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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
103/268

ep.103 近い距離


ACROSSから初めて文章として返事が来てから一週間、優也と真琴は結局、質問リストを作らなかった。聞きたいことならいくらでもあったが、思いつくまま並べれば、それだけで次に会った時の目的が「ACROSSへ質問すること」になってしまう。せっかく返事ができるところまで来たのに、また画面の前へ二人で張り付くような過ごし方へ戻るのは違う気がしていた。


そこで、以前から候補にしていた山側の温泉へ一泊することにした。紅葉の見頃には少し早いが、人が多くなり過ぎる前にゆっくり走れるうえ、温泉施設の近くには大型車でも停められるRVスペースがある。実在の有名観光地ほど混雑せず、周囲には小さな直売所と散策路がある程度なので、今の二人にはちょうどよかった。


土曜の朝、真琴がガレージへ着いた時には、優也はすでに荷物の確認を終えていた。冷蔵庫には夕食用の食材と飲み物、朝食用のパンや卵も入っており、着替えやタオルもそれぞれの収納へ収まっている。今日だけは《鑑定》の記録用ノートも真琴のバッグへ入ったままで、最初からテーブルへ出すつもりはなかった。


「本当に今日は、旅が主役なんですね」


真琴が少し楽しそうに言うと、優也は運転席から振り返った。


「当たり前やろ。最近ずっとACROSSの変化追ってたし、せっかく返事まで来たんやから、逆にちょっと普通に遊ばんと俺らが疲れるわ」


言い掛けたところで優也は妙な言い回しになったことに気づき、咳払いでごまかした。真琴は首を傾げたものの深く追及せず、助手席へ座ってシートベルトを締める。


「私は賛成です。返事が来ると分かったからこそ、急がなくていいですし。今日は温泉入って、ご飯食べて、景色見て、それで十分です」


「せやな。ほな行こか」


優也はいつものように車両状態を確認し、ハンドルへ手を置いた。発進しようとして、少しだけ迷ったあと、わざとらしくならない声で車内へ言う。


「ACROSS、今日は旅行や。道中よろしくな」


真琴が横目で優也を見る。試したというより、今までなら普通に「頼むで」と言っていたところへ名前を足した程度だった。 運転席の中央モニターが少し暗くなる。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』


そこまでは前回と同じだった。数秒後、その下へ細い線が現れ、二人は声を出さずに待つ。


『承知しました。移動中の状態を確認します』


優也は思わず笑った。


「普通に返してきたな」


真琴も画面を見ながら、驚きより先に小さく笑みを浮かべた。


「前回より自然ですね。質問じゃなくても、内容に合わせて返せるみたいです。ただ、今日はこれ以上ここで続けません。旅行、出発しましょう」


「はい先生。ほな今度こそ出発や」


表示が消えるのを待ってから、優也はACROSSをガレージからゆっくり出した。


◇


市街地を抜けるまでは少し車が多かったが、郊外へ出ると流れは落ち着いた。山が近づくにつれて景色が変わり、道路脇の木々には黄色や赤が混じり始める。真琴は助手席で何度か写真を撮り、優也は運転に集中しながらも、信号待ちで視界へ入る景色を楽しんだ。


途中の道の駅で昼食を取ることにし、大型車用の区画へACROSSを停める。二人は外へ出て、地元野菜を使った定食と温かい蕎麦をそれぞれ選んだ。優也はまた蕎麦にしたことで真琴に笑われたが、「山来たら蕎麦やろ」と押し切る。


「その理屈なら、海へ行ったら毎回海鮮ですよね」


「ええやん。それが旅や。好きなもん食うのが一番やし、真琴みたいにメニューずっと見て迷うより早い」


優也がそう返すと、真琴は少し不満そうにメニューを閉じたものの、自分は選ぶ時間も楽しんでいるのだと言い返した。その視線が何度か優也の蕎麦へ向いていることに気づき、優也は笑いながら器を少し寄せる。


「毎回、俺のほう先に来たらちょっと欲しそうに見るやろ」


「……一口くらいは気になります」


図星だったらしく、真琴が少し目を逸らしたので、優也は笑いながら蕎麦を少し取り分けた。真琴も自分の定食から小さなおかずを一つ優也へ渡し、結局いつものように互いの料理を少しずつ交換する。


食後は売店を軽く見て、夕食に使えそうなきのこと地元の豆腐を買った。ACROSSにはすでに食材があるので、増やし過ぎないよう真琴が横で止めるのもいつもの役割になっている。


