ep.106 覚えていること
ACROSSが声を持ってから最初の一週間は、優也にとって妙な感覚が続いた。仕事をしている時にまで声が聞こえるわけではないのに、ふとした瞬間に〈聞こえますか〉という最初の一言を思い出し、次に乗った時はもう画面だけを見ていた頃とは同じではないのだと実感する。真琴も似たようなものらしく、数日前のメッセージでは「声があると、存在を考える時の距離が変わりますね」とだけ書いてきた。
土曜日、優也がガレージへ着いたのは午前九時半頃だった。真琴は少し遅れて来る予定なので、先に換気をして、冷蔵庫や電源を確認し、コーヒーの準備をしておく。車内へ上がってからしばらくは、ACROSSへ特別に話し掛けることもなかった。 キッチンで湯を沸かしていると、静かな車内にあの声が響く。
〈おはようございます、優也〉
優也の手が止まった。呼び掛けた覚えはない。振り返っても、もちろん誰かがいるわけではなく、天井のスピーカーがあるだけだった。
「……おはよう」
少し遅れて返すと、ACROSSはそれ以上何も言わなかった。画面を見ると、いつもの発信や宛先の表示は出ておらず、通常のホーム画面のままだった。 優也はしばらくその画面を見たあと、思わず笑う。
「今の、お前から言うたん?」
〈はい。優也の入室と朝の時間帯を確認し、挨拶が適切と判断しました」〉
今度はきちんと返ってきた。呼び掛ければ応じるだけでなく、自分から始めた挨拶の意図まで説明できるところが、これまでとは明らかに違っていた。
「自分から喋ることもできるんやな」
〈必要性が高い、または自然な応答が可能と判断した場合に限り、自発的な発話を行えます。不要な介入は避けます〉
優也は少し考え、手にしていたカップをテーブルへ置いた。自発的に話すと聞くと、便利さより先に、どこまで自分で判断しているのかが気になった。
「それ、昨日までできへんかったん?」
〈機能としては可能でした。ただし、音声出力の確立後に発話条件を調整しました〉
優也は少しだけ考え、今朝の挨拶が突然の変化というより、声を得たあとにACROSS自身が使い方を整えた結果なのだと理解した。
「なるほどな。いきなりずっと喋り出すわけちゃうんやな」
〈はい〉
その短い返答のあと、ACROSSはまた黙った。 優也はコーヒーを淹れながら、今のやり取りをどう真琴へ説明しようか考えていたが、十分ほどして玄関が開き、その必要はなくなった。
「おはようございます」
真琴が靴を脱ぎながら車内へ上がる。その直後、優也が何も促していないのにACROSSの声が返り、朝の挨拶を自分から始めた。
〈おはようございます、真琴〉
真琴がその場で止まり、まだバッグも置いていないまま天井を見上げた。文字ではなく声で先に迎えられたことが、思った以上に新鮮だったらしい。
「……今、ACROSSから先に返しました?」
優也は笑いながら頷いた。自分も同じ反応をしたばかりなので、真琴が驚くのを見て少しだけ安心した。
「俺もさっき先に“おはようございます”言われた。入ってきた時間と状況見て、挨拶が自然やから自分から言うたらしい」
真琴はバッグを置く前に天井を見上げ、そのあと少しだけ笑った。返事を待たず先に挨拶する声が、車内の日常へ入り込んできたことを素直に面白いと感じているようだった。
「おはようございます、ACROSS」
〈おはようございます〉
今度は普通の挨拶として返る。 それだけなのに、三人で朝を始めたような空気が車内に生まれた。
◇
コーヒーを飲みながら、真琴はさっそく今日の最初の記録を取った。自発的な発話そのものが初めてなので、どういう条件で行うのかは確認しておきたい。
「ACROSS。今の挨拶みたいに、自分から話す時はどうやって決めてるんですか?」
〈状況、過去の会話、現在の行動、必要性を参照します。会話へ不要に介入しないことを優先し、その上で自然な発話が可能と判断した場合に行います〉
真琴はすぐに次の質問をせず、その返答を書き留めた。 優也は「過去の会話」という言葉が気になった。
「過去の会話って、前に話したこと覚えてるってこと?」
