第98話 少女は、再び瞳を閉じる
それは、あまりにも唐突だった。
ほんの少し前まで、
彼の体温が、ここにあったはずなのに。
家の前が、ざわつく。
夜の底を引っ掻くような、下品な声。
「……誰……」
問いは、答えを求めていなかった。
嫌な予感だけが、喉の奥で冷たく固まる。
次の瞬間、
ドアが――蹴破られた。
「ここか!!貴族の坊ちゃんがいるってのは!!」
壊れた扉の向こうから、濁った空気が流れ込む。
少女は反射的に、背後を庇おうとした。
――隠さなきゃ。
そう思ったのに。
レインは、隠れなかった。
少女の背に回ることもなく、
前に出て、少女を庇った。
その背中が、あまりにも脆く見えて。
「……っ」
「お、いい男じゃねーか。こいつにも股、開いたのか?がっはっは!」
下品な笑い声が、部屋を満たす。
吐き気がするほど、聞き慣れた声。
「なんだよ、お前は」
レインの声は、震えていた。
「ああ?いやーな。ここのジジイが、今日はやけに羽振り良くてよ。聞いたら“金持ち捕まえた”って言うもんだからさ。顔、拝みに来てやったんだよ」
男の視線が、レインを舐め回す。
――ああ。
少女は、理解してしまった。
これは、金の話だ。
いつものことだ。
差し出せば、終わる。
そういう、話。
「……相手、しなくていい」
少女は、ゆっくりとベッドを降りた。
この男とは、数回寝たことがある。
虚勢ばかりで、中身のない男。
恐れる価値もない。
「今日は、もう帰って」
腕に、絡みつく。
馴染んだ動き。
覚えたくもない、身体の使い方。
「あいつは、今日はもうすっからかん。だから……あいつより、もっと“いいこと”、知ってるよ?」
胸を押し付けると、
男は簡単に、鼻の下を伸ばした。
――今だ。
少女は、視線で訴える。
逃げて。
お願いだから。
けれど。
レインは、動かなかった。
その瞳の奥に宿ったのは――怒り。
静かで、まっすぐな、
取り返しのつかない色。
――バカ。
何を、考えてるの。
こんな諍い、日常だった。
怒る必要なんて、どこにもない。
「……早く……行こう……」
少女は、必死に男を外へ向かせようとする。
だが。
「待て!!」
後ろから、レインの声が、裂ける。
「ば……ばか!!」
手遅れだった。
レインの掌に、炎が灯る。
震えるほど、未熟な魔法。
「あ?」
男は、鼻で笑った。
レインの放った炎は、男の拳の中で――消えた。
「お貴族様のお上品な魔法なんてなぁ、俺たちには、意味ねーんだよ」
分かってしまった。
これは、勝負にすらならない。
生き残るために戦ってきた者と、
守ることしか知らない者。
修羅場が、違う。
「戦いってのはな……こうやるんだよ!!」
男の手が、レインの頭を掴む。
壁に――なぞられる。
鈍い音。
擦れる肉の音。
「やめて!!」
叫んでも、
止まらない。
怒りは、もう制御を失っている。
レインが――
レインが――
視界が、赤く染まった。
気づけば、朝だった。
嵐が去ったあとのような、
不自然な静けさ。
鳥の声。
馬車の音。
世界は、何事もなかったかのように、
日常を続けている。
部屋は、散乱していた。
何もなかったはずの部屋に、
赤だけが、鮮やかだった。
床に散らばる、破られた服。
少女は、乱れた身体のまま、起き上がる。
腕に残る、複数の痣。
噛み跡のような、深い傷。
そして――
部屋の片隅に、
動かない塊。
見間違えるはずがなかった。
昨日まで、笑っていた人。
未来を、語ってくれた人。
「……うそ……」
声が、崩れる。
「……うそだって……言ってよ……」
涙が、止まらない。
夢のまま、終わらせてくれなかった現実。
「……魔法で……どうにか、ならないの……?」
握りしめた掌から、
光が零れる。
でも、癒えない。
戻らない。
「……こんなことになるなら……」
喉が、裂ける。
「……最初から……愛なんて……知らなければ……」
むせび泣く。
愛してしまったから。
この場所に、呼んでしまったから。
自分と、出会ってしまったから。
――奪った。
大切なものを。
「……わたしの、せい……」
そこで、少女の記憶は、
ぷつりと――切れた。
暗転。
***
「……っ……はあ……はあ……」
星が、一筋、流れる。
同時に、少女は、崩れ落ちた。
鏡の床に映る自分は、
壊れていた。
「こんな記憶……背負って、生きられるわけがないだろう?」
アストレイルが、覆い被さる。
長い髪が、肩に触れる。
「君を守るためだ。生かすために、神として、消すしかなかった」
声は、優しい。
だからこそ、逃げ場がない。
「……っ……」
声にならない。
震える肩に、手が置かれる。
「大丈夫だよ」
撫でる手は、あたたかい。
「嫌なら……忘れてしまえばいい」
「……レイン……」
その名前だけが、
まだ、残っていた。
「君には、重すぎる」
囁きは、救いか、呪いか。
「全部……預けるといい」
深い。
深い。
底のない闇。
夜は、もう、明けない。
「愛することも……すべて」
落ちる。
落ちる。
少女は、再び、夢の底へ沈んでいった。
――長い夢の続きを、
何度も、何度も、再生するために。