「これ美味そうやで。地元のやつやし、ちょっと買って帰らへん?」


「昨日買った野菜がまだ入ってます。冷蔵庫に入るかどうかじゃなくて、食べ切れるかで考えてください」


即座に止められた優也は、手に取った商品を見ながら苦笑した。最近は買い物へ行くたび、増やしたがる優也と止める真琴の役割が自然に決まりつつある。


「真琴、最近完全に家計管理側やな」


「誰かが止めないと、本当に増えるからです」


真琴は呆れたように言いながらも楽しそうで、優也もそれ以上は逆らわず、結局きのこと豆腐だけで会計を済ませた。


◇


目的地へ着いたのは午後二時を少し過ぎた頃だった。RVスペースは山あいの温泉施設から歩いて数分の場所にあり、電源設備と給水設備が整っている。ACROSSなら外部電源がなくても困らないが、今日はせっかくなので通常のキャンピングカーらしい使い方を優先し、必要な設備だけ確認して車体を停めた。


周囲には数台のキャンピングカーがいるものの、距離は十分に取られている。山側を向いた窓からは色づき始めた木々が見え、夕方になればさらに雰囲気がよくなりそうだった。


「いいですね。思ってたより静かです」


真琴が窓の外を見ながら言うと、優也も横へ並んだ。


「これなら夜もゆっくりできそうやな。温泉行って、帰って飯作って、あとは何もせん」


「その“何もしない”が一番難しそうですけど。優也さん、出掛けると“せっかく来たんだから”って散歩も買い物も全部入れたがるじゃないですか」


図星を突かれた優也は反論しかけたが、今日くらいは詰め込まないと決めていたことを思い出して口を閉じる。真琴はそんな様子を見て、戻ってからソファでだらだらする時間まで予定に入れてほしいと続けた。


「何その予定。何もしないことまで予定に入れるん?」


「大事な予定です。今日は温泉が目的なんですから、それくらいでちょうどいいです」


真琴が真顔で言うので、優也は笑ってしまった。 温泉へ向かうまで少し時間があったため、二人は近くの散策路を歩いた。道は川沿いに続いており、風が吹くと木の葉が揺れ、時々水の音が強く聞こえる。優也は写真を撮るより景色を眺めるほうで、真琴は何度か立ち止まってスマートフォンを向けていた。


「優也さん、そこ立ってください。一枚くらい人が入ってる写真も欲しいです。景色だけだと、どこへ行ったか後で分からなくなりますから」


「俺一人で写るん? それやったら真琴も入ったほうがええやろ」


優也が何気なく返すと、真琴はスマートフォンを持ったまま一瞬だけ考え、少し照れたように笑った。


「じゃあ、一緒に撮ります?」


真琴が何気なく言ったあと、自分でも少し意識したように優也を見る。優也も一瞬だけ間が空いたが、すぐ「撮ろか」と答え、近くにいた人へ頼んで二人並んだ写真を一枚撮ってもらった。 画面を確認すると、優也は少し緊張した顔をしていて、真琴はいつもより自然に笑っている。


「俺、顔固ない? 自分で見ても証明写真みたいやわ」


「固いですね。もう一枚お願いすればよかったです」


真琴が画面を見ながら笑うので、優也も仕方なく自分の顔を見直した。撮られ慣れていないのだから仕方ないと言い訳しつつ、次ならもう少しましに笑える気がする。


「次でええよ。今度はもうちょい普通にするわ」


優也がそう言うと、真琴は小さく笑い、その写真を消さずに保存した。


◇


温泉施設へ入ったのは午後四時前だった。男女別の大浴場なので、入口で一度別れ、待ち合わせは一時間後に休憩スペースと決める。優也は露天風呂へ入り、冷たい空気の中で肩まで湯に浸かると、思っていた以上に体の力が抜けた。


最近は仕事の疲れより、ACROSSの変化を追い続けた頭の疲れのほうが強かったのかもしれない。返事が来たことで興奮はしているが、それを考えない時間を持つと、ようやく自分がずっと気を張っていたことに気づく。 予定の時間より少し早く上がり、休憩スペースで冷たい水を飲みながら真琴を待った。 しばらくして、女性側の入口から真琴が出てくる。 優也は、無意識に視線を止めた。


真琴は持ってきていた濃いネイビーのゆったりした上下に着替えており、普段より化粧気が薄い。長い髪はまだ少し湿っていて、毛先が肩の辺りにまとまり、風呂上がりのせいか頬にはほんのり赤みが残っている。服装そのものは露出のあるものではないのに、仕事着や普段の外出着で見る姿とは雰囲気がまるで違った。