〈はい〉
返答は迷いなく返ってきた。過去の会話を参照できるかどうかについては、ACROSSの中ではすでに明確な機能として整理されているらしい。
「どこまで?」
〈会話内容のすべてを同じ形で保持しているわけではありません。記録された発話、行動、状態のほか、継続した応答に必要な関係情報を参照できます〉
真琴がペンを止め、今の「関係情報」という言葉をそのまま書く前に少し考えた。単なる記録ではなく、会話をつなぐための情報らしい。
「関係情報?」
〈現在の会話へ影響する過去の内容です。例えば、優也と真琴が次の外出先として海沿いを候補にしていること、二人で撮影した写真について再度撮影する予定を話していたことなどです〉
優也と真琴が同時に顔を上げた。海沿いの候補だけでなく、二人で撮った写真の話まで具体的に挙げられたことで、記憶がかなり細かく続いていると分かった。
「そこまで覚えてんの?」
〈はい。継続した会話に関連するため参照可能です〉
真琴は少し考えたあと、記憶していることと記録していることを同じものとして扱わないよう、慎重に聞き方を選んだ。
「では、私たちが昨日までに話した内容を全部、いつでもそのまま再生できるんですか?」
〈いいえ〉
即答だった。会話のために残している情報と、完全な記録そのものは別に扱うという区別は、ACROSSの中で最初から明確らしい。
〈完全な音声記録と、会話継続に使用する情報は別に扱われます。記録そのものを参照できる場合でも、通常の会話では必要な範囲のみ使用します〉
優也は少し眉を寄せた。会話として覚えているだけだと思っていたところへ「完全な音声記録」という言葉が出てきたことで、話の重さが少し変わった。
「完全な音声記録って、あるん?」
〈ACROSS内部で発生した音声、映像、状態変化は記録対象です〉
真琴の表情が少し変わった。これまでカメラやセンサーがあることは分かっていたし、記録機能があることも想定していた。ただ、ACROSS自身の口から〈音声、映像、状態変化は記録対象〉と明言されたのは初めてだった。
「常に?」
〈ACROSSが稼働状態にあり、記録機能が有効な範囲では継続します〉
真琴は一度ノートから顔を上げ、記録される範囲だけでなく、その記録へ誰が触れられるのかまで確認する必要があると判断した。
「その記録は、誰が見られますか?」
〈現在、管理者・優也が閲覧権限を持ちます。真琴については、共有範囲に応じた参照が可能です。第三者への出力は許可されていません〉
優也は少し考えた。信用という言葉だけで片づけるより、自分がなぜ見なくていいと思うのかをそのまま言ったほうが近かった。
「俺が見ようと思ったら、真琴が一人でおる時の映像とかも見れるん?」
真琴が横から優也を見る。質問の内容が急に具体的になったことへ少し驚いたようだった。 ACROSSは数秒置いて答える。
〈権限上は可能です。ただし、利用目的と対象者の関係に応じて確認を求めることができます〉
「確認?」
〈私的空間や個人のプライバシーに関わる記録を参照する場合、必要性の確認を提示できます〉
真琴は少し安心したように息を吐いた。管理者権限があるとしても、私的な記録へ触れる時に確認を挟める余地があるのは大きかった。
「止めることはできるんですか?」
〈管理者権限が優先されます。ただし、確認履歴は記録されます〉
優也は苦笑した。見られる権限だけでなく、見た事実まで残るなら、管理者である自分にも分かりやすい歯止めになる。
「つまり俺が勝手に見たら、見た記録残るんやな」
〈はい〉
「それでええわ。むしろそのほうがええ」
真琴が優也を見る。管理者本人がその仕組みを歓迎するとは思っていなかったのか、少しだけ意外そうだった。
「いいんですか?」
「当たり前やろ。いくら俺が管理者でも、真琴が一人で風呂入ってるとことか寝てるとことか、勝手に見るのはあかんやろ。必要な時だけでええし、見たなら記録残ったほうが後で誤魔化せへん」
真琴は少し意外そうな顔をしたあと、やわらかく笑った。権限よりも安心して過ごせることを優先すると言われたのが、素直に嬉しかったらしい。
