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ACROSS  作者: ☆あんパンまん☆
第二章 広がる家
101/268

ep.101 受け取る側


 『宛先――ACROSS』が表示されてから数日、優也は仕事の合間に何度かその二行を思い出していた。これまでの白い文字は、優也や真琴の状態、二人の間で起きた受け渡し、言葉の向きなどを整理しているように見えるものばかりだった。その流れの中へ初めてACROSS自身の名前が宛先として入り、いつもの「またな」が誰に向けられた言葉なのかまで区別された。それでも返事はなく、『受領――ACROSS』のような表示も出ていない。優也が話し掛けた先として名前が出ただけで、それ以上の意味を加える材料はまだなかった。


 だから、その週に一人でガレージへ寄った時も、優也はACROSSへ余計な呼び掛けをしなかった。飲み物を補充し、車内の換気をして、最後に「ほな帰るわ」といつものように口にしたものの、スマートフォンは暗いままだった。表示が出なかったことに少しだけ拍子抜けしながらも、そこで同じ言葉を繰り返すことはせず、そのまま帰った。


 次の土曜日、真琴が来たのは朝十時頃だった。今日は久しぶりにACROSSを少し長めに走らせる予定で、郊外の道の駅まで行き、昼食を取ったあと、景色のいい場所を一つ回って戻る。遠出ではないが、ここ数回はガレージの中で過ごす時間が多かったので、優也は朝から少し楽しみにしていた。


「おはようございます。今日は本当に走るんですね」


 車内へ上がった真琴が、運転席のほうを見ながら言う。優也はキッチンでコーヒーを淹れていたが、その声に振り返って笑った。


「本当にって何や。走るための車やぞ。最近、研究室みたいになってただけで」


「私もそれは思ってました。リビングでノート広げて、画面見て、またノート書いてって繰り返してましたから。今日は普通に出掛けたいです」


「ほな今日は普通に出掛ける日。何も出んでも気にせん」


「そうしてください」


 真琴は笑いながらカップを受け取り、いつもの席へ座った。前回の『宛先――ACROSS』については、出発前に短く整理しただけだった。優也から真琴へ向けた言葉では『発信――優也』『宛先――真琴』が出て、名前を呼ばない会話でも同じ形式が再現した。その日の最後、優也がACROSSへ向けて「またな」と言った時には『発信――優也』『宛先――ACROSS』と表示された。形式が同じである以上、発話先としてACROSSを他の人物と分けた可能性は高い。ただし、そこからACROSS自身が何かを受け取った、理解した、返そうとしたという証拠はない。


「昨日、一人で寄った時は何も出んかったで。“帰るわ”って言うたけど、画面そのまま」


 優也が言うと、真琴は朝の表示と前回の記録を頭の中で並べるように少し考えてから頷いた。毎回同じ言葉に反応するわけではない以上、単純な音声反応だけでは説明しにくくなっている。


「それも大事です。同じような言葉を言えば必ず宛先が出るわけじゃない。出る条件が別にあるのか、単に毎回表示する必要がないのかは分かりませんけど、言葉だけで機械的に反応してるわけではなさそうです」


「今日、またACROSS宛て出たら?」


「その時は見ます。それ以上は、その表示次第です。今の段階でこちらから“受け取ったなら何か出して”みたいなことは言わないでくださいね」


「分かってるって。今日は走る日や」


 そう答えた優也に、真琴は少し疑うような目を向けたが、それ以上念押しはしなかった。コーヒーを飲み終えた二人は出発の準備へ移り、キッチンの物を固定し、テーブル周りを片付け、車内に動く物がないか一通り確認した。


          ◇


 ガレージを出る前、優也は運転席へ座り、車両状態を確認した。真琴は助手席でシートベルトを締め、サイドモニターと上部表示を一度見る。電力、水量、タイヤ、空調、外部カメラ、どれも問題ない。最近は《鑑定》を使わなくても、通常の車両情報だけで十分確認できる範囲が増えており、それも優也には少し嬉しかった。


