ep.11 未定義の反応
自宅へ戻った優也は、夕食の準備より先に、昼間から何度も気になっていたキーホルダーをテーブルの上へ置いた。
透明なアクリル樹脂の中に、少し錆びたような金属片が封じ込められているだけの安物で、改めて明るい場所で眺めても特別なところは見つからない。旅行先の土産物屋や雑貨店に並んでいても不思議ではなく、真琴の知り合いが中古品として千円もしない値段で買ったという話にも違和感はなかった。
それでも手に取って意識を向ければ、やはり普通の物とは違う。
『アクリル樹脂。鉄系合金。経年劣化あり』
ここまでは、これまで何度も経験してきた鑑定と変わらない。
問題は、その先だった。
優也は椅子へ腰を下ろし、キーホルダーを掌の中央へ載せたまま、昼間に感じた“分からない何か”だけを意識する。
「これが何なんか……知りたい」
声に出す必要などないはずだが、頭の中だけで考えるより集中しやすい気がして、最近は一人で実験する時によく独り言が増えていた。
しばらくすると、頭の奥へ情報が浮かび始める。
『未定義――』
そこから先へ進まない。
材質なのか、エネルギーなのか、それとも別の何かなのか。質問の仕方を変えてみても、答えは形になる直前で曖昧になり、掴もうとすると指の間から抜けていくような感覚だけが残った。
「分からんっていうより……言葉がないんかな」
優也はキーホルダーをテーブルへ戻し、先日買った材料科学の本を開いた。
もちろん、そこに答えが書いてあるとは思っていない。ただ、自分が知らない材質を勝手に未知の物だと思い込んでいる可能性はまだ残っている。樹脂へ混ぜ込む添加剤や塗料、金属表面の酸化物など、世の中には優也が名前すら知らない物質がいくらでもあるはずだった。
スマートフォンでも検索してみる。
透明樹脂、金属片、蛍光、磁性、帯電、蓄光材、添加剤。思いつく言葉を組み合わせながら似た物を探してみたものの、目の前のキーホルダーそのものは何の変哲もないため、当然ながら決め手になる情報は出てこない。
「……そら、見た目普通やもんな」
検索結果を閉じたところで、優也はふと思い出した。
昼間、真琴へ『今の科学で説明できない物だったらどうする』と聞いた時、彼女はまず本当に説明できないのか確かめると言っていた。
自分が知らないことと、誰にも分からないことは違う。
「そこ間違えたらあかんな」
そう呟き、実験用のメモを開く。
まずは能力を使わずに確認できることから始めようと、優也は家にある物を集めた。小さなデジタルスケール、磁石、スマートフォン、それに以前百円ショップで買った簡単な温度計。どれも専門的な測定器ではないが、何もせず鑑定だけを信じるよりはましだった。
最初に重さを量る。
八・七グラム。
一度持ち上げて置き直しても、数字はほとんど変わらない。
次に磁石を近づけると、中に封じられた金属片だけがわずかに反応したものの、樹脂部分には当然ながら変化がない。スマートフォンの簡易的な磁気センサーを使ってみても、金属へ近づけた時に多少数値が変わる程度で、異常と呼べるような反応は見られなかった。
温度も室温とほぼ同じで、触って熱いわけでも冷たいわけでもない。
「まあ、そう簡単には出えへんわな」
優也は結果を記録し、少し考えてから部屋の照明を消した。
蓄光材のように暗闇で光る可能性を思いついたためだが、キーホルダーは暗い部屋の中で黒い影になっただけで、数分待っても何も起こらない。
再び照明を点ける。
「普通やなぁ……」
見た目も、重さも、温度も、磁気も普通。
それなのに、鑑定だけが『何かある』と反応する。
その違いが、かえって優也の興味を強くした。
そこで、これまでまだ試していなかった方法を思いつく。
「収納したら、どうなるんやろ」
能力同士を組み合わせることになるため、少しだけ迷った。
普通の物であれば、収納へ入れたところで時間が止まり、取り出せば元の状態へ戻るだけである。キーホルダーに未知の何かがあるとしても、それが収納へ影響するかどうかは分からない。
危険だと決まったわけでもない一方、安全だという保証もない。
「……いや、丸ごと入れるだけなら、今までと同じか」