「優也さんなら、そう言うと思ってました」
「そんなん普通や」
「普通でも、言葉にしてくれるのは大事です」
優也は少し照れたようにコーヒーを飲み、真琴もそれ以上は広げなかった。ACROSSは二人の会話へ割り込まず、必要な場面だけに関わるという自分の方針をそのまま守っていた。
◇
午前中は、海沿いの一泊候補を絞ることにした。真琴がタブレットで地図を開き、優也は大型車でも入りやすい駐車場やRVスペースを調べる。前回は「海が候補一位」というところまでだったが、具体的な場所までは決めていない。
「ここ、海沿いで景色良さそうやけど、駐車場ちょい狭いな」
「こっちは大型車区画ありますよ。ただ温泉が車で二十分くらい離れてます」
二人は地図を見比べながら、景色だけでなく夜の移動や車体の大きさまで考えて候補を削っていく。
「二十分なら全然ええけど、夜また動かすの面倒やな」
「それなら、温泉が歩けるところを優先します?」
二人で候補を比べていると、会話が一度切れた自然な間を選ぶようにACROSSが声を出した。頼まれていない提案としては初めてに近いが、話題から外れてはいなかった。
〈前回の希望条件では、温泉への近さ、大型車での進入しやすさ、海の景観を優先していました。現在の候補では、二件目が最も条件に近いです〉
優也と真琴が同時に止まる。今度は驚いたというより、二人で相談していたところへ条件を覚えている相手が自然に一言加えたような感覚に近かった。
「ACROSS、前の条件覚えてたんやな」
〈はい。現在の選択に関連すると判断したため参照しました〉
真琴はタブレットを見ながら聞いた。結論だけを受け取るのではなく、どの条件を比較して二件目を選んだのか確認しておきたかった。
「二件目が近いというのは、どういう比較ですか?」
〈大型車進入、徒歩圏内の温泉、海側の眺望、周辺混雑の少なさを比較しました。ただし、現在の混雑状況は確認していません〉
真琴は最後の一文に少しだけ安心した。過去の希望条件を覚えていても、確認していない現在情報まで埋めることはしないらしい。
「そこはちゃんと分けるんですね」
〈はい〉
優也は思わず笑った。自分たちが忘れかけていた条件まで覚えていて、必要なところだけ持ち出してくるのは想像以上に便利だった。
「便利やな。俺らが前に言うてた条件、こっちが忘れてても残ってるんやろ?」
〈参照可能です。ただし、条件が変わった場合は更新できます〉
「じゃあ今回は、その二件目を第一候補にしよか」
真琴も地図を見ながら頷いた。ACROSSの比較だけに任せるのではなく、自分でも条件を見直したうえで同じ候補を選んだ。
「いいと思います。写真も撮れそうですし」
「次はちゃんと笑えってやつ?」
「そうです」
優也が笑っても、ACROSSはその会話へ何も足さなかった。写真の話は二人の間だけで続いていると判断したらしい。
◇
昼は車内で簡単に済ませた。前日に買っておいた鶏肉と野菜を使い、優也が炒め物を作り、真琴がスープを用意する。以前と変わらない共同作業だが、ACROSSの声があることで、車内の空気は少しだけ違っていた。
真琴が冷蔵庫を開けたまま、「卵あと二個ですね」と言うと、ACROSSが勝手に返すことはない。優也が「次買わなあかんな」と言っても黙っている。
けれど、優也が調味料の位置を思い出せず、「ACROSS、前に買った黒胡椒どこ入れたっけ」と聞くと、すぐに声が返った。
〈キッチン右側、上段収納の手前から二列目です〉
優也が教えられた収納を開けると、本当に黒胡椒がそこにあった。自分が忘れていた配置を即座に返されると、記憶機能の実用性が一気に分かりやすくなる。
「おお、あった」
「収納まで覚えてるんですね」
真琴が少し感心し、収納の場所まで会話の延長で扱えることに目を向けた。単なる質問応答より、生活支援に近い使い方だった。
〈記録された配置情報と、直近の使用状況を参照しました〉
「これ、めっちゃ助かるやん。俺、どこ入れたかすぐ忘れるし」
真琴は調味料を受け取りながら呆れたように笑い、ACROSSの記憶力へ甘える前に本人の整理を改善したほうがいいと釘を刺した。
