↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第三章 ACROSSの声
112/270

ep.112 予定の余白


 翌週の土曜日、優也がガレージへ着いた時には、朝の空気が前より明らかに冷たくなっていた。シャッターを開けてACROSSへ上がると、車内は外気の冷たさが嘘のように落ち着いており、先週二人で入れ替えた冬物も、使いたい時にすぐ手が届く場所へ収まっている。


〈おはようございます、優也。前回変更した収納について、現在まで追加の不適合は確認されていません〉


「おはよう。もう評価は終わったんちゃうの?」


〈前回の評価は保持しています。現在は、変更後に新しい問題が発生していないことを確認しただけです。追加の回答は不要です〉


 先週、ACROSSは自分の提案が役に立ったかを知りたいと言った。ただし、何をするたびに感想を求めるわけではなく、必要な時だけ確かめる。その加減まで本当に変え始めているらしい。


 優也は少し笑い、キッチンでコーヒーを淹れた。自分の分だけ先に用意してもよかったが、もう一つのカップも迷わず並べる。真琴が来るまで十分ほどしかないことは、時計を見なくても分かっていた。


 やがて玄関が開き、冷たい空気と一緒に真琴が入ってくる。


「おはようございます」


〈おはようございます、真琴〉


 ACROSSとの挨拶を終えた真琴は上着を脱ぎ、いつものようにリビングへ来ると、向かい側ではなく優也の隣へ腰を下ろした。前なら優也が一言からかい、それに真琴が理由を付けて返していたが、今日は何も言わない。ただ、テーブルへ置いた二つ目のカップを真琴の前へ滑らせた。


