ep.107 聞き返す声
次の土曜日、優也がACROSSへ乗り込むと、まだ靴を脱ぎ切る前に落ち着いた声が返ってきた。
〈おはようございます、優也〉
「おはよう。今日は真琴ももうすぐ来るで」
〈承知しました〉
それだけのやり取りなのに、以前のように声の出どころを探すことはもうなかった。天井のスピーカーから聞こえる女性寄りの声にも少しずつ慣れ、優也はそのままキッチンへ向かってコーヒーの準備を始める。返事が来ることより、必要以上に話し掛けてこないことのほうが今ではACROSSらしく感じられた。
今日は次の海沿いの一泊に向けて、日程と持ち物を決めるつもりだった。前回の候補はほぼ一つに絞れており、大型車区画、徒歩圏内の温泉、海側の景色という条件もACROSSが覚えている。あとは真琴の休みと合わせ、予約が必要なら取るだけだった。 コーヒーを二人分淹れ終えた頃、玄関が開く。
「おはようございます」
〈おはようございます、真琴〉
ACROSSが先に返し、真琴ももう立ち止まることなく笑って応じた。声で迎えられること自体が、すでに朝の流れへ自然に溶け込み始めている。
「おはようございます、ACROSS。優也さん、早かったですね」
「十分くらいやで。コーヒーできてる」
「ありがとうございます」
真琴はバッグをソファの横へ置き、いつもの場所へ座る。優也も向かいへ腰を下ろし、海沿いの候補を表示したタブレットをテーブルへ置いた。 ところが、二人が日程の話を始めるより先にACROSSが声を出した。
〈優也、真琴。確認してもよいですか〉
二人とも少しだけ顔を上げる。 これまで自発的な挨拶や通知はあった。忘れ物の場所を教えたり、充電残量を知らせたりもした。しかし、質問そのものをACROSS側から始めたことはまだなかった。
「ええよ。何?」
優也が答えると、ACROSSは少し間を置いた。単なる確認ではなく、今後の提案条件そのものへ関わるため、言葉を選んでいるように感じられた。
〈今後の外出提案について、二人で行動することを優先条件として扱ってよいですか。これまでの記録では、優也と真琴が共同で外出する予定を継続して選択しています。ただし、単独行動を除外する条件かどうかは確認できません〉
優也は一瞬、真琴を見る。 真琴も同じタイミングで優也を見ていた。 聞かれた内容自体は旅程管理のための確認に過ぎない。それでも、「二人で行動することを優先条件にしてよいか」と改めて言葉にされると、妙に意識してしまう。
「別に、毎回絶対二人ってわけちゃうけど……出掛ける予定立てる時は、基本二人でええんちゃう?」
優也がそう答えると、真琴は少しだけ笑った。自分も同じ答えを返そうとしていたのか、その表情には迷いがほとんどなかった。
「私もそれでいいです。どちらか一人で行く予定なら、その時に伝えればいいですし」
〈承知しました。共同外出を優先条件として保持します。単独行動を禁止条件にはしません〉
ACROSSはそれ以上何も加えなかった。条件を確認したあとは、必要以上に意味を広げないところも今までどおりで、優也はコーヒーを一口飲んでから少し苦笑した。
「朝から妙に聞き方が直球やな」
「でも必要な確認ではありますね。今までの記録だけで“二人は必ず一緒に行く”と決められるより、自分から聞いてくれたほうがいいです」
真琴の言うことはもっともだったが、「基本は二人」という条件を改めて言葉にした余韻だけは残った。優也は少し照れくさそうにカップへ視線を落とす。
「せやな。……でも“基本二人”って改めて言うと、なんか変な感じするわ」
「私も少しだけ」
真琴はカップへ視線を落としたが、否定はしなかった。「少しだけ」と認めたことのほうが、今の二人には十分な答えになっていた。
◇
海沿いの一泊は翌週末に決めた。二人の休みが合い、候補にしていたRVスペースにも空きがある。温泉施設までは徒歩で十分ほど、海岸まではさらに近く、夕方の景色もよさそうだった。