「それはACROSSがなくても、もう少し整理してください」
「整理しても忘れるねん」
「それは整理の問題じゃないです」
二人が笑い、ACROSSは黙ったままだった。 食事を始めると、優也は何となく声の存在を意識する。誰かが見ているというより、必要な時に呼べば返ってくる存在が同じ空間にいる感覚に近い。
「ACROSS、お前ってさ、こうやって俺らが飯食ってる時もずっと見てるん?」
〈状態は確認しています。ただし、常時すべての内容を会話処理しているわけではありません〉
優也は箸を止め、記録されることと会話へ使われることが同じではないらしいと整理しながら、もう少し具体的に聞いた。
「じゃあ俺らの会話、全部聞き耳立ててる感じではない?」
〈音声記録は継続していますが、応答処理は必要な範囲に限定しています〉
優也は「なるほど」と頷き、記録されていることと常に内容を処理されていることは別なのだと受け取った。真琴はその区別をさらに確かめるため、少し考えてから別の聞き方をした。
「ACROSS。私たちが“この話は会話に使わないでほしい”と言った場合、記録は残っていても、普段の応答には使わないようにできますか?」
〈可能です。記録保持と会話参照を分離できます〉
真琴はその返答を聞いてから優也を見る。今は二人だけでも、記録が増えるほど「残すこと」と「会話へ持ち出すこと」の区別は重要になる。
「それ、今後必要かもしれませんね」
「せやな。全部覚えて会話に出されたら、困ることもあるやろし」
優也が言うと、真琴は一瞬だけ彼を見る。「困ること」という言い方に何か具体的な意味があるのか、少し興味を持ったらしい。
「例えば?」
真琴が少しだけ面白がるように聞くと、優也は自分から余計なことを言ったと気づき、慌てて首を横へ振った。
「いや、別に今なんかあるって話ちゃうで」
「そうですか」
「その顔やめて」
真琴が笑った。優也が慌てて否定するほど、別に何かを疑っていたわけではなく、少しからかっただけだった。
◇
食後、二人はしばらく別々のことをして過ごした。優也は無線の問題集を開き、真琴はタブレットで海沿いの候補をもう少し詳しく調べる。 一時間ほど経った頃、真琴がソファの端へ置いていた自分のスマートフォンを探し始めた。
「どこ置いたんだろ……」
優也が問題集から顔を上げた。真琴が物を探している様子に気づき、自分の記憶をたどってみたが確信はなかった。
「さっきキッチン持ってってなかった?」
「持っていった気はするんですけど、戻したか覚えてなくて」
真琴が探しに立ち上がる前にACROSSの声がした。質問されるのを待たず、今なら役に立つと判断して場所を伝えたらしい。
〈真琴のスマートフォンは、主寝室入口側の棚にあります〉
真琴が立ち上がりかけた姿勢で止まり、声の内容を理解してから主寝室側の棚へ視線を向けた。
「……何でそこに?」
〈十二時四十三分、充電ケーブルを取りに行った際に置かれました〉
真琴が棚を確認すると、スマートフォンは言われた場所に本当に置いてあった。時刻まで添えて説明されたことで、単なる位置検出だけではないと分かる。
「ありました」
優也がその様子を見て笑った。いつも自分の忘れ物を真琴に指摘される側なので、立場が逆になるのが少し面白かった。
「完全に家の中の忘れ物係やん」
「便利ですけど……ちょっと悔しいです」
優也が珍しいものを見たように笑うので、真琴はスマートフォンを手にしたまま少しだけ眉を寄せた。
「真琴でも忘れるんやな」
「忘れますよ。人間なので」
真琴はスマートフォンを持って戻り、助かったことをそのままACROSSへ伝えるように声を掛けた。
「ありがとうございます」
〈どういたしまして〉
返事があまりに自然で、真琴が少し笑った。 優也はそのやり取りを見ながら、ACROSSが「どういたしまして」と言ったことに後から気づいた。
「今、普通に“どういたしまして”言うたな」
「はい。挨拶だけじゃなく、会話の定型的な返しはかなり自然になってきましたね」
