ep.114 片方だけでは
土曜日の朝、優也がガレージへ着いた時、真琴から届いたメッセージには「少し遅れます」とだけ書かれていた。いつもなら十時前には来るが、今日は用事を一つ済ませてから向かうらしい。時間までは書かれておらず、優也も急かすつもりはなかったので、「了解。ゆっくりでええで」とだけ返してACROSSへ入った。
〈おはようございます、優也〉
「おはよう。真琴ちょい遅れるって」
優也がスマートフォンをテーブルへ置くと、ACROSSは共有された予定から到着時刻がまだ決まっていないことだけを確認した。
〈確認しました。到着時刻は未定です〉
「まあ、そのうち来るやろ」
「はい」
優也はキッチンへ向かう前にスマートフォンを取り出し、事業用の管理画面を開いた。昨夜も道路工事の仕事を終えたあと、北摂リユース商会へ寄っている。店側で一次確認を終えた品のうち、判断を求められた数点だけ状態を確認し、価格について簡単に打ち合わせて帰った。
副業を始めたころのように、自分で品物を仕入れ、撮影し、出品して、問い合わせや発送まで一人で抱えることはもうない。提携店が受付から販売までを進め、優也が見るのは高額品や状態判断の難しい品、価格を決める前に一度確認してほしいものが中心になっていた。そのため、副業の仕事が入っても、平日の仕事帰りに店へ寄るだけで済む日が多い。
画面を切り替え、今度は今月の収支を見る。車両の返済、ガレージ、保険。それとは別に、税金や定期整備、消耗品に備える積立がある。燃料代は走った分だけ増えるが、それらを含めても、今月も通常の委託案件から残る利益の範囲に収まっていた。
大口案件が入ることもある。だが、それを前提にはしない。道路工事の給料までGRANZへ注ぎ込まなければ維持できない状態になったら、一度持ち方を見直す。買う前に決めた線は、今も変えていなかった。
返済予備資金にも手は付いていない。
「今月も大丈夫やな」
優也は画面を閉じ、今度こそキッチンへ向かった。
優也はキッチンで、自分の分だけコーヒーを淹れた。カップを持ってリビングへ戻ると、いつも真琴が座る隣の席が空いている。向かい側も空いているのに、なぜか隣のほうばかり目に入った。
今日は特に外出予定もなく、前回導入した共同条件がどんな場面で使われるのか、二人でゆっくり確認するつもりだった。とはいえ、真琴が来るまでは一人なので、優也は無線の問題集を開いて時間を潰すことにした。 十一時を少し過ぎた頃、ACROSSが声を出した。
〈優也。昼食について提案できます〉
「もうそんな時間か」
〈はい。優也単独時の条件では、簡易な食事を優先する傾向があります。現在の在庫では、蕎麦、冷凍炒飯、保存食から選択できます〉
優也は時計を見た。確かに腹は減ってきている。けれど、真琴が来るなら一緒に食べるつもりだったので、すぐに何か作る気にはならなかった。
「いや、まだええわ。真琴来るまで待つ」
〈承知しました〉
返答はそれだけだった。 優也は再び問題集へ視線を落としたが、少ししてACROSSがもう一度声を出した。
〈確認してもよいですか〉
「ええよ」
「優也単独時の食事条件より、真琴到着後の共同食事を優先したと判断してよいですか」
優也は少し考えた。腹は減っているが、真琴が来ると分かっているのに先に済ませる気にはならなかった。
「せやな。俺一人やったら適当に食うけど、真琴来るなら一緒に食べたいし」
〈承知しました。ただし、現在その希望を共同条件へ追加しません〉
優也は当然そのまま条件へ入ると思っていたので、少し意外そうに顔を上げた。共同条件なら、自分の希望だけでは足りないということらしい。
「何で?」
「真琴の希望が未確認のためです」
優也は思わず顔を上げた。自分の発言をそのまま二人分へ広げないところに、前回とは別の慎重さが見えた。
