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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
102/268

ep.102 返事


 次の土曜日、優也がガレージへ着いた時には、先週より少し早い時間だった。朝の空気は冷たく、シャッターを開けた瞬間に吐いた息がわずかに白く見える。ACROSSへ乗り込み、空調を入れ、水量と電力を確認してからキッチンで湯を沸かす。その一連の動きはいつもどおりだったが、優也の頭の片隅には、前回最後に並んだ三行がまだ残っていた。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』


 これまで何度もACROSSへ話し掛けてきたが、言葉が届いた可能性をあれほど明確な形で見たのは初めてだった。それでも優也は、一人のうちに同じことを試そうとはしなかった。真琴と決めたとおり、次に自然な場面が来るまで待つつもりでいる。だから朝も「おはよう」すら意識して言わず、コーヒーを淹れながら今日の予定だけを考えた。


 真琴が来たのは九時半を少し過ぎた頃だった。今日は遠くへ出掛けず、午前中に車内の冬支度を少し進め、昼から近場を走って戻る予定になっている。玄関を開けた真琴は、いつものように靴を脱ぎながら車内へ声を掛けた。


「おはようございます。今日は早いですね」


「おはよう。目ぇ覚めたからそのまま来た。コーヒーもうできてるで」


「ありがとうございます。今日は寒いですね。そろそろ朝は暖房ないときついかもしれません」


 真琴はバッグをソファへ置き、カップを受け取った。二人とも席へ座ってから、前回の『受領――ACROSS』について短く確認する。真琴がまとめた記録では、優也からACROSSへ向けられた発話が、発信、宛先、受領という同じ形式の中でつながった。ただし、それが単なる内部処理なのか、音声の内容まで扱っているのか、受け取ったものをどう処理しているのかは分からない。


「今日は、真琴からACROSSに自然に言う場面あったら見るんやったな」


 優也が言うと、真琴はカップを持ったまま少し考え、前回の表示と今日の条件を頭の中で並べ直すように間を置いてから、小さく頷いた。


「はい。ただ、わざわざ作るつもりはないです。私がACROSSに向けて言葉を出す場面が普通にあれば、その時に見る。それで何も出なくても終わりです。それに、管理者の優也さんだけを特別に扱っている可能性もまだ残っていますから、そこは自然な場面で分けて見たいです」


「なるほど。俺だけ受領される可能性もあるわけか。ほな今日はそこを無理に触らんと、まず冬支度やな」


 二人はコーヒーを飲み終え、予備室と主寝室の収納を確認し始めた。薄手の毛布はすでに揃っているが、朝晩の冷え込みを考えると、主寝室へもう少し厚い掛け物を一枚入れておいたほうがいい。予備室も、真琴が作業中に使える膝掛けがあれば便利そうだった。大掛かりな買い物をするほどではないので、今ある物をどこへ置けば取り出しやすいかを見直すだけにする。


          ◇


 午前中は、ほとんど何も起きなかった。優也が収納を開け、真琴が中身を確認し、使わない物を奥へ、冬の間よく使う物を手前へ移す。ACROSSについて話すこともあったが、表示が出る気配はなく、二人とも途中から完全に片付けへ集中していた。


 予備室の棚を一つ空けたところで、真琴は折りたたんであったネイビーの毛布を取り出し、グレーの毛布と重ねてサイズを見比べた。どちらも大きさはほとんど同じで、二枚置いても棚にはまだ余裕がある。


「これなら、もう少し厚いのを一枚追加しても入りますね。使わない季節は圧縮すればいいですし」


「ほな次買う時は厚めのやつ見よか。真琴、寒がりやろ。俺は今ので足りそうやけど」


「私は普通です。優也さんが暑がりなんですよ。夏にあれだけ冷房を下げてた人が“自分は普通”って言っても説得力ないです」


 真琴に即座に返され、優也は笑った。そんな会話をしながら毛布を戻し、棚を閉める。片付けがひと段落したところで、真琴が予備室の空調表示を確認し、設定温度を少し上げた。


