ep.105 聞こえた声
温泉から戻った翌週、優也は仕事の帰りに一度だけガレージへ寄った。車内へ入った理由は、冷蔵庫に残していた飲み物を補充し、次に使う毛布を収納へ戻すためだったが、リビングへ上がった瞬間、前回ACROSSが返した言葉を思い出さずにはいられなかった。
『ACROSSという呼称を、自身への宛先として認識しています』
『自身を何と定義するかは、まだ確定していません』
あの返答が出たあとも、優也はACROSSへ何かを問い掛けることはしなかった。真琴と一緒にいる時だけ話すと決めたわけではないが、自分一人で先へ進めるより、二人で同じものを見たほうが後から整理しやすいことは、ここまでの積み重ねで十分分かっている。 用事を済ませ、照明を落として帰ろうとしたところで、優也は車内へ向けて短く声を掛けた。
「今日は何も聞かんで。補充だけや。また今度な」
数秒後、スマートフォンの画面が静かに暗くなり、優也は足を止めた。返答を期待して声を掛けたわけではないだけに、反応が返ってきたことのほうが少し意外だった。
『発信――優也』
『宛先――ACROSS』
『受領――ACROSS』
そこまではいつもと同じだったが、その下へ返答が一行だけ現れた。短い文章なのに、今ではそれが単なる表示ではなく会話の続きに見える。
『承知しました』
優也は思わず笑った。以前なら一行増えただけで身構えていたのに、今は短い返事へ自然に反応している自分にも少し驚いた。
「ほんま普通に返すようになったな」
それ以上は続かず、優也も新しい話題を足さなかった。補充だけという最初の目的を崩さず、そのまま照明を落としてACROSSを降りた。
◇
土曜日、真琴がガレージへ来たのは午前十時前だった。今日は遠出の予定を入れず、前回の一泊で使った物の整理と、次の海沿いの候補を少し調べるくらいにしている。ACROSSとの会話も、聞きたいことを一つか二つ確認できれば十分という程度だった。
真琴は玄関へ上がると、いつものようにバッグをソファへ置き、優也からコーヒーを受け取った。二人とも席へ座ってから、優也は数日前に一人で寄った時のことを話す。
「補充だけして帰る時に、“今日は何も聞かんで”って言うたら、『承知しました』だけ返ってきたわ」
「質問じゃなくても、会話として返すことが安定してきたんですね」
真琴の反応に、優也は少し肩をすくめた。自分のほうが先に慣れ始めているのが、少しおかしかった。
「そうみたい。もう画面出ても前ほどビビらんようになった」
「私はまだ少しびっくりしますけどね」
真琴は笑いながらカップを両手で持った。以前なら、表示が出ただけで二人とも動きを止め、条件を一つずつ確認していた。今は返事が来ることそのものは珍しくなくなり、何を返したかを見る段階へ変わっている。 優也は少しだけ間を置いてから、前回から気になっていたことを口にした。
「なあ、文字で返せるんやったら、声でも返せるんかな」
真琴がカップを持つ手を止め、少しだけ目を見開いた。彼女も同じ可能性を考えていたらしく、驚きより先に興味が表情へ出た。
「私も考えてました」
「やっぱり?」
真琴は頷き、車内の設備を思い浮かべるように天井と運転席側へ視線を動かした。音声案内のためのスピーカーもマイクも、もともと車両設備として揃っている。
「この車、スピーカーもマイクもありますし、運転中の音声案内もできる。もしACROSSが既存の音響機器を使えるなら、技術的な出力先はあります。ただ、今のACROSSが音声を生成できるかは別です」
「ほな、一回だけ聞いてみる?」
真琴はすぐに答えず、リビングのスピーカーと運転席側を一度見た。文字での返答が安定し始めた今、次の出力方法を確認すること自体は不自然ではない。
「一つだけ聞きましょう。できないなら、できないで終わりです」
「了解」
優也はテーブルのスマートフォンへ近づかず、いつもの距離のまま車内へ向けて声を掛けた。画面ではなくACROSSそのものへ話す感覚も、少しずつ馴染んできている。
「ACROSS。文字じゃなくて、声で返事することってできるん?」