「お待たせしました。早かったですね」


真琴が近づいてきても、優也の返事が一拍遅れた。


「……ああ。俺、ちょい早めに上がったから」


返事が一拍遅れたことへ真琴が気づき、「どうしました?」と覗き込む。優也は一度「何でもない」と誤魔化したものの、その言い方のほうがかえって不自然だった。


「何でもない顔じゃないですけど」


真琴に見られ、優也は誤魔化すように水を一口飲んだ。それでも視線を逸らし続けるほうが不自然に感じ、結局正直に言う。


「その格好、似合ってるなと思って。いつもと雰囲気ちゃうから、ちょっとびっくりしただけ」


真琴の動きが止まった。


「……急に言いますね。優也さん、そういうこと普段言わないのに、たまに何の前触れもなく言うから困るんです」


以前にも似たことを言われた気がして、優也は少し笑った。褒めただけなのに困ると言われても理由が分からず、そのまま聞き返す。


「褒めたらあかんの?」


「駄目とは言ってません。ただ、急だから困るんです」


真琴はそう返しながら、少しだけ顔を横へ向けた。風呂上がりだからだと思っていた頬の赤みが、さっきより濃く見えた気がして、今度は優也のほうが視線を外した。


「帰ろか。外寒いし」


「はい」


二人は並んで温泉施設を出た。


◇


ACROSSへ戻ると、車内の暖かさにほっとした。真琴は髪をもう少し乾かしたいと言って洗面側へ向かい、優也はキッチンで夕食の準備を始める。今日買ったきのこと豆腐を使い、鶏肉と野菜を加えた鍋にすることにした。


真琴が戻ってきた時には髪もほとんど乾いており、優也もさっきほど意識しないようにしたつもりだったが、普段より柔らかい雰囲気はまだ残っている。真琴は何もなかったように鍋の材料を見て、豆腐を切る役を引き受けた。


「きのこ、全部入れます?」


「半分でええかな。残り明日の朝は使わんし、持って帰ろ」


「それがいいですね。あと白菜、もう少し入れていいと思います」


二人で鍋を作っているうちに、温泉施設での妙な空気は少しずつ薄れた。調味料を取ってもらい、味を見て、テーブルへ運ぶ。いつもの共同作業へ戻ると、優也も自然に話せるようになる。


鍋を囲みながら、二人は今日撮った写真を見返した。散策路で撮ってもらった二人の写真もあり、真琴が拡大して優也の固い顔を改めて笑う。


「やっぱり固いです。次はちゃんと笑ってくださいね」


「もうええって。次はもうちょい自然にするわ」


真琴はそこで写真から顔を上げ、少しだけいたずらっぽく笑った。


「じゃあ、次も一緒に撮るんですね」


「そら、せっかく出掛けたら撮るやろ」


優也は何気なく答えたが、真琴は一瞬だけ黙ってから「そうですね」と小さく笑った。 その返事に、今度は優也が少しだけ意識する。次も一緒に出掛けることも、一緒に写真へ写ることも、いつの間にか当然のように話している。付き合っているわけではない。それでも、休日に二人で出掛け、同じ車で食事をし、泊まり、次の予定まで考えている。 言葉にすると急に距離が近く感じられた。


◇


夕食後、優也は鍋を片付け、真琴はコーヒーを淹れた。外はすっかり暗くなり、窓の向こうにはRVスペースの照明が少し見えるだけだった。ブラインドを半分閉め、車内の照明を落とすと、昼間よりずっと静かな空間になる。


優也がソファへ座り、真琴も少し離れた位置へ腰を下ろした。今日は仕事の資料も問題集もない。テレビ代わりにタブレットで短い旅番組を流したが、二人とも真剣に見るほどではなく、時々画面を見ながら温泉や今日の景色の話をする程度だった。 しばらくして、優也がふとACROSSのことを思い出した。