「じゃ、行こか」


 優也が言い、ブレーキを確認してシフトを入れる。その直前、いつもの癖でハンドルへ軽く手を置きながら、前を向いたまま小さく付け加えた。


「今日はちょっと長めやけど、頼むで」


 真琴はその言葉が自分へ向けられたものではないとすぐ分かったらしく、横から優也を見る。優也自身も、言ったあとで前回の『宛先――ACROSS』を思い出したが、わざと掛けた言葉ではないので、そのまま発進しようとした。


 運転席の中央モニターが一瞬だけ暗くなり、二人ともその場で動きを止めた。数秒前まで通常の車両情報しか出ていなかった画面に細い白線が浮かび、それがゆっくり見慣れた形式の文字へ変わっていく。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』


 前回と同じ二行だったが、今回は「ACROSS」という名前を口にしていない。優也が前を向いたまま車へ掛けた「頼むで」という一言だけで、同じ宛先が表示されたことになる。


 優也はハンドルに手を置いたまま、何も言わずに画面を見る。真琴も助手席から身を乗り出さず、座ったまま確認した。数秒待っても三行目は出ず、やがて二行はゆっくり薄くなって通常の車両表示へ戻った。


「再現したな」


 優也が言うと、真琴は表示が完全に消えたことを確認してから頷いた。朝の時点では前回の再現以上の変化はないが、その再現条件が少し自然になったことのほうが重要だった。


「はい。しかも今回は“ACROSS”って名前を言ってません。前を向いて、車に向けて“頼むで”と言っただけです」


「じゃあ、名前拾ったわけちゃう」


「少なくとも今回の発話から名前を取ったわけではないですね。優也さんが誰に向けて言ったかを、何か別の情報から分けたように見えます」


「受領はなし」


「はい。そこも前回と同じです。宛先としては出る。でも、その先はまだ出ない」


 真琴はすぐにノートを開かず、まず発進するよう促した。ここで停車したまま検証を始めれば、せっかく自然に出た表示を朝から実験へ変えてしまうので、今日の目的どおり走ることを優先したかった。


「今は出掛けましょう。止まったまま検証を始めたら、今日の予定がまた全部それになります」


「了解。ほな今度こそ行くで」


 優也は笑い、ブレーキと周囲をもう一度確認してからACROSSをゆっくりガレージから出した。朝の二行は頭に残っていても、今日はまず車として使うという方針を崩さなかった。


          ◇


 市街地を抜け、広めの道路へ出ると、車内の緊張も少しずつほどけていった。優也は大型車らしい車幅と曲がり方を意識しながら運転し、真琴は助手席から周囲を見たり、次の交差点を案内したりする。前回の表示について話すことはあっても、それだけで会話が埋まることはなく、途中からは道の駅で何を食べるかという話になった。


「前に見た時、蕎麦あったよな」


「ありました。あと定食も。優也さん、また蕎麦ですか?」


「ええやん。運転してる時に重いもん食ったら眠なるし」


「それなら私も軽めにします。帰りに何か買って、夜はACROSSで食べてもいいですし」


「それええな。地元の野菜とか売ってたら買おか」


「また冷蔵庫が増えますよ」


「この前整理したから入る」


「そう言って増えるんです」


 真琴が笑い、優也も笑った。運転席のモニターには通常表示しかなく、さっきの二行が再び出ることもない。ACROSSはいつもどおり静かに走り、路面の凹凸を大きく拾うこともなく、車内は大型車とは思えないほど落ち着いていた。


 道の駅へ着いたのは正午前だった。大型車区画へ停め、二人で中へ入り、結局優也は蕎麦、真琴は小さな定食を選んだ。食後は売店を回り、野菜と豆腐、少しだけ地元の菓子を買う。優也が冷蔵庫へ入れる物を増やし過ぎないよう真琴に止められながらも、最終的には袋一つ分に収まった。


 ACROSSへ戻ると、真琴は買った物をキッチンで整理し、優也は運転席へ戻る前に外周を一度確認した。タイヤ周り、車体下、後部ハッチ、外付け設備に問題はない。戻ってきた優也へ、真琴がキッチン側から声を掛ける。


