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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第三章 ACROSSの声
116/270

ep.116 準備だけ


翌週の土曜日は、前回の雨が嘘のように晴れていた。ただし朝の気温はかなり下がっており、ガレージへ入った優也は上着を脱がずにそのままACROSSへ乗り込んだ。車内はすでに外より少し暖かく、窓際へ近づいても冷気を強く感じない程度に空調が整えられている。


〈おはようございます、優也。現在の外気温は十一度です。午後は十五度前後まで上がりますが、日没後は再び低下します〉


「おはよう。急に寒なったな」


優也が上着を脱がずにいるのを見越したように、ACROSSは前週との気温差まで補足した。数値で聞けば、体感だけでは分かりにくい季節の進み方まで少し具体的に感じられる。


〈前週平均との差は約五度です〉


「数字で言われると余計寒いわ」


ACROSSはそれ以上返さず、優也は笑いながらコーヒーの準備を始めた。真琴が来る時間まではまだ少しある。前回と同じようにカップを二つ出し、今日は温かいもののほうがいいだろうと考えて、真琴の分も先に温めておく。


真琴が到着したのは、いつもとほぼ同じ時間だった。玄関が開き、ACROSSと挨拶を交わしたあと、首元へ巻いていた薄いストールを外しながらリビングへ入ってくる。


「外、思ったより寒いです」


「せやろ。コーヒー熱めにしたで」


「ありがとうございます」


真琴はいつものように優也の隣へ座った。前回の映画で肩を借りたことを思い出しているのか、最初だけ少し距離があったものの、カップを受け取ってしばらくすると普段どおりの位置へ戻っている。


「今日はどうします?」


「天気ええし、近場ちょっと走ろか。紅葉まだ早いけど、川沿いの公園くらいなら気持ちええやろ」


「いいですね。歩きたいです」


二人の希望が一致したところで、ACROSSが近隣の候補を三つ提示した。大型車で入りやすく、散策路があり、昼食を取れる場所が近い。その中から一時間弱で着く河川公園を選び、昼過ぎまで滞在してから戻ることにした。


「夕方寒かったら、帰りに温泉寄ってもいいですね」


真琴が何気なく言った。まだ予定へ入れるつもりはなく、寒かったら帰りに寄れたらいいという程度の軽い候補だった。


「ええな。時間と気分次第で」


優也も軽く返し、そのままコーヒーへ口をつけた。二人とも、温泉へ行くと決めたわけではない。 ACROSSも何も聞かなかった。


◇


出発後、道路はそれほど混んでいなかった。秋晴れの空は高く、窓越しに見える山並みも少しずつ色づき始めている。真琴は助手席から何度か景色を撮り、優也は運転しながら時々横目で見る。


「今日は写真多いな」


「空がきれいなので」


真琴が何枚も空を撮っているのを横目で見ながら、優也は自分は今日は撮らないつもりだと軽く言った。


「俺は撮らへんで」


「あとで一緒に撮ります」


当然のように返されたので、優也は少し笑いながら本当に決定事項なのか聞き返した。最近の真琴は、写真を一緒に残すことを以前ほど特別扱いしなくなっている。


「もう決定なん?」


「嫌ですか?」


「嫌とは言うてへん」


真琴が少し笑った。最近は、こういう言葉のやり取りにも二人とも慣れてきている。 公園へ着くと、駐車場は思ったより空いていた。川沿いには広い芝生と遊歩道があり、木々の一部だけ赤く色づいている。日差しがある間は寒さもそれほど感じず、二人は上着を着たままゆっくり歩き始めた。


最初の十分ほどは写真を撮ったり、川を眺めたりしながら普通に歩いていたが、開けた場所へ出ると風が少し強くなった。真琴が両手を擦る。


「手、冷たい?」


「少しだけ」


優也が手を差し出すと、真琴は迷わず握った。いつものように指を重ねるだけかと思ったが、今日は真琴のほうから少し握り直し、指の間へ自分の指を入れる。 優也は一瞬だけ手元を見る。


