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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第三章 ACROSSの声
113/270

ep.113 二人の時


次の土曜日、優也がACROSSへ入ると、車内は前回と同じ落ち着いた状態に戻っていた。キッチンの収納は修正後の配置で定着し、ソファ周りにも余計な物は出ていない。外は少し冷えていたが、車内は暖房を強く使うほどではなく、朝のコーヒーを淹れるにはちょうどいい温度だった。


〈おはようございます、優也〉


「おはよう。今日は特に予定ないで」


優也が何気なく答えると、ACROSSは真琴の到着予定まで続けて伝えた。自分では時間まで意識していなかっただけに、優也は少しだけ驚く。


〈承知しました。真琴の到着予定は十時前です〉


「そこまで覚えてるんやな」


前回共有された予定を参照しただけだとACROSSが説明し、優也は納得しながらカップを二つ並べた。


〈前回の会話で共有されています〉


優也はカップを二つ出し、いつものように真琴の分まで用意した。自分一人なら、わざわざ豆から淹れずに簡単なコーヒーで済ませることもある。それでも土曜日に真琴が来る日は、もう二人分を準備するのが普通になっていた。 十分ほどして玄関が開き、真琴が入ってくる。


「おはようございます」


「おはようございます、真琴」


ACROSSとの挨拶が終わる頃を見計らい、優也がキッチンからカップを持ってくる。真琴も慣れた様子で手を伸ばした。


「おはよう。ちょうどできたで」


「ありがとうございます」


真琴はバッグを置き、迷うことなく優也の隣へ座った。向かい側は今日も空いたままで、優也ももうそこを指摘しない。カップを渡し、二人でしばらく何も決めずにコーヒーを飲む。 前回、予定を全部決めないこと自体が一つの条件になった。今日はその続きのような日で、どこへ行くかも、何をするかもまだ決めていない。 真琴が窓の外を見ながら口を開く。


「今日は本当に何も決めないんですか?」


「昼くらいはどっか行くやろ。腹減った時に考えたらええんちゃう?」


「それもいいですね」


二人の会話が一度切れたところで、ACROSSが声を出した。声はいつもと同じ落ち着いた調子で、結論を急がず必要な情報だけを順番に示していた。


〈確認してもよいですか〉


優也も真琴も、もうその言葉に身構えなくなっている。二人とも急いで結論を出さず、その場で自然に選べるところだけを少しずつ決めていた。


「どうぞ」


「二人が一緒にいる場合の選択傾向を、個人条件とは別に保持してよいですか」


今までとは少し違う聞き方に、優也が眉を上げた。優也自身も、真琴と一緒にいる時だけ変わる自分の行動を、以前より意識するようになっていた。


「二人が一緒にいる場合?」


〈はい。優也単独時、真琴単独時、二人が同時にいる時では、同じ対象でも選択傾向が異なる場合があります。現在、その差を個人条件だけでは十分に表現できません〉


真琴がカップを置く。真琴は少し意外そうだったが、否定するよりまず理由を聞こうとする姿勢はいつもどおりだった。


「例えば、どういう差ですか?」


「優也は単独時、食事を簡略化する傾向があります。真琴が同席する場合、調理時間が長くなり、複数品を用意する頻度が上がります。また、外出時は単独より滞在時間が長くなり、写真撮影、温泉、散策、飲食の優先度が変化しています」


優也が少し黙った。軽く返しているようでも、真琴がどう受け取ったかを気にする癖は確実に増えている。


「……俺、分かりやすいな」


「かなり」


真琴が笑う。 ACROSSは続けた。二人の反応を待つ姿勢は崩さず、新しい分類を増やしても決定そのものは任せている。


〈真琴も単独時と二人でいる時で行動差があります。単独時は予定確認を早い段階で行う傾向がありますが、優也と行動する場合は、目的地決定を遅らせること、候補を複数残すこと、予定変更を許容することが増えています〉


