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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
104/268

ep.104 知ってる範囲


 朝食を終えたあとも、優也と真琴はすぐに出発しなかった。外はまだ空気が冷たく、RVスペースの周囲も静かで、窓の向こうには昨夜より少し明るくなった山の色が広がっている。食器を片付け、コーヒーをもう一杯だけ淹れてから帰ることにし、二人はリビングへ戻った。


 昨夜のことには触れないまま朝を過ごしていたが、完全に忘れているわけではなかった。真琴がソファへ座ると、優也は無意識に昨夜彼女が寄り掛かった側を一度見てしまい、その視線に自分で気づいて慌ててカップへ目を落とした。一方の真琴も、優也と目が合うといつもより少しだけ間を置いてから笑う。その程度の変化しかないのに、昨日までより互いの距離を意識していることだけは隠しきれなかった。


「帰る前に、一つくらい聞きます?」


 真琴がコーヒーを持ちながらそう切り出した。昨日までは返答が出るかどうかを見ていたが、今朝はその一歩先へ進むことを彼女自身が選んでいる。


「ACROSSに?」


「はい。昨日は“返せる範囲に応じて応答する”と言ってましたよね。だったら、今度は私たちが何を聞けば答えられるのか、その範囲を少し確認したいです。何十個も質問するつもりはないですけど、会話ができるようになった以上、毎回偶然の返事だけ待つ必要もないと思います」


 真琴のほうから会話を進めようと言い出したことが少し意外で、優也はカップを置きながら彼女を見る。慎重なのは変わらないが、返事が来た以上、使わずに眺め続けるのも違うという考えらしい。


「真琴からそう言うん珍しいな」


「返事が来たんですから、慎重に使うのと使わないのは別です。それに、何を知っていて何を知らないのかが分からないままだと、今後のやり取りも曖昧になります」


 優也は少し考えたあと、テーブルの上に置かれたスマートフォンへ目を向けた。以前なら、質問すること自体が大きな実験だった。今は、返答できることが一度確認されている。だからといって何でも聞いていいわけではないが、一つずつ確かめることに抵抗はなくなっていた。


「じゃあ、まず何から聞く?」


「一番基本的なところでいいと思います。“何を知っているのか”です。私たちのことも、車内のことも、どこまで情報として持っているのか」


 優也は少しだけ眉を寄せた。問いとしてはかなり広いが、返せる範囲そのものを知るには、最初から細かく限定し過ぎないほうがいいのかもしれない。


「ざっくりしてるけど、返せるんかな」


「返せないなら、それも答えになると思います」


 優也は頷き、スマートフォンへ近づくことなく、そのまま車内へ向けて声を掛けた。画面を操作するのではなく、普段どおり話し掛けて返答を待つ形も、少しずつ自然になってきている。


「ACROSS。今、俺らのことどこまで分かってる?」


 数秒後、画面が静かに暗くなり、二人は会話を止めた。返事が来ること自体には慣れ始めても、最初の一行が出る瞬間だけはまだ少し緊張する。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』