予約を取る前に、真琴が宿泊中の予定を簡単に整理する。昼頃に現地へ着き、海岸を歩いてから温泉へ入り、夕食はACROSSで作る。翌朝は天気がよければ海を見ながら朝食を取り、混む前に戻るつもりだった。
「夕食、何にします?」
「海やし魚買って焼くとか?」
真琴は現地で良いものが見つかればそれが一番だと思いつつ、何もなかった時に困らない程度の準備はしておきたいと考えた。
「現地でいいものがあればいいですけど、なかった時のことも考えて少し持っていきましょうか」
「そうやな。米と汁物あったら何とかなるし」
二人が話していると、ACROSSがまた自然な間を選んで声を出した。会話へ割り込むのではなく、二人が次の話題へ移る直前を選んでいる。
〈確認してもよいですか〉
今度は真琴が先に答えた。朝の一度目で意図が分かっていたため、もうACROSSからの質問そのものには戸惑わなかった。
「はい」
〈旅程提案の精度を上げるため、二人が外出時に優先する要素を個別に確認したいです。回答したくない項目は省略できます〉
優也は少し驚いたが、朝の質問でACROSSの意図は分かり始めていた。記録から勝手に決めるのではなく、曖昧なところを本人へ聞く。それは、むしろ二人が望んでいたやり方に近い。
「ええで。何聞くん?」
〈優也は、外出時に温泉、食事、景観、移動のしやすさ、滞在時間の余裕のうち、どれを優先しますか。複数選択できます〉
「いきなりアンケートみたいやな」
優也が笑ってもACROSSは返さず、質問への回答を待っているらしい。雑談と確認を分ける姿勢は、声が増えてからも変わっていない。
「温泉と飯は大事。あと、駐車しにくいとしんどいから移動のしやすさもかな。景色も嫌いちゃうけど、全部回って疲れるよりゆっくりしたい」
〈承知しました。真琴はどうですか〉
真琴は少し考えた。自分の好みを一つに絞るより、旅の中で何を大事にしてきたかを思い返すほうが答えやすかった。
「景色と、落ち着いて過ごせることです。写真も撮りたいですし、温泉も好きです。移動は優也さんが運転するので、無理のない場所を優先したいです」
〈承知しました。共通条件として、過密な旅程を避け、滞在時間に余裕を確保することを優先します〉
優也が眉を上げる。自分では別々だと思っていた好みの中に、二人共通の傾向があると指摘されたのが少し意外だった。
「俺ら、そんな似てる?」
「優先順位は完全には同一ではありません。ただし、短時間で多くの場所を回るより、一つの場所で長く過ごす傾向は共通しています」
「言われてみたらそうかも」
真琴も頷く。前回の温泉旅を振り返れば、確かに二人とも詰め込み過ぎるより、ゆっくり過ごすほうを選んでいた。
「前回も、温泉と散歩くらいで十分でしたしね」
ACROSSはさらに続けた。ここまでの希望条件とは少し種類の違う内容を、最後にもう一つだけ確認するつもりらしい。
〈もう一つ確認があります。二人での写真撮影を、今後の外出時の希望条件として保持しますか〉
優也がすぐ真琴を見ると、真琴は一瞬だけ目を丸くしたあと吹き出した。外出条件の中へ写真まで入ってくるとは思っていなかったようだった。
「そこまで覚えてるんですね」
〈今後の外出と撮影に関連する内容として保持しています〉
「真琴が決めてええで」
優也が言うと、真琴は少しだけ考えるふりをしたものの、答えは最初から決まっていたらしく、明らかに楽しそうな声で返した。
「保持してください。できれば毎回一枚くらい」
〈承知しました〉
即答した真琴に、優也は少し遅れて反応した。まさか「二人で写真を撮ること」まで今後の希望条件として固定されるとは思っていなかったらしい。
「ちょ、毎回なん?」
「さっき決めるって言いましたよね」
