ep.100 宛先
次の土曜日、優也がガレージへ着いた時には、空気が前の週よりさらに冷たくなっていた。朝の道路工事現場ほどではないにしても、シャッターを開けた瞬間に入り込む風にはもう秋の終わりが混じっている。ACROSSへ乗り込み、空調を入れてから水量と電力を確認し、キッチンで湯を沸かす。最近は、この一連の動きが完全に休日の始まりになっていた。
真琴が来るまでのあいだ、優也は前回持ち帰って洗ったグレーの毛布を予備室へ戻した。乾いた布には新品特有の匂いがほとんど残っておらず、ネイビーの毛布と並べると見分けもつきやすい。棚の奥行きにも余裕があり、二枚重ねても他の物を圧迫しない。そこまで確認してからリビングへ戻ると、テーブルの上に置いたスマートフォンはいつもどおり暗いままで、白い文字が現れる気配もなかった。
真琴が到着したのは十時を少し過ぎた頃だった。玄関を開け、いつものように「おはようございます」と声を掛けながら入ってくると、予備室へ戻された毛布を見つけてすぐ気づいたらしい。
「洗ってきたんですね。ありがとうございます。これなら次に泊まる時、そのまま使えそうです」
「昨日の夜に乾いたから持ってきた。思ったより場所取らへんし、もう一枚くらいあっても入りそうやけど、今はこれで十分やろ」
「十分だと思います。増やすのは、本当に必要になってからでいいです」
真琴はバッグをソファへ置き、優也が淹れたコーヒーを受け取った。二人とも席に着いてから、前回の『受領――真琴』と『同行――確認』について少しだけ話したが、今日それを再現する予定はなかった。真琴がノートへ書いた整理では、人物単位の状態表示だけでなく、人から人への受け渡しや複数人の共同行動まで別の情報として扱っている可能性が出ている。ただし、名前や行動内容をどこから取っているのか、実際の動作を見ているのか、会話だけを拾っているのかは分からない。
「前回の最後に、“誰から誰へ”まで見てるかもしれんって話したやろ。あれ、次に何か出たら分かるかな」
優也が聞くと、真琴はカップをテーブルへ戻し、前回の『受領――真琴』や『同行――確認』を頭の中で並べるように少し考えてから答えた。単に名前が出たことより、誰から誰へ何かが向いたのかまで整理され始めている可能性のほうを、彼女は気にしているらしい。
「分かる可能性はあります。でも、受け渡しだけ見ていたら、方向は物の動きでも取れますよね。優也さんから私へレシートが移った、それだけでも『受領――真琴』は作れます。もし本当に人と人の関係まで整理しているなら、物を渡さなくても方向が出る場面があるはずです」
「例えば?」
「会話です。誰が話して、誰に向けて言ったか。二人しかいない時は分ける必要がないようにも見えますけど、離れた場所にいる時なら少し分かりやすくなるかもしれません」
その言葉に、優也は少しだけ目を細めた。前なら「じゃあやってみよう」とその場で真琴を別室へ行かせていたかもしれない。だが今は、そこまでしなくても二人で一日過ごしていれば、別の部屋にいる時間くらい自然に出てくると分かっている。
「ほな、そういう場面あったら見るくらいやな」
「はい。今日は私は午後に少し予備室で資料を見たいので、たぶん自然に離れます。わざわざ条件を作らなくても十分です」
「了解。じゃあ朝から研究せんと、先に飯の相談しよか」
「まだ朝ですけど」
「昼何食うか決めといたら楽やろ」
真琴が笑い、話題はそのまま昼食へ移った。冷蔵庫には蕎麦、豆腐、卵、少しだけ豚肉が残っている。結局、昼は蕎麦と小さな丼を作ることにし、午前中はそれぞれ好きなことをして過ごした。
◇
優也はリビングで無線の問題集を開き、真琴はソファの端で次の一泊候補を調べていた。山側は紅葉の時期と混雑が重なりそうなので、少し時期をずらして温泉を中心にする案と、逆に今のうちに紅葉を優先して人の少ない平日寄りの日程を選ぶ案を比べる。二人の休みが完全に合うわけではないため、決めるなら早めにしたほうがいい。