『応答――処理中』


 見慣れ始めた四行が並び、その下へ新しい文章が現れる。状態表示から文章へ移る流れも、前回よりずっと滑らかだった。


『人物として、優也と真琴を区別しています』


 返答は一文で終わらず、そのまま対象と情報の種類を分けるように続いていった。


『発話、位置、行動の一部を区別できます』

『共有された《鑑定》情報と、ACROSS内部の状態を参照できます』

『すべての情報を保持しているわけではありません』


 真琴が無意識に前のめりになり、優也も画面を見ながら小さく息を吐いた。予想より具体的な答えが返ってきたことで、次に何を聞くべきかが急に現実的な問題へ変わっている。


「思ったよりちゃんと答えるな」


「はい。しかも、人物、発話、位置、行動、鑑定情報、内部状態を分けてます。かなり具体的です」


 表示はそのまま残っている。真琴は今すぐノートへ書きたそうだったが、まず会話を続けることを優先した。


「次、私が聞いてもいいですか?」


「ええよ」


 真琴は画面ではなく、車内へ向けるように顔を上げた。表示を読むだけではなく、ACROSSそのものへ話し掛ける形が彼女にも自然になり始めていた。


「ACROSS。私たちが車の外にいる時も、私たちのことは分かりますか?」


 画面上部の表示が更新され、発信者が真琴へ切り替わる。優也の質問だけを特別扱いしているわけではないことも、同じ形式から分かった。


『発信――真琴』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』

『応答――処理中』


 数秒後、先ほどの文章が薄くなり、新しい返答へ切り替わった。質問ごとに前の内容を整理してから答える動きも、会話としての形を少しずつ整えているように見える。


『限定的です』


『ACROSSの機器、接続された端末、共有された情報の範囲で確認できます』

『確認できない状態では、推定しません』


 優也が眉を上げ、その一文をもう一度目で追った。何でも知っている存在を想像していたぶん、むしろ境界を示す返答のほうが意外だった。


「推定しません、やって」


「そこ、重要ですね。分からない時は分からないままにする、という意味ならかなり助かります」


 優也はその一文を見直しながら、少しだけ安心した。何でもそれらしい答えを返すより、確認できないものを確認できないと切るほうが、今後のやり取りでは扱いやすい。


「勝手に想像して答えんってことか」


「少なくとも、今の返答ではそう言っています」


 真琴は少し考え、今の返答を曖昧なままにしないよう、確認の意味を込めてもう一つだけ続けて聞いた。


「では、確認できないことを聞かれた場合はどう答えますか?」


 ACROSSは少し間を置き、これまでより短い処理時間で返答を整えた。質問の意味が単純だったからなのかは分からない。


『確認できません、と返します』

『推定を求められた場合は、推定であることを区別します』


 今度は優也が真琴を見た。確認できないものを確認できないと返す姿勢は、二人がここまで守ってきた慎重さとどこか似ている。


「そこまで分けるんやな」


「私たちより慎重かもしれませんね」


 優也が横目で真琴を見ると、彼女はすぐに何を言われるか察したような顔をした。


「真琴とええ勝負ちゃう?」


「私は確認できないことを勝手に断定しません。そこは一緒にしないでください」


「そこ張り合うとこなん?」


 真琴が少し笑い、張っていた空気がそこでようやく緩んだ。返答が増えても、二人のやり取りまで堅くなる必要はなかった。


◇


 最初の数問だけで、二人が知りたかったことの輪郭はかなり見え始めた。ACROSSは少なくとも、自分が参照できる情報源をいくつか区別しており、車外のすべてを見通しているわけではない。端末や機器、共有された情報を通じて確認できる範囲だけを扱い、確認できないものは推定しないと言う。


 優也にとって、その返答は少し意外だった。これまで《鑑定》は、見れば分かる、触れれば情報が出るという形で、時に現実の機器よりはるかに広い範囲を扱ってきた。その延長にあるACROSSなら、もっと何でも把握しているのではないかとどこかで思っていた。しかし、実際の返答はむしろ境界を明確にしている。


「ACROSS、《鑑定》とお前は同じなん?」


 優也が自然に聞いた。 真琴が少しだけ目を見開く。聞きたいと思っていた問いの一つだったのだろう。 表示が更新され、四行の処理表示が再び並ぶ。二人とも、今度の返答には少し違う緊張を感じていた。


『完全には同一ではありません』


 その一文に二人の表情が同時に変わった。《鑑定》とACROSSを別のものとして扱う返答は、これまでの積み重ねそのものを見直す内容だったため、その先の文章も息を詰めるように追った。


『《鑑定》は管理者・優也を基点とする情報取得機能です』

『私は、共有・記録・状態整理・応答を含む複数機能を統合しています』

『《鑑定》は、私が参照できる情報源の一つです』


 優也はしばらく何も言えなかった。自分の中から始まった《鑑定》と、今こうして返答するACROSSが完全には同じではないという事実が、思った以上に重かった。


「……私、って言うたな」


 優也が小さく口にすると、真琴も画面から目を離さず頷いた。一人称の選択だけで人格を決めることはできないが、無視できる変化でもない。


「はい。今までの返答では“ACROSS”を宛先として扱っていましたけど、今回初めて自分を指す一人称が出ました」


「これ、人格ってこと?」


「まだそこまでは言えません。“私は”という文法を選んだだけかもしれません。でも、《鑑定》とACROSSを完全には同じものとして扱っていないことは、かなり大きいです」