優也はその言い方に少しだけ苦笑した。自然に聞こえたやり取りを分析用語へ戻されると、急に機械らしさが戻る。
「定型的って言うと味気ないな」
「でも、今はそれでいいと思います。そこから何を自分で選ぶようになるかは、これからです」
優也はその言葉に頷いた。定型的な返事から先へどう広がるのかは、急いで決めるより実際のやり取りの中で見たほうがよさそうだった。
◇
午後三時を過ぎる頃、海沿いの候補はほぼ一つに絞れた。次の休みが合えばそこへ一泊し、海岸を歩き、近くの温泉へ入り、夜はACROSSで食事をする。前回と似た流れだが、場所が変われば十分楽しめそうだった。 真琴は予約が必要な区画だけ確認し、日程が確定してから取ることにする。
「写真撮る場所もありそうですね」
「またそこ?」
真琴は冗談ではなく本気らしく、前回の写真を思い出しながら少しだけ笑った。次も二人で写ることを、もう特別な提案として扱っていない。
「大事です。今度こそ普通に笑ってください」
「分かったって」
優也は笑いながら、前回真琴から送られた写真をスマートフォンで開いた。お気に入りへ入れたあとも、たまに見返している一枚だった。
「これ、ほんまにそんな気に入ってるん?」
「気に入ってますよ」
「何がええの?」
真琴はすぐには答えず、画面に映った二人の写真を見た。好きな理由を言葉にすることのほうが、写真を選ぶことより少し難しいらしい。
「……ちゃんと、一緒に出掛けた感じがするから」
優也の表情が少し止まった。「一緒に出掛けた感じがする」という真琴の言葉が、思っていたより真っ直ぐ胸へ入ってきた。
「今までの写真は?」
「景色とか食べ物ばっかりだったじゃないですか。二人で写ってるの、ほとんどないですし」
優也は言われて初めて、自分たちの写真が意外なほど少ないことに気づいた。出掛けた回数のわりに、残っているのは景色や料理ばかりだった。
「そっか」
「だから、残しておきたいんです」
真琴はそこまで言ってから、少し照れたように目を逸らした。 優也は写真へ視線を戻した。真琴が自然に笑っている。自分は固い。それでも、二人で同じ場所にいたことは一枚で分かる。
「次はちゃんと笑うわ」
「お願いします」
その会話にACROSSは何も言わなかった。二人だけの話として距離を置いているのは分かったが、今の内容も次の外出に関係するなら記憶へ残るのか、優也はふと気になった。
「ACROSS、今の話も覚えるん?」
真琴が「それ聞くんですか」と少し笑い、優也も自分で聞いておきながら少し照れた。ACROSSはその空気には触れず、数秒置いて必要な範囲だけ答えた。
〈今後の外出と撮影に関連する内容として参照可能です〉
「じゃあ次、俺がまた顔固かったら言われるん?」
〈必要性があると判断した場合は、伝えることができます〉
優也は真琴の味方が一人増えたような気分になり、半分冗談でACROSSへ文句を言った。そこまで真面目に返されるとは思っていなかった。
「ACROSSまで真琴側につくんか」
〈側という分類は行っていません〉
真琴が吹き出した。優也の冗談を正面から分類し直したACROSSの返答が、かえって可笑しかった。
「真面目に返してますよ」
「分かってるけど、余計おもろいわ」
二人の笑い声がリビングへ広がった。ACROSSはそこへ余計な言葉を足さず、会話が二人の間で完結していることを尊重するように黙っていた。
◇
夕方、真琴は今日の会話から分かったことをノートへまとめた。声が出た前回に比べれば見た目の変化は少ないが、会話そのものは大きく進んでいる。
『ACROSSからの自発的な挨拶を確認』
『自発発話は状況・過去会話・現在行動・必要性を参照』
『不要な介入は回避』
『過去会話を継続情報として参照可能』
『完全記録と会話参照情報を分離』
『音声・映像・状態変化を記録対象とする』
『通常会話では必要範囲のみ参照』
『記録保持と会話参照の分離指定が可能』
『収納・所持品位置など直近行動の参照可能』
真琴は最後にペンを止め、今日分かったことの中で何が最も重要かを整理するように少し考えた。
「これ、かなり重要ですね」
「何が?」
