母の秘密
『母の日記 逃走』
あの日、ずっと恐れていたことが起こりました。
夫とお医者さんが話しているのが聞こえてしまったのです。
あなたを研究施設に送るというんです。お父さんは味方だと思っていたのに……わたしがあなたを育てられるわけがない、わたしが心配だなんて言って、あなたと引き離そうとしました。
ここにいてはいけない——。そう思った時には、あなたを両腕に抱いて、必要最低限の荷物をバッグに詰め込み、病院を飛び出していました。
すれ違う人にあなたの顔を見られないよう、怯えながら。
向かう先は一つしか思い浮かびませんでした。
先に結婚した姉は、幸いタクシーで一時間もかからない隣町に住んでいました。
姉の夫も絵に描いたように誠実な人だから、話も聞かずに「戻れ」なんて言うはずがない。
「お姉ちゃん……」
事前に電話もせず押し掛けたわたしに驚きながらも、姉はすぐに家に上げてくれました。
ここに夫から連絡がくるのも時間の問題です。
病院の中や自宅にいないことを確認したら、真っ先にここだと考えるはずです。
実の両親は他界していたし、親しい友人もいない。
時間は夕飯時で、シチューの良い香りがしていました。
「赤ちゃん——もう産まれたの?」
顔まで深々とおくるみで包んだあなたを見て、姉が不安そうに聞いてきました。
妊娠がわかってから、頻回に連絡していたのに、あなたが産まれたことも伝えていなかったのです。
わたしが隠していたわけではない。夫が『しばらく誰にも言うな』と真剣な顔で言ってきたからです。
そして彼の次の言葉は、わたしの心を深く、深く抉りました。
『こんな化け物のような子——』。
小声で、わたしには聞こえていないと思ったらしいですが、その口の形で察しました。
確かに言った、『化け物』と。
わたしのかわいい子を、そんな風に呼ぶなんて——。ショックと怒りで眩暈がしました。
もうこの人には頼れない。わたしの愛情は完全にあなたに移っていました。
一週間も経過すると、同時期に出産したママたちも次々に赤ちゃんを連れて退院していきました。
彼女たちが、夫や両親の迎えで、幸せそうに帰宅していくのを、窓からそっと見ていました。
人目を避ければ、逃げ出すこと自体は可能。
外のタクシー乗り場から、並ばずに乗車できる時間帯も把握しました。
問題は、わたしがこの子と触れ合える時間が限られていること。
健康な赤ちゃんならば、産後おおよそ二十四時間で母子同室になると説明を受けていたのに。
しかし、わたしの場合は一日に一度、一時間しか許されていなかったのです。
口がないから授乳の必要もない。でも——温もりは求めているはず。
「わたしは赤ちゃんの顔のことなんて、少しも気にしません。あの子に会いたいんです」
そう懇願しました。何も理解しない夫や医療関係者は、わたしがあの子の容姿にショックを受けると決めつけている。
そんなわけないのに。
だって、わたしがのっぺら顔に会うのは、これが初めてではないのです——。