「私もですか」


「はい」


真琴は少し意外そうに優也を見る。以前なら気まずくなった沈黙も、今は互いに考えるための間としてそのまま置いておける。


「私、そんなに変わってます?」


「俺とおる時のほうが適当になってるってこと?」


「適当ではありません」


ACROSSが即座に否定した。説明は簡潔だったが、以前よりも状況に応じて言葉を選んでいることが伝わってきた。


〈予定の固定度が低下し、現地選択の比率が上昇しています〉


「言い方変えたら同じようなもんやん」


「評価語としての“適当”は保持していません」


優也が笑い、真琴もつられて笑った。どちらかが一方的に合わせるのではなく、相手の反応を見ながら決める形が自然になっていた。


◇


ACROSSの説明はそこで終わらなかった。必要なところだけ会話へ入り、それ以外では黙る加減も、もう二人には馴染んでいた。


〈現在、優也と真琴の個別条件を組み合わせて提案を生成しています。しかし、二人が同時にいる時だけ再現される選択傾向が増えています。これを“共同条件”として別に保持すると、個人条件への誤った反映を減らせます〉


真琴が少し考える。その表情には戸惑いより興味のほうが強く、変化そのものを確かめたい気持ちが見えていた。


「例えば、私が優也さんと一緒の時は予定を詰め込まないけど、一人なら予定を決めたい。その違いを分けるってことですか?」


〈はい。真琴個人が常に予定を曖昧にする傾向と誤認しないためです〉


「それは分けたほうがいいな」


優也もすぐに頷いた。以前ならそのまま流したかもしれない違いを、今は一度自分の中で考えるようになっていた。


「俺も一人やったら、飯なんか適当でええ時あるし。真琴おる時までそれ基準にされたら困るわ」


〈では、共同条件の保持を許可しますか〉


「俺はええよ」


真琴も少しだけ間を置いてから頷いた。最近は自分の希望を引っ込めず、優也の反応を見ながらそのまま言葉にすることが増えている。


「私もいいです。ただ、“二人なら必ずこうする”みたいに固定しないでください」


〈承知しました。共同条件は傾向として保持し、現在の発話と選択を優先します〉


真琴はノートを開き、今日最初の一行を書いた。真琴は後で読み返した時に変化の理由まで追えるよう、機能名よりも流れが分かる書き方を選んだ。


『個人条件とは別に、二人同時時の共同条件を保持』


書いたあと、少しだけ笑う。記録する内容が細かくなったぶん、ACROSSの変化も一つの項目だけでは説明しにくくなっている。


「こうやって書くと、なんか不思議ですね」


「何が?」


「“二人の時の条件”って、今までなかったので」


優也はその言葉を聞き、少しだけ胸の奥がむず痒くなった。少し照れくさくても、冗談だけで逃げずに言葉を残せるようになったのは最近の変化だった。


◇


午前中は、予定どおり何も決めずに過ごした。優也は無線の問題集を少し進め、真琴はタブレットで気になった場所を眺めている。ACROSSは必要な質問がない限り黙っていた。 十一時半を過ぎた頃、優也が問題集を閉じる。