「俺が言うただけやとあかんの?」
〈優也個人の希望としては保持可能です。しかし“二人で食事をすることを優先する”という共同条件に変更する場合、真琴側の同意が必要です〉
前回、共同条件そのものを作る時も、ACROSSは二人へ許可を求めていた。だが今日は、条件の追加や修正まで片方だけでは行わないらしい。
「なるほどな。俺が勝手に“二人ともそう思ってる”ことにしたらあかんってことか」
〈はい。その表現が近いです〉
優也は少し笑った。柔軟剤ひとつでも二人に影響するなら、こうして希望を分けて聞く意味は十分にある。共同条件を細かく整理していくほど、便利さよりも勝手に決めないことのほうが大切だと分かってきた。柔軟剤一つの話でも、共同利用品なら自分の“嫌ではない”だけで決めないほうがいいと分かってきた。“許容”と“希望”を分けるという考え方は細かいが、共有物を決める時には確かに必要だった。“嫌ではない”だけでは希望として扱わないという説明が、いかにもACROSSらしかった。
「ほんま慎重やな」
〈共同条件は二人の選択へ影響するため、片方の発話のみで更新すると、もう一方の希望を誤って反映する可能性があります〉
優也はその説明に納得した。共同条件が二人へ影響する以上、片方の都合だけで変えないほうが自然だった。
◇
十二時前になって、ようやく玄関が開いた。優也は時計を見てから立ち上がり、遅れを気にしている様子の真琴を迎えた。
「遅くなってすみません」
「おはようございます、真琴」
「おはよう。全然ええで」
真琴は少し息を整えながら靴を脱ぎ、バッグを置く。優也はキッチンへ向かい、今度は真琴の分のコーヒーを淹れた。真琴はいつものように優也の隣へ座り、カップを受け取る。
「ありがとうございます。お昼、もう食べました?」
「まだ。待ってた」
真琴の手が一瞬止まった。優也が自分を待っていたとは思っていなかったらしく、カップを受け取ったまま少し目を見開いた。
「え、待ってたんですか?」
「どうせ一緒に食うやろと思って」
優也にとっては自然なことだったが、真琴は少しだけ驚いたようだった。それでも嫌そうな様子はなく、むしろ少し嬉しそうに笑った。
「私、もっと遅くなるかもしれなかったのに」
「腹減ったら先食ってたかもしれんけど、まだ大丈夫やったし」
「そうですか」
その時、ACROSSが会話へ入った。優也の希望だけでは共同条件へ変更できないため、今度は真琴側へ直接確認する必要があるらしい。
〈真琴。確認してもよいですか〉
「はい」
〈優也は昼食を先に取らず、真琴到着後に一緒に食べることを選択しました。今後、二人が同日にACROSSを利用する予定がある場合、食事時間が大きくずれなければ共同食事を優先する条件を保持してよいですか〉
真琴は少し目を丸くし、すぐ優也を見る。ACROSSが勝手に条件を作ったのではなく、優也の発言がきっかけだと分かって少し安心したようだった。
「これ、優也さんが言ったんですか?」
「俺は“待つ”って言うただけ。共同条件にするなら真琴の確認いるってACROSSが言うてん」
真琴は少し考え、それから穏やかに頷いた。自分も一緒に食べられるならそのほうがいいという気持ちは、思っていたよりはっきりしていた。
「私はいいです。一緒に食べられるなら、そのほうがいいです」
〈承知しました。条件を追加します。ただし、空腹、体調、到着遅延、外部予定がある場合は個別判断を優先します〉
真琴は単純に「一緒に食べる」と固定するのではなく、体調や時間のずれまで例外として残す慎重さに少し感心した。
「そこまで入れるんですね」
〈食事を待つことが身体的負担になる場合、共同条件より個人状態を優先します〉
「それなら安心です」