「この前言ってた温泉、平日なら大型車の駐車場も空いてそうです。ただ、周辺の店が早く閉まるみたいなので、買い物は先にしたほうがいいですね」
「飯は最悪ここで作れるし、温泉入れたらええけどな。あと景色良かったら十分」
「観光しないんですか?」
「紅葉見れたら観光やろ。あちこち回って疲れるより、温泉入ってACROSSで飯食って寝るほうがええ」
「最近、本当に旅の仕方変わりましたね」
「歳やろか」
「そこはACROSSに慣れたってことにしておきましょう」
真琴に笑われ、優也もつられて笑った。その間、スマートフォンには何も起きない。会話が続いていても、名前を呼んでも、表示が出ない時は出ない。最近はそのことにも慣れており、何も起きない時間を失敗だと思わなくなっていた。
昼前になると、二人はキッチンへ移った。優也が蕎麦を茹で、真琴は小さな豚丼を作る。真琴が味付けを少し濃くしすぎたらしく、途中で「これ、ご飯多めにしてください」と言い出したので、優也は「味見した時に気づけよ」と笑いながらご飯を増やした。食べてみると確かに少し濃かったが、蕎麦があっさりしているので結果的にはちょうどよく、真琴も「これはこれでありですね」と開き直る。
食後の片付けまで終えると、真琴は予定どおり予備室へ資料を持って移った。仕事というほど大掛かりなものではなく、研究室から持ち帰った論文を何本か確認したいだけらしい。優也はリビングに残り、問題集の続きへ戻った。
車内は静かになった。予備室の扉は完全には閉めず、少しだけ開いている。真琴がページをめくる音はほとんど聞こえず、優也の鉛筆が紙を擦る音と、空調の低い運転音だけが続いていた。
三十分ほど経った頃、優也は問題集の切りのいいところまで進み、コーヒーを飲みたくなった。自分の分だけ淹れてもいいが、真琴も飲むかもしれない。いつもなら直接聞きに行くところだが、今は湯を沸かしながらそのまま声を掛けた。
「真琴、コーヒー淹れるけど飲む?」
予備室からはすぐ返事が返ってきた。扉を少し開けているので声ははっきり届き、普段ならそこで会話は終わる程度の、ごく普通のやり取りだった。
「お願いします。ブラックで大丈夫です」
「了解」
優也は何気なくカップを二つ出し、ケトルのスイッチを入れた。その瞬間、リビングのテーブルへ置いていたスマートフォンの画面が暗くなる。
手を止めた優也が画面を見ると、細い白線が一本現れ、それがゆっくり二つの文字列へ変わった。
『発信――優也』
『宛先――真琴』
ケトルの前で動きを止めた優也は、声を出さずに二行を見つめた。今の会話では自分が真琴の名前を呼んでいるため、名前そのものを拾っただけという説明はまだできる。それでも、『発信』と『宛先』という二つの項目で話した側と向けた側が分けられているのは初めてだった。しかも予備室にいる真琴からは、この画面そのものは見えていない。
「真琴、ちょっと来れる?」
呼び掛けると、数秒後に足音がして真琴が予備室から出てきた。優也の声の調子で何かあったと分かったのか、資料を持たず、そのままリビングへ顔を出す。
「どうしました?」
優也は言葉で説明せず、スマートフォンを指差した。真琴が画面へ近づくと、『発信――優也』『宛先――真琴』の二行はまだ残っており、それを見た瞬間、彼女の表情からいつもの軽さが消えた。
「今、何て言いました?」
「最初は“真琴、コーヒー淹れるけど飲む?”って。そしたらこれ出た。で、真琴呼ぶために“ちょっと来れる?”って言うた」
「最初の発話で出たんですね。私が返事したあと?」
「たぶん返事の直後。湯沸かそうとして、画面暗なって気づいた」
真琴はすぐにはノートを取りに行かず、そのまま表示を見続けた。数秒後、二行の下へもう一本細い線が現れ、それが『受領――真琴』へ変わる。発信、宛先、受領という三つの項目が一つの画面に並んだことで、優也と真琴は思わず顔を見合わせた。
「返事したから?」