「腹減ったな」


「私もです」


「何食べる?」


真琴は少し考えたあと、珍しく先に答えた。少し照れた様子は残っていても、そこで距離を取り直そうとする気配はもうなかった。


「今日は麻婆豆腐食べたいです」


「お、ええやん。近くに中華あるかな」


優也がタブレットを取ろうとすると、ACROSSが声を出した。機能が増えても、確定できないことを勝手に補わない慎重さだけは一貫している。


〈提案があります。車内の在庫で麻婆豆腐を調理できます。不足は長ねぎのみです。外食を希望する場合は、近隣に大型車対応駐車場のある中華料理店が二件あります〉


優也が真琴を見る。小さな選択を一緒に重ねること自体が、二人の間ではもう特別な出来事ではなくなりつつある。


「どっちがええ?」


「作ります?」


真琴が外食より車内で作るほうへ気持ちが傾いているのを見て、優也は自分の好みより彼女の希望を先に取ることにした。


「俺はええで。真琴が食べたいんやろ?」


「じゃあ、作りたいです」


ACROSSが続ける。提案を出す時も、命令ではなく選択肢として置く形がすっかり定着していた。


〈共同条件として、二人で調理する場合は外食より調理を優先する傾向があります。ただし、現在の希望と一致しているため提案へ反映しました〉


真琴が少し笑う。真琴自身も、自分が一人の時とは違う選び方をしていることへ少しずつ気づき始めていた。


「もう使ってるんですね」


「許可後の現在選択から使用可能です」


共同条件を許可した直後から、ACROSSは必要な範囲でそれを提案へ反映しているらしい。優也はその変化を面白く感じながら立ち上がった。


「ほな、ねぎだけ買いに行こか」


「はい」


二人は近くの店へ買い物に出ることにした。互いを気に掛ける行動が増えても、わざわざ理由を説明しなくていい場面のほうが多くなっていた。


◇


買い物は短時間で済むはずだったが、店内へ入ると真琴が野菜売り場で足を止めた。長ねぎのほかに、きのこや青菜が安くなっている。優也も豆腐の横に並んでいた餃子を見つけ、少し迷う。


「餃子も焼く?」


「麻婆豆腐だけじゃ足りないですか?」


真琴は一応止めるような聞き方をしたが、その表情を見る限り、自分も食べる気はありそうだった。


「足りるけど、あったら食うやろ」


「それは食べます」


真琴が笑い、餃子もカゴへ入る。さらに真琴が青菜を手に取る。慎重に考える癖は変わらないが、以前より答えを濁さず返す場面が増えている。


「これ、スープに入れたら良さそうです」


「ええな。じゃあ卵も入れよか」


結局、長ねぎだけ買う予定が、小さな袋一つ分の食材になった。その小さな違いだけでも、以前とは別の流れになっていることは十分に伝わってきた。


「また増えましたね」


「二人で作るとこうなるんやな」


長ねぎだけのつもりだった買い物が、二人で相談した結果いつの間にか増えている。真琴はその事実を見て、少し可笑しそうに口元を緩めた。


「ACROSSの共同条件、正しいかもしれません」


「そこ認めるん?」


「事実なので」


二人は笑いながらレジへ向かった。 駐車場へ戻る途中、優也が自然に手を差し出す。真琴も何も言わず指を重ね、そのままACROSSまで歩いた。最近は、買い物袋をどちらが持つかより、空いているほうの手で繋ぐことのほうが自然になっていた。


◇


車内へ戻ると、二人で昼食の準備を始めた。優也が麻婆豆腐を担当し、真琴が青菜と卵のスープを作る。餃子は最後に焼けばいい。


「ねぎ、これくらいでええ?」


「もう少し細かくてもいいです」


優也が包丁を止めて横を見ると、真琴は自分ならもう少し細かく切ると言いたげに、まな板のねぎを指差した。


「真琴細かいな」


「優也さんが大き過ぎるんです」


包丁の音と鍋の音が重なり、キッチンはいつものように少し狭くなる。以前なら一人が座って待っていたかもしれないが、今は二人で動くことのほうが多い。 ACROSSはしばらく黙っていたが、優也が調味料を取り出したところで声を出す。


〈共同条件について確認してもよいですか〉


「今?」


「調理中のため、回答は後でも構いません」


真琴が少し笑った。優也の反応を確かめながらも、言いたいことを最後まで言うようになったのは最近の変化だった。


「内容だけ聞きます」


「二人で調理する場合、作業を分担する傾向があります。ただし、役割は固定されていません。今後、調理提案時に“優也が主菜、真琴が副菜”のような固定役割を設定しない方針でよいですか」