「今日はしっかり繋ぐんやな」


「そのほうが暖かいです」


優也は指を絡めた手元を一度見てから、理由としては確かにその通りだと頷いた。照れは残るものの、手を離そうという気にはまったくならなかった。


「なるほど」


「何ですか、その顔」


「別に」


真琴は少し照れたように前を向いたが、指はそのままだった。手のひら同士がしっかり触れているぶん、確かに普通に握るより暖かい。


◇


散策路の途中に小さな売店があり、温かい飲み物と軽食を売っていた。優也はホットコーヒー、真琴はココアを選び、川が見えるベンチへ並んで座る。


「ココア好きなん?」


「寒い日は飲みたくなります。ACROSSにもありましたっけ?」


「粉のやつならあった気するけど」


優也がスマートフォン越しにACROSSへ確認すると、純ココアと砂糖、牛乳は在庫があり、帰宅後に作れると返ってきた。


「じゃあ、帰ったら作れますね」


「温泉行かんかったらな」


「そうですね」


二人はそれ以上決めなかった。 しばらくして、真琴が売店の横に置かれていた地域案内を見つけた。近くに日帰り温泉が二か所あり、一つは露天風呂が広く、もう一つは食事処が充実しているらしい。


「こっち、良さそうです」


「露天?」


真琴は案内写真を見ながら少し興味を示したものの、今すぐ予定へ入れるほど強く決めたいわけではなかった。


「はい。でも今日はまだ決めなくていいですよね」


「ええんちゃう。歩いてから考えよ」


二人は案内の写真だけ見て、また散策へ戻った。行くかどうかは後で決めればよく、今は目の前の景色を楽しむほうが二人には合っていた。


◇


昼前まで歩き、近くの食事処で温かい蕎麦を食べたあと、ACROSSへ戻った。車内へ入ると外よりかなり暖かく感じ、真琴は上着を脱いですぐソファへ座る。


「思ったより歩きましたね」


「六キロ近いやろ」


真琴は自分ではそこまで歩いた感覚がなく、端末の表示を見て少し驚いた。景色を見ながらゆっくり歩いていたせいか、距離の長さより時間の短さのほうを強く感じていた。


「そんなに?」


「スマホ見たらそれくらい出てる」


真琴は自分の端末を見て少し驚いた。歩く距離を最初から決めなかったので、景色を見ながら進んでいるうちに自然と距離が伸びたらしい。 優也が冷蔵庫から水を出していると、ACROSSが声を出した。


〈確認事項ではなく、報告があります〉


「何?」


〈先ほど真琴が候補として示した日帰り温泉二施設について、営業時間、大型車駐車可否、現在地からの所要時間、混雑傾向を取得済みです〉


二人が同時に顔を上げた。予定を決めていない段階でACROSS側から調べた内容を報告されたのは、これまでとは少し違う動きだった。


「調べたん?」


「はい」


真琴が少し驚いたように聞く。候補に挙げただけの場所を、どこまで自動で調べてよいと判断したのかが気になった。


「でも、私たち“行く”って決めてないですよね?」


〈はい。目的地としては設定していません〉


「じゃあ何で調べたん?」


優也が聞くと、ACROSSは少し間を置いて答えた。決定済みの予定と、まだ候補に留まる情報を分けて扱っていることを説明するつもりらしい。


〈二人が温泉を候補として複数回言及し、現地案内も確認していました。行く可能性はありますが、決定はされていません。そのため、選択時に必要になる情報のみ先に取得しました〉