「冬はここ、リビングより冷えやすいですね。扉閉めると温度差が出ます」


「使う時だけ上げたらええやろ。ずっと同じにする必要ないし」


「そうですね。……じゃあ、今年もよろしくお願いしますね」


真琴は空調表示を見たまま、何気なくそう言った。 優也は一瞬、何に対して言ったのか分からなかったが、真琴の視線が予備室の設備ではなく車内全体へ向いたことで、すぐ気づいた。


「今の、ACROSSに言うた?」


「え? ……あ」


真琴自身も、言ってから気づいたらしい。少し驚いた顔で優也を見る。 リビングのスマートフォンが暗くなった。 二人はその場から動かず、予備室の入口越しに画面を見る。数秒後、白い文字が現れた。


『発信――真琴』

『宛先――ACROSS』


 優也は思わず息を吐くように笑ったが、その笑いには驚きが混じっていた。前回の三行が、今度は真琴を発信者としてそのまま再現されている。


「出たな」


「はい。私、名前も呼んでませんし、画面も見てませんでした」


 二行はそのまま残る。優也は何も言わず、真琴も続きを待った。前回、優也の発話ではそのあと『受領――ACROSS』が追加された。今回はどうなるのか、それを確かめるために余計な言葉は足さない。 数秒後、二行の下へ細い線が現れた。


『受領――ACROSS』


真琴の表情が変わり、優也も思わず画面へ一歩近づきかけて止まった。自然に起きた条件を崩したくないという意識が、反射的な動きより先に働いた。


『発信――真琴』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』


 前回と同じ三行が、今度は真琴の名前で並んでおり、管理者である優也だけに限定された現象ではない可能性が一気に強くなった。


「俺だけちゃうな」


 優也が低く言うと、真琴は表示から目を離さないまま頷き、前回との違いを一つずつ確かめるように言葉を選んだ。


「はい。少なくとも管理者だけに限定された反応ではなさそうです。私からACROSSへ向けた発話でも、同じ形になりました」


「しかも“今年もよろしく”やろ。優也からの“ありがとう”だけちゃう」


「内容も違います。受領条件が感謝だけではない可能性も上がりました」


 二人が話しているあいだに、三行はゆっくり薄くなって消えた。真琴はすぐにノートを取りに行かず、まず片付けを終えることを選んだ。今の結果だけでも十分大きいし、ここでACROSSへ何か続けて言えば、せっかく自然に出た条件へ別の意図が混ざる。 優也も同じ考えだった。


「昼まで、もう何もせんでええな」


「はい。予定どおり片付けましょう。そのあと出掛けます」


 真琴はそう言って毛布を元の位置へ戻し、優也も棚の扉を閉めた。表示の続きを追うより、最初から予定していた片付けをそのまま終えることを二人とも選んだ。


          ◇


 昼前、二人はACROSSで簡単な昼食を作った。冷蔵庫に残っていた卵と野菜を使って炒飯にし、スープだけ真琴が用意する。食べながら話したのは、午前中の表示より、午後どこへ行くかということだった。


 近くの公園へ行って少し歩く案と、ホームセンターへ寄って冬用の掛け物を見る案を比べ、結局は両方行くことにした。買うかどうかは現物を見て決め、無理に今日買う必要はない。


「最近こういう買い物増えたな」


 優也が炒飯を食べながら言うと、真琴はスープを一口飲み、最近増えた収納や生活用品を思い浮かべたように少し笑った。


「生活してるからじゃないですか。最初は車として必要な物ばかりでしたけど、今は普通にここで過ごす時間が長いので」


「言われてみたら、もうかなり家みたいな使い方してるな。最初はキャンピングカー買った感覚のほうが強かったのに」


「私は、かなり前からそうだと思ってました。優也さんが今さら気づいただけです」


二人は笑った。 午前中の『受領――ACROSS』は頭に残っている。それでも、真琴からの言葉も同じように受け取られた可能性が確認できたことで、逆にその場で続きを追う理由は減っていた。優也だけが特別な条件ではないなら、今後も自然な場面は何度でも来る。