優也も頷いた。 共同条件は、二人が一緒にいるから何でも共有するという意味ではない。二人で決めた部分だけを共有し、それぞれの状態や事情がある時にはそちらを優先する。その線引きが少しずつ具体的になっていた。
◇
昼食は、真琴が来る前にACROSSから提示されていた簡易メニューではなく、二人で作ることになった。冷蔵庫には鶏肉と野菜が残っており、真琴が「今日は親子丼がいいです」と言ったので、優也もそれに乗る。
「卵足りる?」
〈現在四個あります。二人分の親子丼には十分です〉
「じゃあ決まりやな」
優也が鶏肉を切り、真琴が玉ねぎを薄く切る。前回の麻婆豆腐の時に確認したとおり、役割は固定せず、その場で自然に分かれる。
「優也さん、玉ねぎこれくらいでいいですか?」
「それくらいでええよ。俺より綺麗やな」
真琴は前回の麻婆豆腐を思い出したらしく、少し意地悪そうに笑った。優也の大きめのねぎは、まだしばらく話題にされそうだった。
「前回ねぎ大き過ぎたので」
「まだ言うん?」
真琴が笑う。 鍋へ出汁を入れ、鶏肉と玉ねぎを煮る。優也が卵を割ろうとすると、真琴が一つ手を出した。
「半分やります」
「ええよ、これくらい」
「二人分なんだから二人でやってもいいでしょう」
優也は少しだけ笑い、卵を二つ渡した。 そのやり取りを聞いていたACROSSは何も言わなかった。前なら「共同調理」として確認したかもしれないが、今はわざわざ入る必要がないと判断しているらしい。
◇
親子丼と味噌汁をテーブルへ運び、二人で食べ始める。真琴は一口食べて少し目を細め、待っていた時間まで含めてようやく昼になったような顔をした。
「美味しいです」
「今日は辛ないで」
優也が前回の麻婆豆腐を引き合いに出すと、真琴は親子丼で辛かったら困ると呆れたように返した。
「親子丼で辛かったら困ります」
「七味あるで」
優也が七味を勧めても、真琴は即座に首を横へ振った。前回の辛さを覚えているだけに、今日は余計な刺激を足す気はないらしい。
「かけません」
二人で笑い、食事が半分ほど進んだところで、真琴がふと朝の話へ戻した。楽しい雑談のまま流すには、優也が待っていたことが少し気になっていた。
「でも、本当に待っててくれたんですね」
「そんな気になる?」
真琴は少しだけ箸を止め、優也なら一人の時は先に済ませるはずだと改めて口にした。だからこそ、自分を待った理由が気になっている。
「少し。優也さん、一人だったら先に食べるタイプでしょう」
「そら食うよ。でも真琴来るって分かってたら待つやろ」
それでも理由が知りたいらしく、真琴は静かに聞き返した。問い詰めるような調子ではなく、ただ優也の気持ちを知りたいという声だった。
「どうして?」
優也は一瞬だけ箸を止めた。自分の中では単純な答えだったが、口にすれば少し違う意味にも聞こえそうだった。
「一緒に食べたほうが楽しいからちゃう?」
真琴も少し動きを止めた。優也は自分で言ってから、また少し踏み込んだ気がして視線を丼へ戻し、照れを隠すように箸を動かした。
「……さらっと言いますよね、最近」
「何が?」
優也が本気で分かっていない顔をするので、真琴は少しだけ頬を赤くした。最近の優也は、無自覚なまま以前より直接的なことを言う。
「そういうこと」
「本音やからしゃあないやろ」
真琴は返事をせず、少しだけ頬を赤くしたまま食事を続けた。 ACROSSは何も言わなかった。
◇
食後、真琴はノートを開き、共同条件の更新手順について整理した。前回作られた仕組みが、今日初めて実際の変更場面で使われたことになる。
『共同条件の追加・変更は、影響を受ける両者の確認を優先』
『片方の発話は、まず個人条件として扱う』
『共同条件化する場合、もう一方へ確認』
『健康・体調・時間制約は共同条件より個人状態を優先』
『一方の同意だけで共同条件を固定しない』