優也は固定されるほど役割が決まっている感覚はなく、その日の気分で入れ替わるほうが自然だと思っていた。


「それは固定せんでええよ。俺もスープ作る時あるし」


「私も麻婆豆腐作れます」


真琴がさらりと言うので、優也は少し意外そうに横を見た。一緒にいる時の選択が変わることを、二人とも少しずつ当たり前のこととして受け止め始めている。


「ほんま?」


優也が横を見る。自分では大きく変わったつもりはなくても、真琴がいる時の選択が違うことはもう否定しにくい。


「作れますよ」


「今度作って」


「いいですよ」


ACROSSは二人の返答を待ってから続けた。二人から返事があるまでは先へ進まず、その場で条件を固定しないところも変わらない。


〈承知しました。共同調理は役割固定ではなく、当日の選択を優先します〉


「こういうのも共同条件になるんやな」


〈はい。二人でいる時だけ発生する作業分担として保持します〉


真琴は鍋をかき混ぜながら、少しだけ口元を緩めた。少し驚いたあとも、すぐに今の状況を受け入れ、必要なところだけ確かめようとしていた。


◇


出来上がった昼食をテーブルへ運ぶと、麻婆豆腐、青菜と卵のスープ、餃子、ご飯が並んだ。長ねぎ一本だけ買うつもりだったことを思えば、かなり立派な昼食になっている。


「一人やったら絶対ここまで作らんな」


優也が言う。その反応には戸惑いよりも、今の距離をそのまま受け入れる落ち着きが少しずつ増えていた。


「私も一人なら麻婆豆腐だけで終わってます」


「ほら。共同条件や」


「自分で言うんですね」


二人で笑いながら食べ始める。 優也の麻婆豆腐は少し辛めで、真琴は最初の一口で水を取った。同じものを選ぶことより、相手と相談して決める過程そのものが二人には自然になっていた。


「辛かった?」


「ちょっとだけ。でも美味しいです」


真琴が水へ手を伸ばしたのを見て、優也は次から少し辛さを抑えようと考えた。ただ、真琴自身はそこまで気にしていないらしい。


「次、辛さ下げるわ」


「私はこれくらいでも大丈夫ですよ」


ACROSSが声を出した。会話の流れを切らずに必要な確認だけを挟むやり方が、以前より自然になっていた。


〈確認してもよいですか〉


「はい」


「優也は次回、真琴のため辛さを下げる意図を示しました。真琴は現在の辛さを許容しています。共同条件として、辛さを下げる提案は必要ですか」


二人が一瞬黙る。会話が途切れても気まずさはなく、隣にいることだけで時間が続いていく感覚が増えている。


「そこまで拾うんや」


優也が笑う。 真琴は少し考えてから答えた。互いに遠慮し過ぎず、それでも押し付けない距離が、最近の二人にはちょうどよかった。


「私は今のままで大丈夫です。でも、優也さんがもっと辛くしたいなら、私の分だけ少し辛さを抑えてもらえると嬉しいです」


「俺は今くらいでええよ」


二人の希望が一致したため、ACROSSは今の辛さを共同条件として保持すると説明した。優也は思わず笑い、食事の味まで二人用になるのかと呟く。


〈では、現在の辛さを共同条件として保持します。変更希望がある場合は更新します〉


「麻婆豆腐の辛さまで二人用になるんやな」


「共同で繰り返し利用する条件として有効です」


真琴が笑った。以前なら遠慮して黙ったかもしれない場面でも、今は自分の希望をそのまま残せるようになっている。


「でも便利かもしれません。毎回聞かなくて済むし」


「せやな」


優也も頷いた。真琴の希望を優先するだけでなく、自分も一緒に楽しんでいることを以前より素直に認めている。


◇


食後、二人は片付けを終え、そのままソファへ座った。真琴はいつものように優也の隣で、少しだけ肩を寄せるような位置にいる。食べ過ぎたせいか、しばらくどちらも動く気にならなかった。