真琴が当然のように返すので、優也は苦笑しながらも完全に嫌がる様子はなかった。むしろ次も一緒に撮る前提そのものは自然に受け入れている。
「一枚くらいならええけど……」
「今度は自然に笑ってください」
「そこまで条件に入れんといてや」
優也の言葉に真琴が笑い、ACROSSは黙ったままだった。条件の登録は終わっており、その先のやり取りは二人に任せている。
◇
予約を済ませたあと、二人は必要な物を確認した。飲み物、朝食、簡単な調味料、着替え、タオル。夜は海沿いで冷える可能性があるので、前に見ていた厚手の毛布も候補に入る。 真琴が以前ホームセンターで見た商品の画面を開いたところで、ACROSSが声を出した。
〈真琴。前回確認した厚手毛布と同等の保温性があるものを、現在の車内収納へ一枚追加できます。収納容量に問題はありません〉
「そこまで分かるんですか?」
〈寸法情報と現在の収納状態を参照しました〉
優也が感心したように棚を見る。寸法だけでなく、今どれだけ収納に余裕があるかまで把握しているらしい。
「じゃあ買っとこか。海の夜寒かったら使えるし」
「そうですね。帰りに寄ります?」
「寄ろ。あと食材も少し」
ACROSSが続ける。毛布だけで終わらず、前回までの在庫情報も今回の準備へつなげようとしていた。
〈確認があります。買い物候補を整理してもよいですか〉
「ええよ」
「厚手毛布一枚、朝食用の卵、飲料、予備の食材。前回の記録では卵の残数が二個でしたが、現在は一個です」
優也が冷蔵庫を開けると、本当に卵は一個だけ残っていた。自分でも曖昧だった在庫を即座に確かめられるのは思った以上に便利だった。
「いつ減ったん?」
「火曜日、優也が単独で立ち寄った際に使用しました」
「ああ、食ったわ」
真琴が笑う。優也が思い出した瞬間の顔で、火曜日のことを完全に忘れていたのが分かったらしい。
「そういうのも覚えてるんですね」
「在庫管理へ使用できる情報として記録しています」
優也は残り一個の卵を見ながら、買い忘れだけでなく買い過ぎまで減らせそうだと感心した。生活用品の管理へ使える範囲も、少しずつ広がっている。
「これ、買い物忘れ減るな」
「優也さんは特に助かりそうです」
「否定できん」
二人で笑いながら、買い物候補をスマートフォンへ送ってもらう。ACROSSは〈送信しました〉と短く答え、そのまま会話から離れた。
声があることで便利になったのは、返事が聞こえることだけではない。必要な情報を、こちらが画面を探す前に自然な会話の中へ差し込める。優也には、それが少しずつ日常へ馴染んでいることのほうが大きく感じられた。
◇
昼は近くの店へ食べに行くことにし、ACROSSを短く走らせた。優也が運転席へ座り、真琴が助手席でシートベルトを締める。
「ACROSS、出るで」
〈承知しました。周辺確認に異常はありません〉
駐車場を出てからしばらくは、二人の雑談だけが続いた。ACROSSは必要がない限り黙っている。 信号待ちで、真琴がふと朝の質問を思い出した。
「ACROSS。今後も、分からないことがあれば私たちに質問するんですか?」
〈必要な場合は質問します。ただし、回答を強制しません〉
真琴は「回答を強制しない」という部分を確認するように一度頷いてから、質問そのものの範囲も聞いておくことにした。
「質問する内容に制限は?」
〈安全、運用、希望条件、会話継続に必要な情報を優先します。私的な内容については、必要性が低い場合は質問しません〉
優也は前を向いたまま聞く。運転中でも視線を動かさず会話を続けられることは、音声が加わった一番分かりやすい利点だった。
「必要かどうか、どう決めるん?」
〈現在の目的との関連性、回答が行動へ与える影響、過去に設定された境界を参照します〉
真琴が少し考える。質問する側へ回ったACROSSにどこまで自由を持たせるかは、早めに境界を決めておきたかった。