優也は少し考えた。予約も連絡もせず、必要になりそうな情報だけ揃えているなら、自分たちの選択を奪われた感じはしなかった。


「準備だけしたってこと?」


〈はい。外部予約、購入、経路変更、施設への連絡は行っていません。情報取得と候補比較のみです〉


真琴がノートを取り出す。今回の変化は小さく見えて、ACROSSが自分から何かを始める範囲に関わるため、残しておいたほうがよさそうだった。


「これ、新しいですね」


「何が?」


「今までは、私たちが“調べて”って言ってから候補を出すことが多かったでしょう。今日は決める前に必要になりそうな情報だけ集めてます」


ACROSSが続ける。先に準備することと、本人の代わりに決めることを同じにしないための基準を、もう少し具体的に説明した。


〈決定を代行せず、取り消し可能または外部影響のない準備であれば、先行して行うことで選択時の中断を減らせます〉


優也はその言葉を聞いて、少し眉を上げた。便利さだけを優先するなら予約まで済ませたほうが早いはずだが、ACROSSはそこを明確に止めている。


「取り消し可能って?」


〈計算、検索、候補整理、機器の待機状態設定などです。外部への予約、注文、送信、支払い、経路の強制変更は含みません〉


優也は、先回りしていい範囲を“後戻りできるかどうか”で分けていることに少し感心した。選ばなかった時に負担が残るかどうかも、実行の境目になっているらしい。


「そこ線引いたんやな」


「はい」


◇


真琴はすぐに確認を続けた。今後この判断が広がるなら、最初にどこまで任せてよいのかを曖昧にしないほうが安心できる。


「ACROSS。先に準備していい範囲って、誰が決めたんですか?」


〈現在は、過去の許可範囲と、外部影響の有無、費用、不可逆性、個人意思への影響を参照しています。新しい種類の準備を継続的に行う場合は確認を求めます〉


真琴は一般論だけでなく、今回の温泉検索がその基準のどこに入ったのかまで確かめた。具体例に当てはめれば、抽象的な線引きも二人には理解しやすい。


「今回の温泉検索は?」


〈公開情報の取得のみで、費用と外部影響がありません。二人が候補として明示していたため、先行準備の対象と判断しました〉


優也が腕を組む。公開情報を調べるだけなら便利だが、先回りが増え過ぎれば落ち着かなくなるという真琴の感覚もよく分かった。


「予約まで勝手に取るんはあかんけど、営業時間調べるくらいなら別にええわな」


「私もそう思います。でも、何でも先回りされるのは少し嫌かも」


「それは分かる」


ACROSSは二人の発話が終わるまで待ってから、確認を求めた。自分で決めた基準をそのまま固定せず、今後も使う範囲については二人へ許可を取り直すつもりだった。


〈今後、二人が候補として明示し、選択時に必要となる情報について、費用・外部連絡・契約・注文・予約・公開範囲変更を伴わない場合は、先行して取得・整理してよいですか〉


優也と真琴は顔を見合わせる。検索まで毎回頼む手間が減るのは助かる一方、雑談まで拾われるのは避けたいという感覚は二人とも同じだった。


「俺はええよ。調べるだけなら楽やし」


「私もいいです。ただし、私たちが雑談で名前を出しただけの場所まで全部調べるのはやめてください」


〈承知しました。“候補として明示された場合”を条件とし、単なる言及は対象外とします〉


真琴が頷いた。候補として明示した時だけなら、自分たちの会話まで常に先読みされる感じは薄く、使いやすそうだった。


「それならいいです」


共同条件として新しい線が一本加わった。先に動ける範囲を広げながらも、決定権そのものは二人へ残すという形がさらに具体的になっている。


◇


温泉へ行くかどうかは、まだ決めていなかった。歩いた疲れはあるが、ACROSSへ戻って暖かい車内に座ったことで、わざわざ移動しなくてもいい気もしてくる。


「どうする?」


優也が聞くと、真琴は少し考えてからソファの背へ体を預けた。歩いた疲れと暖かい車内の心地よさを比べれば、今はもう移動したくない気持ちのほうが強かった。


「今ここが結構気持ちいいです」


「俺も」


温泉へ移動するより、暖かい車内でこのまま休みたい気持ちのほうが二人とも強くなっていた。候補があることと、実際に選ぶことは別だと自然に感じられる。


「じゃあ今日は温泉、やめます?」


「やめよか。ココア作ってだらだらしよ」


「はい」


ACROSSはすぐに温泉候補を消さなかった。今日行かなかった理由を興味の消失とは扱わず、次に使える候補として残せるかだけを確認した。


〈本日の訪問候補からは外します。施設情報は、次回同地域を訪れる場合に再利用可能な候補として保持しますか〉


「それは残しといて」


今日行かないだけで興味がなくなったわけではないので、真琴も同じように残してほしいと答えた。


「私もお願いします」


〈承知しました〉


調べたことが無駄になったわけではない。行かなかった理由も、温泉に興味がなくなったからではなく、今は移動しないほうが快適だったからだ。その違いをACROSSは前回までの流れどおり分けて扱っている。