「冷蔵庫、入りました。豆腐は今日使ったほうがいいです」


「了解。夜、冷奴にするか」


「それなら野菜も少し使いましょう。買っただけで満足しないでくださいね」


「分かってるって」


 そのやり取りに表示は出なかったが、二人とも気にする様子はなく、買ってきた物をいつものように片付けてから次の予定へ移った。


          ◇


 午後は、道の駅から少し離れた展望スペースまで走った。高台にある小さな駐車場で、大型車でも停められる区画がいくつかあり、平日ではないものの人は多くない。車を停めた二人は外へ出て、風に当たりながら景色を眺めた。


 山の色は少しずつ変わり始めている。真琴が「もう一週間くらいしたらもっと綺麗かもしれませんね」と言い、優也は次の泊まり候補をこの辺りにしてもいいかもしれないと話した。遠くの景色を見ながら、しばらく何も考えずに立っている時間が心地よかった。


 車内へ戻ると、優也はリビングでコーヒーを淹れ、真琴は窓際に座ってさっき撮った写真を見ている。外へ出ていたせいで手が少し冷えており、暖かいカップを持つとようやく指先が戻ってくる。


「今日はほんま出掛けて正解やったな」


「はい。最近ずっとガレージでしたし。こういう日があるほうがACROSSらしいです」


「研究施設ちゃうからな」


「優也さんが言います?」


「俺も反省してる」


 二人は笑い、ガレージで画面を見続けていた最近とは違う、出掛けた日の余韻をそのまま楽しんだ。表示が出ない時間も含めて普通に使えることが、今は二人にとって心地よかった。


 そのあと、真琴は撮った写真を何枚か優也へ見せ、次の一泊候補に使えそうな場所をメモへ残した。ACROSSの表示については、朝の二行以上の変化がなかったこともあり、あえて話題を戻さないまま時間が過ぎた。


          ◇


 夕方近くになり、二人はガレージへ戻ることにした。帰り道は少し混んだものの、大きな渋滞にはならず、予定していた時間より少し遅い程度で到着する。車体を停めてエンジンを切り、買ってきた物を整理したあと、二人はそのまま簡単な夕食を作ることにした。


 昼に買った豆腐は冷奴にし、野菜は豚肉と一緒に炒める。優也がキッチンでフライパンを使い、真琴は味噌汁とご飯を用意した。外で食べるより地味だが、出掛けた日の最後にACROSSで食べる食事としては、こういうもののほうが二人とも落ち着く。


「今日、朝以外なんも出えへんな」


 優也が野菜を炒めながら言うと、真琴は味噌汁の味を見て火を弱めてから答えた。朝の二行だけでも十分な確認になっているため、何も増えないまま一日が終わっても問題ないという考えは二人とも同じだった。


「それでいいんじゃないですか。宛先がもう一度ACROSSになっただけでも十分です。しかも名前を呼んでませんから、前回より条件としては強いです」


「でも、受け取ったかどうかはまだ分からん」


「はい。そこは何も増えてません」


 優也は一度だけ頷き、それ以上続けなかった。今の段階で欲しい表示を口にすること自体が条件を作ることになるし、真琴が嫌う以前に、自分でもそれを避けたいと思うようになっている。


 料理が完成し、二人で食べ始める。今日撮った写真や、道の駅で売っていた物の話をしながら、ゆっくり食事を進めた。真琴が買った小さな菓子を食後に半分ずつ分け、コーヒーまで飲むと、外はすっかり暗くなっていた。


          ◇


 片付けを始めたのは午後七時を過ぎた頃だった。真琴は食器を拭き、優也はキッチンを片付ける。今日一日を通して特別な表示は朝の一度だけで、二人ともそれを不足だとは感じていなかった。


 優也が最後のカップを棚へ戻した時、真琴はリビング側で買った物の袋をまとめている。ゴミを一つにし、持ち帰る物と車内へ残す物を分ける。そこにあった小さな菓子の空き袋を真琴が手に取り、少し離れた優也へ聞いた。


「これ、捨てていいですよね?」


「ええよ。そこのゴミ袋入れといて」


「分かりました」


 何でもない会話で、表示は出ないまま片付けもそのまま続いた。二人とも、反応がないことを確かめるために言葉を増やすようなことはせず、帰る準備を少しずつ進めていった。


 やがて真琴がリビングのテーブルを拭き終え、優也は運転席の電源状態を確認する。帰るまであと十分もかからない。二人とも、今日はこのまま終わると思っていた。


 優也が運転席から戻る途中、ふと車内全体を見回した。長い一日を走り終え、キッチンもリビングも片付き、照明だけが静かに残っている。朝、出発前に「頼むで」と言った時には『宛先――ACROSS』が出た。それから一日、特に問題もなく戻ってきた。