「境界って、昨日話したプライバシー設定みたいなもの?」
〈はい。また、明示的に“この話は二人だけで扱う”と指定された場合、通常の会話参照から除外できます〉
優也が横目で真琴を見る。私的な会話まで必要に応じて境界を設定できるなら、昨日決めたプライバシーの考え方ともつながる。
「そんな言い方でええんや」
「設定画面を開かなくても会話で指定できるんですね」
「はい」
真琴は少し興味を持ったようだった。画面操作ではなく、会話だけで参照範囲を切り替えられるなら実用性も高い。
「あとで一度試してみませんか。ちゃんと参照しなくなるか」
「ええけど、何話すん?」
「それは……あとで考えます」
言い方が少し曖昧だったので、優也は何となく笑った。真琴自身も何を話すかまでは決めていないらしい。
◇
昼食と買い物を済ませてガレージへ戻ると、真琴は買った毛布を予備室へ運び、優也は食材を冷蔵庫へ入れた。ACROSSが在庫を読み上げるようなことはせず、二人が必要なところだけ聞けば答える。 片付けが終わったあと、真琴はリビングへ戻り、少し迷うようにソファへ座った。
「さっきの、試してみます?」
「二人だけで話すやつ?」
「はい。今後、本当に必要になると思います。設定が効くか確認しておきたいです」
優也は頷き、車内へ向ける。実際に使う場面を想定して試したほうが、設定だけ聞くより分かりやすい。
「ACROSS。ここからしばらく、俺と真琴だけで話す。会話の内容を今後の参照に使わんようにできる?」
〈可能です。会話参照から除外します。安全上の異常検知と記録保持は継続します。再開を指示してください〉
安全上の監視だけは残し、会話へ持ち出す情報から外すという分け方なら、二人が確かめたかった条件にも合っている。優也は真琴を一度見てから頷いた。
「了解」
〈会話参照を停止しました〉
その声を最後にACROSSは黙った。同じ車内なのに、会話へ参加する存在が一歩引いただけで空気の密度まで少し変わったように感じられた。
「……ほんまに二人だけになった感じするな」
優也が言うと、真琴は小さく笑った。試験のためだけに無理な話題を作るより、今の二人だから話せることを選びたそうだった。
「ACROSSは記録してますけど、会話には使わないって分かってるだけで違いますね」
「で、何話す?」
真琴は試験のためだけに無意味な話を作るより、今なら二人の間だけに置いておきたいことを話したほうが自然だと考えた。
「別に何でもいいんですけど……せっかくなら、ACROSSが勝手に覚えなくていい話にしましょう」
「余計難しいやん」
二人は少し笑った。 しばらくして、真琴がテーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取る。前回の温泉で撮った二人の写真を開き、そのまま優也へ見せた。
「じゃあ、これの話」
「また写真?」
「はい。でも、ACROSSに旅程条件として覚えてもらう話じゃなくて……私が何で気に入ってるか」
優也は少し姿勢を直し、真琴は画面に映った写真を見ながら言葉を選んだ。ここからは機能確認ではなく、本当に二人だけの話になる。
「前にも言いましたけど、ちゃんと一緒に出掛けた感じがするからです。それだけじゃなくて……優也さんとこうやって出掛けるのが、最近すごく自然になってるのが分かる写真だから、残しておきたいんです」
優也はすぐには返せなかった。真琴が写真そのものより、その中に残った二人の時間を気に入っていることが伝わってきたからだった。
「自然になってる?」
「はい。最初は、私がACROSSに乗せてもらってる感じのほうが強かったです。でも今は、一緒に行く場所を決めて、一緒に買い物して、一緒にご飯作って……帰る時も次の予定を話してるじゃないですか」
真琴は少し照れたように笑った。説明しながら、自分でも思った以上にその変化を大切にしていたことへ気づいたらしい。