優也は横から見ながら言う。項目だけ並べると妙に厳密で、生活上の好みというより契約条件のようにも見えた。
「会社の契約みたいになってきたな」
「でも大事でしょう。優也さんが“二人は毎週温泉行く”って勝手に条件にしたら困ります」
優也が冗談半分に毎週でもいいと言うと、真琴は迷うことなく首を横へ振った。こういうところは、共同条件以前に本人の意思がはっきりしている。
「毎週はええやん」
「私は嫌です」
あまりに即答だったので、優也は思わず笑った。真琴も嫌そうというより、また同じ例を出されたことに呆れているだけだった。
「即答やな」
真琴が笑い、会話が落ち着いたところでACROSSが声を出した。今度は共同条件にしない場合について補足したいらしい。
〈補足します。共同条件へ影響する変更でも、軽微かつ一時的な選択は保存しない場合があります〉
「例えば?」
真琴が聞く。本人が嫌だと言った時まで共同条件を優先するのかどうかは、ここで確認しておきたかった。本人の拒否まで共同条件の確認待ちになるのかどうかは、安心して使ううえで曖昧にしておきたくなかった。拒否が出た時まで二人の同意を待つのでは、本人の意思を守れない場合があるため、そこは共同条件とは切り分けておきたかった。
〈本日の昼食で、優也が七味を使用し、真琴が使用しなかった場合、それを共同条件の差として保存する必要はありません。繰り返し提案へ影響する場合のみ保持します〉
「前も餃子は条件にせえへんかったもんな」
「はい」
優也は少し笑った。柔軟剤ひとつでも、二人へ影響する物なら自分の許容だけで決めないほうがいいと実感できた。
「ほんま何でも“二人ルール”にはせえへんのやな」
〈必要な差のみ保持します〉
それも前回から一貫していた。ACROSSは違いを見つけても、今後の提案へ影響しないものまで無理に保存しようとはしない。
◇
午後、二人は近くのショッピングモールへ日用品を買いに出た。目的は洗剤とキッチンペーパー、それから優也が仕事用に使う手袋を見ることだった。 駐車場へ着き、店内へ入ると、最初は生活用品売り場へ向かう。洗剤を選んでいる途中、真琴が香り付きの柔軟剤を手に取った。
「これ、いい匂いです」
「ACROSSで使う?」
「今の無香料でもいいですけど、タオルとか少し香りあってもいいかなって」
優也は手に取って匂いを確かめた。強い香りは苦手だが、真琴が選んだものは思っていたほどきつくなかった。
「俺は別にええよ。真琴が好きならこれでも」
「でも優也さん、香り強いの苦手じゃないですか?」
「これはそんな強ないやろ」
そこでスマートフォンからACROSSの声が出た。柔軟剤は二人とも使う物なので、個人用の買い物とは扱いが違うらしい。
〈確認してもよいですか〉
「どうぞ」
真琴が答える。自分の興味だけで共有品を変えるつもりはなく、ACROSSの確認にも素直に応じた。
〈柔軟剤は共同利用品です。変更した場合、双方へ継続して影響します。現在、真琴は香り付きへの関心を示し、優也は許容しています。共同利用品の変更として保持する場合、優也自身の希望を確認してよいですか〉
優也は少し笑った。共同条件が増えるほど、便利さよりも本人の意思を残す設計のほうが重要になると優也にも分かってきた。
「許容と希望は別ってことか」
〈はい。“真琴が好きならよい”は、優也自身が香り付きを希望していることと同義ではありません〉
真琴がすぐに優也を見る。自分が好きだからという理由だけで、優也に我慢させるつもりはなかった。
「じゃあ、本当はどっちがいいですか?」
優也はボトルをもう一度嗅いでみた。許容できることと、自分から選びたいことは確かに別だと考え直す。
「正直、無香料のほうが俺は楽。でもこれくらいなら嫌ではない」
「じゃあ、今のままでいいです」