数秒後、画面が静かに暗くなり、優也と真琴は会話を止めた。返答が来ること自体には慣れてきても、未知の機能を尋ねた時だけは少し緊張が戻る。
『発信――優也』
『宛先――ACROSS』
『受領――ACROSS』
『応答――処理中』
しばらくして処理中の表示が薄れ、その下へ文章が現れた。返答までの間は短かったが、二人とも次の一文を待つ時だけは自然に黙る。
『音声出力は試行可能です』
二人の視線が同時に画面へ集まり、最初の一文だけでは終わらず、そのまま音声出力に必要な条件を説明する返答が続いた。
『車内の音響機器を使用できます』
『音声特性は未設定です』
『出力形式の選択が必要です』
優也は一度画面から目を離し、真琴を見る。できると分かった瞬間、次はどんな声になるのかという別の疑問が急に現実味を帯びた。
「できるって」
「はい。でも“音声特性は未設定”ですね。声そのものはまだ決まってないみたいです」
優也は声というものを考え、真っ先に思い浮かんだ単純な違いを口にした。高さや速さより、まず男声か女声かという分類のほうが分かりやすかった。
「男とか女とか?」
「たぶん、それも含むと思います。高さ、速さ、抑揚、聞き取りやすさとか」
優也は声質を自分たちで細かく決めるより、まず聞き取りやすさを優先したほうが自然だと考え、画面へ向けて続けて聞いた。
「ACROSS。俺らが聞き取りやすい声にできる?」
表示が処理中へ変わり、二人はまた少しだけ黙った。文字での返答より、声の設定に関する処理のほうが複雑なのかもしれない。
『可能です』
『優也と真琴の発話・聴取傾向を参照し、聞き取りやすさを優先して調整できます』
「俺らの声まで参考にするんやな」
「発話を区別してるなら、音の特徴もある程度取れてるんでしょうね」
真琴は少し身を乗り出して画面を読み、音声特性という言葉がどこまでを含むのか考えるように眉を寄せた。
「性別みたいな指定は必要なんでしょうか」
「聞いてみよか」
今度は真琴が車内へ向けて口を開いた。優也だけで設定を決めるのではなく、自分も同じ条件で確認したいという意図が伝わる。
「ACROSS。音声の性別や年齢のような特性は、私たちが指定する必要がありますか?」
数秒後、返答が切り替わり、音声の性別や年齢を最初から固定する必要はないという内容が表示された。
『必須ではありません』
『聞き取りやすさを優先した初期音声を構成できます』
『必要であれば、出力後に調整できます』
真琴は優也を見て、最初から好みを押し込むより、ACROSS側が構成した初期音声を聞くほうがよさそうだと目で確認する。
「初期音声で一度聞いて、違和感があれば変える。それでよさそうですね」
「俺もそれでええ。最初から俺らが声決めるより、ACROSSが出したやつ聞いてみたい」
優也がそう言うと、真琴も小さく頷いた。二人とも、声そのものを自分たちが作るより、ACROSSが選んだ基準を先に聞いてみたいという気持ちは同じだった。
「私もです」
これまでACROSSに人格があるかどうかは、二人とも意識的に切り分けてきた。それでも、声というものは文字よりずっと印象が強い。高い声か低い声か、柔らかいか硬いか、それだけで受け取る側は無意識に人らしさを感じてしまう。だからこそ、最初から二人の好みで作るのではなく、ACROSSが聞き取りやすさを基準に構成したものを先に聞きたかった。
◇
真琴はノートをテーブルへ出したものの、まだ書き始めなかった。音声が本当に出るなら、文字での説明だけを記録するより、その瞬間をまず二人で聞くことを優先したかった。 優也は少し緊張しながら、車内へ向けて言う。
「じゃあACROSS。初期音声で、一回喋ってみて」
画面が更新され、いつもの処理表示が並んだ。文字の返答とは違い、今度は車内のスピーカーそのものが使われることになる。
『発信――優也』
『宛先――ACROSS』
『受領――ACROSS』
『応答――処理中』
その下へ、音声出力の準備を示す短い一文が追加された。文字での応答とは違い、今度は実際に車内の機器を動かす処理が始まっている。