優也はテーブルの上にキーホルダーを置き、いつでも取り出せるよう意識を整えた。
指先で触れる。
収納。
キーホルダーは音もなく消えた。
「……普通に入ったな」
今のところ、身体に異変はない。
収納の中へ意識を向ければ、他の物と同じようにキーホルダーが存在している感覚も分かる。
そこで優也は、収納した状態のまま鑑定できないか試してみた。
これまでにも、収納している物が何なのかを何となく把握することはできた。しかし、収納空間の中にある物へ鑑定を使おうと意識したことはない。
キーホルダー。
その材質。
その中にある、分からないもの。
ゆっくり意識を集中させる。
最初は何も起こらなかった。
ところが数秒後、優也は思わず姿勢を正した。
「……ん?」
いつも収納している物へ意識を向けた時とは、感覚が違っている。
キーホルダーの存在そのものは分かる。
アクリル樹脂も金属片も、収納前と同じ。
ただ、その周囲にある“何か”だけが、収納の中では妙に輪郭を持って感じられた。
外に出している時は、物の中へ僅かに混じっているような曖昧な感覚だった。それが収納した途端、キーホルダーそのものとは別のものとして、薄くまとわりついているように思える。
「中に入ってるんちゃう……?」
優也は眉を寄せた。
金属片の成分でも、樹脂へ混ぜ込まれた添加物でもない。
少なくとも、今の感覚ではそうだった。
キーホルダーという物体そのものとは別に、何かが付着している。
その“何か”へ意識を向けると、頭の奥に今までより少しだけ明瞭な情報が浮かんだ。
『未定義反応』
優也は黙った。
以前の『未定義』より、一語増えている。
「反応……?」
物質ではないのか。
そこでさらに、何に反応しているのかを知ろうとする。
すぐに答えは返ってこなかったものの、収納空間そのものを意識した瞬間、今度は優也の背中へ僅かな寒気が走った。
キーホルダーの周囲にあったものが、ほんの少しだけ揺れたように感じた。
「……え?」
気のせいかと思い、もう一度同じように意識を向ける。
収納。
キーホルダー。
未定義の反応。
そして、それらを包んでいる空間。
すると今度は、はっきり分かった。
目で見えたわけではない。
それでも、キーホルダーの周囲に付着していた“何か”が、収納空間へ触れた瞬間だけ、僅かに動いている。
「収納の方に……反応してる?」
優也はすぐにキーホルダーを取り出した。
掌へ戻った透明な樹脂製のキーホルダーを見ても、何の変化もない。重さを量れば八・七グラムのままで、熱を帯びた様子もなく、中の金属片にも変化は見当たらなかった。
ところが鑑定してみると、奇妙な違いがあった。
『未定義反応――微弱』
「……減ってる?」
収納する前より、確かに弱い気がする。
優也は実験前のメモを見返した。
もちろん数値で測れているわけではないため、単なる思い込みという可能性は残る。それでも、さっきまでは存在感のあった違和感が、今は明らかに薄くなっているように感じた。
もう一度収納する。
今度は十秒ほど待ってから取り出し、すぐに鑑定する。
『未定義反応――微弱』
変化は分からない。
そこで三十秒、一分と時間を伸ばしてみたが、収納内部では時間そのものが止まっているらしいため、待つ時間に意味があるのかすら判断できなかった。
優也は腕を組み、少し考える。
「時間ちゃうんか。入れた瞬間?」
ならば、収納と取り出しを繰り返せばどうなるのか。
試したい気持ちはあったが、そこで一度手を止めた。
何が減っているのか分からない。
もしそれがキーホルダーに必要な何かだった場合、完全に失わせれば元へ戻せない可能性もある。
「……今日はここまでにしとこ」
数日前の自分なら好奇心に任せて続けていたかもしれない。しかし真琴と実験をするようになってから、条件を揃えることだけでなく、分からない時に止めることも少しずつ覚え始めていた。
優也はキーホルダーを小さな透明袋へ入れ、テーブルの端へ置いた。
その直後、スマートフォンが震える。
画面には真琴の名前が表示されていた。
『勉強の休憩中です。キーホルダー、何か分かりました?』