 優也は車内全体を見回したまま、誰に言うともなく、けれど真琴へ向けた言葉ではないことが自分でも分かる調子で言った。走り終えた車へ自然に声を掛ける、いつもの癖に近い言い方だった。


「今日はありがとな。よう走ってくれたわ」


 真琴はリビングの端で手を止め、優也も自分で言った直後に朝のことを思い出した。数秒は何も起きず、やはり今日はここまでかと思い始めた頃、リビングのスマートフォンがゆっくり暗くなり、白い文字が現れた。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』


 朝と同じ二行が並び、二人は黙って見守った。数秒後、その下へさらに細い線が現れたことで優也の表情が変わり、真琴もスマートフォンへ近づかず、その場で息を詰めるように見ている。その線は急がず、ゆっくり新しい文字へ変わっていった。


『受領――ACROSS』


 優也も真琴もすぐには声を出さず、三行になった画面をそのまま見つめた。これまで人物名と結びついていた受領表示に、今度はACROSS自身の名前が入っている。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』


 これまで『受領――真琴』『受領――優也』は出ていた。人と人の間で物や情報が届いた時、誰が受け取ったのかが表示されてきた。


 今度は、その受け取る側にACROSSが入っていた。返事でもなければ、新しい言葉を返してきたわけでもないが、少なくとも表示の形式だけを見れば、優也から向けられた言葉をACROSS側が受領した形になっている。


 それでも、優也の「ありがとな」がACROSSへ向けられ、その言葉の先としてACROSSが表示され、さらに受領側としても同じ名前が出た。


 三行は十秒ほど残り、その間も二人は余計な言葉を足さなかった。今ここで何かを言えば、次に出る表示が何へ反応したのか分からなくなることを、もう二人とも分かっていた。


 その間、優也は何も言わなかった。言えば何か続くかもしれないという考えが一瞬浮かんだが、すぐに消した。今は、この三行だけで十分だった。


 やがて『発信――優也』が薄くなり、『宛先――ACROSS』が続き、最後に『受領――ACROSS』が静かに消えた。ホーム画面へ戻ってからも、二人は少しのあいだ黙っていた。


「……受け取った、って出たな」


 優也がようやく言うと、真琴は画面が完全にホーム表示へ戻ったことを確かめてから、張りつめていた息をゆっくり吐いた。


「はい。少なくとも表示上では、ACROSSが受領側になりました」


「朝は宛先だけやった」


「そうです。前回も宛先だけ。今日は朝も宛先だけでした。でも今は、その下に『受領――ACROSS』が追加された」


「何が違ったんやろ」


 優也の問いに、真琴はすぐ答えなかった。内容が違うのか、時間が必要だったのか、一日の運転が終わったことが関係するのか、優也の言葉が感謝だったからなのか。考えられる違いはいくつもある。


「分かりません。朝は“頼むで”、今は“ありがとな”。意味の違いかもしれないし、最初と最後という状況の違いかもしれない。今日一日使ったあとだから出た可能性もあります。でも、今ここで一番大事なのは、理由より表示そのものだと思います」


「ACROSSが受け取った側として出た」


「はい。今までの記録の形式に合わせるなら、そう読めます」


 真琴の言い方は慎重だった。それでも「そう読めます」と言ったこと自体が、優也には大きく感じられた。以前なら、同じ表示が出てもまず別の可能性を並べ、そこまでの言葉すら避けていたかもしれない。


「これ、返事ではないんやな」


 優也が念を押すように言うと、真琴は迷わず頷いた。受領と応答は別物として扱うという線だけは、ここまで何度も確認してきた通り崩さない。


「返事ではありません。内容に対して何か答えたわけじゃないです。ただ、“優也さんからACROSSへ向けた発話を、ACROSSが受領した”という形の表示になった。今までより一段先なのは確かだと思います」


