件の鳥
鳥は父にも母にも一瞥もくれることなく、海の方へと飛び去り、あっという間に見えなくなった。
「アレは……あの化け物は『件の鳥』に違いねえ」
父の呼吸は荒かった。
「『件の鳥』……?」
「ああ、お前はこっちの生まれじゃないから知らなくても仕方ねえ。あの鳥は大昔から、妊婦の前さ現れて、赤ん坊を連れ去るんだ」
その言葉は断定的だった。言い伝えなんかを話しているような曖昧さは微塵もない。
「そんな——うっ……」
その時だった。急に体が自分のものではないような違和感に、思わず母はしゃがみ込んだ。
「どうした! まさか、お前、産まれるのか?」
腹を押さえて震えている母が、やっとのことで頷いた。
「まだ先だったはずじゃねえか。やっぱし、あの鳥——。それより、お前、負ぶってやるから、少しの間だけ辛抱してけれ」
海にも山にも出る父は逞しい男だった。
母を慎重に背負うと、『産院』と呼ばれている産婆の姉妹の住む家に向かって走り出した。
産院の前に来ると、家を壊しかねない勢いで戸口を叩いた。
「頼む!! ハナの赤ん坊が産まれそうなんだ!!」
すぐに産婆の妹の方が現れ、招き入れられた。
産婆妹も高齢と言って差し支えない年齢だ。しかも起床したばかりといった姿だったが、きびきびと母を奥の間に運ぶよう父に指示した。
そしてものの数分で必要なものを運び入れると、「何かあったら呼ぶから、ここら辺さいてけれ」と言って、ぴしゃりと戸を閉めた。
父は不安に押しつぶされそうになりながら、熊のようにウロウロして待った。
母の声も、赤ん坊の声もしない。明らかにおかしい。
二人とも死んでしまったんじゃないか。
そんなこと、耐えられない。いや、陣痛が治まったのかもしれない。もしかして、早とちりでここまで連れてきてしまったものの、まだ時期ではなかったんじゃないか……。
その時、襖がすっと開いた。
「産まれた——」
「本当か? ハナと赤ん坊は? 無事か?」
産婆妹がゆっくり頷く。とりあえず胸を撫でおろした。そうなると気になることがある。
「早過ぎねえか? 初産がこったらに早く?」
父にとっても初めての体験だが、この時代の人だ。親族や近所で妊婦の世話を焼き合ってきた。多少の知識はある。
「こっちのほうが、あんたさ聞きたいことがある。ハナさんと赤ん坊には姉さんがついてるから心配ねえ。こっちさ来てくれ」
朝日すら拒むような、暗い居間に通された。
産婆妹の真向かいの座布団に腰を下ろした。
「お前、『件の鳥』と会ったか?」
質問する側が逆転していた。
「ああ……本当は、先に言うつもりだったけど、その暇もなかったべ」
産婆妹が顔を下に向けた。きっちりまとめていた白い髪が、ハラリと一束乱れ落ちた。
「なんでハナちゃんが——。なんであんた達みたいな優しい夫婦の前に現れたべ——」
「……でも、赤ん坊はちゃんと産まれたんだろ? 鳥さ連れて行かれなかった。なあ、何があったんだ?」
産婆妹の涙に濡れた小さな瞳が父を見据えた。
「驚くんでねえぞ」
次の言葉に、父は耳を疑った。
「赤ん坊には顔がねえ」