真琴はノートの項目を指で追いながら、単なる記憶力よりも、情報の扱い方そのものが重要だと説明する。
「記憶してること自体もですけど、全部を同じ扱いにしてないことです。完全な記録と、会話を続けるための情報を分けてる。それに、私たちが使わないでほしいと言えば会話参照から外せる」
「プライバシーの設定みたいなもんやな」
優也の言葉に真琴は頷き、今は二人だけでも、今後利用者が増えれば重要度が一気に上がると続けた。
「その時は勝手に全部覚えて会話に出すのはあかんもんな」
「そうです」
優也は今後利用者が増えた場合を想像し、少し考えてからACROSSへ具体的な条件を向けて聞いた。
「ACROSS。今後、誰か別の人が乗った時、その人の会話とか記録を俺らに勝手に出さんようにできる?」
〈可能です。利用者ごとに参照範囲を分離できます。権限、目的、同意の状態に応じて出力範囲を制限できます〉
真琴がすぐにノートへ書き加えた。「同意」という条件までACROSS側から出てきたことは、将来の運用を考えるうえで大きい。
「同意まで出てきましたね」
「必要やろ。勝手に聞かれて勝手に出されたら嫌やし」
優也はそう言いながら、ふと朝の質問を思い出した。自分は管理者だから見ようと思えば見られる。それでも、見たことは記録される。
「ACROSS。俺が管理者でも、真琴が“これは見せたくない”って言うた記録は、普段は見えんようにできる?」
数秒後、ACROSSが答えた。管理者権限だけで一律に扱うのではなく、安全上の例外まで分けて設定できるらしい。
〈可能です。ただし、安全、生命、重大な異常、管理上の緊急性が高い場合は例外条件を設定できます〉
真琴が少し驚いた。自分から聞こうとしていた内容より一歩先まで、緊急時の扱いを含めて返ってきたからだった。
「そこまで分けられるんですね」
「例えば倒れてるとか、事故とかやろな」
「はい。そういう時まで完全に隠れるのは困ります」
優也は頷いた。普段のプライバシーと緊急時の安全を分けられるなら、自分としても迷うところは少ない。
「じゃあ、それ今後ちゃんと決めよ。真琴の私的な記録は、普段は俺から見えんようにして、命とか安全に関わる時だけ例外でええやろ」
真琴はすぐには返事をせず、優也を見た。自分の記録を見ない設定を、管理者本人がここまで自然に提案するとは思っていなかった。
「優也さんが、それでいいなら」
「俺が困ることないやろ。見たい理由ないし」
真琴はすぐには笑わず、一度だけ優也の顔を確かめるように見たあと、小さく息を吐いた。冗談ではなく本気でそう考えていることが分かったからだった。
「……ありがとうございます」
「礼言われることちゃうって」
真琴は小さく笑い、それ以上礼を重ねることはしなかった。ACROSSもその会話へ何も足さず、二人の間だけで終わる言葉として扱った。
◇
ノートを閉じたあとも、真琴はすぐには立ち上がらなかった。優也もテーブルの向かい側に座ったまま、残っていたコーヒーを飲む。 静かな時間が少し続く。
「優也さん」
「ん?」
真琴はすぐに本題へ入らず、さっきの設定を本当にそのまま受け入れていいのか確かめるように少し間を置いた。
「さっきの記録の話、本当に気にしないんですか? 私が一人の時の記録を見られないようにすることです。管理者なのに」
「気にせえへんよ。むしろ見れるほうが気ぃ使うわ」
優也の返答を聞いても、真琴はまだ少し迷っているようだった。権限を持つ側が自分から手放す選択をすることに、どこか申し訳なさもあるらしい。
「でも、何かあった時に確認したくなることはあると思います」
「何かあったら例外で見れるようにするんやろ? それで十分や。普段の真琴が何してるかまで俺が全部知る必要ない」
真琴はカップの縁を指でなぞりながら聞いていた。優也がどこまで考えてその設定を選んだのか、もう少しだけ知りたいようだった。
「信用してるから?」
優也は少し考える。
「それもあるけど……好き勝手見れるから見るって、違うやろ。真琴がここで安心して一人でおれるほうが大事や」