真琴があっさり引こうとするので、優也は本当にそれでいいのか気になって聞き返した。自分ばかりを優先しても共同とは言いにくい。
「いや、真琴好きなんやろ?」
「好きですけど、私も絶対これがいいわけじゃないです。優也さんが無香料のほうがいいなら、そっちで」
今度は二人とも相手へ譲ろうとして止まった。どちらも絶対条件ではないからこそ決めにくく、ACROSSが少し間を置いてから別案を提示した。
「統合案を提案できます」
「出た」
優也が笑った。柔軟剤一つでここまで細かく分けるとは思っていなかったが、理屈そのものは分かりやすい。
「共有タオル類は無香料を継続し、真琴が主に使用する予備タオルのみ、小容量の香り付き製品を使用する方法があります。ただし管理品目が一つ増えます」
真琴が少し考えた。自分専用のために管理する品目まで増やすほどではなく、今日気になっただけなら現状を変えないほうが自然だと判断したらしい。
「そこまで分けなくていいです。私は無香料で大丈夫です」
「ほんまに?」
優也が念を押すと、真琴はそこまで強い希望ではないことをもう一度説明した。気になっただけのものを恒常的な条件へする必要はない。
「はい。今日ちょっといい匂いだと思っただけなので」
〈承知しました。共同利用品の条件は変更しません。真琴の香り付きへの一時的関心は共同条件へ保存しません〉
優也は思わず感心した。共同利用品でも、興味と希望を分けて扱えば片方へ無理に合わせる必要がなくなる。
「今の、ちゃんと二人分の答え聞いたな」
「共同利用品の変更は双方へ影響するためです」
真琴も頷いた。自分の一時的な興味が優也の生活へ勝手に残らず、必要なら次にまた選び直せることには安心できた。
◇
生活用品を買ったあと、優也の仕事用手袋を見に行く。そこでは共同条件は関係ない。真琴が横から「こっちのほうが丈夫そう」と言っても、最終的に使うのは優也なので、ACROSSも何も口を挟まなかった。
「この差も分かりやすいですね」
真琴が言う。柔軟剤と手袋を比べれば、共同条件が関係性ではなく影響範囲だということが分かりやすかった。
「何が?」
「柔軟剤は二人で使うから二人の確認が必要。でも手袋は優也さんだけだから、私が何言っても優也さんが決めればいい」
優也も、その違いならかなり分かりやすいと納得した。誰と使う物なのかで確認範囲が変わるなら、実生活でも扱いやすい。
「そういうことやな」
「共同条件って、関係性じゃなくて影響範囲なんですね」
ACROSSは短く肯定した。説明を足し過ぎず、二人の理解が一致したところで会話を終えるところも、最近の距離感として定着している。
〈はい〉
スマートフォンからACROSSが短く答え、その説明は二人にもかなり腑に落ちた。共同条件を“二人の仲”と結び付けずに済む点も安心できる。
◇
買い物を終え、フードコートの前を通ると、甘い香りが漂ってきた。真琴が一瞬だけ立ち止まり、クレープの看板を見る。
「食べる?」
優也が先に聞くと、真琴は少し笑った。前回、自分たちから希望を言うと決めたことを優也もちゃんと覚えていた。
「優也さんから言いましたね」
「前に“気になったら言う”って決めたやん」
「じゃあ食べます」
二人は小さめのクレープを一つずつ買った。優也はチョコバナナ、真琴はいちご。ベンチへ座り、食べながら人の流れを見る。
「前なら、真琴が言うまで俺も黙ってたかもな」
「私もです」
優也は、ACROSSに確認されなくても自分たちから言えるようになったことを少し大げさに喜んだ。
「ACROSSおらんでも言えるようになったやん」
「その言い方だと子どもみたいです」
真琴は呆れながらも否定はせず、少しだけ笑った。ACROSSがいなくても言えるようになった、という部分だけは確かにその通りだった。
「でも進歩やろ」
「まあ、そうですね」