「今日、朝に一回返事しただけやな。返せるようになったから、もうちょい何か言ってくるかと思ってた」


「普通に会話できる可能性が出たからって、ずっと話し掛ける必要はないと思います。人間相手でも、用事がなければ黙ってる時間はあるでしょう」


ACROSSを人間みたいに例える真琴へ、優也が少しからかうような視線を向ける。真琴はすぐに意図を察し、人格があると言ったわけではないと先回りして釘を刺した。


「そこは相変わらず固いな」


「優也さんがすぐ先に行くからです」


真琴が笑ったところで、優也は少し考えた。


「一個だけ聞いてみる?」


「内容によります」


「返事、これからもできるんかって。今日の旅行中ずっと黙ってたし、安定してできるのか気になる」


真琴は少し考えたあと、頷いた。


「それなら一つだけ。今後の確認としては意味があります」


優也はタブレットを止め、スマートフォンが置いてあるテーブルへ目を向けた。わざわざ近づかず、そのままの位置から車内へ話し掛ける。


「ACROSS。さっきみたいな返事、これからもできるんか?」


数秒後、スマートフォンが暗くなる。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』

『応答――処理中』


真琴も黙って見る。 やがて文章が現れた。


『可能です。受け取った内容と、返せる範囲に応じて応答します』


優也は小さく息を吐いた。


「普通に答えるようになったな」


真琴も驚きを隠さず、それでも慎重に文面を読む。


「“返せる範囲”って自分で条件を付けてますね。何でも答えられるわけじゃないことを、先に示してるみたいです」


「それ以上聞きたいけど、今日はここまでな」


「はい。旅行中ですから」


優也が自分から区切ったことで、真琴は少し満足そうに笑った。表示はしばらく残ったあと静かに消え、タブレットの旅番組を再開する。 それからは、本当にACROSSへ話し掛けなかった。


◇


温泉に入ったせいか、夜十時を過ぎる頃には真琴の目元に少し眠気が見え始めた。旅番組はとっくに終わり、二人は今日撮った写真をもう一度見ながら、次はどこへ行くかという話をしている。


「海もいいですね。冬になる前に一回行きたいです」


「寒なる前ならええな。海沿いで一泊して、朝早めに起きて……真琴?」


返事がない。 横を見ると、真琴はソファの背にもたれたまま目を閉じていた。完全に寝たわけではなさそうだが、かなり眠そうだった。


「眠いなら先寝たら? さっきから目ぇ閉じかけてるで」


「まだ大丈夫です。ちょっと温泉で力が抜けただけなので」


そう言いながら真琴は姿勢を直したが、優也にはどう見ても「大丈夫な人」の顔ではなかった。


「それ、大丈夫ちゃう人の言い方やで」


真琴は目を開けて姿勢を直そうとしたが、数分もしないうちにまた少しずつ体が傾いてくる。 優也は最初、それに気づかないふりをした。 やがて真琴の肩が、優也の腕へ軽く触れた。 そこからさらに少しだけ重みが移り、真琴の頭が優也の肩へそっと乗る。 優也の体が固まった。


真琴は目を閉じたまま、すぐには動かない。寝息が聞こえるほど深く眠ってはいないが、意識が半分落ちているのかもしれない。風呂上がりのシャンプーの香りが近く、肩越しに伝わる体温まで妙にはっきり分かる。 優也は動けなくなった。


起こすべきか、このままにするべきか迷う。変に肩を動かせば驚かせるし、そのままにしていると自分のほうが妙に意識してしまう。 数分経った頃、真琴が小さく動いた。


「……あ」


目を開け、自分がどこへ寄り掛かっていたか気づいたらしい。真琴は勢いよく離れるのではなく、ゆっくり体を起こし、少し気まずそうに髪を耳へ掛けた。


「すみません。寝てました?」


「ちょっとだけ。別にええよ。重くもなかったし、真琴軽いから」


優也が平気そうに答えるほど、真琴はかえって気まずそうに視線を落とした。重いかどうかを気にしていたわけではないらしく、言葉を探すように少し間を置く。


「そういう問題じゃ……ないです」


真琴はそこまで言って口を閉じた。優也も何を返せばいいか分からず、少しだけ視線を逸らす。 妙な沈黙が落ちる。 優也は誤魔化すようにコーヒーカップへ手を伸ばしたが、もうほとんど残っていなかった。


「真琴、無防備すぎるで」


冗談っぽく言ったつもりだった。 真琴は少し困った顔をしたあと、優也を見た。


「……優也さんだから、大丈夫だと思ってるんです」


今度は優也が固まった。 真琴も、自分で言った言葉が思ったより近い意味に聞こえたことへ気づいたらしい。すぐに少し慌てて続ける。


「変な意味じゃなくて、優也さんなら変なことしないって分かってる、という意味です」


「それ、男として見られてへんみたいで、ちょっと複雑やな」


優也が笑いながら返すと、真琴は一瞬黙った。 そして、目を逸らしながら小さく言う。


「……そういう意味でもないです」


今度こそ優也は返せなかった。 真琴もそれ以上説明しない。 タブレットの画面だけが、音を絞ったまま静かに動いている。 ACROSSのスマートフォンも何も表示しなかった。