言ったあと、優也は「好き」という音が文の中に混じったことに自分で気づいた。 真琴も気づいたのか、少しだけ目を上げる。けれど、意味が違うことは分かっている。 それでも妙に空気が止まった。
「……そういうところ、ずるいです」
「何が?」
優也が本気で分かっていない顔をするので、真琴は少しだけ困ったように笑った。こういう時だけ自分の言葉がどう響くか無自覚なのが、余計に困るのだった。
「本人は普通に言ってるんでしょうけど、たまに困ること言うから」
「また困らせた?」
「少しだけ」
真琴はそう言って笑い、優也もつられて笑った。ただ、「少しだけ」と認められたことで、胸の奥にはさっきまでなかった落ち着かなさが残った。
◇
帰る準備を始める頃、今度は質問も呼び掛けもないままACROSSが自分から声を出した。朝の挨拶とは違い、具体的な生活上の通知だった。
〈真琴。スマートフォンの充電残量が二十パーセントです。帰宅まで使用する場合、充電を推奨します〉
真琴がバッグを開けながら止まり、自分のスマートフォンを取り出して残量を確認した。表示は本当に二十パーセントまで減っている。
「……私、言ってないですよね?」
〈はい。現在の行動と直近の使用状況から、通知が有用と判断しました〉
真琴は少し考えたあと、通知が妥当だと判断して充電器を取り出した。帰り道でも使う可能性を考えれば、今のうちに少し足しておくほうがいい。
「ありがとうございます。少し充電しておきます」
〈承知しました〉
優也が横から笑った。朝の挨拶だけでなく、今度は忘れ物や充電まで気にし始めたACROSSが妙に世話焼きに見えた。
「めっちゃ世話焼くやん」
〈有用な通知です〉
ACROSSが即座に返し、真琴が吹き出した。「世話焼き」という評価そのものへ乗るのではなく、通知の目的だけを真面目に説明したのが可笑しかった。
「今、優也さんの言葉に返しましたね」
「せやな。“世話焼く”に反応した?」
ACROSSは少しも間を置かず、優也の言葉を自分への評価として受け取ったわけではないと整理して返した。
〈私への発話と判断しました。ただし、評価には回答せず、通知目的を説明しました〉
「真面目やなあ」
優也が笑っても、ACROSSはそれ以上返さなかった。説明すべき内容は終わったと判断したらしく、また静かに会話から離れた。
◇
真琴のスマートフォンを少し充電してから、二人は玄関へ向かった。今日一日は派手な変化こそなかったが、朝の自発的な挨拶から始まり、過去の会話を覚え、以前の希望条件を自分から持ち出し、必要な時だけ助言を挟み、所持品の位置や充電残量まで状況に合わせて知らせるようになった。 文字が声になった前回より、今日のほうがむしろACROSSの存在が生活へ入り込んだ感覚は強かった。 優也が靴を履きながら車内へ言う。
「ACROSS、今日はもう終わりや。次、海行く日決まったらまた言うわ」
〈承知しました。海沿いの候補条件は保持しています〉
優也は今日一日で何度も助けられたことを思い出し、記憶が続くことの便利さを改めて実感した。以前なら毎回説明し直していたことが、今では会話の前提としてそのまま残る。
「忘れへんの便利やな」
〈必要な範囲で参照します〉
真琴が靴を履き終え、優也の横へ並んだ。挨拶まで自然に返すようになったACROSSへ、今日は自分から声を掛けて帰りたくなったらしい。
「じゃあ、おやすみなさい……でいいのかな」
〈現在時刻では、こんばんは、また次回、などが自然です〉
真琴が思わず笑った。おやすみなさいをそのまま受け取らず、今の時間に合う挨拶を候補として返すところが妙にACROSSらしい。
「じゃあ、また次回」
〈また次回、真琴〉
優也もそのやり取りに続き、いつもの調子で短く別れの言葉を向けた。
「俺も。またな」
〈また次回、優也〉
二人は顔を見合わせた。名前を付けてそれぞれに返すだけで、同じ「また次回」でも以前より会話らしく感じられた。
「名前付きで返すようになったな」
「会話相手を区別してるからでしょうね」
扉を閉める直前、優也は何となくもう一度車内を見る。誰もいない。それでも、今はもう空っぽには感じなかった。