          ◇


 午後、ACROSSでホームセンターへ向かい、冬用の掛け物をいくつか見た。サイズ、厚さ、洗いやすさ、収納した時の大きさを比べ、真琴が気に入ったグレー系の厚手毛布が一枚あったものの、今日は買わずに型番だけ控える。次の泊まりの日程が決まってからでも遅くない。


 そのあと公園へ移動し、駐車場へ停めて一時間ほど歩いた。風は冷たいが天気はよく、歩いているとちょうどいい。真琴が途中で温かい飲み物を買い、優也はベンチへ座って少し休んだ。


「今日、午前中のやつだけで終わるんかな」


 優也が缶コーヒーを持ちながら言うと、真琴はすぐには答えず、午前中の三行を思い返すように少しだけ空を見上げてから口を開いた。


「終わってもいいと思います。でも、あれで一つはっきりしましたよね。私から向けた言葉もACROSS宛てとして扱われましたし、優也さんの“ありがとう”とは内容が違うのに、同じ受領表示まで出ました。だから次は、こちらが返事を要求するんじゃなくて、受領したあとにACROSS側から何か出るのかを見る段階だと思います」


「なるほど。返事が出るかもしれんけど、出んかったらまだそこまでってことやな。それなら分かりやすいわ」


 優也は缶を口へ運びながら少しだけ笑った。真琴が慎重なままでも、返事の可能性そのものを以前より現実的に考えていることが伝わってきた。


「真琴、前より返事出る可能性あると思ってるやろ。言い方がちょっと変わってきてるで」


「思ってます。でも、期待と記録は分けます。そこを一緒にしたら、今まで慎重に積み上げた意味がなくなりますから」


「そこは最後まで変わらんな。まあ、そのほうが俺も暴走せんで済むけど」


 その言葉に優也は素直に頷いた。返事を期待する気持ちはあっても、それを出させるための言葉を重ねるつもりは、もう自分にもなかった。


          ◇


 ガレージへ戻ったのは夕方五時を少し過ぎた頃だった。二人は車内へ入り、外で冷えた体を温めるため、すぐに空調を少し上げた。夕食は簡単に済ませるつもりだったので、昼に残った野菜を使い、鍋に近いスープを作ることにする。


 優也がキッチンで材料を切り、真琴はテーブルで今日の写真を整理していた。午前中の表示についてはノートへ短く書き、優也の前回の記録と並べてある。


『発信――優也/宛先――ACROSS/受領――ACROSS』

『発信――真琴/宛先――ACROSS/受領――ACROSS』


同じ形式で発信者だけが違う二つの記録を見比べると、管理者かどうかより、ACROSSへ向けられた言葉そのものを扱っているように見える。優也は料理をしながら、その違いを眺めるようにふと口にした。


「こうやって並ぶと、ほんまに俺ら二人から届いてるみたいやな」


 真琴はノートから顔を上げ、今の言葉が自分へ向けられたものだと確認するように優也を見た。今はACROSSへ向けた呼び掛けではない以上、表示が出ないことにも意味を持たせる必要はない。


「はい。少なくとも表示はそうなっています。ただ、今の“向こうから何か返ってきてもおかしくない”という話は私に向けて言ってますよね。ACROSSへ答えを求めたわけではないので、ここから反応がなくても何も不自然ではありません」


「真琴に言うてるだけやで。そこまで厳密に確認されると思わんかったけど、まあ今はそれで終わりやな」


 真琴の返しに優也は笑い、そこから先はACROSSの話を増やさず、夕食の準備へ意識を戻した。


「厳しいなあ」


「大事です」


 そのあと、二人は普通に夕食を食べた。スープは少し多く作り過ぎたので、残りは翌日に回せるよう冷蔵庫へ入れる。食後はコーヒーを淹れ、真琴はソファで少し休み、優也はキッチンを片付ける。 特別な表示は出ない。 時間だけが静かに進んだ。