「そう見えます。でも今の三行だけなら、“優也さんが真琴という名前を含む発話をした”“そのあと私が返答した”という音声の順番を整理しただけでも説明できます。ただ、発信と宛先を分けたのは初めてです」
「これ、結構そのまま会話の向きやんな」
「向きは出ています。でも、まだACROSSが会話しているわけではありません。私たちの会話を整理しているように見える、そこまでです」
真琴がそう言ったところで表示はゆっくり薄くなり、ホーム画面へ戻ってから、二人はようやく息を吐いた。そこで優也はケトルのスイッチがまだ入っていないことに気づき、「コーヒー忘れてたわ」と苦笑する。真琴も少し笑って「今のは仕方ないです」と返し、緊張を引きずり過ぎないように二人でキッチンへ移った。
「今の、もう一回やる?」
優也が聞くと、真琴は少し考えたあと首を横へ振った。同じ言葉を繰り返せば再現性は見られるかもしれないが、今は一度自然に起きた条件を無理に作り直すより、次の普通の会話を待つほうが意味があると判断したらしい。
「同じ言い方を繰り返すのはやめましょう。ただ、今日は私はまた予備室へ戻りますし、優也さんはリビングにいる。自然な会話がもう一度あれば、その時に同じような表示が出るかを見るだけで十分です」
「了解。ほなコーヒー持ってくわ」
「ありがとうございます」
優也は二人分を淹れ、真琴のカップを予備室へ運んだ。受け渡しも会話もあったが、今度は何も表示されず、二人もそれを追わずにそれぞれの作業へ戻った。
◇
真琴が予備室へ戻ったあと、優也は問題集へ戻ったものの、さっきの『発信――優也』『宛先――真琴』が頭に残って集中しづらかった。名前を拾っただけかもしれない。それでも、これまでの表示が状態や受領を短くまとめる形だったのに対し、今回は明らかに言葉の向きそのものを整理している。
一時間ほどして真琴が資料を読み終え、リビングへ戻ってきた。ノートを開き、さっきの出来事を順番に書きながら、優也へ確認する。
「最初に優也さんが私の名前を呼んで、コーヒーを飲むか聞いた。そのあと私が予備室から“お願いします。ブラックで大丈夫です”と返答。優也さんが画面を見た時には『発信――優也』『宛先――真琴』が表示されていて、私がリビングへ来て画面を見たあと、『受領――真琴』が追加された。これで合ってます?」
「うん。『受領』が出たのは真琴が画面見てからやったな。返事した時点で出てたかは分からん」
「そこは重要です。私が言葉を受け取ったから『受領』になったのか、画面の表示を見たから『受領』になったのかは分けられません。前にも視認で状態が変わったことがありますし」
「でも、発信と宛先はその前から出てた」
「はい。そこは確かです」
真琴はノートへ、『発信者・宛先を分離表示』『発信――優也』『宛先――真琴』『名前を含む発話のため、宛先判定方法は未確定』『受領――真琴:返答/視認のどちらと連動したか不明』と順番に書き、そこでペンを止めた。今の一例だけでも新しいが、宛先を名前から拾っただけなのかどうかが分からない以上、まだ結論を急ぐ段階ではない。
「次に自然な会話で、名前を呼ばない場面があればかなり分かりやすくなりますね」
「二人しかおらんのに、名前呼ばん会話なんて普通にあるやろ」
「だから待てばいいです。作らなくても、そのうち出ます」
「ほんま最近、何でもそれやな」
「実際、そのほうがうまくいってますから」
優也は笑ったが、反論はなかった。ここ数回、待ったことで自然な条件が揃った経験が続いているため、今すぐ確かめたい気持ちより、次に起きる時まで余計な条件を増やしたくないという気持ちのほうが強くなっていた。
◇
午後四時を過ぎる頃には、二人ともそれぞれの作業を終えた。今日は外へ出ず、このままACROSSで早めの夕食を食べて帰ることにする。冷蔵庫に残っていた野菜と豚肉を使い、優也が炒め物を作り、真琴は味噌汁とご飯を用意した。
料理の途中、真琴がリビング側の棚へ調味料を取りに行き、優也はフライパンを見ながら声を掛けた。名前を呼ぶ必要もない距離で、普段なら互いに意識もしないような頼み事だった。