◇


その夜の寝床は、真琴が後部の主寝室、優也が運転席上部の降下式ベッドを使うことにした。優也は「俺がソファでもええで」と言ったが、真琴が「上のベッド使ってみたいって前に言ってたでしょう」と返したので、そのまま決まった。 主寝室へ向かう前、真琴はリビングで一度立ち止まった。


「今日はありがとうございました。温泉、来てよかったです。最近ずっとACROSSのことを追ってましたし、こういう日も必要ですね」


「俺もそう思う。またこういう日作ろ。次は海あたりええんちゃう?」


優也が早くも次を決めようとするので、真琴は苦笑しながら、まだ決定ではないと念を押した。


「ほな候補一位。それなら文句ないやろ」


「それならいいです」


二人は笑ったが、さっきより少しだけ互いの顔を長く見る。


「じゃあ、おやすみなさい」


「おやすみ」


真琴が主寝室へ入り、扉が静かに閉まる。 優也は一人になったリビングで、しばらくソファに座ったままだった。 肩にはもう何も触れていない。それでも、さっきまであった重みと体温だけが妙に残っている。


「そういう意味でもない、か……」


小さく呟き、自分で言ってから額を押さえた。 深く考えれば、都合のいい意味に取りたくなる。真琴はまだ何も言っていないし、優也も何も伝えていない。年齢も離れている。今の関係が心地いいからこそ、勝手に先へ進めて壊すのは嫌だった。 それでも、何もなかったことにはできない。 優也は上部ベッドを降ろし、照明を少し落とした。


◇


一方、主寝室へ入った真琴も、すぐには眠れなかった。 ベッドへ腰を下ろし、髪を一度まとめ直してから、今日撮った写真をスマートフォンで見返す。散策路で二人並んで撮った一枚が出てくる。 優也は少し固い顔で、真琴は思っていたより楽しそうに笑っている。 その写真を見ていると、さっき肩へ寄り掛かった時のことまで思い出してしまう。 眠かったのは本当だった。 わざとではない。 それでも、目を覚ましたあとすぐ離れられなかったのも本当だった。


「……そういう意味でもない、って何言ってるんだろ」


自分で口にした言葉を思い出し、真琴は枕へ顔を伏せた。 優也がどう受け取ったかは分からない。 ただ、男として見ていないと言われるのが嫌だった。 そのことだけは、思ったよりはっきりしていた。 しばらくして照明を落とし、真琴は布団へ入った。


◇


翌朝、優也が目を覚ましたのは七時前だった。上部ベッドから降りると、車内はまだ静かで、主寝室の扉も閉まっている。昨夜のことを思い出した瞬間、少しだけ気まずくなったが、何もなかったように朝食の準備を始める。 パンを焼き、卵を用意し、コーヒーを淹れ始めた頃、主寝室の扉が開いた。


「おはようございます」


真琴が少し眠そうな顔で出てくる。


「おはよう。よく寝れた?」


「はい。優也さんは?」


「まあまあ。上のベッド思ったより寝れるわ」


昨夜の話には触れない。 それでいいと思った。 真琴も普段どおりキッチンへ来て、皿を出す。優也が焼いたパンを置き、真琴がコーヒーを運ぶ。いつもの朝と変わらないようで、どこか少しだけ互いを意識している。 朝食を食べ終える頃、真琴がふと笑った。


「次、海にします?」


優也は一瞬驚いて、それから笑った。


「候補一位から決定に昇格した?」


「まだ候補一位です。でも、行きたいです」


真琴がそう言ったことで、優也の表情が自然に緩んだ。昨夜の気まずさを無理に消そうとしなくても、次の予定を二人で考えられることが素直に嬉しかった。


「ほな行こ。日ぃ合う時で」


「はい」


それだけの会話だったが、優也には十分だった。 ACROSSは返事をするようになった。 けれど、この一泊で一番強く残ったのは、画面に出た文章ではなかった。 隣へ寄り掛かった重みと、真琴が小さく言った「そういう意味でもない」という一言。 ACROSSとの会話は、これからいくらでも続けられる。 二人の間にあるものは、まだ名前を付けなくてもよかった。 ただ、昨日までより少しだけ近くなった距離だけは、もう元には戻っていなかった。


皆様のちょっとしたスキマ時間の

暇つぶしになれば幸いです(*˘︶˘*).。.:*♡

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最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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