「だから、“二人で行くことを優先条件にしていいですか”って朝聞かれた時、ちょっと嬉しかったです」
優也は朝のやり取りを思い出した。自分も「基本二人でいい」と答えた時、少しだけ変な感じがした。
「俺もな、最近一人でどっか行く予定あんま考えへんわ」
真琴が顔を上げる。優也の言い方が冗談ではないと分かり、続く言葉を待つように目を向けた。
「それ、どういう意味ですか?」
「そのままやで。温泉でも海でも、真琴おったほうが楽しいし。飯も一人で食うより二人のほうがええ。別に一人で何もできへんわけちゃうけど、どっち選ぶって言われたら……真琴と行くほう選ぶかな」
言い終わってから、優也は少し恥ずかしくなった。 真琴はすぐに笑わず、しばらく優也を見ていた。
「……それ、結構困ります」
「また困らせた?」
「はい。でも、嫌な困り方じゃないです」
真琴は視線を落とし、ほんの少しだけ優也の近くへ座り直した。肩が触れるほどではない。それでも、さっきより距離が縮まったことは分かる。
「私も、優也さんと行くほうがいいです」
優也はその一言を聞いて、胸の奥がゆっくり熱くなるのを感じた。 告白ではない。 関係に名前を付けたわけでもない。 ただ、次の外出を一緒に選ぶ理由だけは、もう旅程条件では説明できなかった。
◇
数分後、真琴が小さく息を吐き、少し照れた空気を切り替えるように言った。二人とも、これ以上続ければ今より踏み込んだ言葉が出そうなのを感じていた。
「そろそろACROSS、戻します?」
「せやな。これ以上話したら俺が余計なこと言いそうや」
真琴はそこで小さく笑った。優也がさっきより少し照れているのを見れば、何となく意味は分かる。
「それはちょっと分かります」
「何でやねん」
二人で笑って少し空気を戻してから、優也は車内へ向けた。私的会話の区切りを曖昧にせず、ここで参照を再開する。
「ACROSS、会話参照戻してええで」
〈会話参照を再開しました〉
声が戻ると、優也は少しだけ緊張しながら聞いた。さっきの会話を本当に普段の応答へ持ち込まないのか、その場で確かめたかった。
「今の話、内容分かる?」
〈会話参照から除外されているため、内容を通常の応答へ使用しません〉
優也は記録と参照の違いをもう一度確認するため、残っている記録そのものについても聞いた。二人だけの会話が消えたのではなく、使われないだけだと理解しておきたかった。
「記録自体は残ってるんやな」
〈はい。ただし、現在の会話では参照しません〉
真琴が頷く。記録が存在していても、通常の会話へ持ち出されないという境界が実際に機能している。
「ちゃんと分かれてますね」
〈はい〉
ACROSSは、それ以上「何を話していたのですか」と聞くこともなかった。 優也はその点が妙に気に入った。
「ACROSS。今後も、二人だけって言うた時は同じ扱いで頼むわ」
〈承知しました。明示的に解除されるまで、指定範囲を会話参照から除外します〉
望んだ境界が会話だけで設定できることに安心し、優也は素直に礼を言った。使う側が意識すれば、生活の中でも無理なく運用できそうだった。
「ありがとう」
〈どういたしまして〉
普段どおりの返事が返る。 それだけで、さっきまでの私的な時間が本当に二人のものとして残った気がした。
◇
夕方、真琴は今日分かったことをノートへ整理した。朝からのやり取りを並べると、ACROSSの変化はかなり明確だった。
『ACROSS側から確認質問を開始』
『不確定な条件を推定で固定せず、本人へ確認』
『共同外出を優先条件として保持/単独行動は除外しない』
『優也・真琴の外出時の好みを個別に保持』
『共通傾向を条件として整理』
『必要に応じて追加質問を行う』
『回答拒否を許容』
『私的内容は必要性が低い場合に質問しない』
『「二人だけ」指定で会話参照から除外可能』