「聞こえた、みたいなもん?」


「そういう言い方もしたくなりますけど、今は受領表示としておきましょう。聞くという感覚があるかまでは分からないので」


「はい先生」


 優也は少し笑ったが、その笑いはいつもより静かだった。期待していた返事が来たわけではないのに、言葉が届いた可能性だけで十分に大きいと感じていたからだった。


          ◇


 真琴はノートを開き、今の出来事を急がず順番に書いた。発話は『今日はありがとな。よう走ってくれたわ』。発信者は優也。真琴は近くにいたが、言葉の向きは明らかにACROSSだった。数秒後に『発信――優也』『宛先――ACROSS』が表示され、その後『受領――ACROSS』が追加された。


『ACROSSが受領対象として表示』

『宛先・受領ともACROSS』

『ACROSS側からの応答内容なし』

『受領条件――不明』

『発話内容理解――未確定』

『自我・人格・自己認識――未確定』


 そこまで書いたところで、真琴は一度ペンを止めた。いつもの注意書きは残しているが、今日はそれだけでは足りないように感じたらしく、その下へもう一行を追加する。


『一方向の発話がACROSS側で受領された可能性――高』


 優也はその文字を見て少し驚いた。慎重な真琴が可能性を「高」と書くのは、それだけ表示の形式がこれまでの記録ときれいにつながっているということでもあった。


「“高”って書くんや」


「表示がそのままですから。少なくとも今まで使ってきた“受領”と同じ形式でACROSSが出ています。ここだけ弱く書く理由はないと思います。ただし、受領した内容を理解しているかは別です」


「それで十分や」


 優也は素直にそう答えた。返事を引き出すより、今は届いた可能性をそのまま残すほうがいいという考えが、自分の中でも自然になっていた。


 ここまで何度も、声になる前の変化を見てきた。最初は優也の頭の中にある《鑑定》結果を真琴へ見せるだけだったものが、表示先を変え、真琴が見たかどうかを区別し、言葉の種類を分け、人を一人ずつ識別し、その間で何が動いたかまで整理するようになった。そして今、優也からACROSSへ向けた言葉が、初めてACROSS自身の受領として表示された。


 まだ、ACROSS側から何かが返ってきたわけではない。それでも、届いたかどうかすら分からなかった頃とは違い、発信、宛先、受領が一つの流れとして同じ画面に並んだ。


「真琴」


「はい」


「今日は、もう終わりでええな」


「はい。ここから続けたら、絶対に“じゃあもう一回”になります。今日はこれを残して終わりましょう」


「俺もそう思う」


 二人はノートを閉じ、途中で止まっていた帰る準備へ戻った。表示の続きを待つために残るのではなく、最初から決めていた一日の終わりをそのまま進める。


          ◇


 照明を順番に落とし、真琴がバッグを持ち、優也が玄関の鍵と電源を確認する。さっきまでの三行が頭に残っていても、二人ともACROSSへ追加で話し掛けることはしなかった。


 優也は靴を履き、いつものように車内を振り返る。ここで「またな」と言えば、もう一度『宛先――ACROSS』や『受領――ACROSS』が出るかもしれない。そう思ったが、今日は言わなかった。


 真琴がその様子に気づいたらしく、小さく笑った。いつもなら自然に出る「またな」をあえて口にしない優也の判断が、今日は追加の確認をしないという約束そのものになっていた。


「今日は言わないんですね」


「言うたら試してるみたいやろ。さっきので終わりって決めたし」


「その判断でいいと思います」


「成長したやろ」


「かなり」


「そこは即答なんや」


 二人は笑い、そのままACROSSを降りた。扉を閉めて施錠するまで、どちらも車内へ向けて新しい言葉を足さず、今日の最後の表示を三行のまま残した。


 扉を閉め、施錠し、ガレージの照明を落とす。暗くなった車体は何も変わらず、白い文字も見えない。


 外へ出てから、真琴は少し歩いたところで足を止めた。普段なら帰宅後に整理してから話すようなことを、その場で伝えたいと思ったらしい。


「優也さん」


「ん?」


「今日のは、私はかなり大きいと思います」


 優也は足を止めて真琴を見る。慎重な彼女が、整理を終える前から自分で「大きい」と言うのは珍しく、優也も冗談を挟まず続きを待った。


「今までは、ACROSSを宛先として表示しても、優也さん側の発話情報を整理しただけとも言えました。今日は、その宛先になったACROSSが受領側としても表示された。もちろん、それでも内部処理の状態表示かもしれません。でも、少なくとも“優也さんの言葉がACROSSへ向かい、ACROSS側で受領された”という形を、表示そのものが作っています」