「ありがとうございます。今日はどうします?」


「何も決めてへん。天気ええし、ちょっと走って昼食べるくらいでもええかなと思ってた」


「私もそのくらいがいいです。遠くまで行かなくても」


 二人とも、行きたい場所がないわけではない。ただ、今日は朝から目的地を一つに決める気分ではなかった。


 少し間を置き、ACROSSが声を出した。


〈提案があります。現在地から一時間以内で、二人の過去の選択条件に合う候補を三件抽出できます。目的地を固定せず、出発後に選択できる形でも提示可能です〉


 真琴がわずかに首を傾げる。


「決めないまま出るんですか?」


〈はい。現在確認できている希望は、短時間の走行と昼食です。特定の目的地への強い希望は確認されていません。候補のみを保持し、途中で変更することができます〉


 優也はその提案を少し面白く感じた。予定を決めてから出掛けるのではなく、行けそうな場所だけ持って外へ出る。気が変わっても予定を崩したことにはならない。


「それええな。候補だけ教えて」


「一件目は郊外の農産物市場。二件目は丘陵公園と併設の軽食店。三件目は川沿いの小規模な商業区画です。いずれもACROSSでの進入と駐車に問題はありません」


 優也は三つを聞き終えてもすぐに決めず、真琴へ目を向けた。


「どれ気になる?」


「農産物市場ですかね。野菜も見たいですし。ただ、絶対そこじゃないと嫌というほどではないです」


「俺もそれでええわ。じゃあ市場を第一候補にしよか」


〈承知しました。固定目的地ではなく、第一候補として保持します〉


 その言い方に、真琴がすぐ反応した。


「目的地じゃなくて、第一候補なんですね」


〈はい。二人が変更を許容しているため、到着を必須条件にはしません〉


 優也は思わず笑った。


「今日は寄り道しても怒られへんな」


「私は怒りませんよ」


 真琴が先に答えたので、優也は横を向いた。


「ACROSSに言うたんやけど」


〈分かってます〉


 真琴も笑い、二人は出発の準備へ移った。


          ◇


 市街地を抜けると、窓の外に低い山と田畑が増えていった。休日の午前にしては交通量も少なく、優也は急がず一定の速度で走る。


 モニターには第一候補の市場までの経路が出ていたが、到着予定時刻は小さく表示されているだけで、次の予定を急かす表示もない。


「こういうの、ええな」


「何がです?」


「ナビは出てるけど、絶対そこ行かなあかん感じせえへん」


「今日はそのほうが合ってるかもしれませんね」


 真琴は助手席で景色を眺め、優也もときどき横目で外を見る。目的地へ早く着くことより、車で出ている時間そのものを楽しめている気がした。


 しばらく走ったところで、道路沿いに木造の小さな店が見えた。駐車場には数台の車が止まり、入口脇には焼きたてのパンとコーヒーを知らせる看板が出ている。


「うまそうやな」


「気になりますね」


 二人とも口にはしたが、「寄ろう」とは言わなかった。


 優也はそのまま通り過ぎた。


 数百メートル進んだところで、ACROSSが声を出した。


〈確認してもよいですか〉


「何?」


〈先ほどの店舗について、二人とも関心を示しました。しかし、立ち寄り希望は発話されませんでした。第一候補への到着を優先したためですか。それとも、関心はあるが立ち寄るほどではないという意味ですか〉