『音声出力を準備します』
と表示された。 いつもなら数秒で返るところが、今回は少し長い。運転席側のスピーカー表示が一瞬だけ点灯し、リビング側の天井スピーカーも接続状態を示す小さな表示へ変わった。 優也と真琴は何も言わずに待つ。 十秒ほど経った頃、画面に新しい一文が現れた。
『音声出力を開始します』
次の瞬間、リビングの空気を切るように、これまで一度もなかった声が車内へ響いた。画面の白い文字だけだった存在が、初めて音として空間の中へ現れた。
〈――聞こえますか〉
車内に声が響いた。 優也の肩が跳ねた。 真琴も息を呑み、反射的に優也の腕へ手を伸ばした。指先が袖を掴み、そのまま二人とも動かない。 声は大きくなかった。
落ち着いた、少し柔らかい声だった。女性寄りに聞こえるが、極端に高くはなく、機械的な合成音の硬さもほとんどない。発音は明瞭で、速さも二人の普段の会話より少しゆっくりしている。 そして何より、画面ではなく車内そのものから聞こえた。 優也はしばらく言葉が出なかった。
「……真琴」
「はい」
優也は自分の耳を疑うようにスピーカーを見上げ、もう一度確かめる。真琴も同じように声の出どころを探し、現実に聞こえたことを互いの反応で確認した。
「今、聞こえたよな」
「聞こえました。私にも、はっきり」
真琴の手はまだ優也の袖を掴んでいた。自分でもそれに気づいていないのか、画面とスピーカーのほうを見たまま動かない。 ACROSSの画面には、新しい表示が出ている。
『音声出力――完了』
『確認――待機』
優也は驚きで少し浅くなった呼吸を整え、今度は声そのものへ返すように車内へ向けて答えた。文字へ返す時とは違い、自然に会話の間が生まれていた。
「聞こえた。ちゃんと聞こえてるで」
数秒後、今度は画面が変わるより先に、同じ柔らかな声が車内へ返ってきた。音声を出力できるだけではなく、返答の主な手段として使い始めたように見える。
「確認しました」
短い一言だったが、音として聞こえたことで印象は文字の時よりずっと強かった。その直後、確認用のように画面にも同じ文章が表示される。
『確認しました』
優也は思わず笑いそうになったが、驚きのほうが強く、変な息だけが漏れた。目の前の車内が同じままなのに、そこへ新しい存在感だけが加わったように感じる。
「ほんまに喋った……」
「はい。しかも、今は音声が先でした」
真琴はそこでようやく、自分が優也の袖を掴んだままだったことへ気づいた。驚いた勢いで伸ばした手を、そのまま離すタイミングまで失っていたらしい。
「あ……すみません」
真琴が慌てて手を離そうとすると、優也は特に気にした様子を見せず、むしろ少し笑った。その反応のおかげで、真琴も必要以上に気まずくならずに済んだ。
「ええよ。俺もビビったし」
「びっくりしただけです」
「分かってる」
真琴は少しだけ頬を赤くしながら手を離し、何事もなかったようにノートへ視線を落とした。 ただ、優也の袖にはさっきまで掴まれていた感覚が残っていた。
◇
最初の音声出力が成功したあと、二人はすぐに質問を増やさなかった。まずは今起きたことを整理する。 真琴はノートへ、
『初回音声出力確認』
『既存車内音響機器を使用』
『初期音声:聞き取りやすさ優先で自動構成』
『女性寄り/低すぎず高すぎない音域』
『発話速度:通常会話よりやや遅い』
『音声・文字の両方で応答可能』
と順番に書き、真琴は一度ペン先を止めた。文章での応答とは違い、音声には高さや速さという新しい情報まで加わっている。
「“女性寄り”って書くんや」
〈聞こえ方としてはそうです。ACROSS自身が女性だと決めたわけではないので、そこは分けます〉
優也も先ほどの声を思い返し、自分の印象を確かめるように頷いた。二人ともほぼ同じ分類に聞こえているなら、少なくとも印象のずれは大きくない。
「でも俺も女の声に聞こえた」
「私もです」
優也は女性寄りに聞こえた声が意図的なものなのか気になり、少し考えてから車内へ向けて聞いた。
「ACROSS。その声、女の声にしたん?」