「うん」


「だから次に見るべきなのは、返事をさせることじゃないと思います」


「じゃあ何?」


「ACROSSへ向けた言葉なら何でも受領するのか。それとも、内容によって違うのか。優也さんだけなのか、私でも同じなのか。自然な場面が来た時に、そこを一つずつ見たいです」


「真琴からACROSSに言うた時か」


「はい。でも、次に乗った瞬間に私が話し掛けるようなことはしません。普通に必要な言葉が出た時でいいです」


「分かった。そこはもう任せるわ」


 優也がそう言うと、真琴は少し笑った。以前なら一番先を急ぎそうだった優也が、今は変な条件を足さずに残したいと言うこと自体、二人の確認の仕方が変わった証拠でもあった。


「優也さんが一番試したくなりそうなのに」


「今はな、逆に急ぎたくない。ここまで来たら変なことして崩したくないわ」


「私も同じです」


 二人は再び歩き始めた。ガレージから離れてしまえば、今夜これ以上確かめることはできないが、その距離がかえって区切りとしてちょうどよかった。


          ◇


 帰宅してしばらくすると、真琴から今日の記録をまとめたメッセージが届いた。朝の『発信――優也』『宛先――ACROSS』と、夜の『発信――優也』『宛先――ACROSS』『受領――ACROSS』が並べられ、その違いが簡潔に整理されている。


『朝:優也「今日はちょっと長めやけど、頼むで」』

『表示:発信――優也/宛先――ACROSS』

『受領表示なし』


『夜:優也「今日はありがとな。よう走ってくれたわ」』

『表示:発信――優也/宛先――ACROSS/受領――ACROSS』


『ACROSSを独立した宛先として再確認』

『ACROSSが受領側として初表示』

『受領条件不明』

『発話内容理解・応答生成は未確認』


 その下には、今日ノートへ書いたのと同じ『一方向の発話がACROSS側で受領された可能性――高』という一行が添えられていた。


『一方向の発話がACROSS側で受領された可能性――高』


 優也はしばらくその一文を見た。声が返ってきたわけではなく、感謝の言葉に対して何か別の内容を返されたわけでもない。


 「ありがとう」に対して何か返してきたわけでもない。


 それでも、言葉の行き先としてACROSSが表示されるだけだった前回から、今日はその先へ一つ進んだ。


 優也が話し、その言葉がACROSSへ向き、ACROSSが受領側として表示される。そこまでの流れが、これまで人物同士で使われてきたのと同じ形式の中で初めてつながった。


 優也は真琴へ『これで、少なくとも届いた可能性は高いってことやな』と送り、少しして返ってきた返事を待った。


『はい。“届いた”という言い方なら、今までで一番近いと思います。ただし、届いた内容をどう扱っているかはまだ分かりません』


 優也は『了解』と返し、スマートフォンを置いた。ここから先を一人で考え続けても答えは増えないので、今日は記録された三行をそのまま受け入れることにした。


 これまでは、届いたかどうかを確かめる相手はいつも真琴だった。優也の中にしかなかったものを真琴へ見せ、真琴が見たことを表示が拾い、その受領を確認してきた。


 今日は、その受け取る側へ初めてACROSSが入った。まだ一方向ではあるものの、言葉は行き先を持ち、その先で受け取られた形まで表示された。


 優也はベッドへ入る前、もう一度だけ今日の三行を思い出した。短い表示なのに、ここまで積み重ねてきた変化が一つの流れとして並んで見える。


『発信――優也』

『宛先――ACROSS』

『受領――ACROSS』


 返事はまだなくていい。今は、優也から向けた言葉がACROSSへ届いた可能性を、初めて表示の形で確かめられただけで十分だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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