 優也と真琴は一瞬だけ顔を見合わせた。


「俺は……市場行く予定やし、まあええかと思っただけやな。寄っても時間あるなら、ちょっと行きたい」


「私も同じです。優也さんが寄りたいって言ったら行こうと思ってました」


「俺も真琴が言うたら寄ろうと思ってた」


 言い終えたところで、二人とも笑った。


「何それ」


「お互い待ってたんやな」


 ACROSSはそこで結論を決めつけず、現在の時間と経路を確認してから答えた。


〈現在の予定には余裕があります。店舗へ立ち寄っても、第一候補の市場を利用できる時間に大きな影響はありません。安全に戻る経路を提案できます〉


「ほな行こか」


「はい」


 次の交差点で無理なく方向を変え、数分後にはさっきの店へ戻っていた。


 たったそれだけの寄り道なのに、優也には妙に楽しかった。


          ◇


 店内は広くなかったが、木の香りが残る落ち着いた空間だった。焼きたてのパンが棚へ並び、奥には小さなカフェスペースがある。


 優也は惣菜パンとブラックコーヒー、真琴は甘い小さなパンと紅茶を選んだ。市場でも何か食べるかもしれないので、二人とも量は控えめだった。


「予定外やけど、当たりやな」


「はい。寄ってよかったです」


 窓際の二人掛け席は少し狭かった。真琴が外を見やすい側へ詰め、そのまま自分の隣を軽く叩く。


「こっちのほうが景色見えますよ」


 優也は一瞬だけ笑ったが、何も言わず横へ座った。


 肩がときどき触れる。


 以前なら、真琴がなぜ隣へ座るのか気になって仕方なかった。今は隣へ座ったことより、そのまま二人で同じ窓の外を見られることのほうが自然に思える。


 パンを食べ終えたあと、真琴は持ち帰り用を二つ追加した。


「明日の朝です。一つは優也さんの分」


「俺のも?」


「さっき見てたでしょう。黒いやつ」


 優也が気になっていたパンだった。


「見てたけど、買うほどちゃうかなと思ってた」


「またそれですか。気になるなら言えばいいのに」


「真琴もさっきの店、俺が言うたら寄ろうと思ってたやん」


「それは……そうですけど」


 自分へそのまま返ってきたので、真琴は少しだけ困った顔になり、それから笑った。


「じゃあ次から、気になったら言うようにします?」


「そうしよか」


「優也さんもですよ」


「はいはい」


 軽いやり取りだったが、優也には妙に残った。


 相手が言えば、ではなく、自分から言う。


 それだけで選べるものが少し増える気がした。


          ◇


 ACROSSへ戻ると、市場までの経路が再表示された。シートベルトを締める前に、ACROSSが声を出す。


〈先ほどの立ち寄りについて、後で評価を確認してもよいですか〉


「今ちゃうん?」


〈現在は立ち寄り直後です。第一候補を含む今日の行動全体への影響は、まだ確認できません。市場到着後、または帰路での確認を推奨します〉


 真琴が少し驚いたようにモニターを見る。


「評価するタイミングまで考えてるんですね」


「パン屋だけ良くても、そのせいで市場ほとんど見れんかったら、一日の評価は変わるもんな」


〈はい。部分的な満足と、一日の結果は分けて扱います〉


 優也は車を出しながら、さっきの店を思い返した。


 寄り道そのものより、寄れる時間が残っていたことのほうが大きかったのかもしれない。


 最初から今日一日の時間を全部予定で埋めていたら、二人とも気になりながら通り過ぎていたはずだった。


          ◇


 農産物市場へ着いたのは最初の見込みより三十分ほど遅かったが、店内はまだゆっくり見て回れる程度の混雑だった。


 野菜、果物、惣菜、調味料。


 特に買う物を決めずに歩いていると、優也が大きな白菜を持ち上げた。


「これ安いな」


「買うんですか?」


「鍋できるやん」


「一人でその大きさ、食べ切れます?」


 優也は白菜を見て、真琴を見る。


「……半分でええか」


「そのほうがいいと思います」


 二人で笑いながら半玉へ持ち替え、豆腐ときのこもカゴへ入れた。


 真琴は小さな瓶入りの調味料を見つけ、ACROSSで使えそうだと手に取る。優也が横から覗くと、彼女は自宅用とACROSS用のどちらにするか少し考え、結局二本買った。


「一本でええんちゃう?」


「毎回持ってくるほうが面倒でしょう」


「その発想、だいぶこっちに住み始めてるな」


「住んでません」


 否定は早かったが、真琴は少し笑っていた。


 奥の軽食コーナーから出汁の匂いが流れてくる。さっきパンを食べたばかりなのに、優也がそちらを見ると真琴も同じ方向へ視線を向けた。


 今度は二人とも待たなかった。


「ちょっと食べる?」


「小さいのなら」


 優也は小さな蕎麦、真琴は出汁のきいた小さな丼を選び、外のベンチへ座った。


「今日、食べてばっかりやな」


「一つ一つは少ないですから」


「次なんか見つけても、もう食わんで」


「優也さんが先に言いそうです」


「それはある」


 真琴が笑い、優也も笑った。


 予定を決めすぎていないだけで、どこかへ急ぐ気分がない。


 食べ終わってもしばらくベンチに残り、風に当たりながら人の出入りを眺めた。何もしない時間なのに、無駄だとは思わなかった。


          ◇


 市場を一通り見終え、買った物をACROSSへ載せる頃には午後一時を少し回っていた。


 朝の候補には、このあと丘陵公園へ寄る案もあったはずだが、ACROSSは何も言わない。


 運転席へ戻った優也が聞いた。


「公園は?」


〈現在も第二候補として保持しています。ただし、二人から追加移動の希望が発話されていないため、提案を保留しています〉


「前やったら、候補ありますって言うてそうやな」


〈はい。前回までの評価から、予定に空きがあること自体が有用な場合があると判断しています〉


 真琴は少し考えたあと、窓の外へ目を向ける。


「私は今日はもう満足です。公園は別の日でもいいかな」


「俺も。帰って買ったもん整理して、コーヒー飲むくらいでええ」


〈承知しました。丘陵公園は“関心低下”ではなく、“本日の充足と追加移動不要”として保持します。候補自体は残します〉


 優也はその返しが気に入った。


「行かんかったから嫌い、にはせえへんのやな」


〈はい。実行しなかった理由が、対象への否定とは限りません〉


 真琴がノートへ短く書き込む。


「これ、結構大事かもしれませんね。選ばなかったことと、嫌だったことを分けてる」


「人間でもそこ一緒にしがちやもんな」


「そうですね」


 優也はエンジンを掛けた。


 公園へ行かなかったことに、やり残した感じはなかった。


 今日は行かない。


 また行きたくなれば、その時に行けばいい。


          ◇


 帰り道、ACROSSは余計な候補を追加しなかった。


 優也は運転しながら、今日の流れを少しずつ振り返る。最初から市場だけを目的地にしていたら、パン屋へ戻ることはなかった。パン屋で長居したぶん市場へ着くのは遅れたが、何も困らなかった。公園へ行かなかったことで、時間が余ったわけでもない。