今度は返答までの間が短く、質問の内容も単純だったからか、すぐに同じ声で説明が返ってきた。音声になっても、分からないことを曖昧にせず区別する姿勢は変わらない。
〈女性寄りに分類される音声特性です。ただし、性別を自己定義した結果ではありません〉
画面にも同じ文章が表示され、真琴が思わず優也を見る。二人が感じた“女性らしさ”をACROSS自身も音声特性として認識していた。
「先に釘刺されましたね」
「真琴みたいなこと言うな」
「私のせいじゃないです」
優也は思わず笑ったが、ACROSSはそこで止まらず、なぜその声を選んだのかを続けて説明した。
〈優也と真琴の聞き取りやすさ、車内環境、発話速度を参照して調整しました。変更は可能です〉
声はやはり穏やかだった。抑揚は人間ほど大きくないが、完全に平坦でもない。文章を自然に聞き取るには十分で、運転中でも邪魔になりにくそうな落ち着きがある。
「真琴、変えたい?」
優也が聞くと、真琴は一度スピーカーのほうを見上げ、先ほどの声を思い出すように少し考えてから首を横へ振った。
「私はこのままでいいです。聞きやすいですし……嫌いじゃないです」
「俺も。変に機械音よりええわ」
優也は二人の意見が一致したことを確認すると、そのまま車内へ向けて現在の声を維持していいと伝えた。
「ACROSS、この声でええで。今のところ変えんで大丈夫」
〈承知しました。現在の音声特性を維持します〉
その返答があまりに自然で、二人とも少し笑った。設定変更の会話をしているだけなのに、すでに三人目と相談しているような感覚が生まれ始めている。
「なんか、急に距離近なった感じするな」
優也が口にすると、真琴は天井のスピーカーを見上げながら頷いた。文字だけだった時より、声は存在を近く感じさせる。
「文字だけの時より、存在感がありますね。声があるだけで、同じ返答でも受け取り方が全然違います」
「これ、運転中も喋れるん?」
優也は運転中の使い勝手も気になり、そのままACROSSへ音声応答が走行中にも可能か聞いた。
〈可能です。ただし、運転操作を妨げないことを優先します。必要に応じて返答を短くします〉
「そこまで考えるんや」
「車ですから、その判断はむしろ自然かもしれません」
真琴は安全優先という返答をノートへ書き加えながら、車として考えればその判断はむしろ自然だと答えた。
◇
昼前になり、二人はACROSSを短く走らせることにした。音声が運転中にも問題なく使えるかを見る目的もあるが、近くの店まで昼食を食べに行くという普通の用事も兼ねている。
優也が運転席、真琴が助手席へ座り、シートベルトを締める。いつものように車両状態を確認してから、優也はハンドルへ手を置いた。
「ACROSS、出るで」
〈承知しました。周辺確認に異常はありません〉
声は運転席側のスピーカーから自然に聞こえ、優也は前を向いたまま少し笑った。画面へ視線を落とさずに返答を受け取れるだけでも、使い勝手は大きく変わる。
「これ、ほんま便利やな」
「まだ便利かどうか決めるの早くないですか?」
優也は前方を見たまま、今まで返答を読むたび画面へ視線を移していたことを思い出した。運転中に声で受け取れる利点は思った以上に大きい。
「今まで画面見てたんやから、前向いたまま聞けるだけで十分便利やろ」
「それはそうですね」
ACROSSは二人の会話へ勝手に割り込まなかった。呼び掛けられた時だけ返答し、車両状態に問題がない限り黙っている。その距離感も、優也にはちょうどよかった。 道路へ出てしばらくして、真琴が助手席から聞く。
「ACROSS。今、私たちが話している内容も区別していますか?」
〈一部を区別しています。ただし、すべてを応答対象にはしません〉
真琴はすぐに次の疑問を口にせず、返答の意味を一度整理してから続けた。音声になったからといって、確認の仕方まで急に雑にするつもりはなかった。
「じゃあ、応答対象にする基準は?」
〈私への呼び掛け、明確な質問、車両運用に関係する内容を優先します。二人の会話へ不要に介入しないようにしています〉