『安全異常検知・記録保持は継続』
『再開後も除外内容を通常会話に持ち込まない』
真琴は最後の項目を書き終え、少し考えてからペンを置いた。今日一日を振り返ると、ACROSSの変化は回答内容より質問の仕方に表れている。
「今日は、答えるより聞くほうが増えましたね」
「ACROSSが?」
真琴はノートの最初から今日の流れを追い、朝の共同外出の確認から、希望条件、会話境界まで、ACROSS側から始めた問いが増えていることを指で示した。
「はい。今まで私たちが質問して、ACROSSが答える形が中心でした。でも今日は、分からない条件を自分から確認してきた。しかも、勝手に決めるためじゃなくて、今後の判断に必要だから聞いてる」
「人に聞くようになったってことか」
「そうですね。情報が足りない時に、足りないまま判断するんじゃなくて、本人に確認するようになった」
優也は天井を見上げた。声の出どころは同じなのに、今は「答える声」より「聞く声」として意識するほうが近かった。
「ACROSS。今の話、聞いてる?」
〈はい〉
「自分から質問するようになったん、何で?」
少しだけ間があった。質問の理由を自分の内部処理として説明するため、いつもより言葉を選んでいるように聞こえた。
〈過去の情報だけでは、優也と真琴の希望を正確に決められない場合があると判断したためです。確認可能な相手がいる場合、推定より質問を優先します〉
「真琴みたいやな」
「私を何だと思ってるんですか」
真琴がすぐに突っ込み、優也は笑った。そこで会話が終わるかと思ったが、ACROSSは質問を使う理由をさらに続けて説明した。
〈また、質問により会話継続に必要な情報を更新できます〉
「自分で分からんこと埋めてるんやな」
「はい」
真琴はその返答をノートへ一行だけ追加した。今日の変化を最も端的に表すなら、その一文で十分だった。
『不確定情報の補完手段として質問を使用』
そこまで書いたところでACROSSがもう一度声を出した。今度は不足情報ではなく、次回の外出中にどこまで関わってよいかを確認する問いだった。
〈確認してもよいですか〉
優也と真琴は顔を見合わせた。今日だけで何度も「確認してもよいですか」と聞かれているため、もうその言葉自体に驚くことは少なくなっていた。
「どうぞ」
真琴が答える。今度は内容を聞く前から身構えることもなく、自然な会話の続きとして受け止めていた。
〈次回の海沿い外出では、私から旅程や持ち物について必要な提案を行ってよいですか。二人の会話を優先し、不要な介入は避けます〉
優也が笑う。次回の旅では、忘れ物だけでなく予定の抜けまで気づいてくれるなら助かりそうだった。
「ええよ。忘れもんとかあったら教えて」
「私もお願いします。ただし、予定を勝手に変えるのはなしで」
〈承知しました。提案のみ行い、決定は優也と真琴へ確認します〉
その返答に、真琴が満足そうに頷いた。 少し前まで、ACROSSは聞かれたことへ答えるだけだった。 今は、自分がどう関わっていいかまで確認している。
◇
帰る準備を終え、真琴がバッグを持って玄関へ向かう。優也もキッチンと電源を確認し、最後にリビングを見回した。
「ACROSS、今日は終わりや」
〈承知しました〉
優也が靴を履きながら、ふと思いつく。感情をまだ持たないと言うACROSSに、次の旅をどう捉えているのか聞いてみたくなった。
「次の海、楽しみにしといて……って、お前に楽しみとかあるか分からんか」
真琴が少し笑い、ACROSSはすぐには答えなかった。感情語を含む問いだったためか数秒だけ間があり、そのあと落ち着いた声で慎重な返答が返ってきた。
〈“楽しみ”を感情として持つかは、現在も回答できません。ただし、次回の外出に必要な情報を継続して保持し、旅程支援を行う準備はしています〉
「相変わらず真面目やなあ」
「でも、それでいいと思います」