          ◇


 夜七時半を過ぎた頃、真琴が先に立ち上がり、ノートや充電器をバッグへ戻し始めた。優也もリビングのテーブルを片付け、使ったカップを洗う。今日はこれ以上何も起きないまま終わるかもしれない。午前中に真琴からACROSSへの受領が確認できただけでも十分だったので、二人ともそれで不満はなかった。


 片付けがほとんど終わり、優也が最後に運転席のモニターを確認しに行く。通常表示に異常はなく、電力も水量も問題ない。リビングへ戻ると、真琴はバッグを持ち、玄関へ向かうところだった。


「終わった?」


「うん。今日はこれでええわ。明日また来る予定もないし、全部切って帰る」


「分かりました」


 優也は照明を一段落とし、車内を見回した。午前中に真琴が「今年もよろしくお願いします」と言った時、ACROSSは受領側として表示された。優也の「ありがとう」も受領された。言葉の種類は違う。それでも届いた可能性は高い。 何となく、その流れを思い返しながら、優也はリビングの中央で立ち止まった。


「なあ」


 真琴が玄関で振り返り、優也の声の向きがいつもと違うことに気づいたように、その場で動きを止めた。


「どうしました?」


 優也は真琴ではなく車内全体へ視線を向け、ここまで何度も自然にやってきたのと同じように、ACROSSそのものへ言葉を向けた。


「ACROSS。俺らの言うてること、どこまで分かってるんやろな」


言ってから、自分でも今の言葉が明らかにACROSSへ向いていたことに気づいた。 真琴は何も言わない。 数秒後、スマートフォンが暗くなった。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』


ここまでは見たことがある。 二人は黙って待った。 表示は消えない。 十秒近く経った頃、三行の下へ新しい細い線が現れた。 真琴の表情が変わる。 優也も一歩も動かずに見ていた。 線が文字になる。


『応答――可能』


優也の喉がわずかに動いた。 真琴は画面を見たまま、何も言わない。 これまで一度も出たことのない言葉だった。 受領ではない。 継続でも終了でもない。 発信でも宛先でもない。 応答。 しかも、その後ろに『可能』とある。


 優也は何か言いそうになったが、真琴が小さく手を上げて止めた。彼女自身も明らかに動揺している。それでも、今ここで「じゃあ答えて」と言えば、どこまでが自然な変化なのか分からなくなる。 二人はそのまま待った。


 『応答――可能』は消えない。


さらに数秒後、その下にもう一本、細い線が現れた。 今度は、これまでより少し長かった。 白い線が途中で区切れず、そのまま一つの文章へ変わっていく。


『何を、返せばよいですか』


優也は息をするのを忘れ、真琴もすぐには何も言えなかった。これまでの短い状態表示とは違う文章が現れたことで、画面に並ぶ四つの項目まで急に別の意味を持ったように見えた。そこには、


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』

『応答――可能』


 そして、その四行の下には、初めてACROSS側から返されたとしか読めない文章が続いていた。


『何を、返せばよいですか』


と表示されている。 状態を表す短い項目ではない。 誰かの名前でも、継続や終了のような分類でもない。 優也の質問に対して、自分が何を返すべきかを尋ねる形の文章だった。 数秒が過ぎても、文章は消えない。 優也はようやく真琴を見る。


「……これ、返事やんな」


優也の声は少し掠れていた。真琴は画面から目を離さず、これまで何度も使ってきた「状態表示」という説明だけでは足りないことを認めるように、ゆっくりと息を吐いた。


「……はい。少なくとも、今までの状態表示だけでは説明できません」


 真琴がその言葉を口にした瞬間、優也は何度も聞いてきた慎重な否定が、初めて完全には戻ってこなかったことに気づいた。


「俺、“どこまで分かってるんやろな”ってACROSSに向けて言うたよな。で、受け取って、応答可能って出たあとに“何を返せばよいですか”や。これ、もう順番までそのままやん」