 真琴が助手席から言う。


「最初に全部決めなくても、ちゃんと一日になるんですね」


「むしろ今日みたいな日のほうが楽かもしれん」


「優也さん、元々こういうの好きそうですけど」


 優也は少し考え、さっきの店を一人で見つけていた場合を想像した。


「好きやけど、一人やったらたぶんパン屋通り過ぎてる」


「どうしてです?」


「戻るん面倒やから」


 真琴は呆れたように笑った。


「そこは変わらないんですね」


「でも今日は戻ったやろ」


「私も気になってたから?」


「それもある」


 優也は前を向いたまま答えた。


「一人やったら、まあええかで終わること、真琴おったら行ってみよかってなること増えた気する」


 真琴はすぐには返さなかった。


 数秒して、少しだけ柔らかい声が返ってくる。


「私もです。一人だったら予定を変えないことのほうが多かったと思います」


「じゃあお互い、ちょっと雑になったんかな」


「柔軟になったって言ってください」


「言い方やな」


 二人で笑った。


 ACROSSは、その会話へ入らなかった。


          ◇


 ガレージへ戻ると、買ってきた物を冷蔵庫と収納へ収めた。先週調整した配置がそのまま役立ち、真琴が選んだ調味料も無理なく届く場所へ入る。


 片付けを終えたあと、二人はリビングへ戻った。


 真琴は今日も自然に優也の隣へ座った。


 優也ももう何も言わない。


 二人分のコーヒーを置くと、ACROSSが声を出した。


〈今日の行動について、評価を確認してもよいですか〉


「どうぞ」


 真琴がノートを開く。


〈最初に固定目的地を設定せず、第一候補のみを保持しました。その結果、途中の店舗へ立ち寄り、市場到着が約三十分遅れました。二人にとって、この変更は有用でしたか〉


「俺は良かった。市場も普通に見れたし、パン屋も行けた。時間足らんかった感じもない」


「私もです。むしろ全部決めていたら、あの店は寄らなかったと思います」


〈承知しました。立ち寄りが有用だった理由を確認します。店舗そのものへの満足、予定に余裕があったこと、二人が変更を許容していたことのうち、どれが重要でしたか。複数回答可能です〉