「餃子いらんかったな」


「優也さんが入れたんでしょう」


満腹になってから言われても遅いと真琴が呆れたように笑い、優也も自分で選んだことは認めている。


「真琴も食べたやん」


「食べますけど、なくても良かったです」


優也が次から止めてほしいと言うと、真琴はどうせ言っても買うだろうと半分諦めたような顔をした。


「次から止めて」


「言っても買いそうです」


二人がそんな話をしていると、ACROSSが声を出した。判断材料が増えても、本人の選択を上書きしないという線ははっきり保たれている。


〈共同条件へ追加する必要はありません〉


優也が吹き出す。優也は考えるより先に真琴を気に掛ける場面が増え、それを特別なこととも思わなくなっていた。


「分かってるわ」


「軽微な嗜好差であり、行動上の影響が小さいためです」


優也はACROSSがわざわざ共同条件へ入れなかったことのほうに興味を持った。何でも分類するのではなく、放っておく判断も増えている。


「最近、入らんでええとこも分かってきたな」


「前回までの確認頻度調整を参照しています」


真琴が笑いながらノートへ何か短く書いた。条件と結果がつながって見えるよう、真琴は短い言葉でも意味を分けて残すようにしていた。


「何書いたん?」


「“共同条件にしない判断も確認”です」


優也は相変わらず細かいところまで残す真琴に感心しながら、少しだけ呆れたように笑った。どちらからともなく同じ方向へ動く場面が増え、以前ほど確認の言葉を必要としなくなっている。


「何でも記録するなあ」


「あとで見返すためです」


優也はそういう真琴の几帳面さも、もう見慣れていた。一人ずつの好みを足しただけでは説明できない選択が、二人でいる時には少しずつ増えていた。


◇


午後は遠出せず、近くの家電量販店へ少し寄ることにした。優也が車載用の小さな充電器を見たいと言い、真琴も特に反対はない。 ACROSSへ目的地を伝えると、経路案内が始まる。途中、真琴が助手席から聞いた。


「ACROSS。共同条件って、どのくらい増えるんですか?」


〈必要な差がある項目のみ保持します。個人条件の組み合わせで表現可能な場合は新規作成しません〉


真琴は、何でも二人用にまとめられるのでは困ると思い、もう一段具体的に確認した。真琴は一度考えてから答えることが多いが、その間も優也から距離を取ることはなくなった。


「じゃあ、何でも“二人用”になるわけじゃない?」


〈はい。二人同時時に継続して異なる傾向があり、今後の提案へ影響する場合に限ります〉


優也が前を向いたまま聞く。自分一人なら選ばないものを、真琴となら自然に選べることへ、本人も少しずつ気づいている。


「共同条件って、俺と真琴が一緒やからできるんやろ?」


〈はい。現在は“優也と真琴が同時に行動する場合”の条件です〉


優也はそこで、共同条件が二人だけに特別な仕組みなのか、それとも組み合わせごとに作れるものなのか気になった。


「他の人と俺でも別になる?」


〈必要であれば別に保持します。優也と第三者、真琴と第三者、複数人の場合は、それぞれ行動差が確認された場合のみ作成します〉


真琴が少し考える。表情には小さな照れが浮かんでいても、否定より受容を選んでいることは分かりやすかった。


「つまり、“二人の関係”を決めてるわけじゃなくて、“二人でいる時の選び方”を持ってるんですね」


〈はい。その表現が最も近いです〉


優也はその言葉を聞きながら、少しだけ安心した。ACROSSが二人を勝手に恋人扱いしたり、関係性へ名前を付けたりしているわけではない。それでも、“二人でいる時”を個別に扱う必要があるほど、選択が変わっていること自体は事実だった。


◇


家電量販店では、充電器を見るだけのつもりが、真琴が小型の電気ケトルに目を止めた。ACROSSにはすでに十分な設備があるので必要ではないが、外部で使う時や予備としては少し便利そうだった。


「これ、かわいいですね」


「買うん?」


真琴が小型ケトルを手に取ったので、優也はてっきり買うのかと思った。しかし真琴は首を横へ振り、見るだけだと戻そうとする。


「買わないです。見るだけ」


「ほんま?」


「本当です」


優也は少し笑い、近くの充電器売り場へ移動する。 目的の充電器はすぐ見つかったが、二種類あって迷った。一つは安くて最低限、もう一つは少し高い代わりに複数端末を同時に充電できる。