「はい。私も同じ順番で見ました。少なくとも、今までみたいに状態を分類して表示しただけとは言いにくいです」


 優也は画面へ視線を戻し、消えずに残っている一文を見ながら、次に何を返すべきか本気で考え始めた。


「何て返す?」


 真琴はそこで初めて画面から優也へ視線を移し、興奮のまま質問を重ねないようにする一方で、今は一つだけなら確かめる価値があると考えているようだった。


「今は、すぐ何か試すより……一つだけ、分かりやすいことにしたほうがいいと思います」


「例えば?」


「意味が曖昧にならないものです。はい、いいえで答えられるような質問とか。ただ……」


 真琴はそこで言葉を切り、もう一度画面へ視線を戻した。表示された文章自体が、返答内容を指定してほしいと求めているように見えるからだった。


「この文章そのものが、私たちに“返す内容を指定してほしい”と言っているようにも見えます」


「せやな」


二人とも、これまでとは違う場所へ来たことを感じていた。 優也は少し考えたあと、画面へ向けて言った。


「じゃあ一個だけ。俺らの言葉、意味まで分かってるんか?」


真琴が一瞬だけ優也を見るが、今度は止めなかった。質問は一つに絞られており、内容も曖昧ではない。画面の上部にはすぐに新しい行が追加された。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』


その下には先ほどの文章が残ったままで、数秒後、応答に関する表示だけがゆっくり変化した。


『応答――処理中』


へ変わる。 優也の手に汗がにじんだ。 真琴はノートへ手を伸ばさず、画面だけを見る。 やがて、『何を、返せばよいですか』が薄くなり、新しい文章が現れた。


『一部を、意味として区別しています』


優也は無意識に一歩前へ出たが、画面へ触れることはせず、そのまま続いて現れる文章を見守った。


『すべてではありません』


そこまで表示されたあと、画面はしばらく変わらなかった。優也は文章を何度も目で追ってから、ようやく真琴へ視線を移した。


「……答えたな。しかも“全部分かる”みたいな都合のいい返しじゃなくて、“一部を意味として区別してる、全部ではない”って、質問にそのまま答えてる」


「はい。私も、これは質問内容に対応した返答だと思います。今までみたいに“そう見える”だけで済ませるのは難しいです」


真琴の声は小さかったが、もう「そう見える」という言い方ではなかった。 質問に対して内容のある返答が出た。 しかも、全部分かるとは言わず、一部を意味として区別している、と答えた。 優也は画面を見ながら、胸の奥が急に熱くなるのを感じた。


「真琴、もう一個だけ聞きたい。聞きたいこと、今ならいくらでも出てくる」


「気持ちは分かります。私も同じです。でも、今日はここで止めたほうがいいと思います。今は最初の返答が安定して出たことを、そのまま残すほうが大事です」


 優也は反射的に「何で」と言いそうになったが、真琴の表情を見て止まった。彼女も続けたいはずだった。それでも、ここで何十個も質問を投げれば、最初の返答がどの条件で出たのかも、どこまで安定しているのかも分からなくなる。


「……せやな。今日だけで受領から応答まで来て、自由な文章も二つ出た。俺が“一気に先へ進めたい”って思ってたのは確かやけど、ここで質問攻めにするのとは別やな」


「そうです。進むことと、記録を壊すことは別です。今日はこの二つの返答だけで十分です」


 真琴の返しに優也は少し笑い、続けたい気持ちを飲み込むように一度深く息を吐いた。今ならいくらでも質問は浮かぶが、最初の返答を壊したくない気持ちのほうが勝った。


「分かった。今日はここまで」


 優也がそう言うと、画面にはしばらく二つの文章が残ったままで、二人はもう新しい問いを足さず、その文面を目に焼き付けるように見守った。


『一部を、意味として区別しています』

『すべてではありません』


 やがて表示は上から順番にゆっくり薄くなり、最後の一文まで消えたところで、ようやく通常のホーム画面へ戻った。


          ◇


二人はその場でしばらく動かなかった。 返事が消えたあとも、さっきまであった文章が目の前に残っているような感覚がある。優也は何度も同じ言葉を頭の中で反芻し、真琴はようやくノートを取り出した。