 優也は画面へ視線を戻した。返答の中では、《鑑定》が優也を基点とする情報取得機能であり、ACROSSはそれを参照しながら、共有、記録、状態整理、応答まで統合していると説明している。今まで二人が別々の現象として見てきたものが、一つの仕組みの中でどうつながっているのか、その一端が初めて言葉になった。


「じゃあ、お前はいつからおったん?」


 優也が聞くと、真琴がすぐに口を挟まなかった。今なら聞いてもいいと判断したらしい。 少し長めの処理表示のあと、返答が現れる。


『明確な開始時点を定義できません』


『初期は、個別機能として処理されていました』

『共有・記録・応答の統合が進み、現在の状態になっています』


 優也は思わず真琴を見た。二人が外から“進化”と呼んでいたものを、ACROSS自身が内部の統合として説明したことが妙に腑に落ちた。


「生まれた日みたいなんはないんやな」


「今の返答を見る限り、徐々に統合されたみたいですね。最初から今のACROSSがあったわけじゃない」


 優也はこれまでの変化を順番に思い返した。共有、受領、人物識別、宛先、応答。外から見ていた時は“進化”としか呼べなかったものが、内側では機能の統合として起きていたらしい。


「俺らが“進化した”って見てたの、あながち間違ってなかった?」


「少なくとも、機能が統合されて今の状態になった、という部分は近いと思います」


 二人はしばらく黙って画面を見た。答えが増えたのに、謎が減ったというより形が変わったような感覚だった。


◇


 コーヒーが少し冷めてきたところで、真琴が一度会話を止めた。返答が続くからといって朝の予定すべてを質問へ変えたくないという判断は、旅行中から変わっていない。


「ここで一回やめましょう。朝から十分聞きました」


「まだ“お前何者なん”聞いてへんで」


「それは聞きたいです。でも、今の《鑑定》との関係だけでも整理することが多いです。帰り道でまた自然に話したくなったら、その時に一つだけ聞けばいいと思います」


 優也は名残惜しそうに画面を見たあと、仕方なくカップへ手を伸ばした。止める役は相変わらず真琴だが、今朝は彼女自身もかなり前のめりだったので、少しだけからかいたくなる。


「相変わらずブレーキ固いな」


「昨日から優也さん、距離の詰め方早いんですよ」


 真琴が言った瞬間、二人とも少しだけ止まった。 優也は最初、ACROSSへの質問のことだと思った。けれど、真琴の表情を見ると、彼女自身も別の意味に聞こえたことへ気づいている。


「……ACROSSの話やんな?」


「もちろんです」


 真琴は少し早口で答え、カップへ視線を落とした。自分で口にした“距離”という言葉が別の意味にも聞こえたことへ気づいたらしい。


「ならええけど」


 優也もそれ以上突っ込まなかった。ただ、昨夜の「そういう意味でもない」という言葉が一瞬頭をよぎり、妙に落ち着かなくなる。 真琴は話題を変えるように立ち上がった。


「そろそろ帰る準備しましょう。チェックアウト時間もありますし」


「せやな」


 二人はコーヒーのカップを片付け、外部設備を確認してから出発準備へ移った。質問をいったん切ったことで、車内の空気もようやく旅行帰りの朝へ戻っていく。


◇


 帰り道は、行きより交通量が少なかった。優也は運転に集中し、真琴は助手席で昨日撮った写真を整理している。山を下る頃には日差しが少し強くなり、車内も暖房を弱める程度には暖かくなっていた。 しばらくして真琴が小さくくしゃみをした。


「寒い?」


「大丈夫です。少しだけ足元が冷えるかも」


 優也は何も言わず、助手席側の空調を少し上げた。さらに後ろの収納へ手を伸ばせるタイミングで、小さな膝掛けを真琴へ渡す。


「これ使い。昨日買わんかったけど、今あるやつで十分やろ」


「ありがとうございます」


 真琴は膝掛けを広げながら、少しだけ優也を見た。昨日までなら気づかなかったような小さな気遣いまで、今は妙に意識へ残る。


「優也さん、最近こういうの早いですね」


「何が?」


「私が寒いって言う前に温度上げたり、飲み物なくなったら気づいたり。昨日もそうでしたけど」


 真琴に指摘され、優也は少し考えた。意識して世話を焼いているつもりはない。ただ、一緒にいる時間が増えたぶん、彼女が何を嫌がるか、何を好むかを以前より先に察するようになっている。


