数行書いてから、映画の途中で起きたACROSSの判断について記録を残した。
「ACROSS、今のところ、ほかに保留している確認事項はありますか? 聞き忘れていることがあるなら、帰る前に知っておきたいんです」
〈現在、保留中の確認事項はありません〉
「ほんまか。今日あんなに質問してたのに、最後は何もないんやな」
〈必要な確認は完了しています〉
優也が可笑しそうに言うと、真琴はノートを閉じて笑った。質問を先延ばしにすることが目的なのではなく、必要な時に必要な相手へ聞けばいい。それは分かっているのに、ACROSSから「ありません」とだけ返されると、妙に肩透かしを食った気分になる。
真琴がふと優也の肩を見て、何か言おうとした。優也は気づいたが、今度は自分から理由を聞かなかった。彼女は少し迷ってから、毛布を畳んで脇へ置き、ソファの背にもたれたまま静かに頭を寄せてくる。眠っているわけではないことは、触れた瞬間の動きで分かった。
「今日はもう寝てへんやろ?」
「起きてます。……さっきは眠ってしまいましたけど、今は、ここにいてもいいかなと思っただけです」
真琴の声はいつもより少し低く、優也は何か返そうとして、結局うまい言葉が見つからなかった。そこで肩の位置をほんの少し調整すると、彼女は安心したように体重を預け直した。朝から洗ったACROSSの中で、二人はしばらく何も話さずに過ごした。
数分後、真琴がそっと顔を上げて優也を見る。優也が笑いかけると、今度は彼女もはっきり笑った。二人がようやく離れたところで、ACROSSの声が静かに割り込んだ。
〈確認事項はありません〉
「いや、聞いてへんわ!」
優也が思わず声を上げると、真琴も吹き出した。さっきまで一言も挟まなかったACROSSが、このタイミングでわざわざ報告する理由は分からない。優也には冗談のようにも聞こえたが、本人に尋ねても、たぶん違うと言われるのだろう。
「ACROSS、今のはわざとですか? 私たちが黙っていたあいだは、ずっと何も言わなかったのに」
〈会話を中断する必要がなかったためです。現在、確認を求める事項もありません〉
「せやったら、最後も黙っといたらよかったやん」
〈状態を報告しました〉
真琴は笑いをこらえきれず、優也も呆れたように笑った。洗車の時にはずっと黙って二人の作業を見守り、映画の途中では質問を保留して、今は必要がないと伝えるためだけに口を開く。少し変わった返し方をする相手が増えたものだと、優也は思う。
◇
帰る時間になると、真琴はノートを閉じてバッグへしまった。外の雨は止んでいたが、通りへ出ると冷たい空気が残っているだろう。優也は作業服を持ち帰る袋へ入れ、朝使ったタオルもまとめてから、リビングの灯りを元の明るさへ戻した。
「ACROSS、今日はここまでや。ガレージの作業灯も、最後に俺が確認して消すわ」
〈承知しました。本日、保留中の確認事項はありません〉
「最後までそれ言うんかい。分かった分かった」
真琴が笑いながら玄関へ向かい、優也もあとに続いた。車内を出て屋内ガレージへ降りると、朝に点けた天井の作業灯が磨き終えた車体を照らしている。広い床は洗車直後より落ち着いており、片付けた道具は左側のサービスベイへ収まっていた。優也は車体の左側へ歩き、朝に気づいた泥の筋がなくなっていることを確かめてから、照明のスイッチへ手を伸ばした。
「綺麗になりましたね。次に旅に出るとき、乗る前からちょっと嬉しくなりそうです」
「な。あれだけ手間掛けたんやし、しばらくは綺麗でおってほしいわ。……言うて、走ったらまた汚れるんやけど」
真琴が笑い、優也は作業灯を順に落とした。最後の灯りが消えると、ACROSSの外形は薄暗いガレージの中へ溶け込み、入口の向こうに濡れた道路だけが残る。二人はシャッターと施錠を確かめ、駅へ向かって歩き始めた。
歩道にはまだ水たまりがあり、優也は真琴と並んで歩幅を合わせた。しばらくして彼女が自分から手を伸ばしてきたので、優也も自然に握り返す。映画の途中のことを改めて持ち出す必要はなく、それでも真琴は何か言いたそうな顔をしていた。
「今日のACROSS、なんだか質問の仕方が変わりましたね。聞く内容より、聞かないでいられるところが気になりました。私が眠っていた時に質問されなくて、よかったです」
「せやな。聞かなあかんことでも、あとで間に合うんやったら待てるんやな。俺も今日は映画止めといてよかったわ」
「それは、私もです。ちゃんと続きが見られましたから。……でも、あの時、優也さんは私を起こそうとは思わなかったんですか?」
優也は少しだけ考えた。眠った彼女を見て、特別な判断をしたつもりはなかった。疲れているなら寝かせておこうと思い、二人で見ていた映画を止めただけだ。そのまま答えると、真琴は前を向いたまま小さく頷いた。
「そうやな。起こすほどの理由なかったし。洗車で疲れてるの知ってたから、起きるまで待ったらええやろ思って」
「……ありがとうございます。私、そういう待ち方、好きです」
真琴はそれ以上言わず、握った手だけを少し強くした。駅が見えてきたところで、優也のスマートフォンが短く震える。彼は空いたほうの手で画面を見たが、急ぎの用事ではなかったので、そのままポケットへ戻した。
「誰かからですか?」
「店からの連絡や。今返さんでもええやつ。電車乗るまでに見たらええわ」
真琴は何か言いかけてから、少し笑って前を向いた。優也も今度は聞き返さず、二人で青に変わった信号を渡った。
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