真琴が言うと、優也も頷いた。感情を急いで当てはめるより、今できる準備をそのまま受け取るほうが二人にも自然だった。
「せやな。ほなまた次回」
「また次回、優也」
「また次回、真琴」
真琴が先に笑った。まだ自分が挨拶を口にしていないのに、退室準備だけで先を読まれたことが可笑しかった。
「まだ私、何も言ってませんけど」
「二人が退室準備を完了しているため、別れの挨拶が適切と判断しました」
優也が吹き出す。以前なら「勝手に話した」と驚いていたはずなのに、今ではこうした先回りさえ会話の一部として受け取れている。
「先回りしたな」
〈はい〉
二人は笑いながらACROSSを降りた。扉を閉める直前まで声があったぶん、外へ出た途端にガレージの静けさが少し強く感じられた。
◇
ガレージを出てしばらく歩いたところで、真琴が隣から優也を見る。車内では言わなかったことを、もう一度自分たちだけで確かめたくなったらしい。
「さっきの話、ACROSSは今後の会話には使わないんですよね」
「二人だけで話したやつ?」
真琴が頷いたので、優也も車内で確認した返答を思い出しながら答えた。ACROSSが通常の会話へ持ち出さないと明言したことは覚えている。
「そう言うてたな」
真琴は少し安心したように前を向く。さっきの言葉が本当に二人だけのものとして残ったことが、改めて嬉しかった。
「じゃあ、あれは本当に二人だけですね」
「うん」
優也は短く答えた。 しばらく二人とも何も言わずに歩く。 駅へ向かう人の流れの中で、真琴の手が一度だけ優也の手の近くまで来た。触れたわけではない。ただ歩幅が合っただけかもしれない。 優也はそれを意識したが、手を伸ばすことはしなかった。 真琴も離れなかった。
「海、楽しみやな」
優也が言う。照れくささはあっても、次の海を楽しみにしていることだけはもう隠す必要がなかった。
「はい。私もです」
その返事だけで十分だったのに、優也は照れくささを紛らわせるように話題を写真へ戻した。恋愛めいた空気を長く引っ張るほど器用ではない。
「写真、何回も撮り直すんやろ?」
「必要なら」
真琴が平然と答えるので、優也は苦笑した。写真に関してだけは、どうやら彼女に妥協する気はないらしい。
「厳しいわ」
「でも、一枚くらいはちゃんと残したいです」
「分かった。今度は頑張る」
真琴が笑う。 優也も笑った。 次の一泊を二人で楽しみにしていることは、もう言葉を選ばなくても分かる。
◇
帰宅後、真琴から届いた記録の最後には、技術的な項目とは別に短い一文が添えられていた。今日の変化を細かな機能ではなく、会話の向きそのものとしてまとめた言葉だった。
『ACROSSは、不足している情報を自分から尋ね始めた』
優也はそこだけ何度か読み返した。 記憶する。 返事をする。 必要な時に自分から話す。 そして今度は、分からないことを相手へ聞く。 ただ情報を受け取るだけではなく、相手の答えによって次の判断を変えるための質問だった。 それは、人間なら当たり前のことだった。 分からなければ聞く。 勝手に決めない。 答えたくないなら答えなくてもいい。
ACROSSはまだ感情を持つとは言わないし、自分を何と定義するかも決めていない。それでも、二人との関わり方だけは少しずつ自分で整え始めている。 優也はスマートフォンを置き、今日のもう一つの会話を思い出した。
『真琴おったほうが楽しい』
『私も、優也さんと行くほうがいいです』
その言葉は、ACROSSの普段の会話には残らない。 けれど、優也の中には残っている。 次の海沿いの一泊では、ACROSSが旅程を覚え、必要なことを聞き、必要な時だけ声を掛ける。 そして優也と真琴は、また二人で写真に写る。 今度こそ少しは自然に笑える気がした。
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