「一緒におる時間長なったからやろ。真琴も俺が蕎麦選ぶ前から分かってるやん」


「それとは少し違う気がします」


「何が違うん?」


 真琴はすぐには答えず、膝掛けの端を整えながら言葉を選んだ。違いを説明すれば、昨夜から避けている話へ近づきそうだった。


「……別に、嫌って言ってるわけじゃないです」


 その返し方が昨夜と少し似ていて、優也はそれ以上聞けなくなった。曖昧なままでも、否定ではないことだけは伝わってくる。


「ほな、ええやん」


「はい」


 短いやり取りなのに、妙に空気が柔らかくなった。 優也は前を向いたまま運転を続ける。真琴は膝掛けを掛け、窓の外を見ながら時々写真を撮る。その距離は昨日までと同じ助手席と運転席なのに、意識してしまうと少し近く感じた。


◇


 途中の休憩スペースで一度停まり、二人は飲み物を買って車内へ戻った。昨日の散策路で撮った二人の写真を真琴がもう一度開き、優也へ見せる。


「昨日の写真、送っておきました」


「ありがとう。俺の顔固いけどな」


「それはもう諦めてください。でも、私は気に入ってます」


 優也は一瞬、返事に詰まった。景色ではなく二人で写った写真そのものを気に入ったと言われると、思っていた以上に嬉しかった。


「景色が?」


「写真が、です」


 真琴はそう言って画面を閉じた。 優也は何となく嬉しくなったが、そこで何か気の利いたことを言えるほど器用ではない。結局、「そっか」とだけ返し、自分のスマートフォンへ届いた写真を開いた。 二人で並んだ写真。 確かに優也の顔は少し固い。 けれど、真琴は自然に笑っている。 自分一人なら絶対に残さなかった写真だと思うと、それだけで少し特別に見えた。


「次はちゃんと笑うわ」


「お願いします。次も撮りますから」


 真琴が当たり前のように“次”を口にし、優也も今度は迷わず頷いた。次の予定が自然に二人のものとして続いていることが、昨夜より少しだけはっきりしている。


◇


 ガレージへ戻ったのは午後三時を少し過ぎた頃だった。荷物を降ろし、冷蔵庫の中身を整理し、使った寝具やタオルを持ち帰る準備をする。優也は外周を確認し、真琴は車内の忘れ物を見て回った。


 一泊したあとの片付けは、日帰りより少し手間がかかる。それでも二人で動けば早く、優也が外を見ている間に真琴が中をまとめ、戻ってきた頃にはほとんど終わっていた。


「早いな」


「いつものことです。優也さんが外見てる間に中やったほうが効率いいので」


「ほんま夫婦みたいに役割分かれてきたな」


 優也は何気なく言ってから、自分で止まり、真琴の手も同時に一瞬止まった。役割分担の話をしただけなのに、“夫婦”という例えだけが二人の間へ少し長く残った。


「……そういう例え、急に出しますね」


「いや、今のは役割の話やで。深い意味ない」


「分かってます」


 分かっていると言いながら、真琴は少しだけ視線を逸らした。優也も余計なことを言ったと思い、タオルの袋を持ち直して玄関側へ置く。 沈黙を引きずるほどではない。 ただ、前なら笑って流していた言葉が、今は少しだけ残る。