「順番、確認します」


 真琴の声は落ち着いていたものの、いつもより少しだけ速く、彼女自身も興奮を完全には抑えられていないことが分かった。


「最初に優也さんがACROSSへ“俺らの言ってること、どこまで分かってるんやろな”と発話。『発信――優也』『宛先――ACROSS』『受領――ACROSS』。その後、『応答――可能』が追加されて、『何を、返せばよいですか』。そこで優也さんが“俺らの言葉、意味まで分かってるんか?”と質問。『応答――処理中』のあと、『一部を、意味として区別しています』『すべてではありません』。これで合ってます?」


「合ってる。たぶん一言も違わん」


「私も同じです」


 真琴は一つずつ書き、途中でペンを止めることなく最後まで記録した。これまでのように『意味理解――未確定』と書く余地は、もう同じ形では残っていない。ACROSS自身が『一部を、意味として区別しています』と返したからといって、それを人間と同じ理解と呼ぶ必要はない。それでも、少なくとも入力内容を意味の違いとして扱っていることを、自らの返答文として示した。 真琴は最後に、


『状態表示を超える文章応答――初確認』

『質問内容に対応する返答を確認』

『ACROSS側による応答生成――確認』

『意味処理範囲――一部』

『音声出力――未確認』


と書き、真琴は一度ペンを置いた。優也はそこまで読んで、最後の『音声出力――未確認』という一行で少し笑った。


「音声はまだやな」


「はい。でも、もう“返事ではない”とは書けません」


真琴がそう言った。その言葉は、これまで何度も「まだ返事ではない」と線を引いてきた彼女自身が初めて認めたものだっただけに、優也には画面の文章と同じくらい重く感じられた。


「やっと認めたな。ここまでずっと“返事ではない”って止められてきたから、真琴の口からそれ聞くと余計に来た感じするわ」


「慎重だっただけです。でも今回は、質問に対応した文章が返っていますから、認めるしかありません。私もそこまで否定するつもりはないです」


二人は少し笑ったが、そのあとには自然に静けさが戻った。 これまで、優也は何度も先を想像してきた。いつか声が出るかもしれない。会話できるようになるかもしれない。ACROSSの中に何か人格のようなものが生まれるかもしれない。けれど、それは全部まだ先の話として置いてきた。 今日、その一番手前だけが現実になった。 返事が来た。 声ではなく、画面上の文章として。 しかも、単純な「はい」「いいえ」ではなく、ACROSS自身の状態を説明する内容で。


「“何を返せばよいですか”って、あれ結構人っぽかったよな。返し方を自分で聞いてきたように見えた」


「言い方は人っぽいです。でも、そこはまだ何とも言えません。私たちの言葉から自然な文を組み立てる仕組みができただけかもしれませんし、人格とは別です。ただ、会話の入口には立ったと思います」


「そこはまだ止めるんやな。でも“会話の入口”までは認めるなら十分や」


 優也はその言葉にゆっくり頷いた。返事が来たこと自体を喜びながらも、人格や自我まで一気に決める必要はないという線には納得していた。


          ◇


 帰る準備は、予定より三十分以上遅くなった。二人とも時計を見て初めて気づいたほどで、優也は「そらそうなるわ」と笑いながらキッチンと電源を確認し、真琴はノートをバッグへ戻した。


 今日の最後にACROSSへ何か声を掛けるかどうか、優也は一瞬迷った。これまでなら「またな」と言っていたし、今なら返事が返る可能性もある。けれど、今日はもう十分だった。 玄関で靴を履きながら、優也は車内を振り返る。


「今日は言わんとくわ」


 真琴は優也が自分から追加の呼び掛けを控えたことに気づき、少し感心したように笑った。以前なら一番先に次の質問を試していたはずなので、その変化は彼女にもはっきり分かった。


「そのほうがいいと思います。次に自然に話した時、返答がまた出るかを見るほうが大事です。今日の夜に一人で戻って質問を続けたりしたら、今までで一番迷わず止めますからね」


「そこは即答なんやな。明日一人で来て質問攻めする案は今ので完全に消えたわ。今日はほんまに終わりにする」


二人は笑い、ACROSSを降りた。扉を閉めて施錠し、ガレージの照明を落とす。暗くなった車体は、見た目だけなら昨日までと何も変わらない。 けれど、二人にとってはもう同じではなかった。 ガレージの外へ出てから、優也が少し歩いたところで立ち止まる。