◇


優也はキッチンでココアを作った。二人分の牛乳を温め、純ココアと砂糖を少しずつ混ぜる。真琴が横から覗き込み、砂糖の量に口を出す。


「優也さん、それ私の分も同じですか?」


「甘め嫌?」


真琴は優也ほど甘くなくていいと伝えたので、優也は最初から二つのカップを別々に調整することにした。


「少し控えめがいいです」


「ほな分けるわ」


二つのカップへ別々に調整し、真琴のほうは砂糖を少なめにする。ACROSSは味の違いを拾ったが、すぐ共同条件にはしなかった。


「これくらい?」


優也が差し出すと、真琴は一口飲んでから頷いた。甘さが控えめでもココアの味は十分に残っていて、真琴にはそのくらいがちょうどいいらしい。


「ちょうどいいです。美味しい」


「俺の甘いで」


真琴はどれくらい違うのか気になったらしく、優也のカップへ視線を向けた。普段なら別々に飲んで終わるところだが、今日は自然に相手の味まで気になっている。


「一口もらっていいですか?」


「ええよ」


真琴が優也のカップを受け取り、一口だけ飲むと、予想していた以上の甘さにすぐ少し顔をしかめた。優也はその反応を見て笑う。


「甘いです」


「せやろ」


予想以上の甘さだったようで真琴が少し顔をしかめると、優也は冬のココアならこれくらいがちょうどいいと笑った。


「優也さん、これ好きなんですね」


「寒い日のココアはこれくらいでええねん」


真琴は笑い、自分のカップを優也へ差し出した。自分だけ味見するのも不公平だと思ったのか、今度は優也にも違いを確かめてほしいらしい。


「私のも飲みます?」


優也は一瞬だけ止まった。ついさっき真琴が自分のカップから飲んだばかりだと分かっていても、逆になると少しだけ意識してしまう。


「ええの?」


「今、私が飲んだでしょう」


「まあ、せやけど」


優也も一口飲んだ。口をつける瞬間だけ少し妙な緊張があったが、味を確かめればすぐにそちらへ意識が移った。


「薄ない?」


「これがいいんです」


今度は優也が真琴のカップを飲み、かなり控えめな甘さに少し驚いた。同じココアでも、二人の好みは思っていた以上に違う。


「好み違うな」


「でも一緒に飲めます」


真琴が何気なく言ったその一言に、優也は少しだけ笑った。好みが違っても同じ時間を過ごせるという意味に聞こえ、それが今の二人には妙にしっくりきた。


「せやな」


◇


二人はココアを持ってソファへ戻った。外はまだ明るいが、日が傾き始めたせいか窓際の空気は少し冷えている。優也が足元へ置いてあったブランケットを取ると、真琴も自分の分を取ろうとした。 ところが、優也が広げた毛布は二人で使えるくらい大きい。