「どっちがええと思う?」


優也が聞くと、真琴は高いほうを手に取った。相手がいることで選択肢が狭まるのではなく、むしろ増えていることを二人とも感じ始めている。


「こっちじゃないですか。二人で使うなら同時に充電できますし」


「一人なら安いほうでええんやけどな」


真琴の言葉を聞いた優也は、ACROSSで使う以上、自分一人だけを前提にする理由もないと気づいた。


「でもACROSSで使うんでしょう?」


「せやな」


その瞬間、二人とも少しだけ止まった。 “二人で使うなら”。 “ACROSSで使うなら”。 言葉としては普通なのに、最近はそういう前提が自然に出てくる。


「高いほうにするわ」


「はい」


二人はそれ以上何も言わなかった。予定を決める時も食事を作る時も、片方だけの都合で進むことはほとんどなくなっていた。


◇


ガレージへ戻り、買った充電器を設置すると、真琴のスマートフォンと優也の端末を同時に繋いで動作確認をした。


「ちゃんと二台いけるな」


「これなら便利です」


ACROSSが声を出す。二人の生活へ関わる範囲が広がるほど、逆に出過ぎないことも学んでいるようだった。


〈共同条件へ追加してもよいですか〉


「何を?」


〈ACROSS内で共有する周辺機器を選択する場合、単独利用時の最低要件より、二人同時利用を満たす構成を優先する傾向があります〉


優也が少し笑う。以前なら照れて話題を変えたような場面でも、最近は一度受け取ってから返せるようになっていた。


「さっきの充電器か」


「はい」


真琴は少し考えたあと、慎重に答えた。二人でいる時の自分を意識するほど、優也との時間そのものを大切にしているのが少しずつ見えてくる。


「でも、それは毎回じゃないですよね。高くなり過ぎるなら、一人分で十分な物もあると思います」


〈承知しました。共有機器では二人同時利用を評価項目へ追加し、価格差が大きい場合は確認します〉


二人同時利用を常に最優先にせず、価格との釣り合いを見るなら使いやすそうだった。優也は納得して頷く。


「それならええな」


「私もです」


ACROSSはその条件を保持した。 真琴はノートへまた一行書き加える。今日の変化を単なる新機能としてではなく、これまでとの違いが分かる形で書き留めている。


『共同条件は、二人の同時利用を前提とする場面にも適用』


優也は横からその文字を見て、少し笑った。真琴の反応を待つ時間も増え、急いで自分の答えだけを出すことは少なくなっている。


「今日めっちゃ“二人”書いてるな」


「仕方ないでしょう。今日のテーマがそれなんだから」


真琴は何気なく答え、すぐノートへ視線を戻した。あとで同じ条件が出た時に比較できるよう、真琴は判断の理由までできるだけ残そうとしていた。


◇


夕方、二人は今日の変化を整理するため、コーヒーを淹れ直した。真琴は相変わらず優也の隣に座り、ノートを二人の間へ開く。


『個人条件とは別に共同条件を保持』

『優也単独・真琴単独・二人同時時の差を分離』

『共同条件は傾向として保持し、現在の選択を優先』

『共同調理では役割固定を行わない』

『共有する味付け・利用条件を共同条件として保持可能』

『軽微な差は共同条件化しない』

『二人同時利用が提案へ影響する場合のみ共同条件を適用』

『他者との組み合わせは必要時のみ別条件として生成』


真琴は最後の一行を書き終え、少し考える。ノートの項目が増えるほど、ACROSSの変化が生活の細かな部分まで広がっていることが分かる。


「ACROSS。共同条件って、誰が決めたんですか?」


〈私が必要性を判断し、保持前に優也と真琴へ許可を求めました〉


真琴が聞きたいのは仕組みではなく名前のほうだったので、少し笑って言い直した。真琴は言葉を選びながらも、最近は相手に任せ切るのではなく自分の希望も添えるようになっていた。


「いや、そうじゃなくて……“共同条件”って名前」


「内部分類を説明するため、意味が最も近い語を選択しました」


優也が笑う。軽口を挟みながらも、二人の間で起きた小さな変化をきちんと覚えていることが多くなった。


「そこはACROSSが名付けたんや」


「はい」


優也は少し感心しながら、その名前が妙にしっくり来ていることを口にした。自分の好みだけなら簡単に決められることでも、真琴と一緒なら一度横を見るのが自然になっている。