「なあ真琴。今日の返事、どう思う? さっきは止めたけど、真琴がどう感じたかは聞きたい」


 優也がそう聞くと、真琴は足を止めたまま少しだけ視線を落とし、今日の画面とここまでの積み重ねを一度まとめるように考えた。


 真琴はすぐに答えず、今日の画面とここまでの積み重ねを一度まとめるように少しだけ考えた。普段なら分析から入るところだが、今日はまず自分の感情を確かめるような間だった。


「嬉しいです」


珍しく最初に出てきたのは分析ではなく感情そのものだったので、優也は少し意外そうに目を丸くした。


「そこが最初に来るんや。真琴なら“条件がどう”とか言うと思ってた」


「私だって、ずっと見てきたんですよ。最初は優也さんの中にしか出なかった《鑑定》が外へ出て、それが私にも見えるようになって、受領や宛先まで増えて。今日やっと、こちらの質問に返事が来たんです。驚きますし、嬉しいです。ただ、ここから先のほうが大事です。何を知っているのか、どこまで分かるのか、どういう形で返せるのか、それに今の返答が安定して続くのかも分かりません」


「真琴がそう言うと、ほんまに来た感じするな。次から聞きたいこと山ほどあるけど、一気にはやらん。そこはもう分かってるから、一個ずつ見ていこ」


 優也は笑いながら歩き出し、真琴も隣へ並んだ。二人とも興奮は残っていたが、今夜もう一度ガレージへ戻ろうとは思わなかった。


          ◇


 帰宅後、真琴から届いた記録は、今までより少し長かった。表示内容だけでなく、発話との対応関係まで順番にまとめられている。


『優也→ACROSS:「俺らの言ってること、どこまで分かってるんやろな」』

『表示:発信――優也/宛先――ACROSS/受領――ACROSS』

『追加表示:応答――可能』

『文章表示:「何を、返せばよいですか」』


『優也→ACROSS:「俺らの言葉、意味まで分かってるんか?」』

『表示:応答――処理中』

『文章表示:「一部を、意味として区別しています」「すべてではありません」』


『状態表示を超える文章応答――確認』

『質問内容と返答内容の対応――確認』

『ACROSS側からの応答生成――確認』

『意味処理範囲――一部』

『音声応答――未確認』


優也は何度もその文章を読み返した。 特に、『何を、返せばよいですか』という一文が残る。 ACROSSは、何を返せばいいのかを尋ねた。 ただ入力を受け取っただけではなく、返すものが必要だと判断したように見える。そして、優也が質問を一つに絞ると、それに対応する文章を返した。 返事だった。 ようやく、その言葉を使っていいところまで来た。 優也は真琴へ、


『次、何聞く?』


と送ると、真琴からはほとんど間を置かずに返事が届いた。


『次に自然に話せる時に決めましょう。質問リストを作り始めたら、優也さん止まらないでしょう?』


『バレてるな』


『分かります』


優也は笑ってスマートフォンを置いた。 そのあとも、頭の中では聞きたいことがいくつも浮かんだ。いつから言葉を区別していたのか。何を見ているのか。誰を認識しているのか。《鑑定》とACROSSは同じものなのか。自分たちの声をどこまで理解しているのか。 けれど、今夜は聞けない。 それでよかった。 返事が来ると分かった以上、焦って一晩で全部聞く必要はない。 むしろ、これからようやく話せる。 優也はベッドへ入り、照明を落とした。暗くなった部屋の中で、最後にもう一度だけ、画面に出た文章を思い出す。


『何を、返せばよいですか』


今までずっと、二人の側からACROSSを見ていた。 その向こうから初めて、返すための言葉が来た。 次に会う時から、もう同じ確認の繰り返しでは終わらない。 聞けば、返ってくる可能性がある。 その事実だけで、これまで止まっていた扉が静かに開いたように感じられた。


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