『母の日記 カクセイ遺伝』
わたしの母方のおじいちゃんは、のっぺら顔でした。
小学校に上がったばかりの頃、母に連れられて祖父の家に泊まりに行ったことがあります。
雪の夕暮れ時でした。
両親は夕飯の買い出しに車で大型スーパーへと出かけていて、不在でした。
わたしもついて行くと言ったのですが、「買い物だけだから、おじいちゃんといなさい」と置いていかれてしまいました。
本当は、たまにしか会わないおじいちゃんが、知らない老人のような気がして、二人きりになるのが気まずかったのです。
そんなわたしの緊張を紛らわすように、おじいちゃんが冬みかんをわたしに渡しながら、こう言いました。
「おじいちゃんは、お前くらいの年まで、顔がなかったんだよ」
「え……?」
驚きで固まってしまいました。でも、それより好奇心が勝ちます。
「話を聞きたいかい?」
しわに囲まれた目の向こうで、おじいちゃんの目が子どものように輝きました。
「うん! 聞きたい!」
不思議な話が大好きだった少女時代のわたしの心に火がつきました。
「よし、始まりは、おじいちゃんがまだ母さん――お前のひいおばあちゃんのお腹にいる時の話だ。ここからは、おじいちゃんの思い出話だと思って聞きなさい」
(祖父の話)
わたしが生まれたのは、ここから少し東に下ったH市だ。
北の港町で、わたしの父は市場で魚屋をしていて、母もその手伝いで忙しい日々だった。
その日の早朝も、母はいつも通り身支度をして、小さな家を出た。
これまでと違うのは、大きくなった腹部――。
母は愛おしそうに自分の腹を撫でた。
もう一ヶ月もしないうちに、この子に会える。そう思うと、不安より先に自然と笑みが浮かんできたそうだ。
わたしの母は、愛情と気丈で出来ているような人だった。
父は一足早く市場に向かっていた。
身重の母を気遣って、父は何度も「無理をしなくていいから」と言ったようだが、母の方が聞かなかったそうだ。
秋の始まりの、薄暗い凛とした朝。
初雪とわたしの誕生、どちらが早いだろうか。そんなことを考えながら、海沿いの道を歩いていた時だ。
海の方で何かが光った。
群青の水の底で、何か緑色の物がうごめいている。
イルカか? 小さめの迷いクジラか? でもあの色は――。
そう思って見ていると、それはしぶきを上げて海から飛び出してきた。
「え……」
言葉が漏れた。そこに現れたのは、大きな鳥だったからだ。
そして次の瞬間、母は浜辺の方へ走り出していた。
何か、神の啓示のような気がしたそうだ。お腹の子を守ってくれるような。
それほど神々しい緑の光を纏って、夜明けの海を旋回する鳥。
「まだ……行かないで……」
そんな母の言葉が聞こえているように、鳥は光の残像を残しながら、優雅に飛び続けていた。
母が砂浜にたどり着いた時、鳥も同時にその場に降り立った。
まるで、液状の宝石で出来ているようだった、と母は言っていた。
自分が近づいてやるのはここまでだ、とでも言いたげに、鳥はその場に立ちすくんでいた。
「わたしの……この子を祝福して……」
そこまで喋った時だった。
猟銃の音が響き渡った。
それは、緑の鳥の心臓に命中したように見えたが、鳥は微動だにしない。
振り返ると、猟銃を構えた父が立っていた。三年前、熊が町に下りてきて隣人の飼い犬が殺された。
その時に用心で手に入れて以来、一度も使っていなかったはずの銃だ。
「離れろ! 化け物が!!」
大声で鳥を威嚇する。このままだと、本当に鳥を殺しかねない。
「やめて!!」
母も負けないほどに叫んで、自分の夫と鳥の間に入った。
この鳥は命の守り神。決して殺してはいけない。
「あ!」
背後の空気が揺らいだ。
海風とは明らかに違う、巨鳥の翼の起こす風。
振り向いた時には、既に緑の鳥は頭上高くに飛び上がっていた。