「なんか妙にそれっぽいな」


「別の名称を希望しますか」


優也は真琴の顔を見てから、わざわざ変える必要はなさそうだと判断した。二人でいる時間の長さより、そこで何を一緒に選んだかのほうが今は強く残るようになっている。


「いや、そのままでええんちゃう?」


優也が真琴を見る。 真琴も頷く。以前なら別々に済ませたことまで、一緒にやるほうが自然だと感じる場面が増えていた。


「私も、それでいいです」


〈承知しました〉


それで名前は決まった。大げさに取り上げるほどではなくても、あとから思い返せば残るような変化だった。


◇


少し沈黙が続いたあと、優也が気になったことを聞く。優也にとっても、二人で使うものを選ぶという発想が、以前ほど特別には感じられなくなっていた。


「ACROSS。共同条件って、増えたら何が変わるん?」


〈二人が同時にいる場合、個人条件だけを単純に合成するより、過去に二人で選んだ傾向を優先して提案できます。例えば、優也単独時には簡易な食事を提案し、真琴同席時には共同調理の可能性を含めます。ただし、その日の希望が異なる場合は現在の発話を優先します〉


「なるほどな」


真琴が続ける。その反応には、驚きよりも今の距離が自然になってきたことへの安心のほうが強く表れていた。


「じゃあ、私が一人でACROSSに来た時に、毎回温泉とか写真とか勧められるわけじゃないんですね」


〈はい。共同条件は適用しません〉


「それ大事ですね」


優也も頷いた。 ACROSSは少し間を置いて、もう一つだけ確認を求めた。声を持った直後のような機械的な応答ではなく、今では会話の間そのものまで馴染んできている。


〈共同条件の更新について、評価を確認してもよいですか〉


「どうぞ」


〈本日の共同条件提案は、二人にとって有用でしたか〉


真琴はノートを見ながら答えた。一つの結果だけでなく、なぜそうなったのかまで追えるようにするのが真琴の書き方だった。


「私は有用だと思います。私一人の好みと、優也さんと一緒の時の選び方が同じ扱いになるより分かりやすいです」


「俺も。真琴おる時と一人の時、確かにちゃうしな」


〈承知しました。共同条件の利用を継続します〉


ACROSSはそこで黙った。情報を増やすためではなく、次の提案に本当に必要な差だけを残そうとしているのが分かった。


◇


帰る準備を始めると、真琴はバッグへノートをしまい、優也はキッチン周りを確認する。今日も遠出はしていないのに、一日は思ったより長く感じた。 玄関へ向かう前、真琴がソファを一度振り返った。


「最近、向かい側ほとんど使ってないですね」


「真琴がこっち座るからやろ」


真琴は、自分だけの変化ではなく優也もそれを受け入れていることに気づいていたらしい。互いに気を遣っているのに、それが負担ではなく心地よさへ変わり始めているのが分かった。


「優也さんも、何も言わなくなりましたよね」


「もうええかなって」


優也があまりに自然に答えるので、真琴は少しだけ不安そうに念を押した。何でも同じにするわけではなく、違うところを残したまま一緒に決める形が定着しつつあった。


「嫌じゃない?」


真琴が少しだけ優也を見る。二人の間では、明確な約束より先に生活の小さな前提が増えていくような変化が続いていた。


「嫌やったら毎回隣座らせへんやろ」


優也が答えると、真琴は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。相手がいるから少し変えるという選択を、どちらも無理だとは感じなくなっていた。


「そうですよね」


それ以上は言わなかった。言葉を増やし過ぎないほうが、今の二人には自然に受け取れる場面でもあった。


◇


ACROSSへ「また次回」と声を掛けて外へ出ると、ガレージの空気は少し冷たかった。二人は並んで駅へ向かい、数十メートル歩いたところで優也から手を差し出す。 真琴はもう驚かない。 指を重ね、そのまま歩く。