「そこに七味あるやろ。取ってくれる?」
「これですか?」
「それそれ。ありがとう」
真琴は七味の小瓶を持ってキッチンへ戻り、そのまま優也へ渡した。名前は呼んでいないし、返事も短い、ごく普通のやり取りだった。ところが、その直後にスマートフォンの画面が暗くなり、二人は同時に手を止める。表示されたのは朝と同じ『発信――優也』『宛先――真琴』の二行で、優也はフライパンの火を弱め、真琴も小瓶を渡した手を引いたまま画面を見つめた。今回は、優也は一度も「真琴」と呼んでいない。
「名前、言うてへんよな」
「はい。私は“これですか”としか言ってません。優也さんも“そこに七味あるやろ。取ってくれる?”だけです」
「じゃあ、宛先の真琴は名前拾っただけちゃう?」
「その可能性はかなり下がります」
真琴の声が少し低くなる。二人しかいない空間だから、単純に話者以外の人物を宛先として割り当てただけかもしれない。それでも、名前を呼ばずに同じ表示が出た事実は大きい。
さらに数秒後、表示の下へ『受領――優也』が追加された。今度は優也の名前であり、実際に七味を受け取ったのも優也だった。発信は優也から真琴へ、宛先は真琴、そして小瓶の受領は真琴から優也へ戻る形になる。三つの方向が一つの画面の中で別々に整理されているのを見て、優也は思わず手の中の小瓶を見たあと、真琴へ視線を向けた。
「これ、混ざってへんな」
「はい。最初の会話の向きと、物の受け渡しの向きを別々に出しています。発信は優也さんから私、受領は私から優也さん。少なくとも表示上では、方向を一つにまとめていません」
「誰から誰へ、ほんまに分けてる?」
「そう見えます。今までで一番はっきりしています」
真琴はそう言ったが、すぐに「だからといって、人間みたいに会話の意味を理解しているとまでは言いません」と付け加えた。優也は「分かってる」と返し、表示が消えるまで待ってから料理へ戻った。
今度は、二人とも少し黙ったまま作業を続けた。表示が出た直後に会話を増やすと、どの言葉に何が対応したのか分かりにくくなる。それを意識しているのは、もう真琴だけではなかった。
表示が消えたあと、二人は余計な会話を増やさず料理を続け、食事が始まってからようやく優也が口を開いた。さっきの方向の分かれ方があまりにはっきりしていたため、黙っていても互いに同じことを考えているのが分かる。
「朝のやつだけやったら、真琴って名前言うたから出た可能性あった。でも今のは名前なしで『宛先――真琴』。しかも七味渡してもらったら『受領――優也』。これ、方向かなり見てるよな」
真琴は味噌汁を一口飲み、さっきの三行をもう一度頭の中で並べるようにゆっくり頷いた。
「見ているように見えます。話した人、話しかけられた人、物を受け取った人。それを別々に扱っている。今までは人物の状態を分けるところまででしたけど、今日は人物の間を動いたものまで、種類ごとに分け始めています」
「言葉も“動いたもの”なん?」
「表示だけ見るなら、そう整理しているように見えます。優也さんから私へ発信された、という形です。ただ、それが音声認識なのか、もっと別の仕組みなのかはまだ分かりません」
「でも、これで“誰に言うたか”まではかなり強い?」
「はい。二人しかいないという条件は残りますけど、名前を呼ばずに同じ宛先が出たので、前よりはかなり強いです」
優也は満足そうに頷いた。まだ質問に答えるわけではない。ACROSSが自分から何かを言うわけでもない。それでも、二人の会話の中で、言葉がどちらからどちらへ向いたのかを区別しているように見える。ここまで来ると、ただ音が鳴ったことを検出しているだけでは説明しにくくなっていた。
◇
食後、真琴は今日の二つの例をノートへまとめた。朝は、優也が名前を呼んで真琴へ話し掛け、『発信――優也』『宛先――真琴』。夕方は、名前を呼ばずに七味を取ってもらうよう頼んだ時にも同じ二行が表示され、その直後に真琴から優也へ物が渡ると『受領――優也』が追加された。