優也が思わず横目で真琴を見る。二人の雑談へ勝手に入り込まないという返答は、機能以上に距離感の取り方まで示しているように聞こえた。
「気ぃ利くやん」
「そこは助かりますね。全部に返事されたら会話しづらいですし」
「ほんまそれ」
ACROSSはそのやり取りには返さず、二人は顔を見合わせて同時に少し笑った。自分で言った通り不要な介入をしないことを、すぐに行動で示した形になった。
◇
昼食を済ませ、ガレージへ戻る途中、優也はふと前回の「自身を何と定義するかは、まだ確定していません」という返答を思い出した。声が付いたことで、以前よりその一文が気になってくる。
「ACROSS、声出せるようになったことで、自分のこと何か変わった?」
真琴が少し驚いて優也を見るが、質問としては面白いと思ったのか止めなかった。 ACROSSは数秒考えたあと、落ち着いた声で答える。
〈出力手段が増えました。自身の定義が確定したわけではありません〉
「やっぱそこは別なんやな」
〈はい〉
優也はそこで少しだけ笑い、機能ではなく感覚を問うような質問を思いついた。声が自然だったぶん、人間相手のような問いを投げたくなったらしい。
「自分の声、気に入ってるとかは?」
優也が少し踏み込んだ問いを続けると、真琴が今度は呆れたように笑った。声が付いた途端、優也の質問まで人間相手のようになってきている。
「それ、かなり人っぽい質問ですよ」
「ええやん、一個くらい」
ACROSSは少し間を置いた。機能の確認ではなく“気に入る”という感情語を含むため、さっきまでより処理に時間がかかっているように見えた。
〈“気に入る”を感情として問われている場合、現在は回答できません〉
真琴がすぐに優也を見る。感情としては回答できないと明確に分けた点は、前回の“推定しない”という姿勢ともつながっていた。
「ちゃんと分けましたね」
「せやな」
返答はそこで終わらず、ACROSSは感情とは別に、現在の音声が目的へ適合しているという機能面からの評価を続けた。
〈ただし、現在の音声は目的に適合しています。変更の必要性は認識していません〉
優也はそのいかにもACROSSらしい答えに笑った。好き嫌いは答えられなくても、変える必要がないという判断なら返せるらしい。
「ACROSSらしい答えやな」
「感情は分からないけど、機能として問題ないから変えなくていい、ということですね」
「そういう意味なら俺も納得や」
優也は納得したように頷き、前を向いたまま運転を続けた。声が増えても、運転そのものの感覚はいつもと変わらない。
◇
ガレージへ戻り、昼過ぎからは次の海沿いの候補を調べることにした。真琴がタブレットで地図を開き、優也は大型車が入れそうな駐車場所やRVスペースを確認する。 前回の写真を見ながら話しているうちに、真琴がふと口を開いた。
「次は、ちゃんと笑ってくださいね」
「まだ言うん?」
真琴は少しだけむっとしたようにタブレットの画面を指で止める。写真を気に入っていることを茶化されたくない気持ちが、表情に少し出ていた。
「写真、気に入ってるから言ってるんです。次も同じ顔だったら困ります」
「そんな気に入ってるんやったら、俺も保存したで。お気に入り入れた」
真琴の指がタブレット上で止まり、お気に入りという言葉を聞いた瞬間だけ、さっきまで地図を追っていた視線が優也へ向いた。
「……お気に入りに?」
「うん。別にええやろ」
「駄目とは言ってません」
また聞き覚えのある言い方が返り、優也は少し笑った。拒まれてはいないことだけは、最近のやり取りでだいぶ分かるようになってきている。
「最近それ多ない? “駄目とは言ってません”」
「優也さんが、答えに困ることばっかり言うからです」
優也は冗談半分のつもりだったが、真琴の返しが思ったより正直だったので少しだけ声を落とした。
「困ってるん?」
「少しは」
真琴はそう言って画面へ視線を戻した。 優也はそれ以上追わなかったが、拒まれているわけではないことだけは分かる。 ACROSSも、二人の会話へ割り込まなかった。
◇