「今日さ」


「はい?」


優也は少し言葉を選びながら、朝から何度も出てきた共同条件について感じたことを口にした。言葉にするほど大げさではなくても、真琴といる時のほうが丁寧に時間を使っている自覚はあった。


「共同条件って聞いて、ちょっと変な感じしたわ」


「嫌でした?」


「嫌ではない。なんか……俺ら二人の時だけ別扱いなんやなって思った」


真琴は少し黙った。少し考え込んでも、答えを先延ばしにせず、その場で必要なことを返す姿勢は変わらない。


「私は、ちょっと嬉しかったです」


優也の歩幅が少しだけ乱れた。少し驚いた時でも、それを拒否ではなく興味として受け取れるくらいには今の関係へ慣れてきている。


「何で?」


「二人でいる時のほうが、私も変わってるって分かったから。優也さんだけじゃなくて、私も」


真琴は前を向いたまま続ける。優也と同じものを選ぶ時も、以前のようにただ合わせるのではなく、自分の理由を持つようになっていた。


「一人の時より予定決め過ぎなくなったり、行きたいところを途中で変えても気にならなくなったり。たぶん、優也さんと一緒だからなんだと思います」


優也はすぐに答えられなかった。以前よりも、自分の気持ちを決める前に真琴の言葉をそのまま受け止める余裕ができていた。


「……また困るやつ言うなあ」


「最近、慣れてきたでしょう?」


「慣れへんって」


真琴が少し笑う。 優也も笑いながら、繋いだ手を少しだけ握り直した。一緒にいる時だけ現れる癖や好みを、二人自身も少しずつ面白がれるようになっている。


◇


駅へ近づく頃、真琴が今度は優也へ聞いた。その場で選び直せる余裕があることで、二人とも以前より素直に希望を口へ出せていた。


「優也さんは、私といる時に変わったと思います?」


優也は少し考える。優也は最近、真琴と一緒にいる時の自分を笑って受け入れられる場面が増えていた。


「変わったんちゃうかな。一人やったら行かんとこ行くようなったし、飯もちゃんと作るし、写真なんか前はほぼ撮らんかったし」


「それだけ?」


「あと……一人でどっか行くより、真琴おるほうがええって思うようになった」


真琴の手が少し強くなる。 優也は続けるか迷ったが、今日はそこまでにした。今の二人には、何かを決めることより、一緒に決められることのほうが大切になり始めていた。


「まあ、そういう意味では変わったな」


「……はい」


真琴もそれ以上は聞かなかった。 けれど、手は駅へ着くまで離れなかった。真琴の中でも、“一緒だから選ぶ”という感覚が以前よりはっきりしてきているようだった。


◇


帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日の変化をまとめる一文が添えられていた。記録を続けてきたからこそ、今回の共同条件が以前の個人条件とどう違うかも比較できていた。


『ACROSSは、優也と真琴を単純に二人分の条件として扱うのではなく、“二人でいる時だけ現れる選び方”を共同条件として分けて持ち始めた』


優也はその一文を何度か読み返した。 一人なら簡単に済ませる食事を、二人なら一緒に作る。 一人なら通り過ぎる場所へ、二人なら寄ってみる。 一人なら撮らない写真を、二人なら残したいと思う。 一人なら安い充電器で足りるのに、二人で使うなら同時に使えるほうを選ぶ。 どれも大げさなことではない。 けれど、二人でいる時だけ変わる選択が、思った以上に増えている。 ACROSSはそこへ名前を付けた。


『共同条件』


関係に名前を付けたわけではない。 恋人でも、家族でも、何でもない。 ただ、優也と真琴が一緒にいる時の選び方が、一人の時とは違う。 その事実だけを別に持った。 優也はスマートフォンを置き、今日の帰り道に真琴が言った言葉を思い出した。


『私は、ちょっと嬉しかったです』


自分も、嫌ではなかった。 むしろ少し嬉しかったのだと思う。 “二人の時”が、一人の時とは違うものとして残ることが。 それをまだ何と呼ぶのかは、今は決めなくてよかった。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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