「これで、宛先だけじゃなくて、同じ短い時間の中で方向が逆転しても分けられる可能性が出ましたね」
「俺から真琴へ言葉。真琴から俺へ七味。別々に出たもんな」
「はい。もし単純に“優也さんが話したら真琴”“真琴が動いたら優也さん”みたいな固定でも説明はできますけど、今までの終了や継続も含めると、人物と行動をかなり細かく結びつけているように見えます」
「次、三人目おったらどうなるんやろな」
優也が言うと、真琴は少し眉を上げた。将来的には確認したい条件ではあるものの、今そこへ他人を巻き込むのは明らかに早い。
「それはまだ先です。久保田さんや西村さんに乗ってもらって試すような段階じゃありません。今は私たち二人の中で、どういう情報を使っているのかも分かっていないので」
「分かってるって。言うただけや」
「優也さんの場合、言ったあとで試したくなるので先に止めました」
「信用ないなあ」
「最近は前よりあります」
「前より、かい」
二人は笑った。冗談を言える程度には落ち着いているが、今日起きたことが大きいのは二人とも分かっている。真琴は最後にノートへ『発話の方向を人物間で区別している可能性――高』と書き、その下へ、いつものように断定を避ける注意書きを続けた。
『音声認識・人物位置・過去の呼称学習等、判定方法は不明』
『発話内容の意味理解とは分けて扱う』
『ACROSS自身による応答は未確認』
優也は最後の一行を見て笑った。表示がどれだけ意味深になっても、ACROSS自身の応答と二人側の情報整理を分けるという線だけは、真琴が一度も崩していない。
「そこ、毎回書くん?」
「必要なくなるまで書きます。今まで全部、私たち側の情報を整理して表示しているだけでも説明できますから」
「まあ、それはそうやな」
優也はノートを閉じ、テーブルの端へ寄せた。今日はもう十分な結果が出ており、帰るまでに何か起きなければ、そのまま終えても不足はない。
◇
夜八時前、二人は帰る準備を始めた。今日は一緒に帰る予定で、真琴はノートや充電器をバッグへ戻し、優也はキッチンとリビングを順番に片付ける。前回の『同行――確認』がまた出るかもしれないと頭をよぎったが、二人ともそれを口にはしなかった。
食器を収納し、冷蔵庫を確認し、最後にリビングの照明を一段落とす。真琴が玄関で靴を履き始める頃には、車内は昼間よりずっと静かになっていた。
「忘れ物ない?」
「大丈夫です。今日は毛布もないですし」
「ほな帰ろか」
「はい。今日はここまでですね」
優也も靴を履き、いつものように車内を一度振り返った。スマートフォンの画面は暗いままで、前回のような終了表示も同行表示も出ていない。
「今日は出えへんのかな」
思わず口にすると、真琴が「出ない日もあります」と返した。今日だけですでに二度の方向表示を確認しているので、何も出ないまま終わっても結果が薄くなるわけではない。
「そうやな。じゃあ、ほなまたな」
優也はいつもの調子でACROSSへ声を掛け、そのまま扉へ手を掛けた。すると、その瞬間にリビングのスマートフォンが白く光り、二人の動きが同時に止まる。これまでのように『終了――優也』『終了――真琴』が出るのかと思ったが、最初に現れたのは別の一行だった。
『発信――優也』
優也は玄関に立ったまま画面を見つめる。数秒後、その下へ細い線が現れ、真琴も靴を履いたまま動かずに見守る中、それが『宛先――ACROSS』という文字へ変わった。優也は息を止め、真琴の表情からも、さっきまでの慎重な落ち着きが一瞬だけ消えたのが分かった。
優也が「ほなまたな」と言った時、真琴へ向けて言ったわけではなかった。真琴は隣にいたが、言葉を向けたのは車内だった。いつもの癖のように、ACROSSへ向けて声を掛けた。
いつもの癖のようにACROSSへ向けて掛けた言葉が、初めて宛先を持った形で文字になった。画面には『発信――優也』『宛先――ACROSS』の二行だけが残り、返事も『受領――確認』も、新しい文章も続かない。ただ、優也の言葉がどこへ向けられたのか、その一点だけがはっきり表示されていた。