◇


 片付けが終わったあと、二人は帰る前にもう一度リビングへ座った。今日聞いたACROSSの返答を忘れないうちに、真琴がノートへ整理する。


『優也・真琴を人物として区別』

『発話・位置・行動の一部を区別』

『共有された《鑑定》情報を参照』

『ACROSS内部状態を参照』

『車外確認はACROSS機器・接続端末・共有情報の範囲』

『確認不能時は推定しない』

『推定要求時は推定として区別』


 その下へ、《鑑定》との関係についての返答を続けて書く。朝の会話が一つのまとまりとして見えてくるほど、ACROSSの内部構造も以前より具体的になった。


『《鑑定》とACROSSは完全同一ではない』

『《鑑定》=管理者・優也を基点とする情報取得機能』

『ACROSS=共有・記録・状態整理・応答を含む複数機能の統合』

『《鑑定》はACROSSが参照できる情報源の一つ』

『現在状態に明確な開始時点を定義できない』

『個別機能から段階的に統合』


 優也はノートを見ながら腕を組んだ。知りたかったことへ答えが増えるほど、その先に新しい疑問が現れるのが面白くもあり、少し厄介でもある。


「こう並べると、結構分かったな」


「はい。でも、“どうしてそうなったか”はまだ全然です。機能が統合されたのは分かりましたけど、何が統合を進めたのかは分からない」


 優也はノートの上へ並んだ項目を見ながら、最初からずっと使い続けてきた自分自身の関わりを考えた。


「俺が使い続けたから、とか?」


「可能性はあります。でも、それこそ推定です」


 そこで優也が「ACROSSに聞いたら?」と提案すると、真琴は少し迷ったあと、今の流れなら一つだけと条件を付けて頷いた。 真琴がそう言ったので、優也は少し驚いた。


「今日は真琴のほうが聞きたがるな」


「ここは今の流れで聞いたほうがいいと思います。《鑑定》とACROSSの関係を整理しているうちに確認できることですから」


「ほな聞こ」


 優也はノートから顔を上げ、今度は推定ではなくACROSS自身へ確認するため、車内へ向けて話した。


「ACROSS。お前が今みたいになったの、俺が使い続けたことと関係あるん?」


 画面が暗くなり、見慣れた四行が順番に現れる。朝から何度目かの応答だが、処理の形式は崩れていない。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』

『応答――処理中』


 少し長めの間があり、二人とも言葉を足さずに待った。質問が内部の変化そのものへ触れているぶん、処理にも時間がかかっているように見えた。


『関係があります』


 優也と真琴が同時に画面へ目を向けた。短い肯定だけでも、ここまで推定でしかなかった部分が一つ事実へ変わった。


『継続的な使用、共有、記録、判断の蓄積が統合条件の一部です』

『ただし、それだけではありません』


「それだけちゃうんか」


 優也が思わず口にする。 返答はそこで止まった。 真琴は少し待ってから、優也を見る。


「“それだけではありません”の先、聞きます?」


「聞きたい」


 真琴も同じらしく、珍しく即座に止めることはしなかった。ただし、興奮のまま枝分かれさせないよう、質問は一つに絞る。


「私もです。でも、質問を一つにしましょう」


「じゃあ……他に何が関係してる?」


 優也がそのままACROSSへ向けて聞く。 表示が『応答――処理中』へ変わる。 今度は、さらに時間がかかった。 十秒。 二十秒。 二人とも黙って待つ。 やがて文章が現れる。