あまりにもタイミングがよく、優也は思わず笑った。
『ちょうど調べてた』
少し考えてから、続けて打つ。
『普通の測り方では何も変なところなし。でも俺が気になった“何か”はやっぱりあるっぽい』
送信すると、すぐに返信が来た。
『あるっぽい、ってかなり曖昧ですね』
『自分でもそう思う』
『どういう感じなんです?』
そこで指が止まった。
どう説明するか。
これまでは「触った時の直感」で通してきた。
しかし収納へ入れた時に反応が変わったことまで話そうとすれば、収納そのものを説明しなければならない。
優也はしばらく画面を見つめた末、今回は少しだけ踏み込むことにした。
『普通とは違う方法で調べたら、反応が変わった』
送った瞬間、自分でも随分怪しい文章だと思った。
案の定、少し間を置いてから真琴の返信が届く。
『普通とは違う方法、というのが一番気になります』
「そらそうやろな……」
優也は苦笑した。
『今度会った時に話す』
入力してから、送信するかどうか迷う。
これを送れば、少なくとも何かを隠していることを正式に認めるようなものだ。
けれど、真琴はすでに気づいている。
それに、自分でも答えが出せないものを見つけた今、いつまでも一人だけで調べ続けることに少し限界を感じ始めていた。
優也は送信ボタンを押した。
既読がつく。
しばらくして返ってきたのは、長い質問ではなかった。
『分かりました。待ってます』
それだけだった。
追及もなければ、急かす言葉もない。
優也は画面を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
「……ほんま、変わった子やな」
口ではそう言いながらも、その距離の取り方に少し救われている自分がいた。
◇
翌日の仕事中、優也は昨日の実験について何度か考えそうになったものの、そのたびに意識を目の前へ戻していた。
能力のことを考えながら交通誘導をする危険性は、以前の失敗でよく分かっている。今は車を止めるべき時に止め、歩行者を安全に通すことが最優先だった。
昼休みになってようやくスマートフォンを開き、昨日の記録を読み返す。
『未知の反応は、収納時に変化した可能性あり』
この一文が特に気になった。
もし本当にそうなら、これまで収納してきた物には同じ反応がなかったのか。
白い皿。
スプーン。
水。
座椅子。
段ボール。
今まで何十回も物を収納してきたが、キーホルダーのような違和感を覚えたことは一度もない。
ならば、特別なのは収納ではなくキーホルダーの方なのだろう。
そこまで考えて、もう一つの可能性が浮かんだ。
「……あの店か?」
大学近くの古道具と雑貨を扱う店で買った中古品。
もしこのキーホルダーに付着した“何か”が、元から材料に含まれていたのではなく、後から付いたものだとしたら。
どこで付いたのか。
優也はすぐに真琴へメッセージを送ろうとして、指を止めた。
仕事中である。
「帰ってからやな」
スマートフォンをしまい、午後の配置へ戻る。
その日の帰宅後、優也は真琴へ店の場所をもう一度確認した。
返信はすぐに届いた。
『気になります?』
『めちゃくちゃ』
『じゃあ、今度一緒に行ってみます?』
その文章を見た瞬間、優也はほとんど迷わなかった。
『行こう』
送ってから、少しだけ笑う。
数週間前までは、一枚の白い皿が消えたことを誰にも知られないよう、一人で台所中を探し回っていた。
それが今では、自分でも説明できない現象を確かめるため、医学部生と二人で中古品店へ行こうとしている。
「どうしてこうなったんやろな」
呆れたように呟きながらも、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ、次に何が分かるのか楽しみになっている。
そして、その感情とは別に、優也の中ではもう一つの決断が少しずつ固まり始めていた。
次に真琴と会った時。
収納のことまで、どこまで話すのか。
白い皿が消えた最初の夜から守ってきた秘密を、誰かへ初めて見せる時が近づいていた。
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