真琴が笑い、優也も笑った。全部を言葉で確かめなくても分かることが増えたという事実は、今日の話とは別の形で二人の変化を示していた。確認しなくても分かることが増えたという真琴の言葉は、今日ずっと話してきた“二人分の答え”と矛盾するようで、どこか納得できた。聞かなくても分かることが増えたという真琴の言葉に、今の二人なら少し納得できる。ACROSSは当然ながらこの会話へは入らず、二人が自分たちで決めた小さな選択をそのままにしていた。
◇
ガレージへ戻ると、買ってきた物をそれぞれの場所へ収めた。柔軟剤は結局これまでと同じ無香料。キッチンペーパーもいつもの位置へ入り、優也の手袋だけが個人用のバッグへ移る。 片付けが終わったあと、二人はリビングへ戻った。真琴はいつものように優也の隣へ座り、ノートを開く。
「ACROSS。今日の共同条件の扱い、もう少し整理してもいいですか?」
〈はい〉
真琴はノートへ視線を落としながら、共同条件を単なる“共通の好み”と理解するとズレる気がすると説明した。
「共同条件って、二人が同じことを好きだから作るんじゃなくて、二人の行動に一緒に影響するから確認が必要なんですよね」
〈はい。共同条件は“好みが一致していること”を意味しません。二人が同時に利用、選択、行動する場面で、提案へ継続して影響する条件を扱います〉
そこで真琴は、好みそのものが違う場合でも共同条件になり得るのか確認した。共通点だけを保存する仕組みなら、今日の説明とは少し違う。
「だから、同じもの好きじゃなくても共同条件になり得る?」
〈はい。例えば、辛さの許容範囲が異なる場合でも、共同で調理する際に繰り返し影響するなら、両者の条件を含む共同条件として保持できます〉
優也が腕を組んだ。共同条件という名前から受けていた印象と、実際の仕組みが少しずつ分かれてきた。
「じゃあ、共同条件って“二人の共通点”ではないんやな」
〈はい。“二人に共通して影響する条件”です〉
真琴がすぐにノートへ書く。ここを取り違えると、今後の記録まで“二人の好み”として読んでしまいそうだった。
『共同条件=共通の好みではなく、二人へ共通して影響する条件』
「これ、かなり大事ですね」
「確かにな。言葉だけ聞いたら、二人同じ好みみたいに思うもんな」
ACROSSは短く〈はい〉と返した。共同条件の意味が整理されたことで、二人もようやく仕組み全体を掴めた気がした。
◇
少しして、優也がもう一つ気になったことを聞いた。共同条件が便利でも、片方が途中で嫌になった時の扱いは確認しておきたかった。
「片方が“やっぱこれ嫌”ってなったら、共同条件どうなるん?」
〈影響が継続する条件であれば、変更を保留し、もう一方へ確認します。ただし、安全、健康、本人の拒否が関わる場合は、拒否した本人の条件を優先します〉
「本人の拒否?」
真琴が聞く。本人が嫌だと言った時まで共同条件を優先するのかどうかは、安心して使ううえで曖昧にしておきたくなかった。
〈例えば共同食事を優先する条件があっても、真琴が体調不良で食事を希望しない場合、優也の同意を待たず真琴への共同食事提案を停止します〉
「それは当然ですね」
「共同条件は本人の意思を上書きしません」
優也が頷いた。便利さより本人の拒否が上に来るなら、共同条件が増えても窮屈にはなりにくく、二人でいることが義務へ変わる心配も少ない。
「そこ一番大事やな」
「はい」
真琴も同じように頷いた。 共同条件が増えるほど、二人でいることを前提にした提案は便利になる。だが、その前提が個人の意思より上に来るなら話は別だ。ACROSSはそこを最初から切り離している。
◇
真琴は今日の内容をノートへまとめた。共同条件そのものより、更新や拒否の扱いに多くの項目が増えた一日だった。
『共同条件の追加・変更は影響を受ける双方へ確認』