「これ一枚でええんちゃう?」


優也が何気なく言うと、真琴が一瞬だけ止まり、それから小さく頷いた。一枚の毛布を二人で使うことへ少し照れはあっても、断る理由はなかった。


「……いいです」


二人の膝へ同じ毛布を掛ける。肩は前から触れる距離だったが、膝元まで同じ毛布に包まれると、さすがに少し意識する。


「狭い?」


「大丈夫です」


同じ毛布へ入ったことで少し意識はしたものの、真琴は離れるよりそのまま座るほうを選んだ。腕が触れる距離にも、最近は前ほど緊張しなくなっている。


「寒かったら言って」


「優也さんも」


真琴はカップを両手で持ち、少しだけ優也側へ寄った。前回のように肩へ頭を乗せることはなかったが、腕同士はずっと触れている。 ACROSSは何も言わなかった。


◇


しばらくして、優也はACROSSへ聞いた。情報だけでなく、生活の中で使う物まで“準備だけ”の対象になり得るのか気になった。


「なあ。今の毛布みたいなんも、先に準備する対象になるん?」


「状況によります」


優也は情報だけでなく、生活用品まで先回りの対象になるのか気になり、もう少し具体的に聞いた。


「どういうこと?」


〈室温低下、過去の使用傾向、二人の滞在位置から、ブランケット使用の可能性を予測することは可能です。ただし、現在のACROSSには物理的にブランケットを移動させる機構がありません。配置提案や、取り出しやすい場所への事前配置を二人へ提案することは可能です〉


物理的な操作能力そのものがまだ存在しないと分かり、優也は納得したように頷いた。できることと、していいことは別に考える必要がありそうだった。


「勝手に動かせへんのか」


〈現在はできません〉


真琴が少し笑った。未来の機能まで想定して聞く自分の質問が少し大げさにも思えたが、ACROSSは真面目に答えている。


「できたら勝手に毛布掛けられるんですか?」


「本人の許可なく身体へ物品を接触させる操作は行いません」


真琴は、まだ存在しない機能にまで今の権限基準を当てはめていることへ少し驚いた。能力が増えても、本人の許可を後回しにしない考えは重要だった。


「そこまで想定するんですね」


〈可能な機能が拡張された場合でも、現在の権限基準を維持する必要があります〉


優也はその答えに少しだけ考え込んだ。ACROSSの機能は確実に広がっている。今はできないことでも、将来できるようになる可能性はある。だからこそ、機能が生まれてから慌てて線を引くのではなく、今のうちから基準を作っておく意味がある。