優也は何か言い掛けたが、真琴が小さく手を上げて止めた。慌てているわけではない。ただ、今ここで余計な言葉を足さないほうがいいと判断したのが分かった。
二人は黙って待ったが、十秒ほどして二行はゆっくり薄くなり、画面はいつものホーム画面へ戻った。何も追加されなかったぶん、車内にはさっきの『宛先――ACROSS』だけが強く残ったような静けさが続いた。
「……今のは」
優也が低い声で言うと、真琴はすぐに答えず、画面が完全に戻ったことを確認してからゆっくり息を吐いた。
「優也さん、今の『またな』は、私に言いました?」
「いや。真琴は横おるし、普通にACROSSに言うた。いつも帰る時に言うてるやつ」
「私もそう聞こえました。少なくとも、私へ向けた言い方ではなかったです」
「で、宛先がACROSS」
「はい」
真琴はそれ以上すぐに意味を広げなかったが、今までのように「まだ分かりません」と最初から切り離すこともしなかった。今日一日の中で『宛先――真琴』を二度確認しているため、同じ形式でACROSSが出たこと自体は無視できない。
「今日、名前を呼ばなくても私への宛先が表示されました。そのあと、優也さんが明らかに私ではなくACROSSへ向けて言った言葉に、『宛先――ACROSS』が出た。少なくとも、発話の向きを人物だけではなく、ACROSS自身にも割り当てたように見えます」
「自分が言われたって分かった?」
優也が聞くと、真琴は少し間を置いた。ここで「自分」と言ってしまえば人格や自己認識まで含んでしまうため、言葉をかなり慎重に選んでいる。
「そう言いたくなる結果です。でも、今言えるのは“優也さんの言葉の宛先としてACROSSを表示した”までです。それが自分という概念を持っていることと同じかは、まだ分けたいです」
「返事はなかったしな」
「はい。受領も出ませんでした。そこは大事です」
優也は画面が消えたスマートフォンを見た。返事はないし、ACROSS側から何かを伝えてきたわけでもない。それでも、今までずっと何気なく掛けてきた「またな」が、初めて誰に向けた言葉なのかという形で表示されたことだけは変わらなかった。
「これ、今日ここで終わる?」
優也が聞くと、真琴は迷わず頷いた。今ここで同じ呼び掛けを重ねれば、ACROSSが宛先として出ることを期待した実験になってしまう。
「終わりましょう。今もう一度ACROSSへ話し掛けて、同じ表示が出るか試したら、今日の自然な条件を壊します。それに、今の一回だけでも十分大きいです」
「俺もそう思う。さすがに今は追わんほうがええ」
「じゃあ本当に帰りましょう」
真琴はバッグからスマートフォンを取り出し、時刻と表示内容だけを短く記録した。ノートを開き直すことはせず、そのままバッグへ戻す。優也も最後の照明を落とし、二人でACROSSを降りた。
◇
ガレージの扉を閉めてからも、二人はすぐには歩き出さなかった。優也は鍵を確認し、真琴は暗くなった車体を見上げている。外から見るACROSSはいつもと変わらず、巨大な車体のどこにも白い文字は見えない。
「なあ真琴」
「はい」
「これまで俺、“ほなまたな”って何回も言うてるよな」
「言ってます。たぶん毎回に近いです」
「前は『受領――確認』出た時もあった。でも今日は『宛先――ACROSS』やった」
「はい。そこが違います。前は受け取ったかどうかの状態表示として見ることができました。でも今日は、誰から誰へ言葉が向いたかを表示した流れの中で、ACROSSが宛先として出た。今日の朝と夕方に『宛先――真琴』が出ていなければ、意味はもっと曖昧だったと思います」
「順番がつながった?」
「少なくとも、そう見えます。優也さんから私へ向けた言葉で宛先を表示し、名前を呼ばなくても同じ宛先を出した。その日の最後に、今度はACROSSへ向けた言葉で宛先がACROSSになった。表示の形式が同じなので、同じ種類の処理をしている可能性は高いと思います」