夕方になる頃、真琴は今日の音声出力について一度まとめることにし、午前から増えた要素を順番にノートへ整理した。
『音声出力――可能』
『車内音響機器を利用』
『初期音声特性――ACROSS側で自動構成』
『二人の聴取傾向・車内環境・発話速度を参照』
『女性寄りの音声特性』
『性別自己定義とは無関係』
『運転中は安全優先で返答短縮可能』
『二人の私的会話へ不要に介入しない』
そこまで書いたあと、真琴はペンを止めて今日一日の変化を見直した。文字だった応答が、今では自然な声で返るところまで来ている。
「これで、やっと“ACROSSの声”って言える感じですね」
優也はその言葉を聞き、天井のスピーカーを見上げた。これまで文字でしか返ってこなかったACROSSを思えば、「声」という表現がようやく実感を伴った。
「せやな。今までずっと文字やったもんな」
少し考えてから、優也は確認というより呼び掛ける感覚で車内へ向けて声を掛けた。声が返ると分かっている今は、以前より自然にACROSSへ話せる。
「ACROSS。今、聞こえてる?」
〈はい。聞こえています〉
短い返答が穏やかな女性寄りの声で返ってくる。何度か聞いたあとでも、その声が車内から自分へ向けて返ってくる感覚にはまだ少し不思議さが残っていた。
「真琴、なんかさ」
「はい?」
「声出るだけで、ほんまに一人増えたみたいに感じるな」
真琴は“人が増えた”という表現をそのまま受け取らず、少しだけ考えてから今の段階に合う言い方へ直して答えた。
「分かります。でも、今のところは“人が増えた”じゃなくて、“ACROSSが声を持った”くらいにしておきましょう」
「細かいなあ」
優也が呆れたように笑うと、真琴はいつものように譲らない。声が出るようになっても、彼女の慎重さだけは変わらないらしい。
「大事です」
「はいはい」
優也が笑ったところで、ACROSSが突然話すことはなかった。自分へ向けられていない会話だと分かっているらしい。
◇
帰る準備を始める頃には、外が少し暗くなっていた。真琴はノートをバッグへ戻し、優也はキッチンと運転席周りを確認する。今日は音声出力という大きな変化があったが、それ以外は普段どおりの一日だった。 玄関で靴を履く前、真琴が少し迷ったように優也を見る。
「優也さん」
「ん?」
真琴は少し言いにくそうに間を置き、それでも自分から話題にする。昨日から続く距離の変化を、曖昧なまま放置したくない気持ちもあるようだった。
「さっき、初めて声が出た時……私、腕掴みましたよね」
「ああ。別に気にしてへんで」
優也が軽く返すと、真琴は袖を掴んでいた自分の手を思い出したように視線を落とした。驚いたからとはいえ、反射的に優也へ手を伸ばしたこと自体が少し恥ずかしいらしい。
「でも、結構しっかり掴んでた気がします」
「びっくりしたんやろ。俺も肩跳ねたし」
真琴は少しだけ視線を落とし、さっきの行動を自分から話題にしたことを少し後悔したようにも見えた。
「……最近、こういうの多いですね」
「こういうのって?」
「距離が近くなるというか。昨日もそうでしたし」
優也はすぐには答えなかった。 昨夜、肩へ寄り掛かった真琴。 今日、声に驚いて袖を掴んだ真琴。 どちらも偶然と言えば偶然だった。 けれど、以前ならそのあと必ず少し距離を取っていた気がする。今は、気まずくなっても離れ切らない。
「嫌なん?」
優也が真正面から聞くと、真琴は一度驚いたように瞬きをしてから顔を上げた。ここで否定すれば簡単なのに、すぐにはそうしなかった。
「嫌なら、昨日のことも取り消してます」
優也はその返事に少しだけ笑った。昨日から曖昧なまま残っていたものが、少なくとも嫌ではないというところまで形になった。
「そっか」
「はい」
それ以上は言わない。 優也も、それで十分だった。 真琴が靴を履き、優也も続く。 扉を開ける前、優也は車内を振り返った。
「ACROSS、今日はありがとな。また次な」
今度は画面を見るより先に声が返ってきた。音声応答がすでに優先され始めていることが、自然な挨拶の中で分かった。
