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 脳裏に夕暮れ時の情景が浮かんだ。

 そして今、あの歌声を隔てるものはない。

 ああ、この空気、空ってこんなに広いのか? どこまで続いているんだろう——。


 生まれてすぐ、産婆さんの家からここに連れて来られたのが、唯一わたしが外気に当たった経験。


 肌を撫でる風にこんなに感動できたのは、わたしの負から得た特権だった。


 あの声の持ち主はどこ? 子ども特有の儚い声を頼りに、壁に手をついて角を曲がった。


 はっと息を呑む音がして、歌声が途切れた。


 はっきりと空や家の壁のイメージが湧いているのに、そこに居るはずの子の姿が見えない。


 どうして……? わたしに気が付いて隠れてしまったのだろうか? でも確かに気配はそこにある。


「ねえ……」


 すがるような声を出したわたしの指に、誰かが触れた。

 もちろん声の主だ。小さくて柔らかい手。ごつごつとした父のものとも、ひび割れを気にしている母のものとも違う。


「キミ、だぁれ? どうして目がないの? お口は? お鼻は? ボクはね——」


「だめ!!!!!」


 後ろで、母の壊れたラジオのように割れた叫び声がした。


「ボク……あの、ごめんなさい……」


 せっかく、わたしの初めての友だちになってくれたかもしれない温もりが、指先からハラリと消えた。


「お願い、コレは夢だったと思って。誰にも言わないで」


 その子に言い聞かせる母の声が、急に遠く感じた。『コレ』って、自分のことか?


 頭がぼんやりして立ち尽くすわたしを、母が強引に家の中に押し込めた。


 どうして外に出たのかと叱られると覚悟したのに、母の口から出た言葉は——


「ごめんなさい……」


 そう言って、泣きだしてしまったのだ。


 この時、初めて口が欲しいと思った。いままで何の不自由も感じていなかったのに。


 ——母さんのせいじゃない。

 そう言ってあげたかった。


 それほど母は、弱く、悲しく泣いた。


 無力なわたしは、そっと母の背中を撫でることしかできなかった。


 そうこうしているうちに、父が帰宅した。


 母の短い説明を聞いても、父はわたしを責めなかった。


「お前が会ったのはユウくんだ。変わった子で、いっつも一人でいる。こんな言い方はしたくねえが、あの子の言うことなら町の人も『また、始まった』で済ませるべ」


 なるほど、ユウくんというのは空想の友だちと遊んだりするような子なのだと理解した。


 いつもその調子なら、『顔のない子に会ったよ』なんて言っても、真に受ける者もいないということか——。


 急に寂しくなった。


 わたしは本当に存在しているのだろうか。


 母のように泣けたら良いのに。わたしには涙を流すための目すらない。


 何もない顔を、自らの手で叩いた。

 激しく、こぶしで叩いた。爪でかきむしった。


 血で顔を描いてやる!


 そんな勢いで自分を痛めつけるわたしを見て、父も母も動揺した。


「やめろ、お前は何にも悪くねえ」


 父の声まで涙で震えた。


 その日は真夜中まで、親子三人、肩を寄せ合い、小さくなって泣いた。

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