 優也は少し考えた。


「店が良かったのもあるけど、時間余ってたのが一番ちゃう? 寄っても困らんって分かったから戻れたし」


「私は、変更しても予定を失敗した感じがしなかったことですね」


 真琴の言葉に優也も頷く。


 目的地へ着けなかったわけではない。


 遅れたから失敗でもない。


 途中で変えたから崩れたわけでもない。


〈承知しました〉


 ACROSSは数秒置いてから続けた。


〈次回以降、自由度の高い外出では、予定時間をすべて埋めず、変更可能な時間を残す提案を優先してよいですか〉


 真琴はノートから顔を上げた。


「何もしない時間を、予定に入れるんですか?」


〈何もしないことを固定するのではありません。未割当時間として保持します。候補への追加、休憩、予定短縮、偶発的な立ち寄りなどへ使用できます〉


「余白やな」


 優也が言うと、ACROSSは少し間を置いた。


「“余白”という表現で保持しますか」


 優也と真琴は顔を見合わせた。


「分かりやすいし、それでええんちゃう?」


「私もいいと思います」


〈承知しました。自由度を優先する外出では、予定に余白を残す提案を行います。ただし、予約時刻や営業時間など、固定条件がある場合はそちらを優先します〉


「それでええわ。予約あるのに寄り道して遅刻は困るしな」


「はい」


 答えは短かった。


 けれど、今日一日をそのまま次へ繋げた結果として聞くと、以前よりずっと自然に感じられた。


          ◇


 真琴はノートへ今日の流れをまとめた。


『固定目的地なし/第一候補のみ保持』

『関心発話が双方にある場合、未発話理由を確認』

『立ち寄り直後ではなく、一日全体への影響を後から評価』

『未実行候補を自動で関心低下と判断しない』

『自由度優先時――予定へ余白を残す』


 書き終えたあと、真琴は最後の行を見ながら少し笑う。


「ACROSS、最近かなり“全部決めない”のが上手くなってきましたね」


「最初の頃は、条件出したら答え一個に絞る感じやったもんな」


「今は、選ばないことも残せるようになってます」


 優也はコーヒーを飲みながら考えた。


「でもさ。これ、人間のほうが苦手な時あるよな」


「何がです?」


「全部決めたくなるやつ。何時に出て、何時に着いて、ここ見て、次ここ行って。決めてないと不安やけど、決めすぎても疲れる」


「優也さん、そんなに細かく予定立てる人でしたっけ」


「旅行では立てへんけど、GRANZ作ってる時とかはめっちゃ立ててたやん」


「それは確かに」


 二人で笑った。


 車を完成させるまでは、次に何をするかが常に決まっていた。


 資金。


 契約。


 製作。


 運転。


 車庫。


 納車。


 足りないものを一つずつ埋めてきた。


 でも今は、埋めなくてもいい時間が増えている。


 ACROSSで出掛けること自体が生活になり始めたからこそ、その中に空白があっても不安ではなくなっていた。


          ◇


 帰る準備を始めると、真琴はノートをバッグへしまい、優也はキッチン周りを確認した。


 玄関へ向かう前、真琴がリビングを一度振り返る。


「今日は言わないんですね」


「何を?」


「……隣に座ってたこと」


 優也は少しだけ笑った。


「毎回言うたら、それこそ困るやろ」


 真琴は一瞬黙り、それから小さく頷いた。


「そうですけど」


「もう普通やし」


 何気なく言ったつもりだった。


 けれど、その一言で真琴の表情が少し変わる。


「普通、ですか」


「嫌やった?」


「逆です」


 それだけ答えると、真琴は靴を履くために視線を落とした。


 優也は深く聞かなかった。


 聞けばまた、どちらかが答えを決めなければならない気がした。


 今は、隣へ座ることが普通になった。


 それだけで十分だった。


          ◇


 ガレージを出ると、空気は朝よりさらに冷えていた。


 二人は駅へ向かって並んで歩く。


 少しして、真琴の手が優也の手へ触れた。


 優也は何も言わず手を開く。


 真琴の指が重なり、そのまま歩き続ける。


「今日のパン、明日食べるんですよね」


「食べる。コーヒーと一緒に」


「感想くださいね」


 真琴が冗談ではなく本気で言っているのが分かり、優也は少し笑った。


「ACROSSみたいになってきたな」


「毎回は聞きません」


「そこまで似せんでええって」


 真琴が笑う。


 優也も笑いながら、繋いだ手を少しだけ握り直した。


 朝は、目的地さえ決めずに出た。


 途中で店を見つけて戻り、市場で予定より長く過ごし、公園には行かなかった。


 それでも一日は足りなかったわけでも、崩れたわけでもない。


 むしろ、決めなかった部分があったからこそ拾えたものがいくつもあった。


「次も何も決めんでええかもな」


「毎回じゃなくていいですけど、たまには」


「じゃあ次、朝決めよか」


「それくらいがちょうどいいです」


 予定を決めない予定。


 言葉にすれば少し変だが、今の二人にはそれでよかった。


          ◇


 帰宅後、真琴から送られてきた記録を開くと、技術的な項目の最後に一文だけ追記されていた。


『ACROSSは、予定の変更を失敗として扱わず、変更理由と結果を確認したうえで、次の予定へ“余白”を残すようになった』


 優也はその一文を読みながら、朝からの流れを思い返した。


 市場へ行くつもりだった。


 パン屋が気になった。


 一度通り過ぎた。


 二人とも、相手が言えば寄ろうと思っていた。


 ACROSSは勝手に「寄りたい」と決めず、なぜ立ち寄らなかったのかを聞いた。


 そして戻った。


 市場にも行けた。


 公園には行かなかった。


 でも、公園が嫌になったわけではない。


 今日選ばなかっただけだ。


 全部を一つの意味へまとめず、理由を残したまま次へ持っていく。


 それが、今のACROSSらしい変わり方なのかもしれない。


 優也は画面を少し下へ送った。


 その下には、真琴から短いメッセージがあった。


『次は、気になったら先に言います』


 優也は笑いながら返す。


『俺も言う』


 しばらくして、すぐに返事が来た。


『予定に余白があっても、会話まで相手待ちにしないようにしましょう』


『了解』


 送信したあと、優也はスマートフォンを置いた。


 予定に空きがあることと、何も決めないことは同じではない。


 選ばなくてもいい。


 途中で変えてもいい。


 今日はやめてもいい。


 でも、気になったことくらいは自分から言えばいい。


 ACROSSが予定に残し始めた余白は、二人にとっても少し似た意味を持ち始めていた。


 急いで埋めなくてもいい場所があるからこそ、そこへ何を入れるかを、自分たちで選べる。


 次の土曜日も、まだ何も決まっていない。


 それが以前ほど頼りなく感じられないことに気づきながら、優也は明日の朝に食べる黒いパンのことを思い出し、少しだけ楽しみにしながらスマートフォンの画面を消した。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。

評価・感想も励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。