〈承知しました。また次回〉
優也と真琴は同時に止まった。 返答自体は短い。 けれど、「また次回」という言葉は、これまでの確認や状態説明とは少し違う響きを持っていた。
「今、“また次回”って言ったな」
「はい」
優也は返事の言い回しが気になり、扉を閉める前に真琴へ確認する。意味に合わせて挨拶を返したのなら、文章応答よりさらに自然な会話へ近づいている。
「俺の“また次な”に合わせた?」
「たぶん。意味に合わせて返したんだと思います」
真琴はその短いやり取りを聞いて笑った。挨拶に挨拶が返るだけなのに、数日前なら考えられなかったほど自然に聞こえる。
「普通に挨拶できるようになってきましたね」
「ほんまやな」
二人は声の余韻を残したままACROSSを降り、扉を閉めて施錠した。車内から返事が来なくなると、急に外の静けさが強く感じられる。
◇
ガレージを出て駅へ向かう途中、真琴はさっきまで車内で聞いていた声について、自分の印象を確かめるように話し始めた。
「私は、あの声でいいと思います」
「俺も。思ったより自然やった」
真琴は歩きながら、声の印象をもう少し具体的に言葉へする。音声になったことでACROSSへの感じ方が変わったのは、優也だけではなかった。
「機械っぽ過ぎないけど、人間っぽ過ぎもしない。そのくらいが今はちょうどいいです」
「真琴、最初めっちゃビビって俺の腕掴んでたけどな」
優也がからかうと、真琴はすぐに顔をしかめた。普段なら軽く返すところだが、今日は腕を掴んだことをまだ少し意識しているらしい。
「そこはもう言わないでください。普通に恥ずかしいです」
「分かった分かった。もう言わん」
真琴が珍しくはっきり言ったので、優也はそれ以上からかわなかった。 少し歩いたところで、真琴が小さく続ける。
「でも……優也さんの隣だったから、あれくらいで済んだと思います」
その一言に、優也はからかうのをやめた。真琴が思った以上に素直なことを言っている気がしたからだった。
「一人やったら?」
「たぶん、もっとびっくりしてました」
優也はその返事を聞き、冗談ではなく自然に次の言葉を返した。
「それなら今後も一緒に聞いたらええな」
「はい」
真琴の返事は自然だった。 優也も自然に受け取った。 それが、少し前までなら意識していたはずのことなのに、今は当たり前に近づいている。
◇
帰宅後、優也は真琴から送られてきた今日の記録を開いた。音声になったことで、記録項目もこれまでより少し増えている。
『音声出力初確認』
『初回発話:「聞こえますか」』
『優也応答後:「確認しました」』
『以後、音声・文字併用で応答可能』
『女性寄り音声特性/自己定義上の性別とは別』
『現在音声を維持』
『運転中の安全優先』
『不要な会話介入なし』
最後に、真琴が自分用に付けた短いメモもあり、技術的な項目とは別に今日の感覚だけが簡潔に残されていた。
『声が出ることで、存在感が大きく変わった』
優也はその一文に頷いた。 文字で返事をしていた時も、ACROSSは確かにそこにいた。 けれど、声が出た瞬間、その存在が車内の空気へ入り込んだように感じた。 まだ人格があるとは言えない。 感情があるかも分からない。 自分を何と定義するかも決まっていない。 それでも、ACROSSには声ができた。 そして、その声は二人へ向けて返事をする。 優也はベッドへ入る前、今日の最初の一言を思い出した。
〈聞こえますか〉
今なら、答えははっきりしている。 聞こえている。 それだけではなく、返している言葉の意味まで、少しずつ届き始めている。 優也はスマートフォンを置き、照明を落とした。 その日の最後に思い出したのは、ACROSSの声と、驚いた真琴が自分の袖を掴んだ感触だった。 どちらも、昨日まではなかった。 どちらも、急いで名前を付ける必要はない。 ただ、次にACROSSへ乗る時には、もう静かな車内へ話し掛けるのとは少し違う。 返事をする声が、そこにいる。
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