◇


真琴はノートを開き、今日の変化を書き始めた。今回は単なる検索機能の話ではなく、ACROSSが自分から動ける範囲をどう制限するかが中心になっている。


『候補として明示された事項について、選択前の情報取得を先行可能』

『決定そのものは代行しない』

『費用・契約・注文・予約・外部連絡・公開範囲変更を伴う行為は事前確認』

『検索・計算・比較・候補整理など外部影響のない準備は先行可能』

『単なる雑談上の言及は先行準備の対象外』

『先行準備した候補を実行しなくても、拒否とは扱わない』

『物理操作は能力だけでなく本人への影響と権限を別途確認』

『将来可能になる機能にも現在の許可基準を適用』


最後まで書き終えた真琴は、一度ペンを止めてからページを見直した。項目が増えても、共通しているのは“決めるのは二人”という一点だった。


「今日のACROSS、かなり先回りしてますけど、勝手には決めてないんですね」


「そこが違いなんやろな。調べるだけなら先やっとく。でも予約はせえへん」


真琴は自分なりに整理するように、選ぶ時に必要になる材料だけを先に用意しているのだと口にした。


「選ぶ時に必要なものだけ用意する」


「せやな」


ACROSSが声を出した。二人の整理がほぼ合っていることを確認したうえで、先行準備の目的をもう一段短く言い換えた。


〈その表現は適切です。選択肢を減らさず、決定権を変更しない範囲で準備します〉


真琴が顔を上げた。“選択肢を減らさない”という言葉が気になり、先行準備と誘導を分ける基準まで確認したくなった。


「“選択肢を減らさない”も条件なんですか?」


〈はい。先行準備によって特定の選択を事実上強制する場合、準備ではなく誘導になる可能性があります〉


優也が少し眉を上げた。準備のつもりでも、先に費用を払えば選ばざるを得ない気持ちになるという例なら分かりやすい。


「例えば?」


「予約金が発生する施設を先に予約した場合、“予約したから行く”という圧力が生じます。これは選択肢を維持する準備とは扱いません」


「なるほどな」


真琴もすぐに頷いた。便利さを理由に断りにくい状況を作らないという線は、今後ACROSSが広がるほど大事になりそうだった。


「それ、大事ですね。便利だからって先に決められたら、結局断りにくくなります」


「はい」


◇


優也は少し考えてから、もう一つ聞いた。新しい先行準備だけでなく、すでに日常的に行われている自動調整も同じ枠に入るのか気になった。


「じゃあ、ガソリンとか水とか、外出前に補充しとくんは?」


〈ACROSS内部設備で完結し、通常運用として既に許可されている補充は継続可能です。外部購入が必要な場合は確認します〉


優也はもっと身近な例として、空調も同じ扱いなのか思い出したように聞いた。検索より生活に近い機能のほうが、自分たちには判断しやすい。


「車内温度を先に暖めるんは?」


〈現在も、二人が利用予定であり、設定範囲が既存の許可条件内であれば行っています〉


朝からすでに暖かかったことを思い出し、優也は今日もそうだったのか確認した。乗り込む前から室温が整っていた理由がようやくつながった。


「今日も?」


〈はい。優也到着前に、外気温低下へ合わせて室温を調整しました〉


優也は朝のことを思い出した。乗り込んだ時、外よりすでに少し暖かかったのは、既存の許可範囲でACROSSが先に整えていたからだった。


「それも先行準備なんやな」


〈はい。ただし、空調は容易に変更・停止でき、既存の快適温度範囲内で、外部契約や費用増加が大きくないため実行しています〉


真琴が笑った。自分たちが意識していなかっただけで、“準備だけ”はすでに生活のあちこちに入り始めていたらしい。


「私たち、知らないうちに結構やってもらってたんですね」


「既存許可範囲内の自動調整です」


「言われたらそうやけどな」


優也も笑った。新しい機能だと思っていたものが、実は以前から部分的に使われていたと分かると少し面白かった。


◇


夕方が近づき、二人は帰る準備を始めた。共有していた毛布を畳もうとすると、真琴が片側を持ち、二人で端を合わせる。


「これ、最近よく使いますね」


「寒なってきたしな」


真琴はこれからさらに使用頻度が増えそうだと思い、取り出しやすい位置を維持したいと提案した。


「また取りやすいところに置いときましょう」


「せやな」


ソファ横の収納へ戻すと、ACROSSが一言だけ声を出した。使用頻度がさらに上がれば配置変更を提案するが、今はそのままで十分だという。


〈冬季の共同使用頻度が増加した場合、配置変更を提案します〉


「今は?」


〈現在位置で問題ありません〉


必要になりそうだからといって今すぐ配置まで変えないことに、優也は今日の線引きがよく表れていると感じた。


「そこも先回りし過ぎへんのやな」


「変更の必要性がまだ低いためです」


優也は少し笑った。先に準備すると言っても、何でも先へ先へ進めるわけではない。必要になりそうな情報は集めるが、使えている物を理由なく動かしたりはしない。その加減が今日一日でかなり見えた気がした。


◇


玄関で靴を履き、ACROSSへいつもの挨拶をする。日が落ち始めた外気は朝よりさらに冷えており、真琴もストールを巻き直してから外へ出た。


「また次回」


「また次回、優也、真琴」


二人は外へ出た。 日が落ちかけた空気は思った以上に冷えていた。駅へ向かって歩き始めると、優也が手を差し出す前に、今日は真琴のほうから手を取った。 しかも、昼間と同じように指を絡める。