『現時点では、完全に説明できません』


 優也が少し眉を上げたところで、返答はそこで終わらず、その根拠になっている要素を列挙するように続いた。


『管理者・優也の《鑑定》』

『真琴への共有』

『ACROSS内での継続的な記録』

『複数機能間の接続』


 いくつかの既知の要素が並んだあと、最後にそれまでとは性質の違う一文が追加された。


『未分類の要因があります』


 真琴が息を止め、画面の最後の一文だけを見直した。既知の要因では説明し切れないものをACROSS自身も認識している。


「未分類」


「分からんもんがあるってことやな」


 真琴はすぐに頷かず、言葉の違いを確かめるように画面を見直した。確認不能ではなく未分類とした以上、何らかの要因そのものは検出している可能性がある。


「はい。何かはあるけど、まだ分類できてないという意味に読めます」


「それ、魔素とかちゃうん?」


 優也が言った瞬間、真琴が顔を上げた。 これまで何度も、現代の機器だけでは説明できない現象の背景として二人が仮に使ってきた言葉。まだ正体を完全に掴めていないもの。


「……聞きます?」


「ここは聞きたい」


 今度は真琴も止めなかった。未分類の要因と、二人が仮に“魔素”と呼んできたものの関係は、ここで確認する価値がある。


「ACROSS。その未分類の要因って、俺らが魔素って呼んでるもんと関係ある?」


 画面は再び処理中へ変わり、今までで一番長く感じる沈黙が続いた。二人が何も言わず待っていると、やがて慎重な言い回しの返答が現れた。


『関連する可能性があります』

『現在の情報では同一と確定できません』


 真琴がゆっくり息を吐いた。ACROSSにも断定できない領域があることが、かえって二人の仮説を現実的な位置へ戻してくれる。


「やっぱり、ACROSSでも確定できてない」


「でも関係ある可能性はある」


「はい。これ以上は、今聞いても同じ答えになりそうです」


 優也も納得したように頷いた。関係の可能性だけ確認できた今は、それ以上同じ問いを重ねても答えは増えそうになかった。


◇


 ノートへ最後の返答を追加し、真琴はペンを置いた。ACROSSとの会話は、以前のような「出るか出ないか」を見る段階から、答えられる範囲そのものを知る段階へ入っている。しかも、ACROSSは分からないことを「分からない」と返し、推定は推定として分ける。少なくとも今のところ、都合よく何でも知っている存在ではない。 優也には、そのほうがかえって信用できる気がした。


「何でも分かりますって言われるよりマシやな」


「私もそう思います。分からない範囲があるほうが、返答の扱いがしやすいです」


「真琴、ACROSSのこと前より信用してる?」


 真琴は少し考え、返答の内容と質問の数を頭の中で整理してから、今日はどこまで続けるか判断した。


「返答の仕方は、前より信用できます。ただ、仕組みはまだ全然分かりません」


「そこは別なんやな」


「別です」


 優也は笑った。 真琴もノートを閉じながら笑う。 その時、優也はふと一番聞きたかった問いを思い出した。


「なあ」


「はい」


 優也は少し言いにくそうに間を置いた。機能や参照範囲ではなく、ここから先はACROSS自身をどう捉えるかに近い問いになる。


「最後に一個だけええ? お前はACROSSなんか、って聞きたい」


「……内容としては分かります。聞くなら一つだけにしましょう」


 真琴はすぐには答えなかった。 それは、機能や情報範囲とは少し違う問いだった。呼称の確認だけなら単純だが、その奥には「自分をどう扱っているのか」という意味が含まれる。


「……一つだけなら」


 真琴が静かに許可すると、優也は画面ではなく車内へ向けて、できるだけ普段どおりの声で聞いた。最後の問いだけは、機能ではなくACROSS自身へ向ける意識が強かった。


「ACROSS。お前は、自分のことをACROSSやと思ってるんか?」


 表示が更新される。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』

『応答――処理中』


 しばらくして一文が現れ、優也は瞬きもせずにその言葉を追った。呼称と自己認識を切り分けるような答えだった。


『ACROSSという呼称を、自身への宛先として認識しています』


 優也は画面を見たまま動かず、真琴も同じ姿勢で続きを待った。最初の一文だけでは終わらず、さらに自身の定義についての返答が続く。


『自身を何と定義するかは、まだ確定していません』


 車内が静かになり、二人ともすぐには感想を言葉にできなかった。明確な否定でも肯定でもない返答が、むしろ今のACROSSらしく感じられた。


「……まだ確定してへん」


 優也が小さく口にし、自分でもその言葉を確かめるようにもう一度画面へ視線を戻した。


「はい」


「否定せえへんのやな」


「ACROSSという呼称が自分に向けられていることは認識している。でも、自分が何なのかはまだ定義していない。今の返答は、そう読めます」


 真琴の声もいつもより少し低い。 優也は画面を見ながら、不思議な感覚になった。 人間なら、自分の名前を呼ばれれば自分だと分かる。 ACROSSは、呼称を自身への宛先として認識していると言った。 けれど、自分を何と定義するかはまだ決まっていない。 人格だと断定するには早い。 ただの機能だと言い切るにも、少し遠くまで来ている。