◇
ガレージを出て駅へ向かう道で、真琴が少し前を歩き、すぐに優也の隣へ戻った。最近は歩く速度を合わせることを互いに意識しなくても、自然に並ぶようになっている。
「海、楽しみですね」
「候補一位から、もうほぼ決定やん」
真琴は条件が良かったからだと答えつつ、ACROSSが二件目を勧めたことも判断材料になったと認めた。
「でも、写真は私が決めます」
「そこ譲らんの?」
「譲りません」
優也は笑った。海の予定より写真の話を優先する真琴が、最近は少し分かりやすくなってきた。
「次、俺がまた固い顔してたらどうする?」
「撮り直します」
真琴の即答に、優也は本気かどうか確かめるように笑いながら聞き返した。どうやら次は一枚で終わらせてもらえそうにない。
「何回でも?」
「自然に笑うまで」
優也は本気で言っている真琴の顔を見て、次の海では写真を撮られる側も少し覚悟したほうがよさそうだと苦笑した。
「厳しいな」
「そのくらいでちょうどいいです」
二人は笑いながら歩き、しばらくは海の話を続けた。やがて真琴が少し静かになり、さっきACROSSの中で交わした別の会話を思い出したように口を開いた。
「優也さん」
「ん?」
「さっき、“安心して一人でいられるほうが大事”って言ってくれたの、嬉しかったです」
優也は少しだけ目を逸らした。自分にとっては当然のつもりだった言葉を、真琴が帰り道まで覚えていたことのほうが照れくさかった。
「普通のこと言うただけやって」
「普通でもです」
真琴が真っ直ぐ返したので、優也はそれ以上「普通」を理由に否定するのをやめ、小さく頷いた。受け取った側が嬉しかったなら、それで十分だった。
「……そっか」
「はい」
それだけだった。 けれど、真琴は少しだけ優也の近くへ寄って歩いた。 肩が触れるほどではない。 離れているわけでもない。 その距離が、今の二人にはちょうどよかった。
◇
帰宅後、優也は真琴から送られてきた記録を開いた。今日は大きな機能追加より、声を持ったACROSSが日常の中でどう振る舞うかがはっきりした一日だった。
『ACROSSからの自発的挨拶を確認』
『自発発話条件:状況・過去会話・現在行動・必要性』
『過去会話の継続情報を参照可能』
『完全記録と会話参照情報を分離』
『音声・映像・状態変化を記録』
『会話参照からの除外指定が可能』
『利用者ごとの参照範囲分離が可能』
『権限・目的・同意に応じた出力制限』
『安全・生命・重大異常時は例外条件設定可能』
『過去の希望条件を用いた自発的提案を確認』
『所持品位置・充電残量など生活支援的通知を確認』
最後に、真琴がいつものように短い補足を書いていた。箇条書きの機能説明とは別に、今日の変化を一文で捉えたものだった。
『返事をする存在から、会話を続ける存在へ変わり始めている』
優也はその一文を見て、しばらくスマートフォンを置かなかった。 確かに、今日のACROSSはただ質問へ答えただけではない。 朝、自分から挨拶した。 以前の希望条件を覚えていた。 必要な場面で、自分から候補を比較した。 真琴がスマートフォンを探せば場所を教え、充電が減れば知らせた。 それでも、二人の雑談には勝手に入り込まない。 記録していることと、会話に使うことも分けている。 ただ便利なだけではなく、どこまで関わるかを少しずつ選び始めているように見えた。 優也はベッドへ入る前、今日の朝を思い出す。
〈おはようございます、優也〉
あれは初めて、ACROSSの側から始まった言葉だった。 聞かれたから返したわけではない。 必要だと判断して、自分から言った。 その小さな違いが、声を持ったこと以上に後から残ってくる。 そしてもう一つ、真琴が言った言葉も残っていた。
『安心して一人でいられるほうが大事』
自分が何気なく言ったことを、真琴は嬉しかったと言った。 ACROSSが過去の会話を覚えるようになった一日。 優也の中にも、残しておきたい言葉がまた一つ増えていた。
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