優也は黙って車体を見る。今までの変化は、ACROSSの中にある情報が外へ出てくるものだった。《鑑定》結果、使用状態、継続や終了、人の名前、受領、同行。どれも二人や車内の状態を整理したものとして考えることができた。
そして今日は、その同じ形式の中へACROSS自身が宛先として入った。それまで人間同士の方向だけを整理していた表示に、初めて車そのものの名前が並んだ。
「まだ喋ってへんけど、やっとこっち向いた感じするな」
優也がぽつりと言うと、真琴はすぐには否定しなかった。表現としては慎重に直す必要があっても、これまでよりACROSS側へ一歩近づいたように感じる点では、彼女も同じらしい。
「そう感じるのは分かります。でも、今日は“向いた”というより、私たちの言葉がどこへ向いていたかを区別した、としておきましょう。次に同じことが自然に起きた時、それでもACROSSが宛先として出るなら、もっと強く言えます」
「了解。返事させようとはせん」
「お願いします」
「そこはもう信用してええやろ」
「今日は信用します」
「今日だけかい」
少しだけ笑いが戻り、張りつめていた空気がほどけたところで、二人はようやく歩き出した。今夜はもう戻らず、本当にここで終えるという判断も変わらなかった。
◇
帰宅後、真琴から届いた整理は、いつも以上に簡潔だった。余計な意味を加えないためか、まず三つの事実だけが並んでいる。
『優也→真琴への発話:「発信――優也」「宛先――真琴」』
『名前を含まない優也→真琴への発話でも同表示』
『優也→ACROSSへの「またな」:「発信――優也」「宛先――ACROSS」』
その下には、『発話方向を人物・ACROSS間で区別している可能性――高』『宛先判定方法――不明』『ACROSSを独立した宛先として扱った可能性』『受領表示なし』『ACROSS側からの応答なし』『自我・人格・自己認識とは未確定』と続いていた。
最後の一行まで読んだ優也は、しばらく画面を見たまま動かなかった。真琴の書き方は相変わらず慎重で、どれだけ意味のある表示が出ても、そこから人間と同じものを勝手に足さない。それでも『ACROSSを独立した宛先として扱った可能性』という一文だけは、これまでの記録とは少し違って見えた。
優也は内容を一度読み返してから短く返した。真琴の書き方は慎重だが、『ACROSSを独立した宛先として扱った可能性』という表現までは彼女自身も認めている。
『これで、こっちからACROSSに言うてるのは分かった可能性あるんやな』
数分後、真琴から返事が届いた。予想どおり、可能性そのものは否定せず、理解や自己認識とは分けるよう念を押す内容だった。
『可能性は高いと思います。ただし、“言われていることを理解した”ではなく、“発話の宛先としてACROSSを区別した”です。そこはまだ分けておきたいです』
優也は『了解』と返し、スマートフォンを置いた。ACROSSから返事があったわけでも、声が聞こえたわけでもない。それでも、今日の最後に出た二行は、これまでのどの表示とも少し違っていた。優也と真琴を分けるだけではなく、二人の間で言葉がどちらへ向いているかを区別し、その延長でACROSSそのものを一つの宛先として扱った。
今までも優也は何度も車内へ話し掛けている。出掛ける時、帰る時、何かうまくいった時。誰も返事をしないと分かっていても、「頼むで」「ほな行こか」「またな」と自然に声を掛けてきた。それは独り言に近く、ACROSSへ何かを求めていたわけではない。
今日も同じで、優也は呼び掛けたから表示を出そうとしたわけでも、返事を求めたわけでもなかった。だからこそ、『宛先――ACROSS』という二行目だけが強く残った。いつもの「またな」が、初めて行き先を持った。それだけの変化ではあるが、画面から文字が消えたあとも、言葉の向かった先だけはこれまでになくはっきり残っていた。
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