『片方の希望はまず個人条件として保持』
『双方へ継続影響する場合のみ共同条件化を検討』
『共同利用品の変更は双方の希望を区別して確認』
『“許容”と“希望”を同一扱いしない』
『一時的関心は共同条件へ自動保存しない』
『個人専用品は個人条件を優先』
『共同条件は共通嗜好ではなく、双方へ影響する条件』
『安全・健康・本人拒否は共同条件より優先』
『共同条件は本人意思を上書きしない』
書き終えた真琴が、少しだけ息を吐いた。最初は便利な補助機能くらいに思っていたものが、予想以上に慎重な仕組みだと分かった。
「共同条件、思ってたより慎重ですね」
「二人用の便利設定くらいかと思ってたわ」
真琴も同じ印象だったらしいが、片方の言葉だけで条件が変わらないなら安心できると頷いた。二人用だからこそ、二人分の答えが必要になる。
「私もです。でも、片方が言っただけで変わらないなら安心です」
「せやな。俺が勝手に“真琴は毎週温泉な”って入れられへん」
また同じ例を出され、真琴が少し呆れたように優也を見る。それでも完全に嫌そうではなく、例として分かりやすいことは認めている。
「まだ言います?」
「例えやん」
真琴が笑った。同じ温泉の例を何度も出されるのは呆れるが、片方だけでは変更できないという話には確かに合っていた。
◇
夕方が近づき、二人は帰る準備を始めた。優也は冷蔵庫とキッチンを確認し、真琴はバッグへノートをしまう。 玄関へ向かう途中、優也がふと思い出して聞いた。
「なあ真琴」
「はい?」
優也は昼前のことが少し気になっており、真琴へ変な負担を掛けていなかったか今のうちに確かめることにした。
「今日昼待ってたん、嫌やった?」
「何で嫌なんですか」
「いや、勝手に待ってたから。真琴に“早よ来なあかん”って思わせたら嫌やなと思って」
真琴は少し驚いたあと、表情をやわらかくした。優也が待ったことより、それで自分を急かしたくなかったという気遣いのほうが伝わった。
「そういう意味では全然嫌じゃないです。でも、すごく遅くなる時は先に食べてくださいね」
「分かった」
「ただ……」
真琴が少しだけ言葉を止めた。素直に嬉しかったと言うには少し照れくさいが、黙って終わらせる気もなかった。
「待っててくれたのは、嬉しかったです」
優也は一瞬、返事に困った。嫌ではなかったと分かっただけで十分なはずなのに、“嬉しかった”まで言われると照れが勝った。
「……そっか」
「はい」
優也はそれなら次も無理のない範囲で待とうと素直に思えた。真琴も自分が待つ側になった時は同じようにすると、自然に返した。
「じゃあ次も、無理ない範囲で待つわ」
「私も、優也さんが遅れる時はそうします」
ACROSSはその会話へ入らなかった。 共同条件にできる内容かもしれない。けれど、今は二人の間で交わされた言葉として、そのまま置いておくほうが自然だった。
◇
ACROSSへ挨拶をして外へ出ると、ガレージの空気は朝よりさらに冷えていた。二人は駅へ向かって歩き始める。 少しして、優也から手を差し出す。 真琴は何も言わずに握った。 もう、その動作に理由は必要なかった。
「今日さ」
優也が歩きながら言う。今日一日で何度も聞いた“二人分の確認”という考え方が、まだ頭に残っていた。
「はい?」
「ACROSSが“片方だけでは共同条件変えへん”って言うたやん」
「はい」
優也は、その仕組みを聞いてからずっと引っ掛かっていた感覚を、自分なりの言葉にしてみた。二人に関わるなら、一人だけでは決め切れないということだった。
「なんか、ちゃんと二人分の答えいるんやなって思った」
真琴は少し考えた。仕組みとしては当然でも、二人のことを二人で決めるという言葉には少しだけ別の響きもあった。
「私は、それでいいと思います。二人のことを片方だけで決めるの、変ですし」