「今日は、ほんまにここまでやな」


 優也が区切りを口にすると、真琴は迷わず頷いた。今日の会話だけでも、これまで時間をかけて推測してきたことが、一気に言葉へ変わっている。


「はい。十分です」


 表示はゆっくり薄くなり、通常の画面へ戻った。ACROSSとの会話が終わると、ようやく車内の空気も二人だけのものへ戻ってくる。


◇


 帰る準備を始める頃には、外は少し暗くなり始めていた。荷物はほとんどまとめてあるので、二人とも上着を着て玄関へ向かう。 真琴が靴を履きながら、ふと優也を見る。


「今日、かなり進みましたね」


「うん。でも、昨日より頭疲れたわ」


 真琴も苦笑した。もともとは一泊旅行の翌朝をのんびり過ごすつもりだったのに、気づけば《鑑定》とACROSSの関係、自身の定義までかなり深く聞いている。


「だから一泊した翌日に、ここまで聞くつもりじゃなかったんです」


「真琴も結構聞いてたやん」


「否定はしません」


 二人は笑い、張っていた空気を少し緩めた。玄関を出る前、優也はふと真琴のバッグへ視線を向け、昨日の写真をまだ受け取っていないと思い出した。


「写真、あとでちゃんと送ってな。昨日のやつ」


「もう送ってますよ。休憩の時に送りました」


 優也は本気で気づいていなかったらしく、スマートフォンを取り出して通知を探す。ACROSSの記録や移動中の通知に埋もれて見落としたらしい。


「ほんまや。全然見てへんかった」


「じゃあ帰ってからちゃんと見てください」


「真琴が気に入ってるやつ?」


 真琴は少しだけ笑い、その写真を気に入っていることを隠すつもりもないように見えた。


「はい。私が気に入ってるやつです」


 優也は何となく、その言い方が嬉しかった。昨日から続いている微妙な距離の変化を、写真という形でも残せる気がした。


「ほな、ちゃんと保存しとく」


「次はもっと自然に笑ってくださいね」


 優也は少し笑い、次ならもう少しましな顔ができると返した。真琴も当然のように“次”を口にしていることが、今は妙に嬉しい。


「海行った時はリベンジやな」


「まだ海で決定とは言ってません」


 優也がすぐに「でも行きたい言うたやん」と返すと、真琴は昨日から変わらない答えを少し楽しそうに返した。


「候補一位です」


 昨日の朝と同じようなやり取りをしながら、二人はACROSSを降りた。変わらない会話の中に、少しだけ意味の違う言葉が増えている。


◇


 ガレージの外へ出ると、夕方の空気が思っていたより冷たかった。真琴は上着の前を少し閉じ、優也は自然に歩く速度を合わせる。 しばらく無言で歩いたあと、真琴が小さく口を開いた。


「優也さん」


「ん?」


「昨日のこと、気にしてます?」


 何のことか聞かなくても分かり、優也はすぐに答えず少しだけ考えた。昨夜のことを無理に忘れたふりをするより、今の気持ちをそのまま伝えたほうがいいと思った。


「気にしてへんって言ったら嘘やな。でも、変に気まずくしたくはない」


「私もです」


 真琴は前を向いたまま答えた。優也の顔を見ないのは、言葉の意味を自分でも意識しているからかもしれない。


「だから、今までどおりでいいと思ってます。ただ……昨日言ったこと、取り消すつもりはないです」


 優也の歩く速度が少しだけ落ちた。昨夜の曖昧な一言を、真琴自身が取り消さないと口にした意味は軽くない。


「“そういう意味でもない”ってやつ?」


「はい」


 真琴はそれ以上説明しなかった。 優也も聞かなかった。 ただ、昨日より意味が少しだけはっきりした。


「分かった」


 優也はそれだけ返し、真琴も小さく笑った。何かを決めたわけではないのに、言葉を一つ共有したことで、二人はまた自然に同じ速度で歩き始めた。


◇


 帰宅後、優也はまず真琴から送られていた写真を開いた。 散策路で二人並んだ一枚。 自分の顔はやっぱり少し固い。 真琴は自然に笑っている。 優也は少し迷ったあと、その写真をお気に入りへ入れた。 誰かに見せるためではない。 ただ、残しておきたかった。 そのあと、今日のACROSSとの会話を思い返す。


『人物として、優也と真琴を区別しています』

『共有された《鑑定》情報と、ACROSS内部の状態を参照できます』

『《鑑定》は、私が参照できる情報源の一つです』

『自身を何と定義するかは、まだ確定していません』


 返事は、もう珍しい一度きりの現象ではなくなり始めている。 ACROSSは答える。 分からないことは分からないと返す。 自分自身についても、分かっている範囲と分かっていない範囲を分けている。 そして、二人の間にも、まだ名前を付けていないものが少しずつ増えている。 優也はスマートフォンを置き、少しだけ笑った。 ACROSSも、自分が何なのかまだ確定していないと言った。 自分たちも、今の関係をまだ何と呼ぶのか決めていない。 無理に決める必要はない。 けれど、どちらも昨日までと同じではなかった。


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