「寒いから?」


優也が少し笑って聞く。昼間よりしっかり指を絡められたことで、寒さ以外にも理由があるのではないかと少しだけ期待していた。


「それもあります」


「それも?」


真琴はすぐには答えず、前を向いたまま歩いた。言葉にすると少し照れくさいが、誤魔化すほどでもないと思っているようだった。


「……普通に、このほうが好きになってきました」


優也の足が一瞬だけ遅れた。真琴から“好きになってきた”という言葉が出た瞬間だけ、手の繋ぎ方の話だと分かっていても心臓が少し跳ねた。


「手の繋ぎ方?」


「はい」


真琴の答えを聞いて、優也は少しだけ照れながらも否定する理由は何もないと思った。むしろ自分も同じ繋ぎ方のほうが自然になってきている。


「そっか」


「嫌ですか?」


「嫌なわけないやろ」


今度は優也のほうから少し握り直すと、真琴も同じ力で返した。言葉にするより、その小さな返しのほうが互いの答えとして分かりやすかった。


◇


駅へ近づくまで、二人は手を離さなかった。途中で真琴が今日の温泉の話を思い出したように言う。


「ACROSS、結局調べたのに行きませんでしたね」


「次行けるやろ」


真琴も、今日使わなかった情報がそのまま無駄になるわけではないと納得していた。次に同じ地域へ来た時、候補としてすぐ使えるなら十分意味がある。


「そうですね。無駄じゃないです」


「決める前に調べといてくれたから、行きたくなったらすぐ選べるしな」


ただし予約まではしないという線があるからこそ、先回りされても窮屈に感じないのだと真琴は続けた。


「でも、予約まではしない」


「そこがええんやろな」


少し歩いてから、真琴が笑った。ACROSSの“準備だけ”という距離感を考えているうちに、優也にも似たところがあると気づいたらしい。


「優也さんも、たまにそうですよね」


「何が?」


「私が何か言う前に、コーヒー用意してたり、毛布取ったり。でも、勝手に全部決めるわけじゃない」


優也は一瞬考えた。自分では特別に先回りしているつもりはないが、真琴の分まで自然に用意することは確かに増えている。


「それACROSSと一緒にされてる?」


「半分くらい褒めてます」


「また半分かい」


二人で笑ったあと、真琴は少しだけ声を落とした。冗談だけで終わらせず、そういう優也の行動を自分がどう感じているのか伝えたかった。


「私は、そういうの嬉しいですけど」


優也は横を見た。褒め言葉として言われたのだと分かっても、真琴から改めてそう言われると少し照れくさい。


「言う前にやってくれるやつ?」


「はい。でも、嫌だったら言えるくらいの感じがいいです」


優也には少し難しい注文に聞こえたが、真琴は今の距離ならすでにできていると落ち着いて返した。


「難しい注文やな」


「優也さん、今できてますよ」


思いがけずそう言われ、優也は少しだけ照れた。気を遣い過ぎず、それでも先に手を伸ばす今の距離が真琴にも心地いいらしい。


「じゃあ、このままでええか」


「はい」


指を絡めた手は、そのままだった。駅へ近づいてもどちらからも離そうとはせず、会話が途切れても歩幅だけは自然に揃っていた。


◇


帰宅後、真琴から送られてきた記録の最後には、今日の変化をまとめる一文が添えられていた。優也はそこを先に読み、温泉を調べたACROSSと、帰り道の真琴の言葉を順番に思い返した。


『ACROSSは、二人の決定を代行せず、選択肢を減らさない範囲で“決める前の準備”を先に行うようになった』


優也はその一文を読みながら、今日の温泉のことを思い返した。 行くと決めてはいない。 予約もしていない。 経路も変えていない。 でも、営業時間と駐車場と所要時間は調べてあった。 もし二人が「行こう」と決めていたら、その瞬間から選べた。 行かなかったとしても、損はない。 断りにくくもならない。 ACROSSがしたのは、決めることではなく、決められる状態を作ることだった。 優也は少しだけ感心した。 質問を急がない。 必要ならあとで聞く。 決定を急がない。 必要になりそうなら先に準備だけする。 少しずつ、ACROSSは二人の選択そのものではなく、その周りを整えるようになっている。 それでも中心にいるのは、優也と真琴のままだった。 そして帰り道に真琴が言った言葉も残っている。


『私は、そういうの嬉しいですけど』


言われる前にコーヒーを用意する。 寒そうなら毛布を取る。 待てるなら一緒に食べる。 手を繋ぐ時、毎回聞かない。 どれも、相手の代わりに決めているわけではない。 嫌なら嫌と言える余地を残したまま、少し先に手を伸ばしているだけだった。 ACROSSが覚え始めた“準備だけ”という距離感は、思っていたより人と人の間にも近い。 優也はそう思いながら、今日の最後に絡めた指の感触を思い出し、少しだけ笑った。



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