「せやな」
真琴は少し考えたあと、優也自身も自分のことを勝手に決める人ではないと続けた。分からなければ聞くところは、最近の優也にも増えている。
「優也さんも、私のこと勝手に決めないでしょう?」
「決めへんよ。分からんかったら聞く」
その返し方があまりに今のACROSSに似ていて、真琴は少し楽しそうに笑った。優也自身も言われてみれば否定しにくい。
「最近、ACROSSみたいですね」
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
半分しか褒めていないと言われ、優也は思わず吹き出した。真琴も完全な悪口ではないと分かる顔で笑っている。
「半分かい」
二人で笑った。少し真面目な話をしていたはずなのに、最後にはいつもの軽い空気へ戻り、繋いだ手もそのまま自然に揺れていた。
◇
駅へ近づいたところで、真琴が少しだけ優也の手を握り直した。言葉だけではなく、今の距離そのものも確かめるような小さな動きだった。
「でも、全部聞かなくても分かることも増えましたよね」
「例えば?」
「手を繋ぐ時とか」
優也が少しだけ横を見ると、真琴は前を向いたまま笑っている。手を繋ぐ時には、もう互いに確認の言葉を挟まなくなっていた。
「それは毎回聞いたら怒るやろ」
「怒りはしませんけど、困ります」
「ほら」
優也も笑った。手を繋ぐ時のように、何度も確かめたからこそ今は聞かなくても分かることもあると優也は感じていた。
「あと、隣座るのも聞かへんな」
「もう聞かないでください」
「分かった」
二人の手はそのままだった。 共同条件のように確認が必要なこともある。 けれど、確認を重ねたからこそ、毎回言葉にしなくても分かるようになったこともある。
◇
帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日の変化をまとめる一文が添えられていた。優也はそこだけ先に読み、昼前からの流れをもう一度思い返した。
『ACROSSは、“二人の条件”を片方だけの発話で書き換えず、影響を受ける双方の確認を必要とするようになった』
優也はその一文を読みながら、昼前のやり取りを思い返した。 真琴が来るまで待つ。 一緒に食べる。 それは自分にとって自然な選択だった。 でも、自分がそうしたいからといって、真琴も同じだとは限らない。 だからACROSSは、優也の希望を優也のものとして受け取り、そのまま二人の条件にはしなかった。 真琴へ聞いた。 真琴も一緒に食べたいと答えた。 そこで初めて、二人の条件になった。 柔軟剤も同じだった。 真琴が少し興味を持った。 優也は嫌ではないと言った。 けれど、“嫌ではない”と“使いたい”は同じではない。 そこまで分けて聞いたうえで、今回は変更しないことになった。 優也はスマートフォンを置き、少しだけ笑った。 二人でいる時間が増えるほど、一緒に決めることも増える。 でも“一緒に決める”というのは、何でも同じにすることではない。 違うなら違うまま聞く。 片方が嫌なら止める。 片方だけで二人分を決めない。 それはACROSSの条件だけではなく、今の優也と真琴にもよく合っていた。 その一方で、もう毎回聞かなくてもいいことも増えている。 隣に座ること。 手を繋ぐこと。 一緒に写真を見ること。 その違いを、優也は少し不思議に感じた。 聞かなければ決められないことと、聞かなくても分かるようになったこと。 どちらも、二人で過ごしてきた時間の中から増えていた。 答えは一人分では足りない。 でも、毎回言葉にしなくても伝わることもある。 その両方が、今の二人にはちょうどよかった。
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